野球選手と名コーチ

大リーグで旋風を起こしている大谷翔平の身体能力はケタ違いだが、大谷をよく知る人は、その素晴らしさの根源を「内面」に見ている。
日本ハムスカウト顧問は、大谷はこの道が好きで、自らやっている。それを一番感じるのは、他者の助言を自分なりに消化しているということ。
大谷は、自ら助言を求めそれを素直に聞くけれど、そのまま実行するのはせいぜい3割。残りの7割は今の自分に必要な方法にアレンジしている。
つまり誰かに何かを聞いても、自分のとっての「良し/悪し」をふるい分けている。
大谷は、素直だけれど実はとても頑固、謙虚だけれど自信家。そして常に、黙って一人でじっと考え、道を切り拓いていく。
あるスポーツライターは、大谷の「言葉を書き、頭に入力する習慣」を力の原点にあげている。
野球の監督だった父親は、毎日試合での反省や課題を書かせ、父親がそれに返答する。
父親が大事にしたのは、物事を効率よく処理するとか、リスクとメリットを衡量するとかいったことではなく、「内なる声」に忠実であること。従って、あと2年待てば「大型契約」を結べるとかいう計算はしない。
「芯の強さ」は、自らを掘り下げることによってかたちづくられる。
そんな大谷にとって、やりたいことを伝え、それを受け止めてくれる日ハムの栗山監督のような指導者や環境が何より重要な意味をもつ。
それは、オリックス時代のイチローと仰木監督との出会いを思い起こさせる。仰木監督はイチローの「振り子打法」をそのまま生かした。
個人的な話だが、福岡市南区の友人宅のすぐ隣が、西鉄ライオンズ遊撃手時代の仰木監督の「一軒家」であったことが懐かしい。
さて、10年ほどまえに、TNCの「テレビ寺小屋」の講師でイチローを最も近くでみていた山口幸治という人の話が印象に残った。
山口は、1993年にイチロー(当時20才)が日本最多安打記録210安打達成のとき、「専属打撃投手」をしていて「イチローの恋人」などともよばれていた。
山口は、一歳年下のイチローと毎日、寮・グランド・遠征先・食事を共に行動することで、大リーガーも黙らせるほどの選手になれたのかを間近で見ることができたという。
山口の話で印象的だったのは、アメリカのコーチと日本のコーチの根本的な違いである。
日本のコーチは、バッテイングやピッチングの技術を教え伝授しようとするが、アメリカのコーチは、選手のことは選手が一番よくわっかいるという前提にたっている。選手自身が問題点や課題を正しく伝えて、そのうえでコーチするという。
これは案外、日本の選手には苦しいことなのだという。アメリカでは、自分を十分に表現できない選手は、アドバイスがもらえず成功がおぼつかない。
青山学院のマラソンの原監督の指導方法の中で、「自分を表現すること」を重視していたことを思い出す。
イチロー流は、ほとんどの選手は不調になると練習をし、好調になるとそうした練習をやめるため、かえって好不調の波も大きくなるともいう。
バッターボックスに入るまでのストレッチから始まる一連の動作がルーティーン化している。
ベンチも同じ場所に座り、バットも同じ場所におく。
ただ、その日々のルーティーンを崩すことが一点だけある。
無駄な練習は体を疲れさせるだけという一方で、イチローは「小さい目標(=オブジェクト)」を設定して、それが達成できるまで、どんなに夜遅くなっても練習をやめない。
時間による練習制限を設けないが、低めの目標設定だから、日々達成感を味わいつつ練習を終える。つまり「プラス思考」が維持できるわけだ。
イチロー流の「規則正しさ」とは、「小目標が刻む」時間に従い、それを継続するということだ。

現ソフトバンク球団名誉会長の王貞治といえば、野球への並み外れた執念の持ち主だったというのが定説である。
しかし、師匠にあたる荒川コーチは、意外にも「王は怠け者だった」というのだ。
むしろ長嶋の方が隠れた努力家だった。
1962年、当時の川上哲治監督に王を育ててほしいと呼ばれて巨人のコーチになった。
その前の3年間、王のホームランは「7本、17本、13本」で、打率も2割5分前後である。
川上監督の注文は「ホームラン25本、打率2割7分を打てるバッターに育ててくれ」というもので、荒川は大変な仕事を引き受けてしまったと思ったという。
なにしろ、キャンプで王を見ていると、トス・バッティングでも空振りするほどだった。
巨人に入ってバット・スイングをしたことがあるかと聞くと、グラウンド以外では滅多にやらないという。
その時、荒川氏は「銀座通い」を欠かしたことがないという王の噂は本当だと知ったという。
だが、荒川が見たところの王の最大の長所は、習う際の「素直さ」。その点で水泳の荻野公介に似ているのかもしれない。
普通の選手は少し上達すると、自分でやっていけると考えるようになるが、王はそうならなかった。
1965年、3年間の修業の後、55本という最多本塁打の記録を作った。
荒川が「もう何をしてもいい。解放するから俺のところに来なくていい」と言うと、王は正座し直して「今まで以上にしごいてください」と答えた。その規格外の素直さに、荒川は二人三脚で「ホームランの世界記録」をつくろうと決意したのだという。
結局、荒川は、怠け者だった王を鼓舞したというより、「努力の仕方」を教えたということである。
王が荒川という名コーチに出会ったように、三冠王3回の落合博光にもプロ野球の世界で良き師との出会いがあった。
日米の野球文化を比較したホワィティングの著「和をもって尊しとなす」という本の中に、若き日の落合博満について印象的に書いてある。
落合は小学校の頃、長嶋茂雄や王貞治に憧れて野球を始めた。1969年に秋田県立秋田工業高校に進学し、一応野球部に在籍していた。しかし野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かったという。
特に「マイ・フェア・レディ」は、英語の歌詞を覚えたほどだったという。物語は、言語学専門のヒギンズ教授はヒョンなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣いの花売り娘イライザをお嬢様に仕立て上げることになった。
まだまだ階級社会の文化が色濃く残るイギリス社会を舞台に繰り広げられるロマンティック・コメディ。この映画を7回も見に行ったという落合だから、まともに練習に打ち込めるはずがない。
ついに、先輩による「理不尽」なシゴキに耐えかねて野球部を退部した。
しかし投打共に落合ほどの実力を持った選手は他にはおらず、試合が近づくと部員たちに説得されて復帰した。
落合は野球部を7回「退部→復帰」を繰り返しているので、落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していたことになる。
1972年、東洋大学に進学するも、「体育会系」の慣習に馴染めず、わずか半年で野球部を退部して大学までも中退してしまった。
秋田に帰ってボウリング場でアルバイトをしつつ、プロボウラーを志すようになった。
ところがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まり、反則金を支払ったことで受験料が払えず、これも挫折してしまった。
1974年、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めで、東京芝浦電気の府中工場に「臨時工」として入社した。
同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わり、ここでの在籍5年間でようやく頭角を表した。
1978年にアマチュア野球全日本代表に選出され、同年ドラフト会議で25歳にしてロッテオリオンズに3位指名されて入団。野球選手としては遅いスタートとなった。
あるテレビ番組で見た、落合がバッテイング・センターでマシーンの「正面」に立ちはだかってボールを打ち返すミートの確実さに驚嘆したが、それが別の番組に登場した落合の幼馴染の証言と重なった。
落合が少年時代に友人達と川べりで棒切れに石ころをあてて飛ばす遊びをしていた。
幼馴染によれば、その落合の姿で印象に残っていることは、皆が力まかせに棒切れをふって石ころをたたいていたのに、落合はやわらかく棒の芯に当てていて、しかもその石ころは誰よりも飛んだという。
落合には誰からも教わらない天性のバッテイングセンスが備わっていたことを示す証言である。
その落合が「師」とあおぐ人物が、意外にも投手であった稲尾和久である。
1984年、稲尾和久がロッテ監督になった年、落合はすでに、ロッテの主砲で、不動の4番打者。その2年前には、最初の三冠王にも輝いていた。
球界を代表するスラッガーとして勢いに乗っていたものの、稲尾は監督就任した年、落合はこれまで経験したことのない「大不振」に陥っていた。
シーズン序盤、打率はなんと1割8分台にとどまっていたのだ。
ある日稲尾が、いつものように試合から1時間以上もたって球場を後にしようとした時、掃除のおばさんが「まだ残ってる選手がいて掃除ができない」とボヤいているのを耳にした。こんな遅くまで、誰が残っているのだろうとロッカールームに行くと、そこでは落合が大鏡に向かってひたすら素振りをしていた。
稲尾は人目を避けて黙々と練習する落合の苦悩を見てとり、落合に「お前が4番を外してくださいと言わない限り、俺は外さない」と声をかけた。
落合の不振はその後も続き、コーチからも落合を4番から外すよう進言されたものの、稲尾は落合を4番で使い続けた。
落合自身も、ついに最後まで「外してください」とは言わなかったという。
ところが落合はシーズン後半から復調して打ちに打ちまくり、オールスター以降の打率は4割をマークし、シーズン打率も最終的には3割台に乗せている。
稲尾は落合の練習をずっと見守り、落合もそれに応えるように「俺流」を完成していく。落合によれば、野球のことを教えてくれたのは何といっても稲尾であったという。
稲尾は西鉄時代らも含め、監督としては大した実績を残してはいない。
しかしロッテ監督時代の「稲尾イズム」は、落合監督に受け継がれ「オレ流采配」に生かされたのかもしれない。
稲尾は2007年、落合監督が「日本一」になったのを見届けるかのように亡くなっている。

1984年夏の甲子園決勝戦、「世紀の番狂わせ」といわれた試合があった。
その試合とは、桑田・清原擁するPL学園と茨城県代表の取手二高の決勝戦である。
監督は、後に常総学園の監督として名を馳せる木内幸男監督で、取手二高の全国制覇こそが「木内マジック」の幕開けであった。
この決勝戦のマウンドに上がった桑田は、カーブの投げ過ぎでマメが潰れての投球だった。
それでも、傍目には負けるはずのない相手だった。わずか2カ月前の練習試合では13-0と圧勝。それも1安打完封に抑え込んでいたからだ。
ただ桑田自身は、決勝まで駆け上がってきた取手二高の「勢い」に不安を覚えていた。
それにしても、あの年の取手二高は、木内監督がその後作りあげた「常総学院」のスキのない野球は全く違っていてチームカラーも対照的である。
木内監督は、この2年前、 主力6人(吉田・佐々木・下田・桑原・中島・石田)が入部してきた時、「公立校でこんなチームができたのは奇跡」と身震いしたという。
彼らは、バントが嫌だとわざとファールにする等、巧に監督の指示を無視したり、「一度木内監督に反発し3年生が集団退部したことがあったが、木内監督は、「神が私に与えてくれた一生に一度のチーム」と語っていたという。
また集団退部をしても「許して」くれた監督の為にも「やらなきゃイカン」という雰囲気が生まれた。
これもすべて木内監督の計算の中の人心収攬術のひとつであったであろう。
当時の取手二ナインは、男女交際OKで、彼女からもらったお守りを首から下げる選手もいた。
その辺、いいところ見せたい煩悩は人並み以上だったかもしれない。
また、木内監督の繰り出すアイデアも規格外で、初戦・箕島戦の前には勝った場合、「ご褒美と」して、海に連れていくことを約束し、実際に海水浴場に繰り出したりしていた。
つまるところ、海千山千の木内監督の方が一枚上手で、しっかり「悪がき集団」を掌握していたようだ。
NHK「アナザーストーリー」で、国体の試合後、桑田真澄がPLの寮から、一時「行方不明」になったことがあったことを知った。
そして、桑田が現れたのは、関東の茨城・取手の地であった。桑田は、取手をなぜ訪問したのか。
桑田は、日韓高校野球の全日本チームに選ばれた際に、取手二高の投手の石田や捕手の中島と親しくなっている。
しかし、桑田は旧交を温めるために取手を訪問したわけではない。
桑田には、練習試合では大差をつけたチームに、なぜ負けたんだろうという思いが燻っていた。
その「なぜ」を消化するため、秋の国体後、取手に足を運んだ。
PL学園は寮生活で、桑田にとって、野球とは寡黙にひたむきに、歯を見せないで厳しい練習に耐え抜く、というのが当時の野球界の常識だった。
そして自分の「野球観」の中にはなかった、のびのびした戦い方をする取手二高校の選手達や彼らが育った地域、そして選手たちはどういう環境で、どんな練習をしているのか、自分の目で確かめたいと思いたったという。
桑田はまず 取手二高が普通の県立校であることに驚き、ハード面だけを見れば、野球部専用のグラウンドを持つPL学園を上回るものは見つからなかった。
ただ石田や主将・吉田剛らの家も行き来し、対戦だけでは分からなかったものを桑田は見つける。
取手二高の「のびのび野球」から、失敗を恐れずプレーし、笑顔で野球を楽しむというスポーツの原点を再確認することができた。
桑田は、その経験から目的は同じでもいろんなアプローチがあること、いろんな準備が必要なこと、そして「理不尽」なこともたくさんあるということを受け入れられるようになったという。
取手二高のエース石田文樹は、ドラフト5位で横浜ベースターズに入団した。しかし41歳で直腸ガンのために他界している。
葬儀において、ユニフォーム姿の横浜ナインが見守る中、同期入団の石井琢朗が弔辞を読んだ。
石田は、甲子園を沸かせながら、早稲田大に推薦で入学するも、大学の体質になじめず、すぐに中退。
日本石油を経て、ドラフト5位で横浜へ。
社会人を経て横浜に入団したものの、プロの世界では思うような結果を残すことができなかった。
実働6年で25試合に登板。1勝0敗の成績を残し、現役引退後は打撃投手を務め、1998年には38年ぶりの日本一に貢献した影の立役者ともなった。
桑田が、「大舞台でどうしてあれほどのびのびと野球ができるのか」と不思議に思い、茨城にある実家を訪れたあの石田文樹のあまりにも若すぎる死であった。
結局、「名コーチ」とは、選手自身が納得できないことは受け入れなくていいという許容度をもつ。
そしてコーチもまたそんな「名選手」によって育てられるという絶妙な作用が働く時、「超一流」が生まれるのかもしれない。