聖書の言葉から(善きサマリア人)

聖書の言葉は、構造的に読むことが大事。つまり聖書全体の文脈から読むと、その「広さ長さ高さ深さ」(エペソ人への手紙3章)が現われ出る。
そのことを、新約聖書の譬え話「善きサマリア人」からみてみたい。まずはサマリアとはどんなところか。
古代ヘブライ王国は、ソロモン王の死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂する。
BC721年、アッシリアはイスラエル王国をに滅ぼしてしまう。
イスラエル王国あたりのサマリアの住民はアッシリアの捕囚の民となり強制的に他の土地に移され、この土地にはアッシリアからの移民がこの土地に移り住んだ。
このときイスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と、移民との間に生まれた人々が「サマリア人」と呼ばれた。
彼らは、アッシリアの偶像を持ち込んだり、独自の礼拝所を設けるなどしたばかりか、自分たちを都合によってユダヤ人と同族扱いしたり、逆に他からの移住者と名乗ったりして、日和見的な人たちだとみなされていたらしい。
そこで、ユダヤ人はサマリア人は交際しなばかりか、言葉さえもかけないほどだった。
さて、この土地を舞台にした「善きサマリア人」の譬えとは次のような内容である。
ユダヤ人達がイエスを陥れようと、ある律法学者が聖書のなかで一番大切な律法は何かと問うと、イエスから「どう読むか」と逆に聞きかえされる。
律法学者が、「全身全霊をもって神を愛することと、自分と同じように隣人を愛することである」と答えると、イエスは「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と応じている。
しかし、この律法学者は、「そのとうり行いなさい」といわれて少々意表をつかれたのか、「では自分の隣人とは誰か」と聞き直している。
そしてイエスは「善きサマリア人」(ヨハネ福音書10章)の譬えを語る。
あるとき、追はぎに襲われ半死半生の傷を負ったユダヤ人がいた。
ところが、祭司とレビ人が道端に倒れている人を見ると、道の反対側を通って去って行った。
そして次にサマリア人は、倒れた人に対して、心のこもった介抱をしたばかりかその後の手配もする。
サマリア人は、怪我人の傷の手当てをするばかりか、自分のロバに乗せて自らは歩いて行った。
そして宿屋に連れて行って介抱し、一泊した後の翌日、宿屋の主人にお金を渡して手当を頼み、足りなかったら帰りがけに寄るからその時支払うとまで言って、宿屋の主人にお願いする。
イエスは律法学者に、「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?」と聞く。ここでは、隣人と”なる”ことがポイントである。
「この三人」とは祭司とレビ人とサマリア人をさすが、律法学者は「サマリア人です」と答えてもよさそうなのに、「その人に慈悲深い行いをした人です」と、あくまでもサマリア人という言葉は口に出そうとはしなかった。
この会話の経緯はイエスがいかに人々の心を見抜いていたかを物語っているが、これが「譬え話」だとしても、違和感を覚えざるをえない。そんなサマリア人などは実際にいるハズがない思うからだ。
この譬えには、サマリア人の慈悲深さというメッセージを超えたものが含まれているように思える。
それは聖書を、広い文脈で(構造的に)読み解いて理解できる。
まず、この譬え話は救いが「異邦人に伝えられる」という「新しい契約」の型を示すものであること。
実際に、復活したイエスが弟子たちに、「ただ聖霊があなた方に下るとき、あなた方は力を受けて、エリサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人になるであろう」(使徒行伝1章)と語っている。
実は異邦人への福音は、サマリアから始まったといってよい。それは、イエスが何らかの事情でサマリアを通らざるを得なくなり、そこで出会った「サマリアの女」のエピソードからわかる(ヨハネの福音書4章)。
イエスは、ヤコブの泉にあるスカルの井戸で休憩をとっている時に、昼近くにひとりの女が井戸の水をくむために出てきた。
イスラエルでは、女性が朝一番に水を汲みにでることが習慣なので、この女性は人目を避けるように生きていたようだ。
その時、イエスが女に水を飲ませてくださいと頼んだ。それは女にとってとても意外なことであったらしい。女は「あなたはユダヤ人なのにどうしてサマリア人である私に話しかけるのか」と聞いている。この言葉からユダヤ人がサマリア人と交流がなかったことが読み取れる。
そしてイエスはとても不思議な話をし始める。「もしあなたが私が誰かを知るならば、あなたこそ私に水を求めるだろう」。さらに、「私が与える水をのむものは、泉となって永遠にいたる水が湧きあがるであろう」と答えた。
それに対して女は「私が、水をくまなくていいようにその水をください」と願った。
するとイエスは女に、「夫をよんできなさい」ととてもぶしつけなことを言う。
女が「夫はいない」というと、あなたにはそれ以前に5人の夫がいたことをいいあててしまった。
サマリアの女はその時この人物が普通の人間ではないということを感じたはずである。
そして女が先祖がこの地で礼拝をなしたことを語ると、イエスが「自分が来たるべきキリスト」であることを告げる。
その後、女は水瓶をおいたまま町へ出て行って、「私のしたことを何もかもいいあてた人がいます。さあ見に来てごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかもしれません」と、ひと目を忍んで生きてきたにも関わらす、公然と宣伝したのである。
これが、イエスの福音が異邦人に宣べ伝えられた最初の出来事であった。
さて以上の「善きサマリア人」譬えや、「サマリアの女」と出会った場面から思い当たるイエスの言葉がある。ここに「隣人とは誰か」のヒントがある。
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』」(マタイ福音書25章)。

イスラエルでは、それなりの人が亡くなった場合、埋葬に関する仕事をするのは、祭司であり宗教儀式を担当するレビ人である。
ところが、イエスは大工のせがれとして生まれたばかりか、罪人として十字架の死をとげたため、彼らとはなんら関わらなかったようだ。
それに関わったのは、聖書によれば「アリマタヤのヨセフ」という人物である。
聖書には同じ名前が何人も登場するのでまず出身地を頭につける。よく知られた例は「マグダラのマリア」だが、「アリマタヤ」というのはどのような場所であったであろうか。
そこはユダヤに属するもののサマリアに隣接した町で、旧約聖書の「ラマタイム」とい名前ででてくる町であるという。
そして、ハ・ラマタイムはサウル王やダビデ王に油をを注いで王とした預言者サムエルの生まれ故郷である。
このヨセフがローマ総督ピラトに、イエスの体を下ろさせてほしいと頼んだと記してある(ヨハネ19)。
イスラエルでは律法では、「十字架の刑」について次のように定められていた。
「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。
その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。
あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない」(申命記21章)。
そこで、十字架刑の遺体は、城壁の外にあるヒノムの谷に投げ捨てられたという。
イエスをローマに売り、首を吊って死んだイスカリオテ・ユダの遺体について「谷に捨てられはらわたが出た」(マタイ福音書24章)と書いてあるのは、ヒノムの谷に投げ捨てられた後の状況だと推測される。
ところで、罪人として谷に投げ捨てられるべきイエスの遺体の引き取り手が現れたのだから、関係者の中には驚きもあっただろう。
そればかりかアリマタヤのヨセフは、イエスの遺体に香料をにぬり亜麻布に包み、岩で掘って造った自分の新しい墓に葬ったのである(ヨハネ福音書19章)。
「アリマタヤのヨセフ」は、比較的お金持ちであったが、その点でも「善きサマリア人」を連想させる。
これは当時のユダヤの社会情勢からして、並大抵のことではない。そして占領軍たるローマ総督ピラトは、この申し出を認めた。
実は、イエスの埋葬を行った勇気あるもう一人の人物がユダヤ人指導者のニコデモである。
ニコデモは、夜人目を忍んで「どうしれば神の国に入れるか」をイエスにあって直接に訊ねた人物である。
イエスがニコデモに「水と霊によって生まれ変わらなければ神の国にいれない」(ヨハネ福音書3章)と答えると、「人はどうして母の胎内にもどれますか」と答えた為、あなたは「ユダヤ人指導者でありながら、それくらいのことがわからないのか」とたしなめられた人物である。
そのニコデモが、イエスの埋葬の現場に現われイエスの遺体に塗る、乳香・没薬を用意したのである。
実は、ヨセフとニコデモの二人は共にユダヤ議会(サンヘドリン議会)のメンバーで、自らがイエスの信奉者であることを公けにすることは、自らの身を危険にさらしかねないという覚悟があったはずだ。
​イエスには次のように語っている。「人の前でわたしとの結びつきを告白する者はみな、わたしも天におられるわたしの父の前でその者との結びつきを告白します。しかし、誰でも人の前でわたしのことを否認する者は、わたしも天におられるわたしの父の前でその者のことを否認します」(マタイの福音書10章)。
ヨセフはイエスに対して信仰はあったものの、それを口にする勇気はなかったのに違いない。
それは、「彼は勇気を出してピラトの前に行き、イエスの体を頂きたいと願いでた」(マルコの福音書15​章)という言葉でもわかる。
その一方で、イエスを裁いた総督ピラトがヨセフの死体引き取りの申し出を認めたことは、ピラトが自ら「イエスにはいかなる罪も見いだせない」と内心思っていっていたことを鑑みれば、自然な態度だったといえるだろう。

最近、フランス革命の時、多くの革命家たちを処刑した死刑執行人の手記「サンソンの告白」が映画化された。タイトルは、「死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男」である。
実は、フランス革命で処刑がなされる際に、ギロチンという医師が開発した機器が利用されたのは知っていたのだが、この機器の開発を提案したのは、 サンソンという処刑執行人であった。
これだけ書くと、サンソンは鬼畜のような人物と思われがちだが、その真逆でこころ優しき人物であったことが「手記」からうかがえる。
しかもとても美しい姿をした人だったという。
なんとサンソン家は代々、医者でありながら死刑執行も担当していた。
サンソン家の医学は当時の大学などで教えられていた医学とは異なる独自の体系を持っていた。
そもそも、死刑執行人の一族は学校に通うことができず、医者に診て貰うこともできなかったため正規の教育を受けることができなかったからだ。
そんな中で独自に編み出された医術を用いていた。その医療技術は徹底して現実主義的なものであり、医師に見放された難病の治療に成功した事例が数多く伝えられている。
当時の死刑執行人は死体の保管も行っており、サンソン家では死体を解剖して研究を行っていた。
死刑執行人は鞭打ちなどの刑罰も行っており、人間の身体をどこまで傷つけても死なないか、後遺症が残らないか詳細に知っていたという。
身体に穴を開けると言った刑罰ではどこに穴を開ければ後遺症が少ないか徹底的に研究しており、サンソン家に刑罰を受けた人間はその後の存命率が高かったと言われている。
サンソンは刑罰で自分が傷つけた相手の治療を熱心に行っていて、サンソンが後にギロチンとなる機器を提案したのは、苦しみを最小限に抑え、死刑執行人の心の負担を軽くするものであったからだ。つまり、十字架の刑死とは真逆の方法である。
しかし、彼が死刑執行人を務めた時期はフランス革命と恐怖政治のただ中であったことは、彼の心をひどく悩ませることとなる。
さて「善きサマリア人の譬え」が伝えるひとつのメッセージとは、自分が世間で置かれている職業上、立場上、民族上の制約を超えてイエスを慕い従う人の譬えということだ。
そういう意味で、イエスの死体を引き受けたアリマタヤのヨセフや、イエスの埋葬のを行ったニコデモこそ、「善きサマリア人」であった。
また、イエスに貧しくとも最高級の香油を注いでその髪で足をぬぐった「マグダラのマリア」が思い浮かぶ。彼女はイエスに「自分の埋葬の準備をしてくれた」といわせしめた(ヨハネの福音書12章)。
聖書全体の文脈から「善きサマリア人の譬え」を読み解くと、「傷ついた旅人」とは、イエス自身もしくは十字架後にイエスの福音を宣べ伝える中、様々な苦難をなめる弟子達を示唆しているようにも読める。
それは、「譬え」の中にあるサマリア人が傷ついた旅人を「ロバに乗せた」という言葉からもうかがえる。
聖書には、イエスがエルサレムに入る場面を次のように描いている。
「その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、"ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に"。イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは "シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる"と書いてあるとおりであった」(ヨハネ福音書12章)。
これがイエスの絶頂どころか、「受難週」のはじまり。同じ週の金曜日にイエスは十字架にかけられる。