聖書の人物から(ヨナ記と使徒の働き)

神から預言者が、敵国の人々に伝道を命じられたらどうするか、複雑な気持ちであるに違いない。
旧約聖書「ヨナ記」の主人公はそんな命を受けた人であるが、ヨナがその命に逆らって逃げ出すと、行く手を阻むことが次々に起きる。
たまたま乗った船が嵐にあい、責任を感じたヨナは船員たちに自分を海に投げれば嵐はおさまると言う。
船乗り達もなんとか陸にたどり着こうと努力するが、波の激しさに抗しきれず、ヨナの言うとおり彼の手足をつかんで海に投げ込んだ。
するとヨナは大魚に呑み込まれ、腹の中で三日三晩を過ごす。しかし、「主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した」(ヨナ記3章)とある。
聖書には、様々な奇想天外な話があるが、このヨナが巨大魚に呑み込まれ話もその代表であろう。
しかしながら最近、ヨナと同じ体験をしたアメリカ人漁師の話をNHKが「21時のニュース」で伝えた。
2021年6月11日午前8時ごろ、マサチューセッツ州でロブスター漁をする男性が、自分の仕掛けをチェックするために水深約14メートルまで潜ったところ、突然「大きな衝撃を感じ、すべてが暗くなった。
漁師は、自分を飲み込もうとしているのがサメではなくクジラだとわかったが、完全に真っ暗になってしまい、こから出る方法はなく自分は死んだと思った。
とはいえ二人の幼い息子のことが気がかりだったため、ダイビング用レギュレータで呼吸しながら、何とか外に出ようとした。
それが嫌だったのか、クジラは頭を振って水面に浮上して口から漁師を追い出した。
仕事仲間の漁師たちも、クジラの口から男性が、水とともに吐き出されるのを目撃している。
専門家によれば、ザトウクジラは人を助けようとする傾向があるのだという。
2019年2月にも南アフリカのダイバーが、クジラに呑み込まれた後に生還したことがあった。
つまり聖書のヨナの話は、十分にありうることだ。
旧約聖書の中で「ヨナ記」は、文学書のようにも思えるが、それから900年もあとの新約聖書の「使徒行伝」の内容と幾重にも重なることに気が付いた。
わずか4章からなる短い「ヨナ記」の中に、イエスが十字架で死んだ後の「使徒の働き」が凝縮してあるように思える。
さて、ヨナが大魚に呑み込まれるまでの経過をさらに詳しくみると次の通りである。
BC8C頃ユダヤ人の預言者ヨナが、神からアッシリア(今のシリア)の首都ニネベに行き、悪から離れなければ滅ぼすという神の警告を伝えよという命令をうけた。
ヨナの心情を推測するに、アッシリアは敵の大国、よほど滅んでしまった方がよいと願ったかもしれない。
ヨナは神の言葉に従わずに逃げようとしたところ、タイミングよくタルシシ行きの船が来て、それに乗り込んでしまう。
ところが、ヨナが乗った船は嵐に遭遇。船員たちは、突然の嵐の原因は人間にあると、クジ引きをするとヨナに当たる。
ヨナは罪なき人が自分の為に命を失うことを好まず、自分を海に投げ入れるように人々に言う。
そしてヨナは大きな魚に飲み込まれてしまう。
それは、3日3晩の不安との戦いであったが、クジラから吐き出されたヨナは命拾いをする。

ヨナがたまたま乗り込んだ船はタルシシ行きの船であったが、タルシシ(タルソス)といえばクレオパトラとアントニウスの再会の地として有名である。
アントニウスは、皇帝にならんとして元老院により暗殺されたカエサル(シーザー)の家来で、今や最有力と目される存在。
アントニウスはトルコのタルソスに滞在中、カエサルの一派を支援したことへの申し開きをさせる名目で、クレオパトラを呼び出す。それは、クレオパトラにとっては、来るべきものが来たという感じ。
とはいえ元カエサルの家来、簡単に呼び出しに応じては女が廃ると考えたのか、その呼び出しを拒否する。
一方、アントニウスはタルソスで、彼女を待ちうけていた。そして、金色の船に銀の櫂で、紅の帆をかかげ、ギリシア人の血をひくエジプトの女王クレオパトラが現われた。
数多の美しい侍女たちが、海の精ネレイスの衣裳で、舳先や艫に立ち並んでいた。
アントニウスは、その船の中に招き入れられた。船に入ればそこはエジプト。結局はクレオパトラが、アントニウスを呼び出したカタチとなった。
招待された夜の宴の、聞きしにまさる豪華さに、ローマの軍人たちはすっかり度胆を抜かれた。
その演出において、クレオパトラがアントニウスより役者が一枚上手で、こうなると、アントニウスはもうクレオパトラのいいなりだった。
そしクレオパトラはアントニウスに今度はエジプトのアレキサンドリアへ来ていただきたいと願った。
そして、誘われるままローマへ帰るかわりにアレクサンドリアへ冬を過ごしにでかける。
、 余談であるが、高橋真利子の「桃色吐息」の歌詞、♪金色 銀色 桃色吐息  海の色に染まるギリシアのワイン♪、というの歌詞は、二人の再会を描いたのでなかろうか。
クレオパトラによる♪煌びやかな夢に縛りつけられた♪アントニウスの評価が下がる一方、ローマではカエサルの養子オクタヴィアヌスが勢力を強めていく。
さて、聖書に話を戻すと、タルソスはキリスト教の使徒パウロの生誕地でもある。
BC400年前期ごろから、タルソスはペルシアの総督の所在地だった。
その後セレウコス朝シリアの一部となるが、ローマの征服の後、BC66年にキリキア州の首都となり、全ての住民はローマの市民権を授与された。
そういうわけで、厳格な律法学者の家に生まれたパウロは、ローマの市民権をもっていた。
そのことは、重要な意味をもっている。なぜならパウロが出会った「新しい教え」つまりキリスト教について、皇帝の前で弁明する機会を得たからである。
パウロはその弁明のため、ローマの皇帝の元に兵卒にともなわれて船で護送されるが、途中で嵐に見舞われる。
ヨナは神から逃げて大嵐にあうが、「神の導き」を知っていたパウロは一人、大揺れする船中で平然と振舞っていた。聖書は、パウロが船員たちを励ました時の様子を伝えている。
「元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。
昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使(みつかい)が、わたしのそばに立って言った、 ”『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。
だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」(使徒行伝27章)。
実際にパウロがいうとうりマルタ島に打ち上げられるが、ローマの兵卒も船乗りも怯えきっていた。
パウロは島でヘビにかまれ、原住民から命運つきたか、いつ死ぬのかと恐る恐る見守られたが、神の導きの確証を握っていたパウロは、ヘビを払いのけ、なんら苦しむ様子も見せず、島民から反対に神だと崇められる始末である。
囚人パウロが護送者を励ますのは、ヨナが嵐を自分のせいだと船員に海に投げ入れよと願ったことを思い出す。内容は逆だが、両者とも嵐を神のわざとして受けとめていた点で共通している。

ヨナの時代から9世紀を経て、イエス・キリストがガリラヤ湖をめぐっていた時、シモンとアンデレという兄弟が働く姿を見て「網をすてて私に従ってきなさい。あなた方を人間をとる漁師にしよう」と声をかけた。(マタイ4章)
イエスはさっそくシモンとよばれた漁師に、「汝の名はペテロなり」と「ペテロ」の名を授けたのである。
ペテロは「岩」を意味する言葉だが、その意味するところは、ペテロ(シモン)自身にもわからなかったであろう。
さてカペナウムにおいて、宮の納入金(神殿税)をイエスが納めないのかということが問題になった。
この問題についてイエスの方からペテロに「世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか」と尋ねた。
ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは「では、子どもたちにはその義務がないのです」と答えた。
「しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとシケル1枚が見つかるから、それを取ってわたしとあなたとの分として納めなさい」と命じた。
イエスという存在の本当の意味を知る者ならば、イエスに神殿税を求めることが、いかに滑稽なことであるかはすぐに理解できる。
それは、宴会の主賓から入場料をとるようなこととはわけが違う。パウロは手紙に次のように書いている。
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自身の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」(エペソ人への手紙1章)。
それにしても奇妙に思えるのは、イエスがペテロに最初に釣った魚の中にある銀貨を宮に納めなさいといったことである。
ヨナが大魚に呑まれた話は奇想天外であったが、魚が銀貨をくわえているなど、奇想天外を通り越して荒唐無稽と思える。
しかしながらガリラヤ湖では、コインを加えた魚が釣れることは珍しくはなかったのだ。
ガリラヤ湖には、「ティラピア」という魚が沢山いた。この魚は、自分の子供の魚を自分の口の中で育てるが、子供の魚がある程度大きくなると、口の外へ追い出すために、親魚はわざと小石を飲み込む。
そして、子供の魚は親魚の口の中にある石が邪魔で戻れなくなり、外の世界で成長することへと導かれる。
したがって時々、子供の魚を追い出すための小石と一緒に、湖に落としたコインを親魚が飲み込んでしまうことがあるのだという。
ペテロは漁師であるから、当然魚がコインを飲み込む習性のことも知っていた。
「空の鳥、野の花を見よ。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから明日のことは思い煩うな」(マルコの福音書1章)。
このたとえから、イエスも、自然界の営みに精通していたことがうかがえる。
さて、イエスがペテロをわざわざ湖で釣りをするように仕向けたことは、ペテロにむけて何等かのメッセージがあったからではなかろうか。
聖書の解釈が暴走しない為には「聖書のことは聖書に聞け」が原則だが、実は「1シケル銀貨」が登場するイエスのたとえ話が他にあるだ。
「ある女が銀貨10枚を持っていて、もしその1枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたからと」(ルカ15)。
また別の譬え話が続く。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。
この2つのたとえ話から「失われた銀貨」と「見失った羊」が、同等なものとして譬えられている。
つまり、「1シケルの銀貨」は、「救われるべき人間」を意味している。
もうひとつ、「最初に釣れた魚」という言葉に注目したい。イエスが公やけに活動をはじめ、最初に弟子にしたのがシモンであった。
つまり、イエスの観点からすれば、シモン(ペテロ)こそが「最初に釣れた魚」であった。
前述のように、イエスは出会ったばかりのシモンに「これから人間をとる漁師になるのだ。ついてきなさい」と促し、シモンがそれに従う。
実は、幼魚を口で育てる習性をもつ魚は「セント・ピーターズ・フィッシュ」と命名され、現在もガリラヤ湖でよく獲れるという。ピ-ターは英語読みだが、日本語聖書では「ペテロ」になる。
また、セント・ピーターズ・フィッシュは口の中にしばしばコインを含むが、これは旧約聖書の「ヨナ記」を想起させる。
ヨナが海に投げ出され、3日間魚の腹の中にいて吐き出された出来事は、十字架の死後、3日目に蘇るイエスの「復活」の型であり、しばしば「ヨナのしるし」として語られるものだ。
イエスがペテロに命じた「最初に釣れた魚から出てきた銀で宮の納入金を納める」という内容は、ペテロがこれから、イエスと共に歩まんとする使命が預言されているように思える。
イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じたと記してある。
それは、自らが教会のいしずえ(岩)となる使命を指していたにちがいがいない。
イエスにはペテロの未来がすべて透けて見えていたように思える。
それは、イエスが十字架の直前に「あなたは、鶏がなく前に私を三度否定する」であろうと予言したことや、復活したイエスはペテロに対して、「他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ21)と、ヨナが敵対するアッシリアに向かったように、ペテロも敵対するローマに向かう。
大魚によって命を救われたヨナは、神の命じられたようにニネベに向かい人々に、悔い改めなければこの町は滅びるというメーッセージを伝える。
すると、その言葉を聞いたニネベの王と人々は、神様に助けてもらうよう切に祈りをはじめる。
神様はその人々の姿をみて、ニネベの町に災いを下すことを思いとどまる。
ヨナは怒りがおさまらず、ニネベの町の日差が強く、それがまたヨナの腹のムシを刺激する。
そこで、慈愛に富む神様は、日差しからヨナの身を守るために、トウゴマの木を生えさせる。
ヨナは日差しから解放されて大喜びするが、神様は次の日に虫にトウゴマの木の葉を食べさせたため、再びヨナは暑い日差しに晒されるはめになる。
そしてヨナは神に不満をぶちまける。
それに対する神の答は次のとおりである。
「あなたは、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じて、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。どうしてわたしがこの大いなる都ニネべを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万以上の、右も左もわきまえない人間と、たくさんの家畜がいるのだから」(ヨナ書4章)と。
当時のユダヤ社会には「選民思想」があり、選民であるユダヤ人と異邦人を区別していた。
パウロは昔、律法学者としてその先兵だったのだが、ペテロもユダヤの律法に従い、「聖い食べ物」と「穢れた食べ物」を区別していた。
そのペテロの前に幻として、様々な生き物を包んだ大きな布が出現し、「神が清めたものを清くないといってはならない」という声がかかる。
このことは、イエスの贖罪以後の世界は、人類が違うステージに入ったということを意味する。
結局、神がヨナに「ニネベ(異邦人)を惜しむ」と語った言葉は、使徒達が福音を異邦人に伝える「預言」のように響く。
つまり「ヨナ記」は文学書ではなく、900年後の使徒達の働きを凝縮させた「預言書」なのだ。