世に潜む「学校」

2021年3月、中国全国人民代表大会(全人代)が山東省煙台で開かれ、習近平国家主席や李克強首相の下、政策委員から従来にはなかった提言がなされた。
ある政策委員は、ハッカーを「特別な才能の持ち主」であると認め、「国家への忠誠を強化する」措置を講じるべきだと主張した。
また別の代表の一人は、機械翻訳が向上する中、外国語習得に時間を費やすのは「無駄」だとして、英語を必修科目から除外することを要請した。
さて、中国では近年、離婚件数が増加しており、夫婦が冷静に考え直すための「クーリング期間」を義務付けているほどだ。
広州大学の副学長は、こうした現状を背景に、「若者たちは情緒的な問題や、性的な問題に対処する方法をほとんど理解していない」と指摘した。
結婚するカップルが減り、経済の原動力となる次世代の人口が減少する事態を前に、「恋愛と結婚」を大学の必須科目にする時が来たという主張さえもでたのである。
さてAIの普及やビッグデータの活用により、日本でも従来の学習内容とは異なる知識が求められる。
特にコロナ以降は、テレワークが進行し、家庭学習のウエイトが高まっていく。
格差の広がりが懸念される一方、家庭と地域とのつながりは深くなる可能性もある。
1980年代に、未来学者アルビントフラーは、家庭が経済の中心になることを予言し、地域の新しいつながりにも言及していた。
日本の江戸時代には、農村に「若者組」というものがあって、少年から青年までもが共同生活を送ることにより、恋愛や性の知識を伝授したりしていた。
また、ユイやモヤイなどの相互扶助の組織があったり、武士や僧侶によるボランティアに近い「寺子屋教育」も行われていた。
最近、貧困家庭を助けるための「子供食堂」なども各地で生まれ、マッチングの技術により新たな学びの場や連携のかたちも生まれる可能性がある。
一方、中国で「恋愛講座」が議題になるというのは、国家の監視下が強まって、そうしたインフォーマル(非公式)な交流の場が奪われているからではなかろうか。
この世には良くも悪くも様々の「学校」が潜んでいる。
1962年、田中角栄が大蔵大臣になった特の挨拶は、この世そのものが「インフォーマルな学校」であることを、はからずも示している。
「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。皆さんは全国から集まった天下の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください」。

地域の祭りは、子供からシニアまでともに参加する「インフォーマルな学校」である。この学校で学んだのがサッカー選手の柿谷曜一朗である。
柿谷は、大阪セレッソの少年リーグに「10年か20年に1人」といわれた逸材。
ヨーロッパで活躍する香川真司は、17歳のときその柿谷がいるセレッソ大阪に加入した。
その香川でさえ、ひとつ年下の天才・柿谷の存在は一目おかざるをえない存在だった。
しかし両者は対照的な歩みをしていく。
コツコツと弛まぬ努力を続けて実績を残す香川と、俗にいうところの天狗になったのか、練習に遅刻するし態度も悪い柿谷は、ほとんど結果を出せずチームからも孤立していく。
2007年、1歳年上の香川真司にポジションを奪われ、翌年には、横浜F・マリノスから移籍してきた乾貴士の台頭で、シーズン後半はベンチ外にまで追いやられる。
天狗の鼻をへし折られ、ふてくされた柿谷は、練習への遅刻を繰り返すように。ついには、徳島ヴォルティスに「レンタル移籍」を言い渡されてしまう。
そして柿谷が徳島で出会ったのは、香川をいちいち引き合いに出してチクリと柿谷を挑発する監督であった。
ところが、その柿谷が徳島でもっとも愛される選手として成長していく。
徳島で人々は、柿谷をあたたかくむかえてくれた。例えば、徳島で柿谷が通っていたうどん屋では柿谷がゴールしたらうどんを無料にするなど、もうひとつの出会いが「阿波踊り」であった。
徳島ヴォルティスには、サポーターとの交流を深めるために阿波踊りに参加するイベントがあった。
まだ10代でトンガっていた柿谷は当然、同イベントに否定的だった。
しかし、新参者のため断れず、嫌々ながらも参加。初めは身を隠すように踊っていた柿谷だったが、翌年には少しずつ前に出ていくようになり、3年目には最前列で踊り狂っていた。
"同じアホなら踊らにゃ損々"という言葉が素直に受け入れられるようになった柿谷は、阿波踊りで前に出るにつれ、サッカーでも結果を出すようになった。
チームの慣例で最前列でこの踊りをするうちに、柿谷は皆でやる踊りの高揚感を味わった。
してそれがキカッケになって、柿谷は個人プレーに走っていた自分に気がつき、チームプレーに徹するようになったという。
そして柿谷の人間的な成長につれ、徳島ヴォルティスも変わり、チームの躍進にもつながった。
そして柿谷はセレッソ大阪に戻り、4年間という長い時間を無駄にしずいぶんと遠回りをしたようだが、ついに覚醒した感がある。
さてこの世には、「悪しき学校」も潜んでいる。
日本人の「国際指名手配犯第1号」というのは、意外にもダンサー講師でもあった洋画家である。
人見安雄という、1999年には「国際芸術文化賞」を受賞しているほどの実力者であった。
同年10月肝臓ガンで59才でなくなったが、その経歴は波乱万丈そのもの。古美術窃盗団の一員として、国際指名手配「日本人第1号」となったのだ。
外国で13年間の逃亡生活をするが、その間、生活の手段として絵を描いて売り始めた。
皮肉なことに、思いのほか絵が売れたことが、自首して逮捕されるきっかけとなる。
さて、人見安雄とは、本当はどういう人物だったのか。もともと感受性豊かで、正義感の強い少年だった。
戦後まもなくの小学校で、欠食児童も多い中、金持ちであることをひけらかす同級生のボールを隠した。
そのボールは持ち主に返すが、それ以降「泥棒」呼ばわりされ、登校拒否に陥ってしまう。
そこからが、ボタンの掛け違えのように、人生の転落が始まる。
生まれ持っての手先の器用さが災いして、万引きやスリを働くようになる。
やがて少年感化院、少年院、特別少年院へと送られる。
また少年院での悪友との関わりから犯罪を覚え、その腐れ縁のために犯罪を犯し「前科三犯」の黒い履歴がつくことになる。
それでも、人見はイケメンであるうえ、運動神経も優れ、出所後、「社交ダンス」の世界に入るやまもなく頭角を現し、数年でプロともなってダンス教室の講師にもなっている。
しかし前科があることから冤罪を被り、親にも認められていた女性とは破局する。
しかし、新たに出会ったプロのダンサーとの2年越しの交際を成就させ結婚する。夫婦二人で安定した生活を築こうと「人見商事」という衣料品店を開き、夫婦とも社交的なだけに店の経営は順調に軌道に乗っていくかと思われた。
人見はこの時点で前科があることは隠していたが、かつての悪友が、警官に対し殺傷未遂事件を起こす。
人見は、その事件には直接の関わりはないものの、かてつの窃盗品の保管と売人をしていた際の余罪が判明し、逮捕されることが予想できた。
妻は、警察の身辺捜査の気配に夫を問い詰めると、夫が「指名手配中」であることが発覚する。
人見がその経緯を正直に話すと、妻の応えは「自首の勧め」でなく「逃亡の勧め」だった。
店をたたんで作った500万円を手に1973年から国外逃亡生活13年間におよんだ。
香港、ベトナム、台湾、タイ、フランス、スペイン、そしてギリシャへと渡り歩く。
その間、逃げるだけというわけにはいかなかった。香港、台湾ではダンス会場に行き、地元の名士と交流し、仕事を紹介してもらったりした。
しかし、逃亡者であるため、仕事も長くは出来ず、入出国では、異常な緊張を強いられた。
ベッドで休む時も、脱走できる準備を整え、靴を履いたまま寝た。
そして1974年、ギリシャに辿りつく。英語さえおぼつかない「逃亡カップル」が、そこで生きていくのは並大抵のことではなかった。
逃亡1年目で金は底をつき、日々の食費に困る中、手慰みに描き始めた油絵をギリシャの米軍基地で売り出した。
それが予想外の評判となり、その後個展を開くや100点すべて売りさばくことができるほどだった。
しかし、名前が知れ、現地の警察が踏み込んだ時、画架をいくつか重ねて高壁を乗り越え、間一髪で脱走したこともあった。
人見はギリシアで画家としての生活基盤を得たものの、日本に帰る望みを妻に打ち明けた。
妻も同意し、1987年ギリシャで自首、日本に護送され「懲役3年6月」の刑期を全うした。
人見は、刑を終えた後、日本で9年間、画家として生き、その絵は多くの人々をひきつけた。
さて、人見に逃亡をすすめた元プロダンサーの妻だが、その妻が書いた「許される日はいつ~ギリシャに潜んで13年」という本は、夫への思いと深慮に満ちたものであった。
例えば、夫に逃亡をすすめた理由は、刑務所にいる仲間との腐れ縁再復活を恐れたため。
食べ物を買うお金がないと言えば又泥棒をするかも知れない。
そこで妻は、食費に困っても夫には今までの食事を供し、自分は食せず衰弱していた。
逃亡中に絵が売れたと聞いて、妻は鍋とまな板が買えると喜んだ。それは、食べ物を買うのでなく、自分が夫に料理を作ってあげられるからだった。
夫が帰国したいと聞いて、妻は初めて自首を勧めた。
絵が売れれば犯罪に手を染めることもない。一方で、有名になってしまえば、いずれ逮捕されるのが目にみえている。
妻からみて、少年院も刑務所も、夫にとって更生をもたらすものではなく、悪縁に戻る”学校”であることを熟知していたうえでの逃避行であった。

ナポレオンの夫人になったジョセフィーヌは、かなりの田舎娘(島娘)であったが彼女を洗練された女性にしたのは、意外な「学校」であった。
ジョセフィーヌは、1763年にカリブ海に浮かぶフランス領マルニチック島に貧乏貴族の娘がとして生まれた。
島においては、野生の果物が次々実をつけ、すべての労働は奴隷が請けおってくれる環境で、彼女は毎日自由気ままにのびのびとした少女時代を過ごした。
そんなある日ジョセフィーヌの妹フランソワーズに本国フランス貴族の息子との縁談がもちあがった。
しかしまだ11歳の妹フランソワーズはマルニチック島を離れることに恐怖を感じ結婚を嫌がる。
ジョセフィーヌは、そんなに嫌なら自分がいくと自ら名乗りを上げた。そしてジョセフィーヌは退屈な島を出て、花の都パリにいき、子爵夫人になることができたのである。
夫になるアレクサンドルは美男子で知的なモテモテのフランス将校であった。
アレクサンドルに一目惚れしたジョセフィーヌだが、アレクサンドルはたいして美人でもないジョセフィーヌの田舎じみた服装や、教養の無さ、字さえろくに書けない教育レベルの差に愕然とする。
アレクサンドルはやがて結婚前の恋人とよりを戻し家に帰らなくなってしまい、しまいいには夫アレクサンドルはジョセフィーヌと別居したい、と裁判所にまで申し出る。
この屈辱的な別居宣言にもかかわらず、ジョセフィーヌはこの提案をあっさり受け入れる。
ジョセフィーヌはとりあえず修道院に身を移し、できるだけよい条件で別居できるように裁判所で争い、その結果パンテモン修道院の居住権、子供の養育費、年金までも勝ち取った。
さらに約2年間にわたる、社交界のようなパンテモン修道院の生活で貴族夫人たちとのつきあいを通して上品さや優雅さを吸収していった。
洗練された言葉使いや自分の無知を巧みにごまかす方法を覚え、ジョセフィーヌはダサい田舎娘から洗練されたパリジェンヌへと変身する。
ジョセフィーヌの演出力は更に磨かれ、歯が綺麗ではなかったジョセフィーヌは、人前ではハンカチを口に当てて話し、その姿がかえって洗練された仕草のようにみえた。
つまりジョセイフィーヌにとっての最高の学校は「修道院」、教科は信仰ではなく「恋愛」であった。
そして、22歳のジョセフィーヌはパンテモン修道院を出てフォンテーヌブローの館へと引越す。
ここフォンテーヌブローでパンテモン修道院で身につけた社交術でジョセフィーヌはたくさんの恋をし、恋愛のスペシャリストになっていく。
そんなころフランス革命が勃発し、もってうまれた運も味方した。
別れた夫アレクサンドルは国民議会議長となりジョセフィーヌはその元妻として一躍「時の人」になる。
この話題性を大いに活かしジョセフィーヌは、フォンテーヌブローの館を出てパリ市内に一人住まいをする。
当時、フランス社交界を引っ張っていたのは、まだ20歳のテレジア・タリアンという女性。
当時31歳のジョゼフィーヌでが、今をときめくテレジアと仲良くなったおかげで社交界へ自由に出入りし、社交界の花形のひとりになって、それだけ多くのチャンスに恵まれる可能性が高まる。
実際、テレジアのおかげでたくさん人脈を作り、その人脈をフルにつかって、商売まで開始する。
ただ30代になり容色が衰えをみせたことに焦ったのか、ジョセフィーヌは、愛人バラスの紹介で、6歳年下の軍人1でコルシカ島生まれの男ナポレオン・ボナパルトと結婚する。
島育ち同士で気が合う部分があったのかもしれない。
この結婚は、ジョセフィーヌにとっては安定した生活のための結婚であったが、ナポレオンはジョセフィーヌが想像さえもできなかったほどの出世を果たす。
数々の戦果をあげた上、クーデターを起こして、なんとフランス皇帝に就任する。
そしてナポレオンの主席画家のダビットが描いた「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」はあまりにも有名である。
しかし6歳の年の差のせいか二人に子供は生まれず、1809年ナポレオンはジョセフィーヌに離婚を申し出る。
最初こそショックを受けたものの離婚が不可避と見るやいなや、ジョセフィーヌはあっさり離婚に応じ、その代わりに生涯皇后の称号とマルメゾン宮殿での年金を獲得し、生活の基盤を盤石にしてもらい、大好きな薔薇の育てて楽しく遊んで毎日を過ごす。
一方別れた夫ナポレオンはロシア遠征への失敗、エルバ島への流刑がきまり没落の一途へ。
フランス一優雅でおしゃれな女性だと言われたジョセフィーヌに、ロシア皇帝、プロイセン国王までもジョセフィーヌに会いたがった。
実際に会うと、ジョセフィーヌの根っこにある優しさと善良さにひかれたのではなかろうか。
欠点といえば、マリー・アントワネットばりの浪費癖。
ナポレオンの死後3年、ジョセフィーヌは肺炎に罹り51歳の波乱に満ちた生涯を終えた。

この人の人生の皮肉は、「少年院」が悪いことを学ぶ「学校」であったことだ。