私は世の光である

「神が光あれといわれた すると光があった」。
旧約聖書の「創世記」によれば宇宙の始まりは、「ひかり」であって、それは現代物理学の成果と一致している。
宇宙が芥子粒よりもさらに小さかった時代に、"瞬間"的な大膨張をする。これを「インフレーション」とよぶが、宇宙がようやく"1センチ"程度の大きさに達する。
この「インフレーション」が終わると、今度は真空のエネルギーが解放されるように、どっと大量の熱が入り込み超高温状態になる。
このとき強烈な「光」が発生し、いわゆる「ビッグバン」とよばれる現象が生じる。
ビッグバンとともに時間や空間が生まれ、自然界に働く4つの力(重力・電磁気力・大きな力・弱い力)が生じる。では、どうしてこんなことがわかるのか。
1929年に、地球の周回軌道にのせられたハッブル宇宙望遠鏡は、銀河が地球に対してあらゆる方向に遠ざかっており、その速度は地球から各銀河までの距離に比例していることを発見した。
逆算すると、数十億年前には宇宙は超高密度の微小な存在であったのだ。
最近では、スイスの山中に山手線の大きさにも匹敵する大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を作って、光速に近い陽子をぶつけて宇宙の誕生当時何がおきたかの実験まで行われている。
だが、なぜ「ビッグバン」が起こらなければならなかったかについては誰にもわからない。
さて新約聖書にも、旧約聖書とは異なるアプローチで「宇宙の始まり」を語っている。
「初めに、”ことば”があった。”ことば”は神とともにあった。”ことば”は神であった。この言葉は、初めに神とともあった。すべてのものは、これによって造られた。造られたもので、これによらずにできたものは一つもなかった」(口語訳:ヨハネ福音書1)。
新約聖書はギリシア語で書かれており、”ことば”には「ロゴス」という言葉があてられている。
「ロゴス」は単なる「ワード」以上に深い意味を含んでいる。
ギリシア人は、ものごとの始源(アルケー)を水や火や土としたが、「ロゴス」はそれらの営みを支配する「論理」「秩序」「原理」とみなされる。
ただ「ワード」が何かを表さんとする手段であるのに対し、「ロゴス」は自らを顕わさんとする主体であるかのようだ。
例えば、イエスが語った「この人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19章)とあるが、”石が叫ぶ”とはロゴスのそんな働きを表現したものだろう。
そして、この「ロゴス」はしばしば光を伴って現れる。イエスは「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8章)と語った。
この言葉と「すべてのものはこれによって造られた」とを合わせると、イエスが宇宙創成の始源であることが示されているのではなかろうか。
さて、光の速度は1秒に約30万キロでおよそ地球7周半、太陽と地球の距離は約1億5千万キロなので約8秒かかる。我々は8秒前の太陽の光を見ていることになる。
太陽は万物を照らし出し、エネルギーを運び、情報を伝、地球の生命にかけがえのない恵みを与えている。学校で習った「光合成」により水が分解されて酸素が発生し、デンプンなどの有機物が生まれるのもそのひとつである。
ただ、中世のキリスト教神学者達は、天地開闢の第一声「光あれ」の光と、創世記第4日目に作られた太陽や星の光が「同じもの」であるかどうか、果てしない考究を続けてきた。
聖書には自然現象としての光とは異なる、ある種の意図をもった光として顕われることがある。
その中でも有名な出来事が、サウロ(パウロ)の回心の出来事である。
サウロは、ユダヤ教律法学者のエリートの家に生まれ、キリスト者を見つけ次第捕縛することを使命としていた。
しかしダマスコへの途上、当然光がさして地に倒れた。
光がサウロを囲んだその時、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声が聞こえた。
サウロは、「あなたは、どなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という応えがあった。
サウロの同行者たちは、声だけは聞えたが、誰も見えなかった。
サウロはその後、アナニヤというひとりの弟子のもとに導かれ、アナニアがサウロの上に手をおいて祈ると、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。
こうした体験をも踏まえてか、パウロは使徒ヨハネにあてた手紙の中に次のようなことを書いている。
「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない」(ヨハネ第一の手紙)。
また、ダビデは「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩篇119)と詠んでいる。

現代物理学で、光の「特異さ」を誰よりも教えてくれるのがアインシュタインである。
実は、アインシュタインが物理学をめざしたのは、少年時代に抱いた「もしも我々が光と同じ速さで進んだら光はどう見えるだろうか」という疑問からであった。
その意味で、ニュートンにとっての「リンゴ」は、アインシュタインにとっての「光」といってよいかもしれない。
アインシュタインは、光こそを絶対的な基準として、時間も空間も相対的な存在とする、新たな世界観を切り開いたのである。
アインシュタイン以前の古典的世界観つまりアイザック・ニュートンが確立した「万有引力の世界」とはどのようなものであったか。
今日のように「ソーシアル・ディスタンス」が問題になっている時だけに、「万有引力」の世界は驚きの世界である。
なにしろ、すべてのモノは引き合っているというのだから、「摩擦力」や「慣性力」さえなければ、この万有引力により事物はくっついてしまうという理論なのである。
ニュートンの前にガリレオ・ガリレイがいた。ガリレイとはガリラヤの人、つまりキリストを意味する。
ビートルズが「フール オン ザ ヒル」と表したガリレイはピサの斜塔あら物体を落とす実験をした。
すると重いものも、軽いものも、落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものであることを見出した。
意外といえば意外、なぜならば重力なら重い方が早く落ちそうだから。
その約1世紀後に現れたニュートンは、これを現状のままとどまろうとする「慣性力」で説明した。慣性量も重力に比例し、落下しようとする力への反作用として働くからだ。
アイザック・ニュートンは、ヨーロッパでペストがはやっていた時代に、故郷に戻る。
リンゴが落ちるという地上の出来事と、月が落下せずに地球の周囲を回っているという、天界の出来事を、同じ「万有引力」の法則で説明した。
そこには、誰がどこにいても一義的にきまる絶対空間と絶対時間を想定した。いわば「時計つき方眼紙」のようなものである。
それに対して、アインシュタインの世界とは文字通り、時間や空間は測定者によって異なる相対的なものとした。
とはいっても「相対性」が問題となるのは、光速に近い世界であって、我々の日常ではそれを意識する必要はない。
アインシュタインは、1949年に発表した「自伝ノート」の中で、「ニュートンよ 許したまえ」と断って、「あなたはあなたの時代において最高の思考力と創造力をもった人間に、かろうじて可能であった唯一の道を発見された」と敬意を表す。
その一方で、「今やわれわれが、ものごとの関係をより深く理解しようとするならば、あなたの概念を、何か別の、直接的な経験の領域から遠く離れた概念によって置き換えねばならない」と書いている。
それでは、ニュートンの時間や空間の概念を覆した、アインシュタインのいう「相対」とは具体的にどういうことか。
例えば、向こう側の列車が動き出したのに、こちらの列車が動き始めたと錯覚するのは、我々の日常体験である。
我々は、時間と空間で自らの位置を捉えているが、それは地上が静止状態にあることを暗に前提としている。
しかし我々の散歩を、宇宙圏からみれば、地球の自転と公転に振り回されながらの散歩なのだ。
そうすると、散歩の歩数が宇宙的な系から見ると、とんでもなく長い歩幅で歩いていることにもなる。
つまり測定者の状況によって速度が変わるのだ。
ニュートンの世界では、「光の速度」はふつうに進んだ距離を所要時間で割ったものであり、光を特別扱いしていない。
その一方、アインシュタインは、光だけはどこからどうはかっても、測定者の状況にかかわらず同じ速度で直進運動しているという不思議さに注目する。
そして、絶対時間や絶対空間の概念を捨て、「光速不変の原則」を中心にすえる。
そうすると、「光の速度=距離/時間」として、実験の結果によれば光速が不変なので、時間と空間の比が一定に保たれるためには、時間が縮小(増加)すれば空間も縮小(増加)する必要がある。
時間が縮小するとは、時間間隔が短くなる、つまり時間が早く進むということである。
アインシュタインは、大胆にも「光速不変」を唯一の絶対的基準とし、時間や空間そのものが伸縮や歪曲するという驚くべき世界観をうみだした。
また、光速に近づくと空間は縮小して、光速を超えて存在することはできない。つまり、宇宙の最高速度制限は、"光速"なのだ。 アインシュタインの世界では、時間と空間が独立ではなく、ひとつのところから生じたというのは、聖書でいう「ロゴス的」なものを感じさせる。
さて、アインシュタインの「相対性理論」は、重力をゼロとする「特殊相対性理論」から、地球に働く重力(遠心力および引力)をも考慮した「一般相対性理論」に発展する。
そして、時間の流れ方や空間の在りようは観測者の状況ばかりではなく、「重力」によっても影響をうけるとした。
また、アインシュタインは、万有引力で事物が引き合うのではなく、重力の周辺では空間や時間に歪みで引き合っているとした。
さらに、光が重力によって曲がることを予測しつつ、それは光が曲がるのではなく、光がとおる空間の方が曲がるということで、ここでも「光速不変」つまり光の等速直線運動の鉄則を守ったのである。
さて、こうした「ゆがみ」は微小なので、実用的用途などとは無関係と思いがちであるが、我々は日々その理論の恩恵にあずかっている。
空を飛ぶGPS衛星の速度は、秒速3.9キロメートルである。
座標系(慣性系)を調整するローレンツ式に従って計算すると、1日たつと衛星の時計には7.3マイクロ秒(100万分の7.3秒)の誤差が生じる。これだけの間に光は2.2キロ進む。
もし衛星の時計から送られる時刻にこれだけの誤差があったなら、GPS受信機はこの間違った時間を基として衛星との距離を合計するので、2.2キロのズレが生じる。
つまり、その分だけ人の位置の計算にもずれが生じる。
また、衛星の高度は2656万メートルで、重力差によって時計の進み方が早くなる。
それは速度による時間拡張よりも大きな効果で、1日45マイクロ秒の誤差が生じる。
2つの効果をあわせると、一日後の正味の時間差は45-7=38マイクロ秒になる。光は1マイクロ秒の間に300メートル進むので、誤差は11、4キロ、2日後には22、8キロである。
これが、一般相対性理論から導かれる結果で、GPSの設計者はこれらのことを百も承知で、この時間効果を計算できるようにコンピューターをプログラムし、衛星の時計も受信機が正確に距離を計算できるように調整してある。
さて、光とともに「ビッグバン」が起きて宇宙が始まったことは、光の特異性を何よりも物語っている。
我々が地上で生活するうえでは、光の速さとはかけ離れた世界なので、ニュートン世界観で十分である。
しかし、光速で素粒子が飛び交う原子の内部の世界では、ニュートン的世界では説明がつかない出来事が起きる。
アインシュタインは、自身の美学なのか信仰なのかよくわからないが「光速不変」の鉄則を守るかのごとくに、時間や空間の方を曲げたり伸縮したりして「相対性理論」を単独で生み出した。
実は、アインシュタインの時空の観念は、聖書と相性がよい。
それは、「神にとって1日は千年のごとく 千年は1日のごとく」(第二ペテロ3章)とあるように、時間や空間はあくまでも相対的なものであり、天地創造の「第1日」というのも、地上時間では千年単位で考えることさえできるからだ。

聖書で「光」にかかわる部分で登場するのが「虹」である。創世記によれば、「虹」は神と人間の契約のシルシとして存在することになった。
ニュートンは、聖書をよく研究した人で、「虹」についても重要な貢献をしている。
ニュートンは、光速については特別扱いはしなかったが、「分光学」を研究した。そして、可視光の色を音階になぞらえて7色に決めたようだ。
光は色ごとに、つまり光の波長によって異なるため、光の色が分離されて見えることになる。このように、波長によって屈折角が変化すること、つまり屈折率が異なることを「分散」という。
太陽光は、大気中の無数の水滴(球状)に出会い、屈折して水滴内に入っていく。
そこで「分散」して、色に分かれ、色ごとに内面で「反射」して、再度水滴表面で屈折して出ていき、虹となる。
さて、旧約聖書の「創世記6章」にはノアの箱舟の話がよく知られている。
地上に人が増え始め、地上の人の悪事が増す一方なので、神はこれを地上から拭い去ろうと決める。
しかしノアだけは神に忠実で、神はノアに、地上に洪水をもたらし、命あるすべての生き物を天の下から滅ぼすので、箱舟を作りなさいと告げる。
ノアはすべて神が命じたとおりにに、家族7人と動物を連れて箱舟に入った。
すると水は40日間止むことなく増え続け箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮んだ。
そして、地上の生き物は鳥も家畜も全てことごとく息絶え、ノアと箱舟にいたものだけが残って、新しい世界で生きることになる。
そして神は、人々とその後に続く子孫たちと、二度と洪水によって地の生き物を全て滅ぼすことは決してないという契約をたてる。
その契約のシルシとして、雲の中に虹を置くということを語る。
我々には、虹がまるで天空の逆立ちの扇のように見えるが、現代物理学は、光は波(電磁波)であるとともに粒子(光子)であることを教えてくれる。
我々が明るく感じたり、暗く感じたりすることは、光子が人間の目の網膜を刺激することによる。
虹は光の屈折を目の網膜で受けて像を結ぶものであり、ひとりひとりの位置や角度で見え方が異なる。
「契約のしるし」は見えるものには見え、見えないものには見えない。これも光のなせるわざなのだ。

そして光あれと同時にイエスが宇宙に誕生した。イエスは神の具体的な名であり、イエスは地上に受肉する以前からそんざいするのは、聖書からみて明白である。
「イエスによって作られたのでイエスは神そのものであり、イエスの受肉をもって神の子の姿として世に現れた」という解釈はどうであろう。
そしてアインシュタインの相対性理論が教えていることは、存在する系により時間の流れ方は違い、「千年は一日のごとく、一日は千年のごとく」()という言葉や、神が天地を1週間で作り終えたことも、科学とはそれほど矛盾することではない。
進化論と「創造」説があるが、人間からみて長い時間をかけて進化していく過程こそが人間の創造とみても、それほど矛盾はない。
そして一番注目したいことは、神が自らの「似姿」として人間を作ったということと、神の霊を吹き込んだということである。
新約聖書の中で、人間が心と肉体ばかりではなく、「霊」によっても形成されていることが書かれている。
「すこやかであるようにと祈っている」(ピりピ3章)。
したがって人間は猿人・旧人・新人(ホモサピエンス)と進化したとなっているが、神の霊が吹き込まれた段階で人間とみなされるのであってそれ以前は、形がどんなに人間に似ていようと人間ではない。
つまり人間の試作品のようなものであろう。
さて人間は神の似姿として作られたということと、ギリシア語で書かれたヨハネ福音書の有名な言葉「はじめに言葉があった。言葉はかみとともにあった」とあり、ギリシア語でロゴスとう言葉があてはめてある。
ロゴスは単なる言葉以上の意味を含んでおり、理念や理法という意味であるが、この世の具体的な姿をとる前のなにかの原理であることが想像できる。
個人的にはやや卑近な言葉であるが「思念」や「思惑」や「計画」といった言葉をあてると全体として整合的なのではなかろうか。
したがって「光が発せられ」この世がうまれる以前のなんらかの「思惑」のようなもので、光とともに時間と空間が生まれ、神がイエスの名で宇宙に存在するものとなり、同時に人間が神の似姿に創造(進化の過程尾も含む)と理解したい。
したがって「私は世の光 私に従うものは命に光をもつ」という言葉は、単なるたとえではなく宇宙の創造とのつながりの上で理解されるべきものだろう。

通常、列車が同じ速さで動くと止まって見えるが、光にそんなことがあるか、ということだ。 アインシュタインが教えてくれたことで一番ショッキングなことといえば、時間と空間は独立して存在しているのではなく、空間によって時間の流れる速度が変わること。そして光の速度に近づけば近づくほど、空間は縮でんでしまい、光より早いものが存在しえないことであった。