聖書の言葉から(土の中の宝)

新約聖書のはじめ近くに、イエスによる「山上の垂訓」というものがある。
その冒頭「心の貧しい人は幸いなり、天の国はその人たちのものであり」とある(マタイ5章)。
ふつうに、「心が貧しい人」とはどういう人なのか、また「どうして幸いなのか」と問いたくなる。
この「山上の垂訓」は、この言葉に続いて「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。あわれみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と続く。
「山上の垂訓」は、イエスの生涯の記録である「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ」つ4福音書の中で、マタイとルカの福音書に出てくる。
「山上」とはモーセが「十戒」を授かったシナイ山ほどの急峻な山ではなく、ガリラヤ湖に近い山である。
聖書全体からみて、ここでいう「幸い」とは、あくまでも神の側から見ての「幸い」を意味している。
実際、イエスの側から「幸いな人よ」といわれた人というのは、世間的な意味での「幸/不幸」とはあまり関係がないようだ。
まず思い浮かぶのは、 イエスがカペナウムという町で知った一人のローマ人(異邦人)百卒長である。
百卒長は、自分が頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていたため、イエスの噂を聞いてユダヤ人の長老を通じて、自分の僕をなんとか助けに来てくれないかとお願いした。
イエスは人々と連れだって百卒長の家に向かったが、家からほど遠くないあたりに来た時、百卒長は友人を送って「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。 自分でお迎えにあがるねうちさえない」といった。
さらに「ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください」といい、次のように語った。
「わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
イエスはこれを聞いて非常に感心し、ついてきた群衆の方に振り向いて「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と語った。
そして、使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。(ルカの福音書7章)。
ここで注目したいは、百卒長のへりくだった態度とは裏腹な、「信仰」の明確さである。
百卒長はローマ人であることがユダヤ社会では歓迎されないことは百も承知の上で、イエスの「言葉ひとつ」で僕が癒されると信じることができたのである。
また、聖書の別の箇所には長血を患った女性がイエスに触れた瞬間に癒される場面がある。
彼女は20年以上、「罪人」同様の扱いを受けており、正面きって「癒し」を求めることができなかったと推測できる。
それでも彼女は、イエスの衣にさえ触れれば、癒されると信じられたのである(マルコの福音書5章)。
その時、イエスは自分の体から力が抜けたことを感じ、振り返って「誰か触ったのか」と探している。女性の信仰を直接に「体感」し驚いたからであろう。
さて、ローマの百卒長の「イエスの言葉」を求める姿勢に、思い浮かべるのが「マルタとマリアの姉妹」のエピソードである。
イエスがある村に入った時、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。
マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたが、マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた。
そこで、イエスに言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。
するとイエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカの福音書10章)。
現代人が一般にマルタとマリアのうちマルタの方に共感するのは、気をまわして立ち回ることが大切なことと学習しているからであろう。
ただイエスは、話に聞き入るマリアが「よい方を選んだ」という。そうはいったものの、イエスは「マルタ、マルタ」と二度も呼びかけているところをみると、イエスは忙しく働くマリアの気持ちを察して受けとめていることがわかる。
マリアの姿勢がイエスの側からみて、「幸い」とされたのは、「聞く」ことが幼児のような心から自然にでた行為だったからはなかろうか。
聖書には、「誰も幼児のようにならなければ、神の国に入ることができない」(ルカの福音書18章)という言葉がある。
結局、「信じる」ことですべてが占められるほどの心の貧しさ、それこそが神の側からみて「幸い」ということなのだろう。
実は、この「マルタとマリア」のエピソードはもう少し深読みすることもできる。というのは、マリアは別の場面にも登場し、イエスに「高価な香油」を注いだ女性なのだ(マルコの福音書14章)。
そこにいた人々はマリアに、「それを売って貧しい人々に売ればいいではないか」と、現代人には極めて説得力のある言葉でたしなめている。
それに対して、イエスはここで十字架の死を予想させるように「マリアは葬りの準備をしてくれたのだ」と語っている。
イエスは別の場面で、「ああ、あなたがたといつまで共にいられようか」と人々の不信仰を嘆いている(マタイの福音書17章)。
マリアにそんな意識はなかったにせよ、まずはイエスの言葉を聞こうとしたことは、限られた時間しか共に居られないイエスの側からみて「幸い」な女性であったといえる。

旧約聖書で「幸いな人」を考えると、ヘブライ王国3代目の王で、栄耀栄華の時代と共に浮かんだソロモン王を思い浮かべる。
イエスは、前述の「山上の垂訓」でソロモンについて次のように触れている。
「野の花をみよ、明日は炉になげこまれる花でさえもあのように装ってくださる。栄耀栄華を極めたソロモンでさえこのように着飾ってはいなかった。あなた方は花よりも優った存在ではないか。だから明日のことは思い煩うな」(マタイの福音書6章)。
ソロモンは王位に就くと、神から「欲しいものは何か」と問われ、「民を治める知恵」と応えたことが神の心をいたく動かし、神はソロモンに知恵ばかりではなく、富も名声も与えている。
ソロモンの知恵の名声を聞いたシバの女王が様々な貴重な贈りものを携えてエルサレムにやって来る。
そしてソロモンの知恵を試すために準備してきた問いに、ソロモンは見事に応じた(列王記上10章)。
そして、「あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです」。
ここで重要なのはシバの女王は、このソロモンの幸いを人間の世界だけで終わる幸せではなくて、ソロモンを王に就けた神、知恵を授けた神に目をむけ、 「讃えられますように」と神から来た「幸い」ととらえていることである。
しかしながら、ソロモンの聡明さは、その栄耀栄華がもたらす「幸い」さえも問い直している。
実は、ソロモンは名前を「コレヘト」に変えて別の書を表しているのだ。
ソロモンは「コレヒト」(伝道者の意味)ということにして語ったのが旧約聖書の「伝道の書」である。
そこには、ソロモンの心の奥の意外な側面をしることができる。
ソロモンは確かに、自分が神から与えられた栄華につき神を賛美している。
「いかに幸いなことか 王が高貴な生まれで役人らがしかるべきときに食事をし決して酔わず、力に満ちている国よ」。
「いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業(しぎょう)として選ばれた民は」。
ここで「嗣業(しぎょう)」とは、元来「相続財産」を意味するが、 ここでいう「嗣業」とは「主が所有物として選ばれた民」ということになる。
ここからわかるのは、ソロモンの知恵とは、人生の体験からくる「世間知」というものとは違い、「神からくる知恵」という性質のものである。
ソロモンは神より与えられた知恵につき、「いかに幸いなことか知恵に到達した人英知を獲得した人」(箴言」3章)と感謝もしている。
ちなみに箴言は、「知恵文学」と呼ばれているジャンルに属している。
有名な箴言に「神を畏れるれることが知恵の始まり」というものもある。また、「いかに幸いなことでしょう背きを赦され罪を覆っていただいた者は」(詩編32)とある。
ところが「伝道の書」の全体的トーンは、けして「幸い」なものではなく、「空(くう)」(=虚しい)という言葉、ヘブライ語でいう「へベル」という言葉が何度もでてくる。
つまり「コヘレトの言葉」で一番多いのが、「なんと虚しいか」という言葉なのである。
ソロモンは、神から与えられた富や名声でさえも、本当の「幸い」に達しないことに気が付く。
これは旧約聖書に生きる人々、つまり本体の「影」を生きる世界の人々の限界を示すともいえる。
そしてソロモンの「虚しさ」を裏書きするように、ヘブライ王国はソロモンの死後、南北に分裂し、北のイスラエル王国はまもなくアッシリアによって滅亡する。

「心の貧しい人は幸いなり」と対をなす言葉が、イエスの「汝の宝のある処にこころがある」(マタイの福音書5章)という言葉である。
すなわち、当面の状況はどうあれ、「宝」を掴んでいるか、もしくは「宝のありか」を知っている人こそが、「幸い」ということであろう。
それは、この世の宝で心が満たされているのなら、逆にそのような「宝」に気が付くこともないかもしれない。
ちょうど、ソロモンが富や名声も「空の空なり」という境地に至った段階で、マリアが一心にイエスに香油注いだ時と同じような、「心の貧しさ」に至ったのではなかろうか。
その意味でいうと、ソロモンもまた幸いであったといえる。イエスは次のように語っている。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」(マタイの福音書6章)とある。
ここでも、ある種の優先順位がかわってくる。永遠なるものと、過ぎ去るものとの。
つまり、地上のことに心たを奪われて、永遠の世界を見失うことのないようにという言葉である。
また、イエスが語った「神の国」に関するたとえ話が2つ載っている。
「畑に隠してある宝」と「高価な真珠」で、神の国の価値と、それを見つけたときの喜びについて教えている(マタイの福音書6章)。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。
古代社会において高価なものが地中に隠されることは広くみられたことである。戦争が起こっているなどの理由で不安定な時代には、特にそうであった。
「死海文書」として知られるユダヤの文書の中にも「銅の巻物」がある。
それは、隠された財宝の目録で、60か所に埋められたり隠されたりした莫大な量の金銀、貨幣、調度品のことが記されてた。
個人(あるいは家族)が貴重品をどこかに埋め、他の人にその場所を知らせないで本人が死んだ場合、それは誰かが見つけるまで埋まったままということになる。
それで時折、他の人が隠しておいたそのような宝を誰かが見つけることがあり、見つけた人は大いに喜んだのである。
前述のイエスの「たとえ話」では、宝とは何だったのかまではふれられてはいないが、ポイントは、この人が宝を見つけるやそのまま隠しておいて、その後「全財産」を費やして、その畑を買い取った点である。
2つ目のたとえ話では、商人が「いい真珠」を探している話である。
古代において、真珠は非常に貴重な宝石であると考えられ、高い価値がつけられていた。
ただその人が商人としてどんな仕事をしていたかまではふれられてはない。
ただ、その真珠をみつけると彼もまた「持ち物全部」を売ってその真珠をかっている。
こうした「宝」についての「たとえ話」から、パウロの次の言葉が思い浮かぶ。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器の中に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(第二コリント人への手紙4章)。
聖書で「土の器」は肉体をさすが、パウロがいう「土の器の中の宝」は何をさすのだろうか。
それはかつてイエスが訪れたサマリアの町で、井戸に水を汲みにきた女性に語った「永遠につきることなき水」のことである。
イエスは、サマリアの町をとおりかかりヤコブの井戸というところで休んでいた時に、水汲みに来たひとりの女性と出会う(ヨハネの福音書4章)。
イエスが「水をください」というと、女は逆にサマリア人の自分にどうして声をかけるのかと訊ねる。
当時、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪く話をすることさえしなかったからだ。
その時の時間は「第6時ごろ」とあるので、正午ぐらいの時間、水をくむには遅すぎる時間である。
この女性は、ほかの女の人たちと顔を合わせるのを避けようとしたかもしれない。
というのもイエスが、「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」と言い当てた、そんな事情があったからだ。
女性は、初対面なのに自分の人生を言い当てたと素直に驚いているが、イエスは女性が水を与えてくれたことに対して、「自分は永遠に至る水を与えることができる」と語っている。
すると、女性は「自分がこの井戸まで水を汲みにこないで済むように、その水なら与えて欲しい」と素直すぎる反応をしている。
イエスはこの「永遠の水」を、その人のうちから流れ出る永遠の水といっているので、「聖霊」を意味するものであることがわかる。
ソロモン王もまた、来たるべき「永遠の水」(聖霊)を予告したような次のような詩を残している。
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(詩篇第1篇)