遠くて近いもの

かつて脳科学者の茂木健一郎氏が「アハ体験」ということを言ったことがある。
な~るほど、アッそ~かという体験をすることによって脳は活性化するそうだ。
確かに、例えば歴史本を読んで「そうだったのか」という思える頻度が高いほど頭がサエ、充実した内容だと感じられる。
しかしこの「アハ体験」も、「○○型」といったいくつかの類型が出来そうだ。
例えば、遠いハズが実は似てる型、東西逆転型、上下逆転型、因果関係逆転型などだが、何らかの「驚き」がハシル点で共通している。
イスラム教の経典コーランでは、「彼女らの飾りを目立たせてはならない」とあるが、どこを隠すかマデは特定されていない。
イスラム世界では一般的に、女性の髪と胸元を布で覆うことがイスラム女性の宗教的な義務と見なされていて、ブルカやヒジャーブなどのファッションが生まれた。
しかしこれは、イスラム教で夫は絶えず「ジハード」(聖戦)のために家を空けなければならなかったという現実と関係しているのかもしれない。
というのは、宗教の戒律ではないものの、日本でも同じようなことがあったからだ。
日本は、日清戦争・日露戦争で「軍国主義社会」に突入するが、日本政府としては、戦争に勝つためには戦場にいる兵士の士気を高めて、全力で戦えるようにしなければならない。
前線で戦っている兵士は、いつも不安な状態にあるので、些細なことで気持ちが萎縮してはならない。
ちょうど太平洋戦争で日本発のラジオ放送で「東京ローズ」と呼ばれた女性からアメリカ兵に向けて甘い声が流れてきた。
あんたの奥さん他の男と仲良くなってんのじゃないの、はやく故郷に帰らなくていいの、なんて甘ったるい英語でササヤカれたら戦争なんかヤメテ家に帰りたくなるに違いない。
戦場からは逃げ出すことは出来ずとも、全力で戦う気は失せるかもしれない。
ラジオ電波に乗った「東京ローズ」の甘いササヤキは太平洋の島々で日本軍と戦うアメリカ兵に大人気だったそうだから、実際の効果もあったかもしれない。
極限状態にいる兵士は冷静にモノゴトを考えることができなくなっているので、意外と効果があるのカモ。
そして、GHQが日本に上陸して真っ先にしたことといえば、「東京ローズ」探しだったらしいが、そこにナントモ複雑な感情が入り乱れていたことは想像に難くない。
日本の戦時下、こういう事態を防ぐためにも、妻はどんな時にも「貞節を守るべき存在」であらねばならぬとして、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが「国策」として推進されたのだ。
そうして満州事変後に「銃後を守る」女性のファッションとして広まったのが、「割烹着」である。
割烹着はもともと料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
ユニフォームに指定された理由は、「きれいな着物姿は、夫以外に見せるものではない。女性が外で着飾るのはよくない」という理由だった。
実は、平塚雷鳥など大正期の女性たちを描いた瀬戸内寂聴の小説「美は乱調にあり」なんかを読むと、女性達が自由恋愛を楽しんでいるのがわかる。
自由恋愛だけが理由ではないが、信じられないことに日本の離婚率は、19世紀まで今のアメリカよりも高かったという。
それが、戦時下では「自由恋愛はよくない」「一生一人の人を愛すべきだ」という思想が植えつけられてしまった。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
男は企業に滅私奉公して尽くし、専業主婦がその家を守るというのが、高度経済成長時代の政府・経済界推奨の「夫婦像」となった。
しかし「実際の妻」といえば理想どうりというワケにもいかず、ナント「割烹着喫茶」とか「割烹着スナック」ナンカが生まれて、安らぎを求めて足しげく通う「戦死」ではなく「戦士」もいたくらいだから、コトはそれほど単純なものではなかった。
ともあれ、日本の白い割烹着とイスラムの黒いブルカ、かけ離れているようで、実は似たものナノでは。

黒澤映画が世界に与えた影響はジョージルーカスの「スターウォーズ」をハジメとして、はかりしれないものがある。
アメリカでは、黒澤の「七人の侍」を西部劇に遷し変えて「荒野の七人」をつくった。
しかし、黒澤氏が世界的監督であることに一点の疑義はないものの、亀井俊介氏の「わがアメリカ文化誌」読んで、「時代劇→西部劇」という影響の図式は少し修正しなければならないことを知った。
つまり「西部劇→時代劇」の方が先なのだ。
映画「シェーン」は西部劇史上不朽の名作といわれている。
天涯孤独の流れ者が、一夜の宿を貸してくれた一家の窮状を知り、その主人への友情あるいは主人の妻に対するホノカナ愛情から、身を賭して悪人に立ち向かい、またイズコかへと立ち去っていく。
ラストシーンで、馬で立ち去る主人公に少年が「シェーン カンバック」と叫ぶシーンは、西部劇史上最も印象的なシーンといっていい。
亀井氏はこの「シェーン」が日本の時代劇に似ていると思っていたところ、ある著名な日本の映画評論家が長谷川伸脚本の「股旅もの」が西部劇の影響を受けていると指摘していることを発見し驚いたのだという。
しかし製作年代からすると、日本の「股旅モノ」は「シェーン」ではなく、1910年代から20年代に一世を風靡したウイリアム・ハートの「西部劇」からの影響だったというのだ。
さらに亀井氏が、黒澤明の「七人の侍」が、野盗達の襲撃シーンや、それを迎え撃つ七人の侍と彼らに導かれた百姓達の戦い方には、従来の日本のチャンバラ映画とは随分と違うという印象を抱いていた。
そして前述の映画評論家が「驚くべき」ことを指摘していることを発見したのだという。
それは、「七人の侍」の構想が、「西部劇の日本化されたものをつくろう」というネライの元に構想されたというものであった。
ところで、イタリアで作った西部劇は「マカロニウェスタン」といわれるもので、クリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」(1964年)がその幕開けといっていい。
そしてコノ映画は、黒澤映画「用心棒」(三船敏郎)の完全な焼き直しといってよい。
イタリア西部劇は、スペインやユーゴスラビアで撮影されたらしいが、日本の時代劇と関係は、両者に何らかの「共通項」があるということを示しているように思われる。
それを言葉で表現するのは難しいが、「さすらい」「無宿者」とか「辺境」への憧憬とか郷愁という点で結ばれているのかもしれない。

日本人は、ラテンのノリとかと最も懸け離れた民族で、イタリア人と「共通項」を見出すのは難しいような気がする。
しかし日本人とイタリア人特に古代ローマ人と共通項をアエテ探したら「お風呂好き」という共通項が浮かんでくる。
最近、ヤマザキ・マリというイタリア在住の漫画家が描いた「テルマエ・ロマエ」という漫画が評判をよび、阿部寛・上戸彩主演で映画化されている。
「テルマエ」とはラテン語で「浴場」で、「ロマエ」はローマのことだから「ローマの風呂」という意味のタイトルになる。
物語は、古代ローマの浴場設計技師のルシウスが、設計の行きヅマリに悩み、現代日本の風呂へタイムスリップしてしまう話である。
マンネリで古臭いと批判されたルシウスは、公衆浴場(銭湯)、個別の浴場、露天風呂といったエピソードごとに、現代日本のふさわしい場所へタイムスリップするという展開である。
そして、ルシウスの目に新鮮に映ったのが「ペンキ絵」とか「フルーツ牛乳」とか「脱衣籠」などの日本のお馴染みの風景であった。
ところでイタリアと日本との間でもうひとつ、精神的な「共通項」を思わせるのが白虎隊にマツワル話である。
白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。
城から上がる煙をみて落城と思った彼らは「もはやこれまで」と自刃して果てた。
ただ、いかに封建社会の出来事とはいえ、あまりに純粋無垢で死に急いだ彼らの行為は、普遍的に涙を誘うものがあるのかもしれない。
ムッソリーニは、日本語をイタリアの学校で教えていた日本人と親交があるイタリア詩人を通じて、「武士道」や「白虎隊士」の話を聞く機会を得て、白虎隊の顕彰の為に「記念碑」を贈ってもよいという意向をもらしていた。
イタリアで日本語を教えていたという人物は、1883年福岡の士族の家に生まれた下井春吉(しもいはるきち)なる人物である。
下位は東京外語大学イタリア語科に学び1915年、語学力を買われてイタリアのナポリにある国立東洋語学校の日本語教授として招かれていたのである。
しかし第二次世界大戦の戦局は日本・イタリア両国にとって悪化の一途をたどっために、「記念碑」の話には具体的な進展が見られず「沙汰止み」になってしまった。
しかし後に東京大学の学長となった会津出身の物理学者・山川健次郎がこの話しを聞き、両国親善の為にも会津の誇り「白虎隊」の墓所にイタリア記念碑を建てるという話を推し進めた。
そしてポンペイで見つかった古代ローマの碑が白虎隊士の眠る飯盛山に建てられたのである。
ところで、世界ではじめてボーイスカウトを創始したのはイギリスのベーテン・パウエル卿であるが、その創立精神の中に会津の「白虎隊」の出来事がカランデいることはあまり知られていない。
ベーデン=パウエル卿は、イギリス陸軍の軍人でインドや南アフリカの戦争で活躍した「英雄」である。
当時イギリスの青少年の自堕落な姿に大きな不安を感じたパウエル卿は、戦争で体験した自然の中での自発的な活動が青少年年の育成に大きな可能性を開くものであると確信した。
そして1907年にイギリスのブラウンシー島という無人島で20人の少年達と実験的なキャンプを行ない、その体験を元に「スカウティング・フォア・ボーイズ」という本を書いた。
この本に書かれた野外活動の素晴らしさは世界の人々の心をうち、またたくまに「ボーイスカウト運動」として世界に伝播していった。
そしてパウエル卿がボーイスカウトの宣伝のため各国を遊説し、タマタマ東京を訪問していた時に「白虎隊」の話を聞き、いたく感動したという。
そしてパウエル卿に「会津白虎隊自刃の図」を贈られることになり、そして「白虎隊精神こそがボーイスカウトの精神なり」と応え、帰国後コノ絵を拡大した油絵として自宅に飾ったという。
そしてパウエル卿は、1920年に34ヶ国が参加したボーイスカウト第1回大会がロンドン郊外で開催された時、ボーイスカウトの精神に「日本の武士道精神」を取りいれたことを明らかにした。
実はパウエル卿はケンジントン公園の近く住んでいたのであるが、この公園はジェームズ=バリという人物が「ピーターパン」の構想をえた場所としても有名である。
そういうわけでこの公園には「ピーターパン像」がたっているのだ。
パウエル卿は、ただ単にこの公園近くに住んでいるというだけではなく、自分の息子にピーターという名をつけるほどの「ピーターパン」の愛好者であった。
つまりベーデン=パウエル卿の心の中の永遠の「ピータ-パン」像と日本の「白虎隊」の若者達への畏敬の念が交錯して、「ボ-イスカウト精神」が生まれたのである。

イギリスのパウエル卿を通じてボーイスカウトの精神は世界各国に伝えられていたのだが、「白虎隊」の話に心を動かされたのは、前述のとうりイタリアのムッソリーニもその一人であった。
さらに、アメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトもボーイスカウト運動普及の貢献者だった。
ルーズベルトは幼少の頃から病弱で体を鍛えるためにボクシングなどをしつつ、日本の武士道にも触れ、「アメリカ人初」の柔道茶帯取得者となった。
さらに東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その「英訳文」を軍の将兵に配布したりもしている。
そして「武士道」に大変感銘を受けて、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとのエピソードが残っている。
ルーズベルトが、日露戦争終結においてポーツマス条約の斡旋に乗り出したのは、ハーバード大学の同窓生であった金子堅太郎の働きカケもあったと言われているが、生来の日本贔屓ということと無関係ではないかもしれない。
ただし、日露戦争後は次第に極東で台頭する日本に対して警戒心を感じるようになり、艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させたりして、強大化しつつある日本を牽制した。
さらには、「排日移民法」の端緒もルーズベルトの時代に溯ることができる。
ところでルーズベルトは、イギリスで起きたボーイスカウト運動の熱心な提唱者でもあった。
そして、アメリカ合衆国ボーイスカウトはルーズベルトに対して、「チーフ・スカウト・シチズン」のタイトルを授与している。
ところで、このセオドア・ルーズベルトと柔道を通じて親交のあった人物が竹下勇である。
竹下は、日露戦争中は潜水艦の購入を画策したり、中立国経由で伝わるロシア情報の分析にあたり、ポーツマス会議では日本側随員の一人となっている。
日露戦争の前後に「アメリカ大使館付武官」としてアメリカに滞在し、柔道を通じてセオドア・ルーズベルトと親しくなり、アポなしでホワイトハウスを訪問してもトガメられないほど深い仲になっていた。
一方で、対中国政策では「積極干渉」をモットーとし、これに対してアメリカがドウ妨害してくるか分析し続けた。
1938年8月にナチス・ドイツの青少年組織である「ヒトラー・ユーゲント」の代表者30名が来日した。
竹下は海軍を引退した晩年はドイツとの連携を深め、ボーイスカウトを率いて横浜で「ヒトラー・ユーゲント」を出迎えるなどしている。
「ヒトラー・ユーゲント」は、ドイツのナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、「ヒトラー青年団」と訳される。
彼らは、北海道から九州まで親善訪問しているが、最も印象的だったのは会津若松の「白虎隊」の墓を訪れたことであったようだ。
「ヒトラー・ユーゲント」は1938年8月31日に福島県の会津若松市を訪れ、約1万もの群衆の大歓迎を受けた。
歓迎式の後、「ヒトラー・ユーゲント」は東山温泉の旅館へ向かったが、来日以来初めて宿舎が純日本式だったので、彼らは温泉の浴槽に飛び込んだり、鯛の刺身やお吸い物などをパクついたり、浴衣姿で、日の丸行進曲や会津盆踊りに拍手を送ったり、獅子舞に興味を示したりと、楽しい夜を過ごした。
翌日、天気が悪く、飯盛山の白虎隊士墓の参詣を中止しようとの意見も出されたが、ユーゲント側の強い希望もあって、激しい風雨の中、白虎隊士墓を参詣した。
この時、「ヒトラー・ユーゲント」は、白虎隊墓地広場にあるドイツの「記念碑」も拝観している。
この「記念碑」は、駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフが、3年前の1935年に飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受け、個人的に寄贈したものである。
この「記念碑」の隣には、1928年に、前述のとうりイタリアのムッソリーニが元老院とローマ市民の名で贈った「記念碑」である大きな石柱が建っている。
このローマの「記念碑」の裏面には「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、戦後、GHQが削り取ってしまったという。
ところで、竹下勇はけしてナチ信奉者というわけでなく、アメリカとの関係が悪化した以上、対抗上ドイツとの親善の一助となろうとしたにすぎない。
ちなみに、原宿の「竹下通り」の名は竹下邸があったことに由来している。