抑止力のシフト

最近、普天間の基地移転とアメリカの海兵隊移動はセットで行われるハズだったが、海兵隊のうち約3分の2がサッサとグアムに移転したというニュースが飛び込んできた。
元来、日米合意できめた基地の辺野古移転が、グズグズと進展のないまま、アメリカが独自に(一部)移転をしたということである。
海兵隊の一部でも日本国外に移転してくれれば歓迎すべきことのようだが、アメリカの世界戦略の中で日本は「蚊帳の外」の印象があり、基地移設は置いてけぼり状態でソノママ「固定化」されてしまうのかと懸念されている。
事態が動いた背景には、アメリカの防衛予算の削減要請もあったろうが、だいたいアメリカの海兵隊がオーストラリアやグアムやフィリピンなどにローテンションのように移転することが可能なこと自体、我々の「想定外」なことであった。
それは、日々刻々かわる国際情勢(コンテキスト)の中で、世界の軍事情勢は新たな「定義」づけが次々に行われて、世界の国々は「異なる」言語空間でシノギを削っているのに、日本の指導者はまったくヨミキレていないと感じさせる象徴的な出来事でもあった。
そうした意味では、日本とアメリカの安全保障における「双務性」の変質も、そうした事柄のヒトツではないだろうか。
現代の「安全保障」や「普天間基地移設」問題など、防衛大臣でさえサッパリなのだから、専門家ではないとナカナカ掴みきれない、オマカセの問題になりがちである。
しかし案外と、高等学校の「教科書」と「地図」「資料集」ぐらいをもっても、「見えて」くることが多い。
専門家というものは、バックの「利害」を代表して意見するので、ズブの素人の方が、「フリー」な見方ができるという利点もある。
1945年日本が敗戦で受け入れた「ポツダム宣言」の第十二条に、「前期の目的が達成され、日本国民が平和的傾向を有し、責任ある政府が樹立されたときは、連合国の占領軍は直ちに日本より撤収する」とある。
日本は「独立」を果たし「平和憲法」をもったのだから、占領軍(米軍)は日本から「撤収する」ということツマリいなくなるということだから、それではナンデ「米軍」がいまだに日本にイルノカと素朴に思ってみるところからはじめたい。
連合軍(実質米軍)による日本占領の末期に、朝鮮半島の南北対立や中国での共産勢力の勝利のため、1952年のサンフランシスコ講和会議での「日本の主権回復」(日本の独立)後も、米軍が日本からの「撤収」ではなく、引き続き基地の「継続利用」を必要とするようになったために、「新条約」が必要になった。
それが、世界48カ国との間に結ばれたサンフランシスコ講話条約と「同日」に単独にアメリカとの間で結ばれた「日米安全保障条約」である。
ところで、沖縄の返還は様々な「密約」と引き換えに達成されたことが今日明らかとなったが、実は「( 旧)日米安全保障条約」ソノモノが、「密約」メイタものだった。
サンフランシスコ講和会議は、現在サンフランシスコ市庁すぐソバのオペラハウスで結ばれたが、日米安全保障条約の方は、サンフランシスコ湾突端にある「プレジディオ陸軍基地」で結ばれた。
実際をいうと、サンフランシスコ講和会議が開かれる前夜、23時という遅い時間に突然に国務省の役人が総領事館にやってきて、翌日の「(旧)安保条約調印」を一方的に「通告」してきたという。
その草案自体は、米国から外務省に一ヶ月前に送られていたが、その内容は「公開」を禁じられていた。
そして翌日の午前11時に吉田茂首相が「講和条約」に署名し、午後18時に処をかえて「日米安全保障条約」が署名された。
これによって米軍の日本における基地の「継続使用」が決まった。
ためしに、アジア地図を回転させると、沖縄に米軍基地を置くことによって、中国やロシアから太平洋への進路を弧状に「封鎖」でき、社会主義と対峙していたアメリカからみて、日本列島がイカニ「地政学的」に魅力的かがヨクわかる。
しかしそれは、アクマデモ日本で基地を「自由」に使用できることを前提としたものである。
そして列島の南へと細く連なる島々の先にあるヤヤ大きな島である沖縄が、ある程度規模の大きな軍事基地を置く上での利便性の高さも、素人にも感じられるところである。
ところで、旧安保条約締結後に国民にその「内容」が明らかになるにつれて、その「片務性」が問題として取り上げられるようになった。
つまり、アメリカは日本に基地を置きながら、アメリカは日本を外国の攻撃から守る「義務」がナイということである。
1960年の「安保改定」は、日本があまりにアメリカに従属的でソノ戦争に巻き込まれる可能性が高いと、国をあげての大反対のウズに巻き込まれた。
国会が30万人に取り囲まれたママ、この安保改定の「自然成立」と引き換えに岸内閣は退陣し、その後潮がひいたように「安保反対運動」も収まっていった。
かつて満州国・商工大臣岸信介首相も、奉天領事であった吉田茂首相も「戦犯」として罪に問われるべき立場だった人物である。
それにもかかわらず、罪に問われなかったり「親米的」態度が免罪符となって早期釈放になったりしたため、二人の首相の絶対的「対米忠誠」は目に見えていたところではあった。
ただ、「新安保条約」では日本国民の「世論」もあり、米軍の日本駐留を日本側が受け入れると同時に、「相互」の防衛義務を定めた「双務性」が大きなポイントとなった。
(新)日米安全保障条約の第五条で「いずれか一方に対する武力攻撃を、自国の平和及び安全を危うくすることを認め、自国の憲法上の規定及び共通の危険に対処するように行動することを宣言する」とある。
この「双務性」はイカニモ、アメリカが日本を守るように行動することを定めたかのようであるが、評論家の副島隆信氏はこの「双務性」について、次のような「疑義」を提示している。
アメリカの「国内法」には1948年制定の「バンデンバーグ決議」があって、米国の結ぶイカナル防衛協定も「相互防衛義務」を負うと定めており、日本が憲法9条の「制約」で海外で展開する米軍を守る義務がナイ以上、アメリカが日本の防衛義務を負うことは、禁止されているということである。
これが本当であるならば、日米安保の「双務性」をもってしても、イヤ「双務性」故に、アメリカはこの「国内法」によって日本を守らナイということ、つまり米軍の「抑止力」ナドというものは相当アヤウイ観念であることを教えられる。
もっとも「根本的」なことをいうと、日本国憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という「決意」と、旧安保条約前文の「日本は、無責任な軍国主義が世界からまだ駆逐されていない中で武装解除された」という「認識」の落差である。
後者の「認識」から、「だから米国との安全保障を希望する」という展開になっている。
土台、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼するかぎり、「日米安全保障条約」ナドが必要なはずがない。
日本国憲法の世界観と、日米安全保障条約の世界認識のズレは、1950年ごろから早々と起こった「冷戦」に原因があることはいうまでもない。
ところで、日本国憲法9条が禁じたのが、第二項で交戦権を禁止しているが、この「交戦権」は自衛の為の戦闘を含んでいるのかという議論が戦わされたことがあった。
最近、日本で憲法制定に22歳の若さで「平等権」の条項に関わったベアテ・シロタ・ゴートン女史が、「憲法制定の密室9日間」でソノ「舞台裏」を明らかにしている。
憲法9条2項「国の交戦権は、これを否定する」は、憲法改正委員会で芦田均の提案により付け加えられたものである。
実は日本政府の方は、いっさいの軍備と自衛を含む「交戦権」を認めないという必要を認め、受け入れるツモリであった。
実際、マッカーサー草案にも「自衛権さえも与えられない」という文言が入っていたという。
ところが、ケーディス大佐がソレをみて「こんなばかなことはありえない。自衛権、自己防衛権は人間の基本的権利であり、生存権にかかわるものだ」といって、自己防衛権否定の条項を削ってしまったのである。

ところで沖縄県民の基地移設の要求は、(新)日米安全保障条約と同時に「日米地位協定」というものの「不平等性」が大きく関わっている。
この協定はアリテイに言えば、幕末ペリーが日本におしつけた「不平等条約」と同様に、終戦後に米軍に「治外法権」を認めたというものである。
軍人・軍属に対する不当な優遇が、米兵の野放図な振る舞いを助長してきたという面は否定できない。
沖縄には在日米軍兵士のおよそ7割が駐留するため、その「苦汁」をナメルのは、ほかならぬ沖縄県民であった。
いくら重大犯罪であっても、「日米地位協定」により日本は裁判権を行使できず、異常な治外法権状態であった。
しかし1995年の米兵による少女暴行事件をきっかけに、「地位協定の運用改善」という条件付きで日本が裁判権を行使できる「新たな枠組み」の合意がなされた。
「地位協定」では米軍人、軍属の犯罪の「第1次裁判権」について公務中は米側に、公務外は日本側にあると規定した。
ただし犯罪や事故が「公務中」か「非公務」かの認定権はアメリカ側にあり、アメリカ側が「公務」と認定した場合には、日本の検察当局は「裁判権がない」ということになる。
このことによって罪を犯した米兵が不起訴処分になって、泣き寝入りしてきた人は多い。
また軍人ではなく「軍属」(軍隊に所属する技師や料理人など)については扱いがあいまいで、日米双方で裁判ができない状態が続き「法の抜け穴」状態となってきている。
事実を見れば、2006~10年の在日米軍属による公務中の事件・事故62件のうち、軍法会議にかけられた事案が1件もなかったことが、法務省の資料で明らかになった。
最近、一旦は不起訴処分となっていた米軍属の被告(24歳)が、日本の検察が自動車運転過失致死の罪で在宅起訴した。
被害男性の母親は「一応はほっとした。しかし公務中であろうが公務外の事件であろうが、日本国内での米兵、軍属の裁判は当然日本の裁判所で裁くよう、地位協定を変えていかなければならない」というコメントを出している。
つまり、沖縄の住民達は法律や協定という「言葉の盾」によって、「身を守る」ことができない状態にあるという現状は、それほど大きく変ってはイナイということである。

最近、産経新聞が「人間の盾」というものをスクープしていた。
スクープといっても、ウワサとしてあったことが活字になったということにすぎない。
普天間基地は「世界一危険な米軍基地」といえるのだが、その大きな原因として南側グラウンドが同飛行場とフェンス越しに接している「普天間第二小学校」の存在がある。
だから、この小学校はいわば「米軍基地反対運動」の象徴的存在であるといってもいい。
この風景をみると、住宅密集地に米軍が割り込んできて強引に基地を作ったという印象を受けるが、実際は原野の中にできた米軍基地の周辺に、後から住民が集まってきて住宅街を作ったというのが、基地隣接地域の「実際の経緯」である。
最初に、小学校「移転計画」が持ち上がったのは1982年ごろで、同小学校から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがキッカケだった。
普天間第二小学校の立地の「危険性」を考慮して過去に二度も移転の話が持ち上がったが、その度に移転反対をして妨害したのは、ホカナラヌ「米軍基地反対派」であったという。
産経記事によれば、「ヘリ墜落など事故の危険にさらされてきた同市立普天間第二小学校(児童数708人)で、これまで2回、移転計画が持ち上がったが、基地反対運動を展開する市民団体などの抵抗で頓挫していたことが、当時の市関係者や地元住民への取材で分かった。市民団体などは反基地運動を展開するため、小学生を盾にしていたとの指摘もあり、反対運動のあり方が問われそうだ」という。
この記事は基地反対派の「不都合な真実」を明らかにしたカナリ勇気アル記事であった。

基地反対派の「不都合な真実」以上にハルカに重大なのが、基地賛成派にとっての「不都合な真実」である。
普天間問題を中心に「日米安保」は風雲急を告げているが、この問題を通じて一番明らかになったことは、沖縄の普天間における「海兵隊の抑止力」は中国、北朝鮮、ロシアから、インド洋、中近東に、シフトしつつあるという事である。
それは、アメリカの海兵隊が、ローテーションで移動することにも表れていると思う。
それは日本の基地を提供することによって、日本がアメリカに守られるという「日米安全保障条約」の「抑止力」の意義がさらに希薄になりつつあることにならないのだろうか。
「日米安保」は軍隊を有せず専守防衛に徹する自衛隊に替って日本領土を米軍が守ってくれている。
だから、色々問題はあるが米軍に基地を提供し、「思いやり予算」を差しあげ、北朝鮮や中国やロシアへの抑止力になっている。
だから日本は自国の防衛を半ば放棄して経済成長に邁進できた。
アメリカは、以上のような色あせつつある「物語」をイツマデモ日本人の胸に刻んでおきたいのではなかろうか。
日米安保が「極東の安全」から(アメリカ戦略上)「世界の安全」に引き込まれつつあり、「二国間軍事同盟により、有事の際は米軍が日本を守ってくれる」という期待は、古いコンテキストでのみ語られる次元の話になりつつあるということである。
世界規模の「米国戦略構想」の堅持の為に、日米安全保障条約も、暗黙のうちに「再定義」が為されているということである。
とするならば、こうした「変質」は日本の国民や特に沖縄の人々にはあまり知られたくない「不都合な真実」であるのかもしれない。
日本では、近いところで起きている中国海軍の公海演習や北朝鮮の核を取り上げたりしているが、米国の視野はハルカ中東のホルムズ海峡であったりして、そこへの「進路」という意味で南シナ海での中国の軍事力の強化を懸念しているのではないだろうか。
実際、沖縄駐留の米軍は、中東(イラク・アフガン)に大多数が出払っており、今、日本に何かが起きても、日本を守るだけの兵力などない。
インド洋、中近東までの抑止力を考えたら、グアムに拠点を移すことはムシロ合理的な感じさえする。
アメリカは本当に沖縄にコダワッテいるのだろか。
1972年の沖縄返還に際して「核抜き」を条件として、アメリカは様々な「密約」を日本にノマセ、有利な条件を引きだしたことを思い起こす。
しかし、アメリカという国は「覇権主義」でありながら、日本の政治家や官僚をヌケヌケと出し抜いても、ナゼカ時々の「国民の空気」を尊重する傾向がある。
それは、自国の国民の空気をも大切にする建国以来のDNAが、あるからなのだろう。
変化のスピードを増す国際情勢の中で、アメリカのホンネというのはワカラナイことばかリではあるが、基地移転に伴う建設工事に絡む利権に群がって議論するような次元の話ではないことは確かなようである。