バブリー系

1980年代に「バブル」に踊らされた時代があって、その後「失われた10年」という時代がきた。
アメリカでもヨーロッパでもアジアでも時々に「バブル」の時代があって、その後「ダウン・スケール」をヨギなくされている。
つまり人々が「バブル」を学習する機会は数多くあったということである。
1960年代ボブ・デイランの「風に吹かれて」という曲は、いつまでも「禍々しい」ことを繰り返す人間を歌った「記念碑的」メッセージソングであったが、半世紀を過ぎて一部歌詞を「バブル」と置き換えればソノママいけそうな歌である。
バブルの渦中にあれば、ソノ後の急落を予見できないまま乗っかってしまうのは、人とはヨホド「懲りない」面々なのかと思うが、それよりも世の中の全体が「バブリー」になっているからかもしれない。
かつて景気循環論といえば、設備投資を主因とした主循環や、在庫投資を主因とした小循環やらで、アクマデ「実際」の経済活動に基づいて考察していた。
しかし、世の中に「経済活動」を維持するのに必要な分をハルカに超えてお金がアフレると、こうした「景気の波」そのものがオカシクなってきている。
そこで、実体経済とマネー経済の「乖離」について、幾つかの驚くべき数字をあげたい。
1年間の外国通貨の取引額は世界のGDP合計の27倍となり、世界の貿易取引額の86倍にもなる。
さらにいえば、世界貿易に必要な金額は、外国為替取引全体のわずか1パーセントにすぎない。
残り99パーセントはどうしたか、いうまでもなく円をドルに交換し、ドル価値が上がったらそれを売って 円に替えて「為替差益」を手にするだけのために取引されている。
円に限ってみると、1日に外国為替取引の約8パーセントにあたる金額が売買されている。
1日の全体の取引額が約405兆円だから、約32.4兆円が売り買いされている。
これがどれほどの金額になるかというと、日本の1年間の貿易額は157兆円(2007年)だから、わずか5日分の為替取引が1年分の貿易額と同じになるのだ。
よって1年間の外国為替取引高は、日本の貿易の1年間の約75倍にも達する。
外国為替取引の2パーセント未満で、日本の貿易取引はカバーできてしまう。
あとの98パーセントは、貿易に必要な外国為替取引ではなく、いわば「博打」的行為なのだ。
「バブル」とは実体の価値を離れたことなので、その渦中から導き出される「予想」は、バブルの崩壊とともに「想定外」となる。
ソコを見越して「売り抜ける」人々は巨大な富を手にいれるが、そうではない人がホトンドである。
1998年、アメリカのノーベル賞経済学者を二人がカンデ「鳴り物入り」で始まった投資ファンド「LTCM」の破綻は、その集めた資金の巨大さもあって、とてつもない損出を生み出した。
こういうファンドは、格付け機関でも「AAA」をツケルほど「万全」にみえ、結局それがアダになった。
安全を標榜するものは、必ず一定の条件の下で成り立つのだから、ソコから導き出された「安全」は信頼され人々をひきつけるだけに「危険度」を増すということになり、この流れを「バブリー系」とよぼう。
安全性に寄りかかってかえって死者を増やす結果となった東北石巻の「東洋一の防波堤」は「バブリー系」であり、原子力発電コソは現代文明を代表する「バブリー系」といっていい。
ところで、「バブルに踊り易い」というのは人間のサガだとしても、それ以上にコノ世の中の構造ソノモノが相当に「バブリー系」になってきている。
つまり、ある条件の下で保証された「安全」に人々は寄りかかるが、想定外では、その「安全感」がアダになるものが増えているということだ。

そもそも貨幣ソノモノが「バブル」である。
なぜなら価値のない「紙切れ」で価値あるモノが取引されているからである。
昔はその「紙切れ」は「金」との交換保証ツキであったが、戦後その価値保証は失われた。
日銀が「通貨価値の安定」を異常に気づかうのは、貨幣が「バブル」であることを気づかせたくないからだともいえる。
「貨幣」を握り締めていることが最も安全なようで、実は最も危険なことであるということは、最近ゴールドなどの実物資産の価値が上がりつつあることでもわかる。
貨幣がバブルなんていうことは日頃意識しないが、「複数」の通貨が使われている国に行けばよくわかる。
通貨発行国の経済状況が悪くなれば、その通貨の受け取りを拒否されたりするからである。
世の中に回っているお金の量をマネーサプライというが、人間が財布またはカバンから取り出して支払うお金を「現金通貨」、銀行にあらかじめ預金しておいて、小切手などで「振り替え」て回っているお金を「預金通貨」という。
マネーサプライが経済活動(実体)にどう影響するかは昔から経済学のとても大きなテーマであった。
大恐慌時にはマネーサプライの著しい減少があるので、景気を良くする為にマネーサプライをもっと増すべきダという「単純な」議論もある。
というわけで、マネーサプライと経済活動規模の「因果関係」は実はそれほど明確ではない。
マネーサプライが原因で不景気になったのではなく、不景気だからマネーサプライが縮小したということも成り立つのだ。
つまり景気が悪くなって誰も設備投資する気分がなくなり「資金需要」がなければ、銀行にお金を借りいかなし、「銀行ベース」でマネーサプライが増えることはない。
さて「銀行ベース」でマネーサプライが増えないとは、日銀ではなく銀行がお金を増やすことができることを意味している。
実は、銀行はタエズ「預金通貨」を創造しており、この世の中の実物経済とマネー経済の乖離、すなわち「バブリー度」を増しているといって過言ではない。
銀行は、預金者の引き出し要求に応じられるようにイツデモ預金総額を「全額」用意しておかなければならない、というのはウソである。
銀行は「取り付け騒ぎ」を除いてのホンノ数何パーセントのマネーを準備しておけば、日頃の預金引き出し要求に応えられることを「経験上」知っている。
銀行でお金を「貸す」ということは、借りる人の「口座」を開き金額を記帳するだけですむ。
口座を開くだけで済むというのは、「貸した」お金は早晩引き出されていくものの、そのための準備金は上述のようにほんの数パーセントでいいことを知っているからである。
100万円の自己資本を持ったS銀行がある→ Aさんに100万円を貸す
→S銀行の口座を作ってもらう→Aさんの口座に100万円振り込む
→S銀行に100万円戻ってくる→Bさんに100万円を貸す
→S銀行の口座を作ってもらう →Bさんの口座に100万円振リ込む →S銀行に100万円戻ってくる。
つまり、自己資本が100万円の銀行が200万円貸すことができる。
このように、少ない自己資本で、何倍ものお金を融資できることを「信用創造」と言う。
AさんとBさんが同時に、口座から引き落とそうとしたとき、銀行にお金が足りなくなり、別の銀行と貸し借りを行う取引のことで、このときの金利が発生する。
この金利が「無担保金利コールローン」で、従来の「公定歩合」に代わる「政策金利」となっている。
ところで最近不正操作が明らかになったLIBOR(ロンドン銀行間取引金利)は 銀行間取引の金利で、様々な金融取引の金利の基準として扱われる。
金利をLIBOR+α とか LIBORの変動に合わせて金利上乗せというふうに用いられる。
銀行から自己申告した「平均金利」で構成するが。リーマンショック前は、実際より高い金利を報告されていた。つまり金利を高くして、銀行が儲けていた。
また、リーマンショック後は、実際より低い金利を報告されていた。
そしてタチが悪いのは、それを「公正」であるべきイングランド銀行(英中銀)が指示をしていた可能性があるということである。
さて、上記の「信用創造」のプロセスで判ることはマネーサプライの「主体」は日銀ではなく民間銀行であり、政府は「預金準備率操作」などにより間接的なコントロールしかできなくなっている。
信用創造は、銀行に自由にマネーを創造し破壊する権限を与えることと同じである。
だから実体経済以上の価値をたやすく生むことができるのである。
そして実体経済以上のマネーが創造されると経済は活況を呈するが、アフレタお金が「投機マネー」となる。
この銀行による「預金創造」が「バブリー社会」の形成に寄与しているといっていい。
かつて「暗黙に」行われていて、批判の的になっていた日銀の「窓口規制」の価値が今になってわかってきた。
「窓口規制」とは、日銀が民間金融機関への融資等を直接指導することである。
日銀は公式に認めていないものの、どの企業にイクラ融資するかといった具体的条件まで干渉していた。
「窓口規制」は、つまり民間の信用創造をコントロールすることをしていたのである。
1980年代半ばぐらいから、規制緩和の推進とともに、廃止されてバブルが発生するようになったのである。

さて現代において「マネーの暴走」といえば、ヘッジファンドを思い起こす。
ところでヘッジファンドからみれば、「マネーの暴走」どころかチャント企業なり国なりネライを定めてイッキニ「資金」を投下してる。
ヘンジファンドの「ヘッジ」は「避ける」という意味だが、何を避けるかといえば「リスク」と考えていい。
つまり投資したものが出来るだけ損をしないように、複雑に「仕組まれ」た「投資信託」をさす言葉である。
「投資信託」は、複数の投資家から資金を集め、その集めた資金を株式や債券に運用する。
一般的には証券会社の専門家(ファンドマネージャー)が資産運用して、運用益を出資した投資家に分配するという方式である。
多くの情報をもつ専門家が、多額の資金を集めることによって、いくつかの資産に分けて「運用」できるので、全体として「高い利回り」でしかも「リスク」が回避できることになる。
また個々の投資家からすれば、「小口」の投資から資産運用できるのでありがたい。
最近では、この「投資信託」に従来になかった新たな「要素」が組みアワセられるようになった。
その新たな要素というものが「不動産」の証券化である。
「証券化」とはそもそも市場で取引されなかった資産を様々な工夫を施して市場で取引される資産に変えることである。
一番わかりやすい例が「株券」で、株券とはその会社の利益の「請求権」である。
利益の請求権ということは、その会社を「保有」していることと同義である。
会社の資産を切り分けるなどということは事実上不可能だが、「証券化」によって、収益に対する請求権を自由に売買することができる。
つまり、資産の「切り売り」を可能にしているのである。
証券化の例として「貸出債権」の売買ナンテいうことも起きている。 分かりやすくいえば、銀行が「借用証書」を売買することである。
こういうのが危ない筋にワタって脅され夜逃げするといったナンテことも起きる。
1件あたり踏み倒しの可能性が4パーセントある「借用証書」は、少なくとも4パーセント以上は割り引かないと買い手はいない。
しかし、これを100件まとめて、しかも「個別のリスク」ごとに束にしてうれば、リスクがヘッジされたものとして4パーセント割引以下で買い手がつく可能性がある。
ところで、株式または債券は「投資信託」に組み入れる商品として一般的であったが、最近では「不動産の証券化」もなされ、投資信託の新たな要素として加えられるようになった。
かつては不動産開発を行ったデベロッパーが、物件をそのまま保有して、完成後にテナントが入るとそのテナントから賃貸料をとってその収益を利益として、原本の返済にあてるというのがこれまでの「商慣行」であった。
しかし今では、デベロッパーがビルを建てたらファンドに売ってしまい、このファンドがテナントに貸し出して「賃貸料」を稼ぐ。
この賃貸料を、出資した投資家に対する運用益や返済にあてる。
そうすれが不動産デベロッパーは、借金を抱えるでなく資金繰りに苦しめられるでなく、開発に集中できる。
さらにファンドが複数の「不動産」を取得することによって、地震災害や耐震偽装などのリスクを分散できるのである。
こうして収益のリスクを減らし、利回りが高く安全な資産を、「不動産信託」というカタチ(証券化)でつくることに成功したのである。

この世界のバブリー化は、サブプライムローンなどの金融技術の発達が拍車をかけることになった。
この背景には軍事産業から金融界への人材の流入が指摘されるが、むしろ根本的なことは「石油価格」の値上がりである。
つまりコスト高に悩みつつモノを製造するより、「金融技術」を駆使して得られる利益の方がタヤスク得られるということの発見である。
今「トービン税」を導入している国がある。
投機家が通貨売買を行うのは1パーセント未満の円の上がり下がりという。
極めて小さな動きを期待してであることを考えると、「トービン税」を課すことによって、円への投機的な部分は縮小する。
つまり、円の売り手に0.5パーセント、買い手に0.5パーセントの税を課すのである。
マネーゲームは「裁定」という理に適った経済行動なので「全否定」はできないものの、トービン税などの「投機税」を課すことは、デリヴァティブなどで一攫千金をネラウといった「博打行為」に歯止めをかけることができる。
特にこうしたことに手を染めるのは、「資金運用」に気をまわす余裕のある富裕層だから、景気に悪影響を与える心配はない。
少なくとも消費税増税ナンカより、ハルカに景気に対する悪影響は少ないのではなかろうか。

松本清張の小説のタイトルに「波の搭」というのがあった。
青年弁護士に次久々にオソイカカルこの世の「悪事」のことだが、普通は静穏な波も時には「搭」のような高さで襲いかかってくる。
今、各国が景気回復のために金融緩和を進めていて、お金がジャブジャブに溢れているということがある。
投資資金が株式市場に流れるて株価のバブルを招き、商品市場に流れる事で原油や穀物などが値上がりしてインフレの種をマイテいる状況がある。
何かのキッカケでバブルが発生して「波の搭」をナスかはわからない。
そして、日本海の波も異常に高くなりつつある気配がある。
ココ1週間で、我々心の中の何らかの「バブル」がハジケてしまったのではなかろうか。
それは、外国人によって北方領土や尖閣や竹島に勝手に踏み荒されることによってハジケタ何か~「平和」のバブルといったもの。