愛馬の人々

オリンピック史上、馬術競技における日本で唯一の金メダリストは硫黄島で戦死している。そしてソノ愛馬も後を追うようにその1週間後に死んだというエピソードが残っている。
1932年ロサンゼルス大会に出場した男爵・西竹一陸軍・騎兵隊中尉は愛馬ウラヌスを駆って堂々の優勝を果たした。
ウラヌスはコノ2年前にイタリアから買ったものだが、西中尉は馬術の「大障害」種目に出場し、イタリア人でさえも乗りこなせなかった大型の馬を完全にワガモノにしての優勝だった。
インタビューの西の言葉、「We won!」は、「人馬一体」の精神を一言で表して米国民にも深い感銘を与えた。
しかし比較的に知られた西中尉のの金メダル獲得の蔭に、日本人の「愛馬精神」を世界に示したモウ1つのエピソードが残っている。
ところでコノ時代、陸軍の枢要な構成を騎兵が占め、日本の馬術界を千葉県習志野にあった陸軍騎兵学校がリードしていたために、出場選手はスベテ陸軍の軍人であった。
それだけに「馬術競技」は、色んな意味での「威信」がカカっていたのだ。
ロサンゼルス大会馬術競技の日本代表チーム6人の主将も務めていた城戸俊三選手は愛馬「久軍」(きゅうぐん)とともに「総合馬術競技」に出場した。
これは山野を32キロ以上も走る「耐久持久レース」であった。
コースの途中には50個の障碍が設置され、これを飛び越しながら全力疾走するというハードなものであった。
鞍上の城戸選手は、全コースのホトンドを順調に走り終え、あと1障害と2キロメートル弱を残すだけの所にサシかかっていた。
全コースの99%を走破したこの時点で、城戸選手はかなりの上位入賞が予想されていた。
ところが観客は、「信じられない光景」に目を見張った。
城戸は突然に「久軍号」から飛び下り、愛馬と一緒に歩きながらタテガミをたたいて労をねぎらったのである。
つまり城戸選手は、栄光を目前にしながら「棄権」したのだった。
城戸選手は、「久軍号」がこの時鼻孔は開ききり全身から汗が吹き出ており、スデニ全力を出し切っていたものと「体感」していたのだ。
様々な「威信」のかかった試合で、ムチをあてれば「久軍号」は余力を振り絞って、最後の障害を乗り越えていたかもしれない。
しかし城戸は「久軍号」の体の方を気遣った。
審査員の中には静かに「退場」する人馬の姿に、思わずモライ泣きした人もいたという。
城戸選手は「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。久軍には気の毒なことをした」と語っている。
こういう言葉は選手自身の名誉ダケを考える人間なら、言えない言葉ではなかろうか。
二年後にアメリカ「人道協会」は、「愛馬精神」に徹した城戸選手の行為を讃えて、二枚の「記念碑」を鋳造した。
一枚は1934年にカリフォルニア州のルビドウ山にある「友情の橋」に取り付けられ、もう一枚はリバーサイド・ミッションインという教会に保管された。
そして後者は1964年に日本へ贈られた。
馬術のヨッテたつ精神を具現した城戸選手が使った「鞍」とコノ「銅版」は、現在秩父宮スポーツ博物館に展示されている。
ところでコノ銅版には横書きの英文と、縦書きの日本語「情は武士の道」という文字が刻まれている。
英文の方を和訳すると、「第10回オリンピック馬術競技で城戸俊三中佐は愛馬を救うため栄光を捨てて下馬した。 彼はそのとき、怒涛のような喝采ではなく、静かなあわれみと慈しみの声を聞いたのだ」と記されている。
ところで戦争中に徴用されたおよそ100万頭の馬が、戦場に斃れたといわれている。
城戸俊三氏の多方面への働きかけによって靖国神社に「戦没軍馬の像」が建立され、現在も毎年4月7日の「愛馬の日」には「戦歿馬慰霊祭」が当社で行われている。
ちなみに4月7日は、「戦没軍馬の像」の建立除幕に日にあたる。
なお城戸氏は、1986年97歳で亡くなられた。

2012年のロンドン・オリンピック、「馬場馬術」個人に、日本のオリンピック史上最年長、71歳の法華津寛選手が出場した。
「馬場馬術」は、馬を操ってさまざまな演技を行い、技の美しさや正確性を競う。
法華津選手は、1964年の東京大会を含め、3回目のオリンピック出場で、前回の北京大会と同じ愛馬の「ウイスパー」を巧みに操りながら、人馬一体となった演技を披露し、会場からは大きな拍手が沸き起こった。
愛馬、ウィスパーの調子も、会場の雰囲気もよかったという、法華津選手とウィスパーは、息の合った繊細な動きを披露し、観客を魅了した。
円を描く場面など、3か所ほどミスがあったと言いながらも、法華津選手は満足した表情で演技を終え、ウィスパーの首もとをやさしくたたいて、愛馬をねぎらっていた。
ところで演技前に、場内のアナウンスで、法華津選手が1964年の東京オリンピックに出場したことが紹介されると、一部の観客からドヨメキが湧き起こった。
大会最年長のオリンピック選手に海外のメメィアも注目することとなり、各国の報道関係者がこぞってインタビューエリアに駆けつけた。
このうちブラジルのテレビ局の記者は、「次のオリンピックで、ぜひ私たちの国に来てほしいです」と話していた。
しかしこの法華津選手のオリンピック経歴で最もユニークなことは、1964年に東京オリンピック出場から、2008年の北京オリンピック出場までの48年間に様々な「紆余曲折」があったことである。
法華津選手が馬術を始めたのは12歳の時にサマーキャンプで馬に乗ったのがきっかけである。
元外交官で極洋捕鯨の社長だった父親に頼んで、当時一部の特権階級だけが入会を許されていた「東京乗馬倶楽部」に加入した。
慶応大学の学生時代から選手として数々の大会に出場した。
1964年に開催された東京オリンピックに出場し、障害飛越個人40位、同団体12位の成績を残している。
法華津選手は大学を卒業後、日本石油に入社したが東京オリンピック出場後に日本石油を退職し、デューク大学大学院へ留学した。
帰国後は外資系の製薬会社にツトメ、1981年から同社傘下の会社の社長に就任し、2002年に退職している。
会社時代にも、毎朝5時に起きて馬に乗り、それから出社していたという。
35歳のときに目の衰えを感じ、「馬場馬術」に転向したが、1984年に開催されたロサンゼルス・オリンピックは名実共に「ホケツ」になってしまい出場できなかった。
さらに1988年のソウルオリンピックでは「出場権」を確保したものの、愛馬が出国検疫においてウイルス陽性反応を示してソウルへ輸送不可となり、出場を断念した。
その間実業家としても活躍していたが、定年退職後に一念発起してオリンピック「再挑戦」を決意し、2003年から家族を日本に残し「単身」でドイツ・アーヘンで「馬場馬術」の修業をしたという。
そしてツイニ2008年開催の北京オリンピックでは、ウィスパー号とペアを組み、馬場馬術団体、同個人で出場した。
馬場馬術個人では一次予選落ち、団体では9位の結果であった。
ところで「法華津」という姓は非常に変った名前だが、戦国時代に伊予国南部で活躍した海賊「法華津」氏に由来するという。
祖父は愛媛県宇和島市出身で天然ゴム栽培業の社長、父は奉天総領事館、ベルリン大使館勤務を経て外務省調査局長をツトメている。
妻の方も執権・北条時宗の子孫だという。

数年前、個人的に宮崎県の都井岬に旅したことがある。JR串間駅でおりて一日ニ本しかないコミュニティバスに乗り40分ぐらいで着く。
海岸と灯台、草原と馬のコントラストが素晴らしく、何度でも来たくなる場所だった。
帰りは、再びJR線で大隈半島の志布志に夜に着き、そこで宿泊した。
コンビナート開発の為の埋め立てをしており、意外にも人通りが多い街だった。
假屋千尋(かりやちひろ)は、この志布志で生まれた。農家の四男であり成績は優秀であったが、経済的に進学は困難で馬の種付けの見習いとなった。
しかし、貧しい生活を苦にせず、いつも穏やかで、人から頼まれれば、決して断ることのない優しい男だったという。
そして、何より動物が好きで、特に馬を愛した。
1934年、農林省鹿児島種馬所へ入り、1938年1月、陸軍に徴兵され熊本へ行き、 さらに千葉県にある陸軍野戦砲兵学校へ入校した。
分解した大砲や弾薬を馬で運ぶため、全国から馬の扱いに長けた人が集められていた。
假屋が陸軍の野砲学校へ入学できたのも、単に馬好きだったダケではなく優秀な人間だったことことを証明していいる。
実際に假屋はこの学校で最優秀の成績を収め、大尉で中隊長代理だった朝鮮王族の李公の「馬番」に任命されている。
日中戦争が拡大するにともない、假屋は馬とともに戦線に送り込まれた。
分解された砲だけでも1トン、弾薬も入れると2トンを運ぶ。地面がヌカルんだ場合など、馬には相当の負担がかかった。
同じ部隊にいた人は假屋が馬をサバク姿をよく憶えていた。
「ある時、川沿いの道を行軍中に馬が川へすべり落ちた。すると假屋軍曹が、すぐに飛び込んで馬を引き上げました。 馬は耳に水が入るとだめなので、手で馬の頭を高く挙げて、そのままの形で泳いで対岸まで行った。 馬に玉が当たって処分しなければならない時は、本当に泣きながらやってました」と。
1932年10月、5年間の兵役が終わり除隊し鹿児島松山村へ帰郷したが、カツテ所属した隊はソロモン諸島のブーゲンビル島へ転進し、約8割が戦死したことを知った。
その後、種馬所時代の先輩の娘と25歳で結婚して二人で福岡県小倉へ出て、陸軍兵器補給廠で工員として働いた。
長男が生まれたが喜ぶもつかの間で肺炎で死去した。終戦後、夫婦で鹿児島県松山村へ帰郷し、農作業のかたわら「種付け師」の仕事を始めた。
しかしその妻も腹膜炎で25歳の若さで死去した。
生きる目標を失い意気消沈する假屋であったが、周囲の薦めで再婚することができた。そして生まれたのが美尋(よしひろ)であった。
1950年に朝鮮戦争が勃発し、假屋は警察予備隊に誘われたが断わった。息子の美尋が小学校の頃、假屋が馬に乗って授業参観にきたため、生徒は騒然となり、それ以来美尋のあだ名は「種馬」となったという。
しかしそのうち、耕運機が普及しだし「種付け師」は廃業となったが、何組もの人間の「縁談」をマトメルなど面倒見のよさを発揮した。
息子の美尋は東京の大学へは自力で行くこととなり、1969年3月25日、都城駅にて父親は息子に1万円だけ渡した。
その時、假屋は息子に「いま我慢すれば、きっとよか日がくる」と励ました。
息子の美尋は大学卒業後に芸人になるが、マッタク芽が出ずに司会業などをして食いつないだ。
1997年4月2日、假屋千尋は耕運機に乗っていて、耕運機ごと4mほど転落して死亡した。享年79歳であった。
それから5年後、息子・美尋は「綾小路きみまろ」の名で爆発的にブレイクした。
旧知の人々は、「綾小路きみまろ」の語り口は、父假屋千尋にそっくりだと証言する。
そして「馬のたてがみ」風のヘアスタイルも、昔「種馬」と呼ばれた名残かと推測される。

ところで同じロサンゼルス大会でウラヌス号を駆って「金メダル」をとった西竹一は、同じ大会に出場して棄権した城戸俊三とは対照的な生涯を歩むことになる。
ロサンゼルス大会から13年間を経た1945年3月、西竹一中尉は、硫黄島で第26戦車連隊長として、アメリカ軍の「総攻撃」に対峙していた。
西竹一は「男爵」であり、海外では「バロン西」の名前で知られていた。
この時アメリカ軍は「バロン・西」の存在を知って「投降」を呼びかけた。
しかし西隊長は玉砕の道を選んだのである。
西はこの時42歳であったが、アルジの戦死を知ってか知らずか、愛馬ウラヌスはその1週間後に東京で死んでいる。
ウラヌスは、西のちょうど半分の寿命で26歳、馬としてはかなりの高齢であった。
西竹一は1902年7月12日、東京・麻布で男爵・西徳二郎の三男として生まれた。
東京府立一中、陸軍士官学校を経て「騎兵第一連隊」に入隊し、そこが西氏が馬との出会いであった。
西は豪快で自由奔放な男だった。馬に乗って上官が運転している車を飛び越えたという「武勇伝」を残している。
そのうえ経済的に豊かで多趣味だったため、英国製の服を着てサイドカー付きハーレー・ダビットソンを乗り回したり、カメラや銃にずいぶんと凝ったりしていた。
それでいて社交性もあり、終戦間際に吉田茂の私設秘書としてマッカーサーと対等に渡り合った車好きの白州次郎を思い起こさせる人物である。
或る時、イタリアの「騎兵学校」に留学していた同期生から「イタリア人も乗りこなせない、とんでもない馬がいる」という話を聞き、私費を投じて体高1.8mもの巨大な馬を手に入れたのである。
これが西の愛馬、「ウラヌス号」であった。
西氏がイタリアでウラヌスに初めて会ったとき、ウラヌスは普段は気性が荒い馬だったが、すぐにブルルッ・ブルルルッと鼻を鳴らしながら西氏の目の前に歩み寄りすぐにナツイタという。
そしてすぐに西氏の背中を鼻先でコスッタリ軽く食んだりして「親愛の情」を見せた。
西氏とウラヌス号はお互いに「一目惚れ」したのである。
西氏は1932年のロサンゼルス大会の馬術「大障害」で金メダルをとるという偉業をなした。
そして歳月を経た1944年に西氏は日本陸軍の戦車第26連隊長として硫黄島(東京都)に着任した。
西氏は硫黄島が自分の墓場となるのを予感し、硫黄島に行く少し前に年老いたウラヌス号に久しぶりに会いに行った。
そして、ウラヌスのタテガミ一握り切り取って「お守り」として軍服の下にシノバせ、硫黄島に向かった。
翌年の1945年3月17日、硫黄島で壮絶な戦争があり、日本の陸海兵約2万2千人のうち約千人の捕虜以外全滅 し、アメリカ兵もまた2万人余りの死傷者を出した。
つまり硫黄島は「玉砕の島」と化していたが、西氏も最期を覚悟していた。
そんな時、アメリカ兵のダレソレから「バロン西」への投降の呼びかけがあったという。
しかし、西氏は地下壕の中で自決して絶えた。
そして、西氏が死亡してから6日後、日本に残っていたウラヌス号は老衰により主人の後を追うように死亡した。
ロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得した西竹一と、途中棄権した城戸俊三のコントラストには興味深いものがある。
我々は、昭和天皇の乗馬姿を写真で見ることがあるが、昭和天皇と皇太子(現在の平成天皇)に、乗馬の指導にあたったのが一時宮内省にいた城戸俊三氏であった。
ソノ昭和天皇の敗戦の「玉音放送」がもう少し早ければ、バロン西の硫黄島での玉砕もなかったに違いないなどと、歴史の「明暗」の深さを感じるところである。