栄光と奈落

「幸福な顔はどれも同じだが、不幸な顔はそれぞれおもむきが違う」とはトルストイの言葉である。
というわけで「人の幸せ」よりも「人の不幸」に興味がある。
別に、他人の不幸をダシに楽しもうというツモリはなく、誰かの「不幸せ」を詮索する趣味があるわけではない。
ただソレが、人によってはドウシテモ埋められない「何か」を浮き立たせるように思うからである。
一昨日、ホイットニー・ヒューストンが亡くなった。
世界的栄光の主人公の裏面のもうひとつの「絶望 」を見たような感じがするが、それは数々のキラ星達が同様に陥ってきたようなものと思われる。
エルビス・プレスリーからジャニス・ジョップリン、マイケル・ジャクソンと続いたアメリカの「系譜」である。
「天賦の賜物」を受けた人々が、栄光と同じくらい悲劇的なのは、宿命的であるのかとも思えてくる。
こういう人は静かに平凡に生きたくても、周りがほっといてくれないという面があるのも確かである。
ホイットニーはグラミー賞を6回も受賞するという栄光を重ね「世界の歌姫」と呼ばれたが、その栄光に比してDV、麻薬中毒、自己破産危機が襲った。
余計なお世話だが、ホイットニー自身がもしも自身の人生を振り返ったとしたら、人生は良きものだったと総括できるだろうか。
特別な才能アル人でも、「人生全般」の管理能力はアリキタリなもので、それ故ナカナカ「幸多き人生」というわけにはイカナイようだ。
すぐに頭に浮かぶのは夭折の天才・石川啄木だが、友人からの借金を遊興費に使い果たし、自分の結婚式にさえ欠席したクライの「自分勝手の人」だったから、実際に接したら、スリッパでタタキたくなるような人だったにちがいない。
人間というものはアタカモ、「過分な栄光」を受けることが許されていないかのようだ。
栄光の頂点にある人間を、あまりにもタイミングよく(悪く?)、「奈落」が襲う。
絶頂の時、様々な「恥辱」や「汚点」が露呈されて苦しめられるのは、実によく見かけることだ。
最近ではレコード大賞をとったAKB48のリーダーもシカリで、これはもう「法則化」してもいいくらいで、「栄光(E)と奈落(N)」の「抱き合わせ法則」とでも名づけたくなる。
それは、「神のごとく」讃えられる人間をホボ確実に襲う法則である。
旧約聖書の詩篇に、「主よ、彼らに恐れを起こさせ、もろもろの国民に自分がただ、人であることをしらせてください」とある。
この世界を創造された神は、人間がイタズラに「栄光の座」にすわることを、あまり好まれないようだ。
最近亡くなったなったスティーブ・ジョブスは、iPHON4Sの正式発表が行われたマサニそのタイミングで「死」に呑みこまれていってしまった。
死を真近にして通帳「残高」の数字を眺めて、「ああ私は幸せで、なんと有意義な人生だった」と思える人は、アンマリいないだろう。
死んでしまっては、自分の業績も財産も他人が楽しんで使ってしまうだけだ。
そういう死の「不条理」を庶民よりも深く知り、それと戦うことは、この世の「栄華」を極めた人間のテーマでもあリ続ける。
秦の始皇帝が「不老長寿」の薬を世界中に求めたり、エジプトの国王が、「死後の再生」を願ってミイラ化させたりするのは、そうした「不条理」との戦いを物語っている。
普通の人にとっては、こうした「不条理」との「戦い」も、死を忘れるくらい忙しくする事ぐらいだろう。
人生を簿記に例えて、幸せを「貸し方」・不幸せを「借り方」で評価すると、自分の人生に満足して心おきなく死ねる人は、最後に「余剰」が多少でも残った人といえるのかもしれない。
しかし観察するところ、ドンナに奮闘努力して世の中に貢献したり、また一時的ナ栄光に輝いたとしても、その功績を自ら喰い尽してしまたっり、病魔に奪われたりして、多くの人はプラマイゼロぐらいで、死んでいくのが一般的な姿ではなかろうか。
「人生帳簿」で見る限りは、人は人が思うほどには大きな「差」があるわけではない、と思う。

最近のテレビドラマ「運命の人」の妙な連想から、一人の民主党の議員がハマッタ「罠」について思い起こした。
いわゆる10年ほど前に起きた「ガセメール」事件で、この議員は顕示欲に過ぎた人間の「悲劇」を典型的に示している。
いわゆるブラック・ジャーナリズムから入手した「堀江メール」のコピーを入手した民主党・永田寿康議員が、堀江氏の衆院選出馬に関して、当時の自民党幹事長の次男に対し、選挙コンサルタント費用として数千万円の振込みを指示したメールが存在すると国会で追求した。
ところがこのメールは「ガセネタ」で永田議員個人のミスにとどまらず、民主党のチェックの甘さを露呈させさせ、民主党への信頼の度合いを一気に低下させる結果となった。
永田議員は資産家に生まれ、東大工学部を卒業し客室乗務員と結婚し、結婚式は千葉マリン・スタジアム球場を借りきって行い、「寿」という人文字をつくり航空写真で撮らせるなどドハデなものだったという。
若くして国会議員に当選し、そして最も脚光を浴びるハズの代表質問の舞台に立つ事ができた。
その結果、政治の信頼を著しく失わせしめる「勇み足」を犯したため、懲罰委員会にかけられる前に辞職した。
再度、立候補しようとしたが民主党から相手にされず、親族の選挙区からの立候補もカナワなかった。
その後も親族関係の会社で仕事をしたがどれも長続きせず、離婚問題や入信していた宗教団体とのトラブルなども重なり、次第に精神に変調をきたすようになったという。
永田議員は2009年1月に親族が経営する北九州の病院から飛び降り自殺している。
ちなみにこの年、民主党政権が実現している。
医者である永田氏の父親は息子の葬儀に際し、今までの経験は40代50代になった時に智恵と経験として花ひらくと信じてきた、マサカ死ぬとは全然思わなかった、と語った。
結局、永田氏の場合、家族や親や所属政党に多大の「借り」を返せぬままに、逝ってしまったということである。
今から40年ほど前に37歳で自ら命をたった天才CMプロデューサー兼モデルの杉山登志の死も、記憶の中で「衝撃的」だった。
最近杉山氏の「伝記」が出版され、モウひとつの「不幸せ」のタイプを知った。
CM界では数々の栄光を手にし「天才」「鬼才」の名をホシイママにしたが、洗練されたコマーシャルを作っている一方で、社内にはいろいろゴタゴタがあったと伝えられている。
その杉山氏が残した遺書には、次のようなことが書いてあった。
「リッチでないのにリッチな世界など分かりません。
ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません。
夢がないのに 夢を売ることなどは……とても……嘘をついてもばれるものです」
これが数々のコマーシャルで、最も「先鋭的に」時代を表現した人物の「最後の言葉」である。

大概「この人を見よ」としてタイトルになる人物は「偉人」と相場がきまっているが、御本人も語ることができるようになった今、様々な意味をこめてケンチャンシリーズの有名な子役だった宮脇健氏をあげたい。
今や50歳を過ぎた宮脇健氏は、40年ほど前はブラウン管では「日本一」幸せな子(役)だったが、実の家庭はスッカリ崩壊してしまった。
ブラウン管の背後では、ケンちゃんに付き添って朝から晩まで世話をする母親がいた。
日本一有名な息子を持った父親は教師業のかたわら、広報活動に精を出していた。
そして、全く家族から忘れ去られた感のある「実の兄」がいた。
時の経過と共に、家族はジワジワと崩壊していった。
父の浮気と両親の離婚、兄の自殺未遂、多額の借金に自宅も手放すアリサマとなる。
何かが少しずつ狂い始めていくのを感ずきながらも、ケンチャンは殺人的なスケジュールをこなしていった。
ケンちゃん自身も今では想像も付かないほどの「大スター」扱いに正常な感覚を失っていった。
数十万円のお小遣い、気に入らないスタッフをクビにする、ロケでホテルのVIPルームに宿泊するなどし、現金でベンツを買いに行くこともあったという。
思うに、宮脇家の実際の姿を描いた「裏けんちゃんシリーズ」でも、結構視聴率が稼げたのではなかろうか。
それでもある意味、ケンちゃんは「幸運」だった。そして「偉く」もあった。
それは自分の生活の異常さに気がつくチャンスが与えられたからだ。
子役から大人の役になると、誰も相手にされなくなり、仕事もなくなった。
山のような借金をかかえ、転職も35回以上したが、結婚し平凡な家庭の生活に帰ることができた。
つまり人生帳簿に「黒字」をつけられるメドがようやくタッタということだろう。

ダニエル・デフォー原作の「ロビンソン・クルーソー」という本がある。
ドイツの社会学者マックス・ウエーバーは、この「ロビンソンクルーソー」の人物像に、自由と独立自尊の「近代人の原型」を見いだしたという。
この小説の中に「ロビンソンの帳簿」というのがあるらしい。
ロビンソンは、まるで「複式簿記」の精神的応用によって、「絶望」を「希望」に変えていく。
簿記では、借方と貸方が一致するのを「貸し借り均等の法則」というが、これを人生帳簿に転用れば、前述の「EとN」抱き合わせの法則にも、通じるものがあるのではなかろうか。
ロビンソンクルーソーは、ブラジルで農園経営を4年間やっていた。そして27 歳になった時、黒人奴隷の捕獲のためにギニアの海岸を目指して乗りだすのだが、ハリケーンのために遭難し、ブラジル北方の無人島に漂着する。
無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、生活上の難問を次々と解決していく。
その心の悩みも、同じ手際で解決するのだが、その手法に「近代人」を予感させるものがある。
それは、難破船から持ち出した紙とペンで、「貸借対照表」をつくることだった。
つまり自分が陥った「苦境」を簿記の形式で冷静に検討する。
否、実は、無人島生活前のプランテーションの経営や奴隷貿易から、無人島を脱出後の裕福な家庭生活まで描いた長大なこの小説は、どの事件をとっても、もとで(資本)がいくらでその結果いくら儲かったというポンド計算で占められた壮大な「簿記小説」であったといってよい。
事件はことごとく、遭難とその解決、投資ともうけ、というストーリーに要約される、いわば「企て」の精神でみなぎっている(らしい)。
ロビンソンが簿記でいう貸方と借方といった具合に、自分が「恵まれてている」点と「苦しんでいる」点とを、公平に次のように「対照」してみた。
すると「借方」の方は、
×おそろしい孤島に漂着し、救われる望みはまったくない。
×全世界からただ一人除け者にされ、いわば隔離されて悲惨な生活をおくっている。
×全人類から絶縁されている孤独者であり、人間社会から追放された者である。
×身にまとうべぎ衣類もない。
×人間や獣の襲撃に抵抗するなんらの防禦手段ももたない。
×話し相手も、自分を慰めてくれる人もいない。
次に「貸方」の方は、
○他の乗組員全員が溺れたのに、私はそれを免れて現にこうやって生きている。
○自分一人が乗組員全員から除外されたからこそ死を免れたのだ。奇蹟的に私を死から救ってくれた神は、この境遇からも救いだすことができるはずだ。
○だが、食うものもない不毛の地で餓死するという運命を免れている。
○さいわい暑い気候のところにいるので、衣類があってもまず着る必要もない。
○うち上げられたこの島には、たとえばアフリカの海岸でみたような人間に害を加える野獣の姿はみられない。
○神が浜辺近く船をおし流してくれたため、多くの物資をとりだすことができた。
ロビンソンは、問題項目の一つ一つについて○×を対照し、借方での損失と思われるものを粘りづよく検討することを通して貸方の方でそれに見合う「資産」の「超過分」を見つけだそうと努力している。
そして、次のような「結論」を導き出した。
「この世のなかでまたとないと思われるほど痛ましい境涯にあっても、そこには多かれ少なかれ感謝に値するなにものかがあるということを、私の対照表は明らかに示していた。
世界中で最悪の悲境に苦しんだ者として、私が人々にいいたいことは、どんな悲境にあってもそこにはわれわれの心を励ましてくれるなにかがあるということ、良いことと悪いこととの貸借勘定では結局貸し方のほうに歩があるということ、これである」。
一般に人間は、自分の欠けた分やナイモノに目をむけがちであるが、ロビンソン流の「貸し借り対照表」の効用は、「出来ること」や「もてる物」に気づかせ、苦境打開に「前向き」になれるということである。
それと、マイナスの裏面には必ずプラス面も付随していることに気づかせる「効用」がある。
サラニより深い次元でいえば、自分が様々な面で「負っている」ことに気づかせることにも繋がる。
かなり唐突だが、石垣りんの印象的な詩を思いおこした。
「食わずには生きてゆけない
メシを 野菜を 肉を 空気を 光を 水を 親を きょうだいを 師を 金もこころも
食わずには生きてこれなかった
ふくれた腹をかかえ 口をぬぐえば
台所にちらばつている にんじんのしっぽ
鳥の骨 父のはらわた
四十の日暮れ」

ロビンソン・クルーソーの物語は、孤島に一人流されるという運命と戦った一人の男の物語だが、ロビンソンの「最大の資産」が、「神への信仰」であることをも示している。
それは1世紀に何度も生命の危機をカイクグッテ、「異邦人伝道」の使命を一人果たしたパウロを想起させるが、そのパウロは信徒にあてて次のような手紙を書いている。
「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇にも処する秘けつを心得ている。
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4章)。
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも、真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず。悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている」(第二コリント6章)。
パウロの信仰は、人間によってはけして埋められない「何か」を、もうひとつの角度から指し示しているように感じられる。