新トイストーリー

テレビで昔の映画「トイ・ストーリー」を見ながら、音楽の教科書に載っていた「クラリネットの歌」という曲を思い出した。
パパからもらった貴重なクラリネットを壊しておきながら、よくもまあアンナに陽気に歌うことができるものだ、と。
「♪とっても大事にしてたのに~。ドーしよう ドーしよう♪」ナドと、反省のカケラさえ感じられない。
物はモノ言わず、我々によってイイヨウに「オモチャ」扱いされて捨てられる。
オモチャの世界を描いた「トイ・ストーリー」は、モノが「モノ扱いするな」と叫んだり、訴えたりしていることを伝えている。
「悪ガキ」どもに手荒く扱われたオモチャたちは、「悪ガキ」どもを退治するという目的を達し終えた後に、ヨウヤク「鎮まって」本来のモノに回帰する。
ジム・キャリーの名を世に知らしめた「マスク」という映画にせよ、打ち捨てられた「古代のお面」が、人間を道ズレにして暴れだす物語だった。
「マスク」も「トイ・ストーリー」同様に、モノが反乱を起こしたストーリーとヨメなくもない。
モノも人間もと同じく「正しい評価」をうけず、「軽々しく」扱われると、暴れ出す。
そのことを何よりも強く示したのが、福島「原発事故」ではなかったか。

ところで、我々のモノに対する意識を根底から新たにしたのが、最近のニュース「ヒッグス粒子」の発見である。
「生態系の謎」とか「生命の神秘」ということはシバシバ聞くが、「物質が存在する」ことの不思議はホトンド意識したことはなかった。
物質に質量があることは当たり前だが、「質量がどのようにして生じ、存在しているか」ということは未だ解明されていなかったのだ。
ニュートンの「万有引力の法則」の発見で、人類は物質に「重さ」があることがわかった。
しかし物質の最小の単位である質量をもたない電子やクオーク等の素粒子が、何故質量を持つのかについての説明がついていなかったのだ。
これを宇宙誕生にマデ遡ると、「質量のない」光の粒子からドノヨウニして「質量のある」物質が誕生したのかという問題である。
そのことを明らかにするために、イギリスのエディンバラ大学のピーター・ヒッグス名誉教授が1964年に存在を提唱したのが「ヒッグス」粒子で、半世紀近く探索が続いていた。
発見されればノーベル物理学賞は確実とみられていたが、2012年7月4日、ツイニ欧州合同原子核研究所(CERN)が「ヒッグス粒子みられる新粒子を発見した」と発表した。
全長30キロの直線のパイプを地下に埋めた巨大装置「リニアコライダー」(線形衝突型加速器)で、プラスの電気を帯びた粒子「陽電子」と「マイナスの電子」をそれぞれバイブの両端から注入して、中央部に向かって「光速」近くにまで加速させる。
そして両電子を衝突させることにより、その際の膨大なエネルギーで宇宙が「ビッグバン」で誕生して「約1兆分の1秒後」の空間を再現するものだという。
こんなスゴイことをやってのけたCERNであるが、実はホームページ言語である「HTML」を開発したのもコノ機関で、我々も身近なところで随分お世話になっている。
さて体重計に乗ると「ため息が出るような~」と歌いたくなるように、ナゼ質量が存在するようになったか、つまりナゼ重さが生じたのか、というこを簡単に要約すると以下のようになる。
ビッグバンで宇宙が誕生した瞬間には、全ての素粒子に、重さの元となる「質量」がナカッタ。
それは、ヒッグス粒子と他の素粒子の間で「くっつく性質」と、「離れる性質」が釣り合っていたからでる。
ところが宇宙が急速に冷えだすと、ヒッグス粒子が、ヤタラ近くの素粒子にクッツキたがる性質を帯びるようになり、他の素粒子にマトワリつくこととなった。
誕生直後の高温の宇宙では、全ての素粒子が光の速さで運動していたにもかかわらず、ヒッグス粒子にマトワリつかれた素粒子は、スッカリ動きが鈍くなってしまった。
この動きニクサが「質量」と呼ばれることになったのだという。
わかったようで、ヤッパリわからないが、結局「ヒッグス粒子」のツンデレ的性格コソが「質量」を生み出したというわけである。

若かりし日、アメリカ・アリゾナ州のグランドキャニオン観光のツアーで、セスナ機から「インディアン居住区」を見たことがある。
陽の傾き加減によって岩肌の色の染まり具合が微妙に変化していくのが神秘的だった。
渓谷に抱かれた居住区に確かに人影が粒のように見えたのを覚えている。
アメリカには、アリゾナ州、ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州の4州にまたがる「フォー・コーナーズ」と呼ばれるところにナバホ族、ポピ族等のインディアンの居住地がある。
ホピ族は、アメリカ・インディアンの部族の一つでアリゾナ州北部のコロラド川沿いに住んでいる。
「ホピ」とは「平和の民」という意味で、マヤ文明の末裔が神に導かれ、現在の居留地にやってきたという。
そういえば最近、マヤの「人類の予言」が明らかになり、「2012」というタイトルで映画化されている。
「アメリカ・インディアン」と呼ばれるホトンドの部族がいずれも「祖先伝来」の土地を追われることを余儀なくされてきたが、ホピ族だけは、少なくとも2000年以上の長きに渡ってこの地に住み続け、あらゆる差別と迫害に耐えてきた。
そしてその伝統的な生きかたと偉大なる精霊から与えられたという一つ「予言の石板」を守りつづけてきた。
石板には、彼らの言葉で「第三の世界」と呼ばれるこの世界の始まりから「浄化」の日を経て、「第四の世界」と呼ばれる新しい世界が始まっていくまでのことが記されているという。
彼らは、常にホピ一族自身に起こる変化と、この地球の上に起こる出来事の変化を、その「石板」と照らし合わせながら見つめつづけてきた。
そしてこの「石板」には、日本に関わる予言も存在していたのだ。
この「石版」の内容が最近明らかになったのは、一人の日本人映画監督とホピ族との「出会い」によるものであった。
映画監督の宮田雪がインドに旅した時、「非暴力」による世界平和に一生を捧げた仏教僧と出会った。
その僧は宮田に「大地と生命を敬い、創造主への信仰に生きてきたネイティブ・ アメリカンの精神文明こそが、近代物質文明を変えるだろう」と語った。
その言葉に動かされた宮田は、1978年アメリカで行われたネイティブ・アメリカン自身による権利回復運動である「ロンゲストウォーク」に参加し、そこでホピの予言のメッセンジャーであったトーマス・バンヤッカ氏と出会ったのである。
彼らは、ホピの予言を世界に伝えることを自らの仕事としてきた。
そして宮田は約7年の歳月を経て「ホピの予言」というドキュメンタリー映画を制作したのである。
これによって、「ホピの予言」のことが世界にも知られた。
予言のなかに第一次と第二次のフタツの世界大戦と、ヒロシマ、ナガサキに投下された「原爆」がシンボルとして刻まれていたことが分かった。
原爆は、ホピの言葉で「灰のつまったヒョウタン」と表現されていたのである。
1948年に、ホピ族の村の太古から伝わる儀式を行う「キバ」という集会所で「緊急の会議」が開かれた。
世界がコノママ進めば、地球を破壊しかねない危険な時代に入ってしまうことを世界に伝えるため、その予言を世界に公開するべきかどうかを討議するために、ソノ会議は開かれたという。
そして四日間も続いた会議の中で、その解読された重大な教えと予言を外の世界に伝えるためにメッセンジャーが選ばれたという。
そのメッセンジャーの一人が宮田氏が出会ったーマス・バンヤッカ氏であったのだ。
実は広島市・長崎市に投下された原子爆弾の原料となったウランは、こうした先住インディアンの住む土地から採掘されたものである。
またホピ族に近いナバホ部族はソノ「創世神話」の中で、地下世界からのクレッジ(ウラン)は大地の中に留めておくべきもので、モシ解き放たれたならばソレは邪悪な蛇になり、災害や、死や破壊をもたらすだろうと伝えている。

人間が「原子」を取り扱うということは単に「環境を利用する」ということではオサマリきれない「何か」を感じるところである。
今日まで核以外のすべての技術は、極限すれば原子と原子、分子の結びつきの変化、つまり原子のマワリの「電子の変化」によって生じる、またはそうした変化を促すテクノロジーであった。
この「電子の変化」によって、日常生活に必要なエネルギ-は、工業的にアルイハ人体の中で、生まれたり消滅したりしている。
こうした技術の適用で様々な「現象「が起きるが、それは電子が反応するためであって、「原子核」ソノモノは少しも動かない。
ところが核テクノロジーはアエテ「原子核」に挑み、その「安定性」を崩すことによって膨大なエネルギーを取り出すという技術である。
そういう意味で「原子核」を操作し「原子力エネルギー」を引き出すのは、自然環境のヨッテ立つ「基本土台条件」を揺ルガスことを意味する。
それにともなうエネルギーが、微小な数グラムの物質が発するとは思えないほどに「膨大」であることが、この技術のアヤウサを何よりも雄弁に物語っているように思う。
原子力は根本的に「生態系」に存在しないエネルギーであり、裏をカエセば人間が自由気ママに使えば、イカヨウにも「荒ぶる神」ともなりうる。

昨年の原発事故の後に、哲学者の内田樹氏が「原発供養」とうことを新聞に書いていた。
長く膨大なエネルギーを生み続けた「原子力」に対して、もう少し「供養」する気持ちが必要だという。
日本人は確かに、自然を大きく変化させることに「畏怖」の気持ちを抱いているのだが、原子力のことについては「恐怖」の気持ちはあっても、「畏れ」や「感謝」とい意識が欠如していなかっただろうか。
日本文化の特質を「精なるもの」と内的交流(交信)する文化と捉えることも可能であろう。
日本人は長いこと「使い尽くして」お世話になった針や道具に感謝をこめて「供養」する気持ちをもっている。
これとても、自然物に霊威が宿ると意識する「アニミズム的」心性と無関係ではないかもしれない。
日本には「竹の精」「花の精」「雪の精」「木の精」などなど「精なるもの」との語らいという発想がある。
竹から生まれた「かぐや姫」、モモから生まれた「桃太郎」の話もそうした意識の延長であろう。
日本人は自然に対するときに「精なるもの」を人手で汚してはいけない、「生」(き)のままこそが一番である、と思う。
例えば、宮大工などの「精巧」な仕事を見るとクギを一本も使わず「木のみ木のまま」でモノをつくっている。
こういう「意識」というものは、人間の手が物質の「原子核」にまで入り込んでしまえば、マッタク失われてしまうものだろうか。
ところが原発に対しては恐怖が先行し、「ハレモノ」に触るように接している。
何しろ40年間、耐用年数を10年過ぎてまで酷使され、ロクな手当てもされず、安全管理も手抜きされ、あげくに地震と津波で機能不全に陥ったものである。
そうした原発に対して、日本中がまるで「原子怪獣」に向けるような嫌悪と恐怖のマナザシを向けている。
今まで便利な暮らしをありがとう、成仏してくださいと「感謝」しながら原発に向かう気持ちにはなかなかナレナイできた。
それは原発テクノロジーが、自然生態からアマリニ「遊離」するほどの「異形」と見えてしまうからだろうか。
それでは原発に対して、アンマリといえばアンマリである。
そう考えると「原発」が「荒ぶる神」となってしまったのも、無理からぬことだった。
正当な評価が与えられず、感謝の祈りをささげなければ、原発だってシズマリきれまい。

最近「ナノ物質」のことが新聞で取り上げられるようになってきた。
「ナノ物質」の特性は、サイズが非常に小さい(ヒトの毛髪の径の約1000分の1以下)。
サイズが小さいために重量当りの表面積が非常に大きい。
50ナノメートル以下の物質には、もはや物理学の一般法則は適用されず、電気的特性、磁気的特性、光学的特性、機械的特性、化学的特性などが同一成分の既存の物質と全く異なることがある。
以上の特性のために、ナノ技術には新たな「適用」の可能性が秘められているが、同時に従来のサイズでの物質の特性が分かっていても、ナノスケールでは全く役に立たず、危険な特性を含めて全てのナノ物質の特性は改めて実験を行って「確かめ」られなくてはならないものだ。
2004年7月の英国王立協会・王立技術アカデミー報告は、ナノ物質は成分が既存物質と同じでも、「新たな化学物質」として扱われるべきであるとした。
そして、ナノ物質の環境への影響についてもっと多くの知識が得られるまで、ナノ物質の環境への放出は可能な限り避けるよう勧告している。
しかし、現在、世界中どこの国においてもナノ技術製品は「規制の対象」になっておらず、「表示義務」もなく、安全が確認されないままに市場に出されている。
ナノ物質の特性である高い表面活性や細胞膜を通過する能力などが、健康と環境に「有害」な影響を及ぼす「懸念」が消えていない。
その「懸念」とは、例えば日焼け止め中のナノ粒子がDNAを損傷する。
ナノ粒子が実験動物の細胞に取り込まれる。
ナノ物質の一種であるナノチューブがラットの肺に有害影響を与える。
ナノ粒子は血液脳関門を通過する、ナノ粒子は胎盤を通過して母親から胎児に移動する。
カドミウム/セレン化合物ナノ粒子がヒトの体内でカドミウム中毒を起こす。
「ナノ粒子」の一種であるバッキーボールは魚の遺伝子機能を変更し幼魚の脳に損傷を与える、ナドナドである。

日本人は多神教的な考え方をして、宗教心のある者は、様々の災害や不幸に対して、「○○の神様」に願って「荒ぶる神」を鎮めようという ことで終わるのかもしれない。
そうした意識の表れが内田氏のいうところの「原発供養論」である。
一方、唯一神を信仰するものは、ナカナカそれでは終われない。
一体人間は何をしてきたのだろう。こうした「災い」によって、神は人間に「何」を伝えようとしているのかと考える傾向がある。
それは、原発事故の前年、職場の高層ビルの一室で冷房がききすぎて、近くのコンビニに「オデン」を買いにいく人々の姿であり、そうした姿をどこかヘンだと感じた人々が浴衣で道路に水をマク運動を広げていったことまで思い出す。
政界・官界・経済界の「原発ムラ」の人々を主人公とした「新トイストーリー」は、物質をオモチャ扱いにしてきた日本人の姿に「問い」を投げかけている。
人間の都合ダケで「物質の誇り」を傷つけることにアマリニ無感覚でいると、イママデ経験したことのない「物質の反乱」に出会わないともがぎらない。