2・25事件から

日本ではいくつかの「選挙区」の一票の格差がはげしく、特に最高裁が「違憲」としている区に対して、改善がなされるべく議論がカワサレてきた。
しかし与野党の話はマトマラズ、2月25日期限切れで、「違憲状態」に突入する。
コレは、立法府がみずからの「違法」を正せないというヒトツの事件である。(=2・25事件とよぼう)
「選挙区の定員削減問題」は、党の消長を左右するうえ、日本のような「和の社会」では、「痛み」をともなう議論では結果を出すのが難しいと、以前書いたことがある。(→「涙、サプライズ」)
予想があたり、「ものごとを決められない政治」を国民にサラス結果となった。
国会の「ネジレ」という事情があるのかもしれないが、日本社会はソレホド優れたリーダーシップがあるわけではないのに、こんな事態はアンマリなかったような気がする。
そのせいか最近、「国対政治」という言葉が、妙にチラツク。
「国対政治」とは、国会において与党と野党の「国会対策委員長」同士が国会本来の議論の場である「議院運営委員会」をサシオイテ、「裏面」での話し合いを行って国会運営の実権を握った事態をサズ言葉である。
具体的にいうと、与党の自民党が社会党・公明党・民社党などの党の国対幹部と頻繁に連絡を取り合い、「機密費」を原資として料亭での接待や金品の授受などの「裏取引」を行って、「円滑な」国会運営を図ろうとしたものである。
円滑とはいっても、「強行採決」や「乱闘」などを含めて事前の「筋書き」通りに行うことで、双方の「支持団体」にメンツが立つようにしたのだ。
悪名高い「国対政治」だったが、こうしたイワバ「談合政治」が、反面では「ものごとを決められない」事態を回避してきたともいえる。
ところで、人脈というのは意外な人物が同級生あったり先輩・後輩であったりして、「非公式」(インフォーマル)な関係がモノイウので、ソコヲしらなければ「真実」が見えてこない。
「国対政治」の場合、国対委員長どうしが頻繁に「密室」で会うち仲良くなって、インフォーマルかつアブノーマルな関係が出来上がっていたのだ。
有名なものでは、金丸信(自民)と田邊誠(社会)、渡部恒三(自民)と大出俊(社会)、梶山静六(自民)と村山富市(社会)などがソウデあったようだ。
ナラバ、あの委員会での「舌鋒鋭い代表質問」は、「議長席に詰め寄る姿」は一体ナンダッタのか、と問いたくなる。
1993年細川「非自民」連立内閣以来、「密室政治」や「談合政治」という従来の批判をうけて、「国会対策委員」というポストをなくして、「国対政治」は影を潜めたともいわれている。
ただし、この「国対政治」は、「副産物」というにはアマリニ大きな「歴史的転換」をもたらした。
自民党・社会党・さきがけの「連立」による村山内閣の成立である。
こんな国民の誰も予想できなかった「ウルトラE」政権が実現したのは、実は「密室」でセッセと築いた自民党と・社会両との「太いパイプ」によるものだったといってよい。
ところで、このたびの「選挙区の一票の格差問題」の期限切れで、このママの状態で解散・総選挙となれば、選挙区の「違法状態」のまま、選挙が行われることになる。
では、その選挙結果の「有効性」が問われることにはナラナイのか。
与野党とも、どうせ司法はスデニやってしまった選挙にまで「無効」とはいわないだろうと、タカをくくっているのかもしれない。
日本では「司法」が立法権や行政権の前に立ちハダカル場面は、極めて少ないからだ。
「立法権」との関わりでいえば、最高裁は、日米安保条約も自衛隊も「統治行為論」つまりは司法が決定するにはあまりにもデカすぎる問題であり、国会で話し合ってキメテクレと、判断を回避してしまった。
つまり最高裁はいまだに自衛隊も日米安保条約も、「合憲」とも「違憲」ともイイキッテいないのだ。
また「行政権」との関わりでいえば、内閣が最高裁の人事権を握っているので、行政裁判ではヨホドのこことがないカギリ、最終的には政府側に偏った「判決」になってしまう。
日本社会では官僚が様々な規制を行っているので、トラブルが生じた場合には、政治家を通して官僚に解決を求める図式が形成されているため、司法にアマリ「紛争解決」の役割が期待されて来なかったのだ。
そして司法の弱さは、「鎮守の森」の育成にとって好条件であったのだ。

ところで、「行政権」の「司法権」に対する優位の「淵源」を溯れば、1874年の「佐賀の乱」(江藤新平の乱)にいきつく。
明治の「転換点」といえば、岩倉遣外使節団の留守中、西郷隆盛らを中心に「征韓論」を決定したが、大久保利通らはイソギ帰国し「内地優先」を主張して決裂し、西郷隆盛らが下野した(明治六年の政変)。
それが1877年西南の役に繋がるのだが、その3年前にあった江藤新平の「佐賀の乱」は西南の役に隠れてあまりメダタない。
岩倉使節団が外遊する間、初代の「司法卿」に就任したのが江藤新平である。
江藤は国政の基本方針、教育・司法制度など、明治国家の法体制構築に多大の実績を残した。
学制の基礎固め、四民平等、警察制度の整備など推進し、司法制度に多大の貢献をした。
その実績からすれば、「内務省」を握る大久保利通と「司法省」を握る江藤新平は、「両雄」といってよいくらいの存在であったのだ。
江藤は、三権のうち「司法権の自立」をとりわけ重視したために、「司法権=行政権」と考える政府内保守派から激しく非難された。
そしてこれが大久保・江藤の確執の「核心」だったのである。
江藤は人権意識や正義意識の高さでは、閣僚の中でも群をヌイテおり、無視できなかったのが長州藩閥の汚職事件(山城屋事件および尾去沢銅山事件)であった。
薩摩の大久保は、長州の伊藤博文らと「薩長藩閥」を形成しており、こうした汚職問題を追及していた江藤をメノカタキにしていたという背景がある。
だとすると、明治六年の政変の「核心」の一つはこの江藤の放逐にあったのだ。
江藤が下野すると、佐賀藩(肥前)ではスデニ旧士族の不満が高まっており、江藤をカツイデして反政府の「急先鋒」となっていく。
しかしイカンセン、佐賀における反政府軍の「軍備」は不足しており、わずか二週間で鎮圧された。
そして江藤は自らが整備した警察の「写真手配制度」のチカラで、逮捕されたのである。
江藤は法にノットッテ東京での裁判を求めたが、大久保はそれを無視して佐賀裁判所「単独」で裁判を行い、タダチに刑が執行された。
驚くべきことに、江戸の刑法が適用されて、江藤は刑場から四キロ離れた千人塚にその首がサラサレたのである。
大久保の江藤に対する個人的憎悪も多分に含まれたような残虐さであったが、「司法権」に対する「行政権」の優位は、この時に「決定」付けられたといっていい。
そしてソレは、今に至るまで続いているのである。

日本社会はもともと「裁判沙汰」を嫌い、我慢したり譲ったりしながら、社会を築いてきた。
裁判という「アリーナ」で紛争の決着をハカルのではなく、「鎮守の森」でヒソヤカニ決着してきた。
ちなみに、ラテン語の「アリーナ」の原義は「砂」である。
そこから「血を吸う砂を撒いた闘技場」の意味に転じ、古代ローマの「円形闘技場」のような施設をさす意味に転じたのである。
近年目にツクのは、アメリカが「鎮守の森」に分け入るべく、または「アリーナ」に転ずるべく日本の司法制度の見直しや改革を迫ってきており、「裁判員制度」や「ロースクール」設置をハジメとして、日本政府もソレナリに応えてきた。
「鎮守の森」は、「談合」をはじめとして、ソコデしか通用しない独特の「掟社会」ではある。
一方で、「何でも訴訟」社会は極めて「低効率」社会に堕すという側面があることを銘記すべきである。
裁判が日常化すると「紛争の処理」部分に相当な時間と労力をかけて、もっと「生産的」な分野に使われるべき時間と能力が、浪費されている。
訴訟社会アメリカでは、資力のある者(ディープ・ポケット)からカスメ取ろうと様々な訴えが起こり、企業者向けの「賠償責任保険」などで対抗手段を用意しておかないカギリ、会社の重役になって安泰でいようなどというのは、ムシがよすぎる。
華やかなサクセス・ストーリーの主人公は、しばしばアリーナに引きずり出されるのである。
訴訟洪水を前に、かつてのアメリカンドリームは、クスミつつあるのだ。
TPP参加などで、今や日本社会の環境も大きく変りつつある。
日本が司法面でアメリカにムヤミに追随することは、伝統的「紛争処理」方法を放棄することにもにツナガリかねない。
しかしイマダ日本の田舎に点在する「鎮守の森」は、「伝統」の残存をシンボリックに表しているようにも思える。
近年アメリカ発の「司法改革の嵐」が襲ってきて改めて知ったことは、日本社会の「鎮守の森」の深さであり、時には森で飼ってきたチンジュウだって「飛び出し」てきたりするのだ。
そしてそれは政界・官界バカリではない。

日本人が「会社」という場合のソレと、「会社法」でいう「会社」とは、随分と開きがあることを、このたびのオリンパスの「粉飾決算事件」が教えてくれた。
それでいくと、カジノにハマッタ大会社の御曹司なんかも、「鎮守の森」のから飛び出したチンジュウみたいなものかもしれない。
オリンパスの「不正」を正したハズの外国人社長の行為は、ちょうど明治政府内の江藤新平みたいに、会社の従業員ばかりではなく、株主に対しても損害を与えたとムシロ「否定的」に受け止められているようだ。
粉飾決算の罪は、それまでの歴代の取締役が負うべきスジのものだが、株主からすれば株価を下げたという意味で、この外国人社長こそ「背任罪」にあたるというのが、ホンネかもしれない。
つまり社会的に見た「正義」が、日本の「鎮守の森」に入り込むと、外科手術における「拒絶反応」みたいなことをヒキオコスのだ。
そもそも、日本とアメリカでは、「コミュニティ」という言葉の概念がカナリ違っている。
アメリカのコミュニティは、何もかも「新しい」人間がより集まって生きている人々を中心としてコミュニティを作るのであって、いわゆる「人間中心のコミュニティ」である。
しかし日本人のコミュニティはそういうものではなく、その地域には人々と一緒に氏神様があり、他の神様 やお地蔵さん、時には先祖の墓もある。
つまり、先祖や神様と一緒にあり、「死者」や「氏神」までもがモノイウのが日本のコミュニティである。
だから先祖達が守ってきた伝統や慣例を、たとえ社会的正義の名においてもクツガエしてはならない。
企業の社会的責任や企業倫理などは昔から聞いた言葉であるが、近年「情報の開示」や「透明性」が大きなポイントとなっている。
企業がそういう「おおやけ」度を増したのは、巨大な株式会社がどの業界をも支配(寡占)するといったことは無関係ではない。
今日の株式会社は、最大株主でさえもわずか数パーセントを持株を持てないほどに巨大化しており、 多くの「利害関係者」が存在しているのが現実である。
つまり株主と従業員からなる「企業観」はもはや通用しなくなってきているということである。
大企業は、誰のものでもない「公器」であるということであることは、東電の原発事故を思いおこせば十分であろう。
したがって従来の「企業は誰のものか」というのではなく、ドコを向いて企業は仕事をするのかが、問われているのである。
かつて問題化した西武鉄道のように、株式を公開した上場大企業であっても、「創業者一族」の財産相続の「手段」のような雰囲気さえある「公的交通」会社もある。
企業があたかも「中古品売買」のごとく売買される風潮のなかで、「企業統治」が問われるようになってきた。
日本では労働者がドイツのように「経営参加」するマデはないが、「労働組合」の幹部から転じて会社の経営陣に入ることケースが一般的に見られ、それは欧米ではマズあり得ないことである。
日本の会社はある種の「共同体」(ゲマイシャフト)であり、とうてい「株主」にだけ顔をむけて経営するわけには行かず、むしろ「従業員」の利益を第一にしてその「福利厚生」にも重視しなければならない。
そしてアメリカと対照的に、「株主総会」はカタチだけで済ます傾向がある。
「日本型経営」は、その本質たる終身雇用や年功序列などがクズレその特性を失いつつあるが、それでも今なお「特殊」であるということに変わりはない。
その最大の「特殊性」は「取締役」の位置づけということがいえる。
「取り締まる」を広辞苑でひくと、「物事がうまく行われるように、また、不正や違反のないように管理・監督する」とある。
日本では会社の優秀な人材は取締役にと昇進し、そのなかでも専務取締役・常務取締役と昇進して、最後に社長や会長もその中から選ばれるのが「常識」である。
しかしこれは極めて特殊な「日本的常識」である。
「取締り」の本来の意味は、株主の代表として、会社を「外から」監視するというものである。そういう役目だから、名前が「取締役」なのだ。
だから本来「取締役」というのは原則として、資本を出した「社外」の株主が派遣してくるものなのだ。
そこで欧米では、「代表取締役」も経営能力の優れた人材を連れてくるのが普通であり、「社内」から昇進させる社長ということはメッタにないの普通である。
また、株主の代表としての「監査役」も「社長の部下」が配置されるというのだから、マトモな「監査」ができるハズがないのである。
欧米の重役は、従業員はいうにおよばず「幹部社員」ともマッタクの別身分で、それが「階級制度」として定着している。
日本の社長が従業員と同じ食堂で昼食をとる姿を「日本的経営」のワンシーンとしてしばしば紹介されるが、それは上記のような事情も背景としてあるのだ。
民主党は2009年の総選挙で「政治主導」の看板を掲げ、政策集で「健全なガバナンス」を担保する「公開会社法」の導入を約束した。
そして、「社外取締役」最低一人を義務付ける意向であった。
しかし、産業界の多くが会社法による「社外取締役」の「義務付け」に反対しており、法律でたった一人の社外取締役サエも寄付けないという「鎮守の森」ブリなのだ。
そこで最近では、「社外取締役」を法律で強制するよりも、東証の「上場規則改正」に任せるという案に傾いているという。
民主党が法律を作ろうとせず、東証の「規則改正」程度でオチャを濁すならば、これまた「マニュフェスト」違反ということになる。

日本の様々な「鎮守の森」の「正義」とは、コミュニティの永続的な存続が可能かが「規準」となった正義であり、それは「社会的な正義」(フェアネス)とカミ合わないケースも多い。
戦後アメリカをまねた司法が導入されたが、長く産業界にはびこる「談合」という「鎮守の森」の慣習を法的な問題としなかった。
また、学校教育の世界では、必修科目の裏側で「受験科目」を全国的にやっていても、それが長年問題視されることもなかったのも、ソレにあたるだろう。
明治時代の鎮守の森の伐採に大反対したのは、菌類学者の南方熊楠だが、今グローバリゼーションによって社会的な意味での「鎮守の森」伐採が行われている。
ところが、良きにつけ悪しきにつけ、日本の「鎮守の森」は想像以上に深い。
ただ本来の「鎮守の森」には神様がいて、そこに死者までも集うため、人々は厳粛な気持ちでソコニ臨んできたにちがいない。
少なくとも、隠れたことをご存知の神様に対し、顔ムケできないようなことはしたくないはずだ。
その抑制が働くか否かが、東京赤坂の料亭における「密室」との違いなのかもしれない。