死してもの言う

日本のノーベル賞受賞者の中で、一般人にも「意外」の感をもたせたのは、川端康成の受賞だった。
受賞者が三島由紀夫ではなかったことの意外感が、イマダに記憶の後ろ髪をひいているが、この個人的思いは当時の少なからぬ人々が共有したものではなかろうか。
二人に親しかったドナルド・キーン氏の後日談によると、この時のノーベル文学賞選考は、受賞した者と逃した者の双方に「悲劇」をもたらしたようである。
1968年10月17日、川端康成のノーベル文学賞受賞が決まった。
ドナルド・キーンは、川端が受賞するにふさわしい作家であることは認めるし、祝福したい気持ちは充分にあった。
しかし、それでも 「何かの行き違いではないか」と思ったという。
キーン氏が、三島が取ることを予想したのには、ソレナリの理由があったからである。
キーン氏にとって、スウェーデン・アカデミーがナゼ三島に賞を与えなかったという点について、イマダ「謎」となっている。
キーン氏は、スウェーデンの一流出版社の重役から「三島受賞」をホノメカされていたことに加え、あるアメリカの有力作家が「金閣寺」の翻訳を読み、三島を高く評価することをスウェーデン・アカデミーに伝えていたことを知っていた。
キーン氏は、このスジからの推薦が軽視されることはナイことも知っていた。
ちょうど村上春樹が「カフカ賞」を受賞して、ノーベル賞有力候補になったような感じかもしれない。
ところでキーン氏はノーベル賞の次に影響力を与える或る国際賞のアメリカ審査団のメンバーに選ばれていた。
この国際賞は、最も脂のノリキッタ時期にある作家の最新作に与えられるものだった。
キーン氏はザルツブルグで開催された選考会で、三島由紀夫を推薦することにした。
しかし、英国審査団の作家が推薦するフランスの小説家のものが強力な「対抗馬」であった。
この選考会でキーン氏は自分が推す三島の作品「宴のあと」をどのように語ったかを思い出せないが、氏の熱弁が他の審査団の委員たちに感銘を与えた手ゴタエを感じた。
しかし、残念なことに、第三候補者を推薦していたスペイン審査団が、三島の対抗場であるフランス人作家を支持するに転じたことにより、キーン氏の夢はクダカレてしまった。
しかしながらキーン氏の失望を知って、スウェーデンの出版社が「三島は間もなく遥かに大きな賞を獲得する」と慰めてくれた。
その「遥かに大きな賞」とは、ノーベル賞以外にありえない。
これが、キーン氏が「三島由紀夫がノーベル賞受賞」という予想の根拠であった。
ところが実際には、川端康成に対して日本人初のノーベル文学賞が授与サレタのである。
最終的に、三島がノーベル賞受賞を逃したことについて様々な憶測がなされている。
ノーベル賞発表前の10月5日、おそらくノーベル賞選考タケナワいう時に、三島は 「盾の会」 の結成を公言している。
これまでの「私的軍隊の結成」が、ノーベル賞の選考に影響しないわけはなく、またその影響を三島が考えないハズもない。
一説には、三島は当時活発だった「左翼の活動家」と誤解されていたというフシもあるという。
キーン氏は、三島が他の何にも増してノーベル賞を欲しがっていたことを知っていたと書いている。
ノーベル賞が川端に与えられたことによって、三島はもうしばらくは日本にはマワッテこないという絶望があったという。
それらが、三島の自決に拍車をかけたというのである。
川端の受賞後、極めて親密だった川端と三島は急速に疎遠になり、そして2年ほどして三島が自ら命を絶ち、さらに1年半ほどして川端も同じ道をたどっている。
川端は、三島の才能を早くから見出し、作家への道を後押しして惜しみなく応援し、生涯にわたって交流した。
その川端は、三島の市谷駐屯地での「壮絶な自決」の姿を見て、床にフセることが多くなったという。
三島が自決した翌年4月、自宅を出た後別宅のマンションの自室でガス菅をくわえて自殺した。
川端は、ノーベル賞受賞当日の川端の受賞の弁にも、三島由紀夫の名前が出ている。
川端は受賞は 「三島君のお陰」 と語っている。
本当はノーベル文学賞は、三島がトルベキきだったという気持ちがあったのかもしれない。

自分が如き凡人には三島由の心象は捉えがたいものがあり、その外輪をナゾルことしかできない。
しかし、三島についてのインパクトのある幾つかのエピソードを読んだり聞いたりした。
その1つは北杜夫が「ドクトルマンボウ」シリーズの何かに書いてあったもので、三島氏は小説では「美」の追及者だったのだが、「松の木」を知らなかったという話である。
「そんなバカな!」と思ったが、これに近い話はイタルところにあることを知った。
三島由紀夫の取材旅行にドナルド・キーン氏が同行した時のことである。
三島が松の木を指差し、居合わせた植木屋に「あれは何の木か」などと聞いたので、植木屋は「松です」と答えた。
しかし植木屋は、松の木を知らないハズはないだろうと、「雌松」と呼んでいると付け加えた。
それに対して三島が真顔で「雌松ばかりで雄松がないのに、どうして子松ができるの」と聞いたものだから、植木屋もキーン氏も驚きアキレタという話である。
能や歌舞伎好きの三島が、舞台の上の松をサンザン見ていたのだろうが、あれを一体何だと思っていたのだろう。
三島由紀夫は本名・平岡公威(きみたけ)は、1925年1月日農商務省の高級官僚の父、有名漢学者の娘という母の元、非の打ち所のない「エリート家庭」に生まれた。
1931年、6歳になった三島は当時上流家庭の子女のみに入学が許されていた学習院初等科に入学した。
しかし女の子の遊びしか知らず、小柄で病弱、顔色もわるかったため、付けられたあだ名は「アオジロ」でイジメの対象になった。
祖母のもとでひたすら本を読みふけり、歌舞伎など舞台にも早くから親しんでいた三島は、わずか6歳にして俳句を詠み、詩を書いた。
学習院の中等科にあがるころには詩のあまりの完成度の高さから、「盗作ではないのか」と教師の間で話題になるほどだった。
三島の文学の才能は急速に花開いていった一方で、三島は自分の容姿に強いコンプレックスを持っていくようになる。
早熟だった三島が16歳の時に書き上げた小説が、いまも三島の代表作のひとつとして人気の高い「花ざかりの森」である。
学習院高等科を首席で卒業した三島は、推薦で現在の東京大学、東京帝国大学法学部法律学科に入学した。
卒業後一度は大蔵省に務めたものの、作家に専念するため、半年あまりで辞職し、初の長編書き下ろし小説「仮面の告白」である。
あれだけ風景描写に優れていながらといいう反面、幼い頃まったく外で遊ばなかったことから、自然に知るはずのものの多くを知らずという面があった。
蛙の声を聞いて、「あれはなんの鳴き声だ?」とたずね、周りを驚かせたこともあったという。
松の木のエピソードも、ソレと関わっているかもしれない。
もう1つの三島にまつわるディープ・インパクトな話は、三島と親しかった三輪明宏がテレビで語ったものである。
1950年代初期に三島は新進作家として世間に認められ、ベストセラーを連発するようになっていた。
三島が24歳の頃、銀座の喫茶店「銀巴里」で当時ウエイターをしていた「美少年」美輪明宏と出会った。
後に三島は江戸川乱歩原作「黒蜥蜴」の戯曲を書き上げて、美輪をクドキ落として主役に迎えている。
三輪氏が語ったことで印象的だったのは、たまたま三輪氏がクラブでダンスをした時に、つい冗談を言った。
あのころ、肩パットが入ってる背広が流行していたので「あらパット、三島さん行方不明だわ、どこいったの?」と言った。
美輪氏は冗談で、三島の貧弱な体をカラカッたのだ。
普段なら笑って返す三島も、この言葉には異様な反応を示し、「不愉快だ」と言い残しそのまま帰ってしまった。
それっきり音信が途絶えてたが、ある日電話がかかって来て「後楽園にいるから出て来い」という。
三輪氏が後楽園ホールのジムに行ってみると、三島はそこのトレーニング場でボディービルをやっていた。
三輪氏は、三島はこうと思ったら絶対する人だということを知っていた。
また三島は大映と契約し、映画スターとしてデビューし、大映映画にヤクザの2代目として主演し、さらにその主題歌まで歌っている。
美輪氏によると、三島ひどいオンチであったが、そのオンチも1週間で直ってしまった。
オンチを直すにあたって見せた集中力には常人ならざるものがあったという。
三島の特質は、一度いわれたことは絶対忘れない、凄まじい記憶力と研ぎ澄まされた集中力があったのだ。
三島には、少年時代からの強烈な肉体的劣等感の「裏がえし」で肉体を作ることに憧れた。
そして三島が30歳を迎えた時、「ボディビル」という新たな趣味に目覚めていったのである。
実際に会ったボディビルのコーチが胸の筋肉をピクピク動かして見せたのに感動し、自らそうなれるように願い鍛錬した。
三輪氏はこの点について驚くべきことを語っている。
コノ頃から三島は自らの死にギワを探していたというのである。
つまり死は「計算済み」だったのだが、死ぬ時には、立派な体じゃないとけない。
絶頂期にして滅びるというのが三島の「美意識」だったのだろうか。

三島文学の最大の特徴は、卓越した日本語力といわれている。
豊富なイマジネーションの中からあふれ出る修飾語は確かに素晴らしいし、ソノ表現力は誰にもマネが出来ないと思う。
しかしそれだけでは足りない「何か」があると思った。
三島氏が「山の手上流階級の言葉遣い」の環境に育ったことによる「品格」をもってしても説明できない「何か」である。
この点につき、三輪明宏氏の言葉に少しヒントがあると思えた。
三島はアラユル芸術作品は「霊的」な格が高くなければならない、「霊格」が高いものでないと本物の芸術とはいえないとも言っていた。
英語の「インスパイヤード ワーク」にアタルものである。
三島は、他国ノモノとは違う格調の高さとか、ものの見方、表現の仕方を、日本の古典や歌舞伎や能を通じて体得していった。
三島は純日本的なものに「霊格」のチガイを見出し、ソコに自身の美学の根本を据えたといえるのではないだろうか。

かつてライブドアの堀江貴文が少年の頃より「百科事典」を読んでいたことを聞いたが、三島の場合はソンナもんじゃない。
三島の優れた日本語力の秘密の1つは、少年時代「辞書」を徹底的に読んでいたことに関係するといわれている。
三島少年は祖母の下で過ごした幼い頃から毎日欠かさず「辞書」を読み、とにかく正しい日本語とたくさんの語彙を手に入れていったというのである。
ところで、三島と不思議な繋がりがあるのが「鉄道員」で名を馳せた作家の浅田次郎である。
18歳の頃小説家を志した浅田次郎は、出版社からつきかえされた原稿の束を抱えながら、御茶ノ水から水道橋まで歩いていた。
いつもなら日の当たる外濠通り側を歩くはずが、この日に限って反対側を歩いた。
そして、後楽園ジムの半地下の窓から、ほんの数メートル窓の下で仰向けになってバーベルを挙げている三島由紀夫に出あっている。
三島由紀夫は「辞書」を読んでいたというが、作家の浅田次郎にも「学而」というエッセイがあり、そこに「広辞苑」についての話を書いている。
東京・高円寺で古本屋経営の出久根達郎氏のエッセイにも、「広辞苑」にまつわる客との味わい深い話があったのを記憶している。
「カルピス」をテーマにしたエッセイを書いて表彰される賞があるらしいが、浅田氏のソレハ「広辞苑」をテーマにしたエッセイなら最優秀賞を取りそうなものである。
さて、浅田氏が無理を言って入学させてもらった名門私立中学の合格発表に際して、母親は小さな辞書には見向きもせず、広辞苑と、研究社の英和辞典と、大修館の中漢和を買い揃えてくれた。
母親が亡くなって家に行くと、遺された書棚には浅田のすべての著作にならんで、小さな国語辞書と、ルーペが置かれていたという。
それは、貧しいながら有り金をはたいて辞書を息子の為に買い与えた母親の気持ちを綴った好エッセイであった。
1970年11月25日、三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて決起を呼びかけた後、割腹自殺した。
実は浅田次郎が自衛隊に入った理由は、三島が好きな作家というホドでもないが、「三島氏の死」を解明シタイと思ったからだという。
浅田氏の目的がドレくらい達成できたかしらないが、浅田氏の自衛隊体験は、「三島由紀夫」とは別に多くの収穫があったのだという。
マズは体が強くなったことで、その「体」の貯金で今も生きている。
もうひとつは、自分は特別な人間ではないと思い知らされたことである。
浅田氏は、自分に文学的な才能があると思っていた。
そうすると、自分以外がみんなバカだと思い込んでしまう。
ところが、どんな奴にでも誰かより優れているものがあるということを思い知らされた。
字が満足に書けなくても土嚢を背負わせたら誰よりも速く走るとか、いつもボーッとしてるのに鉄砲は百発百中とかいう奴に出会った。
自分が特別ではないと思い知り、周りの人を公平に観察することができるようになった。
たとえばホームレスの人にあったら、何かの哲学をしているんじゃないかって思えてくる。
浅田氏は、自衛隊の時の低い視線をずっと引き継いで作家となり、人間関係もその延長線上でやっているのだという。
浅田氏は自衛隊除隊後22歳で結婚してアパレル関係の仕事に就いた。
その二年後には、自営していたから商才もあったといえる。
浅田自身、同じ収入を求めるなら、小説より商売の方がハルカに早いし楽だと思うのだという。
小説は他人に頼れないし、生産性はスベテ作家ヒトリにかかっている。しかし商売ならば、人を雇うことだってデキルからである。
浅田氏は、比較的順調な自営業の背後でズット並行して小説を書き続けていた。
昼はアパレル関連の仕事をし、夜家族が寝静まってから、小さなスタンドをつけて執筆したという。
しかしソノ商売も29歳の時、1億数千万円の借金を作って倒産した。
復活まで約6年かかったが、その期間は文筆のウデを磨くにはヨイ機会だったという。
浅田氏は、自らの商才を認め、実際に商売でも復活しつつ、それでも小説家になることをヤメようとはしなかった。
そして1997年、「鉄道員」(ぽっぽや)で直木賞を受賞し、世の注目を集める。
ところで三島由紀夫は一体、どんなメッセージを今日という時代に投げかけているのだろうか。
浅田氏が作家であることは三島氏の「死の謎」と関わっていると思えるが、「死してモノ言う」存在とは三島由紀夫のような存在を指すのだろう。