天与の歌声

「スキャット」 (Scat)とは、主にジャズで使われる、意味のない音をメロディーにあわせて即興的(アドリブ)に歌う歌唱法の一つである。
以前やっていた夜のバラエティ番組「11pm」の冒頭が「ドゥビ ドゥビ ダバ ダバ」で始まったが、あれがスキャットである。
要するに、スキャットとは「歌」というよりも声を一つの「楽器」として表現する方法で、ジャズ・ミュージシャンのルイ・アームストロングが第一人者として知られている。
ところで日本人にとって「スキャット」といえば、由紀さおりの「夜明けのスキャット」がある。
とはいえ、この歌唱法が「真正」のスキャットというわけではなく、昭和歌謡の名曲というものにすぎない。
「夜明けのスキャット」がヒットした1969年という年は、色んなことがアリスギタ。
人間が月に着陸した。沖縄の返還が決まった。東名高速道路が開通した。東大安田講堂で学生が排除された。成田新東京国際空港の建設が開始した。自民党が衆院選で圧勝し、小沢一郎氏が初当選した。広域連続ピストル魔が逮捕されたナドナド。
人間がコノ年までヤッテきたこと、オカシテきたことにツイテの「本当の」評価は、今モッテわからないことが多すぎる。
だから饒舌に語る(歌う) よりも、「ルールルル~」というのが、一番スカットする。
テレビで見ていると、東大安田講堂の機動隊と学生の催涙ガスをトモナッタ「攻防戦」のバックに「夜明けのスキャット」が流れていたが、奇妙に似合っていた。
先般、由紀さおりが米ジャズオーケストラと共演し、往年の日本のヒット曲を歌った「新作アルバム」が、アメリカのネット配信の「ジャズ部門」で1位にランクされ、話題を集めた。
収録曲のホトンドを日本語で歌ったCDが国外で注目されるのは異例で、1963年の「SUKIYAKI」以来の快挙といえるかもしれない。
日本の歌謡曲やポップスで、世界的にヒットしたケースとしては、故・坂本九が歌った「SUKIYAKI」(「上を向いて歩こう」)が1963年に米ビルボード誌の「週間ランキング」で1位を獲得している。
さて昨年日本でリリースされた由紀さおりのアルバム「1969」は、由紀さおりが米オレゴン州ポートランドのジャズオーケストラと共演し、「夜明けのスキャット」のほか、「ブルー・ライト・ヨコハマ」などのカバー曲などを歌っている。
フランス語で歌った「さらば夏の日」以外、12曲中11曲が日本語で歌われており、20カ国以上での発売を予定しているという。
由紀本人は、「とにかくびっくり。神様のいたずらとでもいいましょうか、すばらしい出会いをいただき、歌い続けてきて本当によかった」と語っている。
ところで「由紀さおり」の歌声がヒットから40年を経て発見されたのは、アメリカのジャズ・オーケストラ「ピンク・マルティーニ」のリーダーであるトーマス・ローダーデイルが地元の「中古レコード」店で、1969年に日本でリリースされたLP「夜明けのスキャット」を見つけ、その「透明感」ある歌声にヒカレタことだった。
何しろ1971年生まれのローダーデイルが1969年リリースの日本の歌謡曲を手に取ったこと自体がほとんどアリエナイことである。
ローダーデイルによると、見つけた理由はただジャケットの「ヴィジュアル」に魅了されたからだったという。
だからといって、普通そのレコードを聴いてみようなどどとは思わないのだが、そこが「神様のいたずら」というべき出会いであったという外はない。
そし2009年の6月ローダーディールがYouTubeで“Taya Tan”を発見し、自身3枚目のアルバムで由紀の「タ・ヤ・タン」をカヴァーする。
こうして1969年にリリースされてから一度もCD化されることのなかった山上路夫作詞・いずみたく作曲の「タ・ヤ・タン」が、アメリカのジャズ・シーンに登場することとなった。
ちなみに、ローダーデイルがリーダーである「ピンク・マルティーニ」は、1940年代から60年代にかけて世界中で流行したジャズ、映画音楽、ミュージカルのナンバーなどを主なレパートリーとする、ヴォーカリストを加えた「12人編成」のオーケストラ・グループである。
アメリカ、ヨーロッパ、アジアとツアーを展開しながら、ゴージャスな音楽体験を人々に提供し、“まるで映画を見ているような”エンタテーンメントを体感させてくれるタグイ稀なグループであるという。
2011年9月17日に英ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われた「ピンク・マルティーニ」のコンサートに由紀さおりが招かれ、そこで披露した歌声が、スタンデイング・オベーションで絶賛されたのだ。
世界的な経済危機やテロの横行などで、世の中の人々が「癒し」の音楽を求めているのは「万国共通」の現象といえるカモしれない。
そういえば、「上をむいて歩こう」も震災後日本で歌われているのと同様に、「SUKIYAKI」も、911テロ以後シバシバ歌われているという。

由紀さおり(本名、安田章子)が姉の安田祥子とともに「童謡歌手」としてスタートしたことはヨク知られているところである。
しかし、この安田姉妹が「童謡」で多くの子供達に「生きる楽しさ」を伝えたことについては、何か「運命的」なものを感じるところがある。
1945年8月、戦争が日本の敗戦で終結し占領軍が街にあふれ、川に浮かぶ髪のちぢれた黒い嬰児、青い目を半ば開いた白い肌の赤ん坊の死体、いわゆる「敗戦の落し子」、すなわち、進駐軍の兵士と日本女性の間に出来た「混血児」達であった。
そんなある日、財閥の家に生まれた一人の女性が汽車に乗っていた時、突然、網棚から紙に包まれた嬰児の死体が膝の上に落ちてきた。
女性は大きなショックを受け、この事が孤児の救済に生涯を賭ける契機となったのである。
この女性とは澤田美喜、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の孫として、東京の本郷に生まれ、不自由のない恵まれた環境に育った。
しかしキリスト教に傾倒していたものの、どうしても許されなかったのが教会に通うことであった。
従姉妹が皇族に嫁ぐ中で、澤田美喜にとって大きな転機となったのは、外交官・沢田廉三(のちの国際連合初代大使)との結婚であった。
澤田廉三は、鳥取出身のクリスチャンであり、これで美喜はキリスト教会に堂々と行けるようになった。
また海外での生活もカネテからの澤田美喜の憧れであった。
美喜は喜んで廉三に従い、アルゼンチン、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークと任地を転々とし、多くの友人たちを得た。
とくにロンドンで、「ドクター・バナードス・ホーム」という孤児院でボランティアをした経験は、のちの彼女の将来に大きな影響を与えることになる。
そして澤田美喜はアノ汽車での体験以降、混血孤児たちの施設を作る為に、岩崎家が国に物納した大磯の別荘を司令部に掛け合い、当時では大金の400万円で買い戻した。
岩崎家といえども戦後の「財閥解体」で財産は乏しく、自分の持ち物を処分したり、多くの人たちから膨大な借金をしたり、そのほか寄付を集めたりしてお金を作る外はナカッタのである。
そうした澤田に、思わぬ形で「協力者」が現われたのである。
長らく日本で暮らしいたエリザベス・サンダーという女性が高齢で召されると、その「遺産」が澤田の「孤児院」に贈られることになったのである。
これを記念して、1948年戦災孤児のための施設「エリザベス・サンダース・ホーム」が創立されたのである。
創立当初、「米国の恥」をサラスということで米軍からも解散の脅しを受けたり、邪魔をされたりした。
米国人の反対ばかりではなく、日本人からも「混血児」への偏見や反感から「批判的に」見られた。
また「財閥娘の道楽」とも蔑まれ、募金も集まらず、街に子供たちと出ると罵声をアビセられたことがシバシバであった。
いわれのない非難や中傷をアビながら、澤田美喜がこのホームで育てた孤児は「二千人」を超え、「仲立ち」となってアメリカへ「養子」に出した子供は五百人を超えるという。
ちなみに、一世を風靡した「サインはV」、笵文雀演ずるところの女性は、神奈川県のサンダースホーム出身という設定であった。
澤田美喜をはじめとする保母たちはアクマデモ「一民間人」であり、政府の公的機関が成し得なかった「戦争混血孤児」の育英をソノ手で成し遂げた業績は高く評価されている。

安田姉妹の歌声に対する「賞賛」と等しく、「歌声」というものが天が与えたもの、つまり「天与の声」とするならば、「日米の混血児」として生まれた沖縄出身の一人の「テノール歌手」のことを思い浮かべる。
20年ほど前のヒット曲「世界に一つだけの花」は、他人にない自分独自の生き方を探そうというメッセージが込められていた。
人と比べて競うのではなく、他人にできない創造的な生き方に出会、能力を磨いた結果、他人を幸せに出来る自分という花を見つけることができる。
この曲を歌ったのはスマップであるが、作詞はソノ「2年前の事件」から再起をかけた槇原敬之であった。
しかし、「ナンバーワンでなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という歌詞の出所は槇原氏ではなく、沖縄生まれの全盲のテノール歌手、新垣勉氏である。
新垣氏は、米軍兵士と日本人女性の間に生まれたが幼い頃に発した高熱によって視力を失った。
まもなく父は日本を去り、母は別の男性と結婚し、祖母のもとで生活するがその祖母も他界し、「姉の子供」ということにされて生活することになった。
自分の与り知らない周りの都合によって、自分の存在が勝っ手に歪められオシ曲げられていた。
自分が混血であること、視覚障害であることにより両親に捨てられたと思い、両親に対して強い憎しみをイダキ続けた。
そして12歳の時に井戸に飛び込もうとするがそれも失敗し、自殺さえマトモに出来ない、自分ほど惨めな人生はないと思うようになっていった。
新垣氏の「転機」は、彼を「家族のように」温かく受け入れてくれるキリスト教会の牧師に出会ったことであった。
信仰に目覚め「聖職者」の道を歩むか、教会で声楽にもメザメ「声楽」の道に進むか迷ったが、結局前者を選びキリスト教系の短期大学から福岡にある西南学院大学神学部へとすすんだ。
ところが大学在学中に名ヴォイス・トレーナーの世界的大家、A.バランドーニ氏のオーディションを受けたところ、「君の声は日本人離れしたラテン的な明るい声だ」といわれ勇気づけられることとなった。
そのA.バランドーニ氏は一人でも多くの人を励まし勇気を与えることが出来るように「君の声」を磨きたいと言われ、本格的に「声楽」を学ぶようになったという。
その過程で新垣氏に何よりも重大な心の変化が起きていった。
新垣氏は父親からの「贈り物」として素晴らしい声を貰ったと知った時に、父親への「憎しみ」は消えて行ったのである。
「父親譲り」の声をウント磨いていくことで、人々をもっっと幸せな思いにさせようと思うようになった時に、顔もしらない父へ感謝の気持ちサエ湧いていったという。
ところで、新垣氏には「立ち直り」を見せた頃に心に響いた歌があった。
美空ひばりの「愛燦燦」で、この歌の中の歌詞の一節に魂を揺らされたのだという。
その一節とは、「雨 潸々(サンサン)と この身に落ちて わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして 人は哀しい 哀しいものですね」である。
新垣氏はコノ歌詞に、すべてがマイナスにしか見えて仕方がなかった頃の自分を重ねたという。
そして新垣氏は、この曲をコンサートではしばしば歌う。
また新垣氏はコンサ-トで繰り返し「オンリーワン」について語ってきた。
人とくらべて生きる、人を気にしていく、比べるからねたみだとか嫉妬だとか、そんなものがいろいろと起こってくる。
自分が、あるがままの自分でいいんだ、自分以上である必要もないし、自分以下である必要もない、と。
そして「自信を持つ」ということは自分は自分でしかないっていうことへのウナヅキのことで、それさえしっかり持っていればいい、という。
また新垣氏は、自分の人生が影響を受けるような「いい出会い」をどれだけ持っているか、ということが大きいと、自身の体験を交えながら語っている。

童謡歌手そしてスタートした安田姉妹には、何か「親の因果が子に報いる」という言葉を思い起こさせるものがある。
実は安田祥子の夫は澤田久弥氏だが、コノ人こそ外交官・澤田廉三・美喜夫妻の子供(次男)なのである。
澤田久弥氏は京都大学アメリカン・フットボール部の初代部長で、京大アメフト部の創設秘話は中村雅俊・壇フミ主演のテレビドラマ「君に涙は似合わない」(1988年)のモデルともなっている。
終戦で、海軍将校だった一人の若者が人生の目標を失っていたが、「失われた青春」を取り戻す唯一の道をアメフトに見いだす物語である。
テレビによれば、由紀さおりの歌声といえば音響の専門家が科学的に分析しても「特別の声」らしい。
そんな由紀さおりだが、実は37才の時、子宮筋腫を患っている。
長く悩み、子宮全摘出手術の決断は4年後の41才の時だった。その間、子宮内膜症も併発している。
「ホルモン治療」という選択もあったが、それもしないままに、由紀は子宮全摘手術を「選ん」だ。
ホルモン治療をすると声が低くなるからで、自分の声を愛してくれた母親のためにも、「声が変わる」可能性のある治療はできなかったのだという、
人生のモットも辛いことに対する喜ばしい「答え」が約20年後の2009年に待っていたことになる。
ところで由紀が「子宮全摘手術後」に出会ったのが、アメリカ在住の一人の日本人男性だった。
交際の末に再婚を考えるも、デビュー直後から個人事務所を起こすなど芸能活動をサポートしてきた母が猛反対した。
知人のよれば、由紀は仕事を辞めて、男性の住むアメリカへ行くツモリであった。
しかし、母親が彼女の歌声をアキラメきれなかったという。
そんな母親の気持ちを由紀も無視することはできなかったのである。
その母は1999年にガンで他界し、一周忌が終わった2000年に由紀はその男性と再婚するも、由紀は仕事を辞められず日本を拠点に活動し、夫はアメリカを拠点に生活するという「事実婚」ゆえ、スレ違いが多く結局ふたりの関係は終わりをつげた。
そして、その3年後の2009年、オレゴン州ポートランドの中古レコード店で、由紀さおりの歌声は「再発見」されたのである。
こうしてみると由紀さおりは、「歌うべく」導かれた「ディーヴァ」(=歌姫)のようである。
また姉と歌う「童謡」は、姉の義母が創設した「エリザベス・サンダーホーム」のスデニ高齢となった数多くの卒業生にとっても、「天来の歌声」のように心の中に響いているに違いない。