君を忘れない

日本のプロ野球には、在籍したチームの優勝に献身的に貢献した忘れがたき外国人選手がいる。
バース、マニエル、ブライアント、ブーマーなどの名前が浮かぶが、その一方でアマリの「短さ」ゆえ「打ち上げ花火」のような強いインパクトを与えつつ、立ち去った選手もいる。
とはいっても、メジャー通算119勝の鳴り物入りでソフトバンクにはいったペニーの場合、「実働一日」で帰国ナサッタのだから、「インパクト以前」ということになろう。
しかし1970年代初頭にやってきたペピトーンという選手は「規格外」の好き勝手ぶりで、ヤクルト球団は「ペピトーンの悪夢」の払拭のために、それ以降の外国人選手をトッタのではないか、と思われるフシさえある。
つまり、ペピトーンの存在なくして、マニエルもホーナーも日本に来なかったカモしれないのだ。
特に、マニエルは1年目こそフルワなかったものの、日本野球に慣れた2年目からは「大車輪」の活躍を遂げ、1978年にはヤクルト初の「日本一」に貢献する。
それは、ペピトーンの残した「不信感」を払拭してアマリある結果を残したといえる。
それにしても、ペピトーンは「記録と記憶の落差NO1」の外国人選手だったかもしれない。
ジョー・ペピトーンは、ニューヨークのブルックリン生まれで、1962年に地元のニューヨーク・ヤンキースに入団した。
地元出身の天性のホームランバッターということもあって人気を博し、1966年まではナカナカの成績を維持していた。
また三度ゴールドグラブ賞を獲得するなど、一塁手としての守備力には「高い評価」がなされていた。
それ以降は期待ハズレのシーズンが続いたが、1973年に32歳で来日した時点で、既に大リーグで219本塁打、1315安打を残した「名プレーヤー」の一人であったことは間違いない。
しかし、日本にやってきたペピトーンは、日本のプロ野球を見下していたのか、練習にも試合にも手を抜いた。
ナントカ14試合に出場し打率163、1本塁打という結果を残すにトドマッタ。
さらには、シーズン途中で突如帰国して、翌年には来日しようとサエしなかった。
ペピトーンは、力の衰えがめだった「4番」ロバーツの代わりを期待されて来日したのだ。
ロバーツが「日本人以上の日本人」といわれるほどの「人格者」だったダケに、ペピトーンの無軌道ブリがあたかも「金環食」を帯びた如くに「異様」に浮き立った。
デーヴ・ロバーツは、パナマ共和国パナマ市出身の元プロ野球選手で、1958年にプロ入りし数球団を渡り歩いた後、ようやく1962にメジャー初出場を果たした苦労人であった。
その後、ピッツバーグ・パイレーツを経て1967年に来日し、現在のヤクルトにあたるサンケイ・アトムズへ入団した。
当時の同僚であったルー・ジャクソン外野手とともに弱小だったアトムズ打線を支え、特に長打力はリーグトップクラスで、「本塁打王争い」では独擅場であった王貞治の「牙城」を度々脅かしたが、タイトル奪取まではイカなかった。
サンケイ・アトムズに計6年半在籍し、ソノ長さは2007年アレックス・ラミレスに抜かれるまでトップで、マタ同球団での本塁打数181本も、ラミレスに破られるまではヤクルトの「外国人記録」であったのだ。
ロバーツがイカニ日本文化に積極的に溶け込もうと努力したかは、シーズンオフには帰国せずに上智大学の「聴講生」として、英文学と数学の授業を受講していたことでもわかる。
1973年、チームがペピトーンを獲得したことによって、ロバーツはシーズン途中で近鉄バファローズへ移籍した。
しかし近鉄では思うような記録が残せず、同年オフに引退・帰国し、その後はマイナーリーグのチームで打撃コーチを歴任している。

ヤクルト球団のペピトーン獲得には、「リサーチ不足」の責任はマヌガレナイ。
ペピトーンは、天衣無縫の遊び人であり、1967年以降は成績も下降線を辿り、「期待外れ」の成績しか残せなくなっていた。
その上、グラウンド外でトラブルを起こすようになり、サスガにメジャー球団も見限って1969年シーズンを最後に「解雇」され、その後複数の球団を転々としていた。
ペピトーンは1967年の初来日の3日後の巨人戦で決勝タイムリーを放ちソノ打棒を期待させ、ヤクルト球団は「ペピトーン・デー」まで設けた。
ところが「ペピト-ン・デー」の対中日ダブルヘッダーの第2試合を欠場し、そのまま離婚裁判への出席を理由に無断帰国してしまった。
そして、それが解決後の8月8日に再来日したのである。
しかし、それから10日しか経たない対阪神戦を最後に、アキレス腱を痛めて勝手に自分のシーズンを「終了」してしまい、9月12日には「治療名目」で無断帰国を果たしたのである。
練習嫌いで「仮病」を使うことは朝飯前、アマリのわがまま振りに、当時の三原監督は「ペピトーンを来期の戦力に加えない」とフロントに告げた。
しかし2年契約であったために、「たとえ成績が悪くとも途中で解雇できない」という理由で在籍を続けた。
本当は、球団のリサーチ不足が表面化するのを恐れたことと、金を使っただけに簡単にキルこともできずにズルズルとイッテしまう経済学でいう「サンク・コスト」の好例である。
しかし、幸か不幸か、ペピトーンは2年目の1874年オープン戦が始まっても来日しなかった。
球団から、「指定日(3月15日)までに来日しないと解雇する」と最後通牒を突きつけられても来日しないどころか連絡サエとれなかった。
ようやく連絡が取れると、前年来日時の「荷物輸送料金」と「犬の空輸料金」を要求した。
そして、ヤクルトは結局、「任意引退選手」公示申請をして解雇した。
ヤクルト解雇後、ペピトーンの代理人が、「前夫人への慰謝料を払うためにメジャーに復帰したいが、任意引退選手では球団の許可が必要だから、自由契約にしてほしい」という旨の要求を出してきた。
ヤクルトは任意引退選手にした関係で、それ以降外国人選手を一人しか獲得できナイという事情もあって了承した。
しかしアメリカ球界でペピトーンが日本で起こした数々の問題行動は広く知られるところとなった。
そしてメジャーリーグ各球団に入団希望を「打診」するもコトゴトク拒否され、メジャーリーグへの復帰はツイニかなわなかった。
野球選手としてのキャリアを終えた後、コカインの不法所持で服役したり、銃の不法所持、警官への暴行、飲酒運転などで繰り返し逮捕され、しかも離婚歴が三度あり、近年でも飲酒運転で逮捕されている。
ロサンゼルス・ドジャースの会長は「ペピトーン問題」による日米関係の悪化を懸念し、この状況下で信頼できる選手としてチャーリー・マニエルを推挙して、マニエルがヤクルトのユニホームを着ることにナッタのである。
世の中には「裏マニュアル」というものがあるが、ペピトーンは「裏マニエル」とでもいった存在だったのかもしれない。
逆にマニエルは、ペピトーンあっての「赤鬼マニエル」であり、漫画「頑張れタブチ君」への登場する人気外国人選手へとなていく。

1987年、ヤクルトは「ペピトーンの悪夢」にコリズ、または悪夢の「打ち消し」をハカッタのか、またしても現役の一流大リーガーを獲得した。
このボブ・ホーナーこそ、日本プロ野球史上で最も「優れた実績」をモッテ来日した外国人選手であった。
ホーナーは、マイナーを経験したことがない「エリート中のエリート」だった。
ヤクルトは、おそらく以前の失敗を教訓にして素行を調査し、問題のない外国人選手と判断して獲得に動いたにちがいない。
ホーナーは、1978年に大リーグのブレーブスに入団すると、その年に「新人王」を獲得し、翌年に打率314、33本塁打、98打点を残して一気に大リーグを「代表」する打者となった。
来日する前年の前年も打率273、27本塁打、87打点と、ブレーブスの「主砲」としての活躍をしていたのだ。
そのホーナーがナゼ大リーグの他球団を選ばず、日本を選んだのか。それは、当時の大リーグ事情によっておこったシワヨセによるものだった。
1986年のオフ、ブレーブスの出した年俸に不満があったホーナーは、「FA権」を行使して獲得に名乗りを挙げる球団を待った。
だが、どの球団もが「主砲」として期待できるはずのホーナーを獲得しようとしなかった。
当時の年俸の高騰傾向に「歯止め」をカケたかった各球団がFA選手の獲得を見合わせたのである。
移籍先をなくしたホーナーは「宙に浮いて」しまい、そのスキマをつくように年俸3億円で名乗りを挙げたのが日本のヤクルトだった。
ホーナーは、ヒトマズ野球をするためにヤクルト入団を決意した。
その時ホーナーはマダ29歳と、打者としては「全盛期」にサシかかろうという年齢だった。
そんな年齢で、しかも大リーグを代表する打者が来日するというので、日本のプロ野球界はチョットした騒ぎとなり、ある新聞は「黒船来航」とマデ書きたてた。
それでいくと、ペピトーンは「海賊船」みたいなものだ。
ホーナーは5月からのデビューで、ホーナーは確かにケタチガイのバッティングを日本人に見せつけることになる。
デビュー4試合で11打数7安打6本塁打という「驚異的」な活躍をしたのである。
日本は、一気に「ホーナー・ブーム」に沸いた。
テレビでは連日ホーナーの本塁打シーンが流れ、CMにも登場した。
その後、日本投手からの「敬遠攻め」や研究されたことによってペースは落ちたものの、活躍を続け、7月にはオールスターゲームのファン投票で1位に選出された。
しかし、ホーナーは、この7月に体調不良で数試合を欠場し、オールスター出場も辞退する。
慣れない日本野球での疲労が蓄積した結果であったと思われるが、それでもホーナーは31本のホームランを放った。
結局、5月からの試合出場だったり、7月の欠場が響いて規定打席にはたりなかったモノノ、打率327、31本塁打、73打点という好成績を残した。
フルに出場していれば、「三冠王」を獲得できる可能性もあり、やっぱりホーナーは正真正銘の「大リーガー」だったといえる。
ホーナーは、日本に「本物の大リーグ」をソノママ持ち込み、日本人に大きな衝撃を与えた。
そして、見せつけた高いバッティング技術とパワー、常に全力を尽くすプレーは、日本人選手や野球少年にも「大リーグ」に対する大きな憧れを抱かせることになったのである。
ただ、ホーナー自身は、大リーグ復帰後の成績はふるわず、引退することとなった。
その点、日本の野球で「学んで」帰国してアメリカ大リーグで大活躍した元阪神タイガースのセシル・フィルダーとは対照的だった。
フィルダーは日本野球で変化球打ちと選球眼を身につけ、「同一人物か」と疑われるほどに活躍しメジャー・リーグの「大スター」となった。
ところで、ボブ・ホーナーは、日本に「未曾有」の旋風を残して、わずか1年限りで日本を去って行った。その際、歴史に残る言葉を残している。
「地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった」と。

ヤクルトにいたロバーツ同様に「善玉外人」といえば、広島カープのホプキンス選手が忘れられない。
ホプキンスは「善玉」ではあっても、日本的な「野球道」ではケシテ「模範的な選手」ではなかった。
ホプキンスはペパーダイン大学を経て、1965年にシカゴ・ホワイトソックスと契約し、1968年にメジャーデビューしている。
1971年にカンザスシティ・ロイヤルズ、1974年にロサンゼルス・ドジャースに移籍した。
1975年にジョー・ルーツ監督に請われて広島東洋カープに入団し、主に一塁手として出場し、読売ジャイアンツとの優勝決定戦では勝負を決する3ランを放つなどセントラル・リーグ初優勝に貢献した。
翌1976年もチームの主軸として活躍した。
1977年に南海ホークスに移籍し1シーズンのみプレーした後、現役引退した。
帰国後、選手時代から勉強を重ねていた医者の道を志しシカゴのラッシュ医科大学に再入学し「整形外科医」となった。
オハイオ州で病院を開業し、自らも整形外科医として患者の診察にあたり、地元大学で准教授として「聖書学」の講義を担当している。
かつてのチームメイト・衣笠がに忘れられない光景がある。
練習や試合の前のロッカールームで、ホプキンスが生物学のテキストや医学書を読んでいた姿だ。
ホプキンスは後に衣笠に語っている。「18歳でペッパーダイン大学に入ったとき、人生で3つの目標を決めた。野球選手になること、医者になること、宣教師になることである。そして、神のおぼし召しにより、3つとも達成できそうだ」と。
13年間の野球生活のあいだも、ホプキンスは勉強を中断することはなく、現役中の74年には、生物学の博士号を取得している。
75年から医学校へ進むつもりだったが、長年低迷していた広島カープがホプキンスを説得して引きとめたという。
実は「1年契約」で広島に入団し75年シーズンの終盤に優勝は無理だと決まったらスグに、日本を離れてもいいという条件が入っていた。のだ
ホプキンスは、9月には帰国して医学校の「新学期」に間に合うだろうと考えていたのだ。
ところが、その1975年、「赤ヘル軍団」は最後まで優勝を争い、広島市民は熱狂の渦中にあった。
そしてホプキンスは、医学校に進む計画を延期したのである。
「あの1975年は、僕たちみんなにとって、本当に特別なシーズンだった。平日に急遽パレードをやったのに、40万人も集まってくれたんだ。僕たちは広島の市民に誇りを与えることができた。だから、帰れるはずがなかったよ」と述懐している。
翌年も広島に残り、76年のシーズンが終わるとすぐに、ホプキンスはシカゴのラッシュ医科大学の定時制に入学した。
そして77年も日本で南海ホークスのユニフォームを着たが、78年の引退後から学業に「専念」し、86年にハレテ整形外科医「ドクター・ホプキンス」となったのである。
日本では、2つや3つの分野のトップレベルで抜きん出る人など滅多にいないが、ホプキンスは日本でも、間違いなくスカラー・アスリート(秀才アスリート)になれたと思う選手は何人かはイタという。
しかし頭脳に問題がなかったせよ、日本の会社員・同様に彼らは野球シカやっていなかった。
すべてのエネルギーを、たった1つの目標に注ぎ込むことが、立派な生き方のような感じで、「生涯一捕手」ナンテいう言い方をする。
これも「地球の裏側」のモウヒトツの野球の「一側面」なのかもしれない。