石も土も貝も

上を向いては歩けない。
ウツムイテ、下を向いて歩いたら、石や土や貝殻をみつけて、人生を転じた人もいる。
そこに「宝」を見つけたのだが、石や土や貝殻を見て「何か」をが見つける人がいるとしたら、それは石や土や貝殻の方で、ソノ人に掘り出されることを願ったのかもしれない。
ソンナことを思わせる人々がいる。

中村泰二郎氏はパワーストーン・天然石のアクセサリーショップ「ストーンマーケット」の社長である。
店舗数が120店舗あって、年商120億の売り上げがあるらしいが、失礼ながらソコマデ儲けていいの、という気がしなでもない。
しかし、中村氏の「人生」の転機というものがナカナカ面白い。
1993年、中村氏はアメリカへの旅行に行った。
当時の中村泰二郎氏は、事業の失敗から4千万という借金を抱え、遠くに逃げるかのようにロス行きの飛行機に乗った。
アメリカ行きを決意した時、手持ちは50万円しかなかった。
翌日便のビジネスクラスの1席だけ空いていて、48万円もするビジネスクラスのチケットでアメリカに向かった。
これだけみても、相当ニツマッテっていたことがうかがえる。しかしコレガ運命的な座席だった。
たまたま隣の席になったマネーブローカーと名乗る白人男性が中村氏に言った。
「もし、アメリカで何かを見つけたいなら、都会より田舎に行くといい。田舎へ行けば、逆に新しいものが見つかるだろう」と。
中村氏は、ソノ助言通りにロスからアリゾナ州ツーソン、そして、ニューメキシコ州サンタフェにヒッチハイクで行った。
ツーソンは古きよきアメリカの田舎の名残りを残した穏やかな街で、ツーソンの人たちのライフスタイルが中村氏の「考え方」に大きな変化を起こした。
彼らの多くが自分の仕事をこよなく愛し、自分の仕事に誇りを持ち、楽しみながら働いていて、生活と仕事も密着していた。
中村氏は、「仕事とは何なのか」ということを問い直す機会となった。
ツーソンといえば、世界最大の石のイベント「ツーソン・ミネラルショー」が開催される地としても有名である。
そしてニューメキシコ州サンタフェは、サンタフェで見た星空や天の川も、キラキラと輝いていて、その美しさはこの世のものとは思えない美しさだった。
B'zの稲葉浩志氏も中村氏と同じ年だが、レコーディングとツアーが重なって疲れた時に、ニューメキシコ州に一人旅をしてことがあった。
その時に、景色と現地の人々との出会いが感動的で、何か「吹っ切れる」ものがあったという。
中村氏は、サンタフェでネイティブアメリカンと寝食をともにし、彼らが身に付けていた「ターコイズ」のアクセサリーの意味や彼ら自身の生き方を学んだ。
彼らの一人が「ターコイズがなぜこんなにキレイなブルーをしているのか、知っているか 私たちの間では、人間に掘って欲しかったからこんな色になったと言われている。そうじゃないと、色が付いている説明がつかないんだ」といった。
ナルホド、石たちがそれぞれに個性ともいえる色を持っているのか不思議だった。
中村氏は、この言葉を聞いた瞬間、「石を日本に広めたい」と強く願ったという。
降り返れば、この瞬間コソが「ストーンマーケット」の出発点となった。
今も中村氏の胸には、ネイティブアメリカンからもらったターコイズのネックレスが光っている。

青森の「奇跡」といわれたリンゴを育てた人がいる。リンゴの「無農薬栽培」を始めた木村秋則氏が岩木山で突然にヒラメイタ事とは、リンゴを無農薬で育てるということは「土を育てる」ということであった。
それも、「土の表面」ではなく、「土の中」を育てるということだった。
「無農薬」のリンゴの木は、葉は出てくるものの、花は咲かず、毎日毎日「害虫取り」をしても追いつかず、木村氏の7年間はホボ害虫と病気の闘いだったという。
木村氏は、収入のない生活が続き、何をドウやっても害虫の被害がなくならない。
そのうち家を二度も追い出され、世間からも「変人扱い」された。
おそらく木村氏ほど、「農薬」のアリガタミをイヤというほど味あわせられた人はいなかったかもしれない。
実をつけぬリンゴの木1本1本に「ごめんなさい」と声をかけて回り、周囲からは「気が狂った」と思われたこともあった。
戦後の大ヒット曲「リンゴの唄」に「リンゴは何にもいわないけれど、リンゴの気持ちはよくわかる」という詞があるが、木村氏の話し相手は、リンゴしかいなくなっていたのだ。
木村氏の転機は、絶望に打ちヒシガレ岩木山に上って弘前の夜景を眺めつつ佇んでいた時に起きた。
下を向くと、足元の草木等が小さな「りんごの木」に見えてきた。
しゃがんで土をスクッテみると、畑の草はすっと抜けてしまうのに、何もしていないのに根っこが張っていて抜けなかった。
またソノ土のニオイは畑の匂いとぜんぜん違っていた。
木村氏はこの時、この「粘り」(根張り)こそが重要だと気づき、大切なのは「土の表面」ではなく「土の中」ナノダと思い至った。
そして木村氏にはカツテ得た大豆の根粒菌の作用による「土作り」の知識があり、「無農薬のリンゴ」挑戦の6年目にして、大豆をバラ撒いた。
そうすると、年を追う「カイゼン」が見られ、落葉が少なくなり、花が咲くようになった。
そして、8年目になって少しばかり小さなリンゴが実り始めた。
そして翌年、ツイニ畑一面にりんごの白い花が咲き乱れた。
木村氏は、その風景を見た時に足がスクンデ身動きできなくなり、涙が止まらなくなったという。

1872年のある日、横浜港に降り立った18歳の少年がいた。彼の名はマーカス・サミュエルである。
ヘブライ語の名前が旧約聖書の「エステル記」に登場するモルデカイであった。
サミュエルはロンドンの貧しい行商人の子として生まれたイギリス系ユダヤ人であった。
両親は、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立ていた。
子どもが11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく元気イッパイだった。
しかし、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。
この息子が高校を卒業した時、父親は彼に極東へ行く船の三等船室の片道切符を1枚、「お祝い」として贈った。
この息子は1871年、-ロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。
そして、船の終点である横浜までやってきた。
懐に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円である。
日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。
彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな「無人小屋」にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。
そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。
よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。
彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。
そこで彼は、自分でもセッセと貝を拾い始めた。
その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は「手押し車」に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。
当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。
やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。
そして最初はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、ドンドン発展していった。
というわけで、マーカス・サミュエルは日本の貝殻をボタンや小物玩具に加工してイギリスへ輸出して成功し、多くの富を得ることができたのである。
ところでコノ時代、世界中のビジネスマンのあいだで一番話題になっていたのが「石油」だった。
ちょうど内燃機関が登場し、石油の需要が急増しつつあった。
この時代、同じユダヤ人のロックフェラーも「石油王」への道を開きかけていた。
サミュエルも、この石油の採掘に目をつけた。
彼自身は石油についての知識は何もなかったものの、人に色々相談して、インドネシアなら石油が出るのではないかと考え、そこで石油を探させた。
そして、幸運にも石油を掘り当てることができた。
しかしインドネシアの気候は暖かいし、石油を使う必要なほど産業が発展しているわけではない。
石油の売り先はドコカ他の地に求める外はなかった。
そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」という会社をつくって、日本に石油を売り込み始めた。
この時、石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということが大問題だった。
初めのうちは2ガロン「缶」で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。
それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのを嫌がり、運賃がベラボーに高くなった。
そこでサミュエルは「造船」の専門家を招いて、世界で初めての「タンカー船」をデザインした。
そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。
サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことである。
ちなみに「ミュレックス」は「アッキ貝」の意味である。
つまりサミュエルは、自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけたのである。
これにつき、彼自身次のように書き残している。
「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」。
1894年7月に開戦した日清戦争は、日本の安全保障上、朝鮮半島を独立させ半島にロシアや西洋列強を軍事進出させないことが重要であった。
その際に、貿易商サミュエルは食料や軍需物資の調達と輸送で日本軍を支援し、日本の勝利に貢献した。
1895年3月、朝鮮半島の独立を「大義」として日本が宣戦した日清戦争は終結した。
日本が勝利したことで、朝鮮半島は清の勢力圏から切り離された。
サミュエルは、1897年に日本政府が銀本位制から金本位制に転換する際も、日本国債を売って資金調達に助力し、世界に日清戦争の勝者である日本の存在を印象づけた。
サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から外国人初の「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。
ところが、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対する反発が強まっていき、この会社を売らなければならなくなった。
というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊にサミュエルが石油を供給していたからである。
サミュエルは、会社を売らなければならなくなった時、いくつかの条件を出した。
その1つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。
第二に、この会社が続く限り、貝を「商標」とすることであった。
サミュエルには「自分の原点」を強く記念したがる傾向がある。
この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。
1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、本社を横浜の元町に置いた。
彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。
こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。
1907年イギリスのロスチャイルド財閥の推進により、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」とイギリス資本の「シェル石油会社」が合併して「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生したのである。
ちなみに、このイギリス=オランダ連合の「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」である。
現在、「シェルグループ」の企業は145の国に広がり、全体で12万人以上の従業員がいる。
ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになり、ロンドン市長にもなった。
1927年に、74歳で生涯を閉じている。

アメリカ・カリフォルニアのゴールドラッシュで「金」を掘り出して富を築いた人の中で、ハーストの子供は「新聞王」となり、レランド・スタンフォードは金脈を発見し大学を創った。
スタンフォードのソノ子孫は「シリコンバレー」という新たなアメリカの「金脈」を生み出した。
しかしゴールドによらず、人によっては石でも、貝殻でさえも、「金脈」とした人もいる。
日本の「貝殻」工芸からインスピレーションをえて大会社となったのが、「ティファニー」である。
オードリーヘップバーン主演の映画「テイファニーで朝食を」(1961年)のティファニーである。
映画「テイファニーで朝食を」では、同じアパートに住む「ユニヨシ」とかいう出っ歯でメガネの日本人が登場したのは、カナリ不愉快だったが。
1839年代「ティファニー」の創業者チャールズ・ルイス・ティファニーはニューヨーク・ブロードウェイで文房具と装飾品の店を始める。
なかなか業績の上がらない商売に頭を痛めていたチャールズは、あるときボストンの港で船から陸揚げされたばかりの荷を見て回っていた時、今までに見たこともない美しいものを見つけた。
初めて見る象眼、螺鈿、美しい装飾を施した精巧な日本の工芸品に彼は魅了され、感激した。
とても手の届かない高額な値段だったが親族中を回って借金をし、彼の命運をかけた買い付けをした。
大博打だったが、店に置くと大評判で、スグに売れてしまった。
というわけで、イマダ「鎖国中」だった日本の物産をイチ早くアメリカに紹介したのが「ティファニー」でもあった。
1861年にアメリカで南北戦争が始まると宝石などの贅沢品はたちまち売れなくなる。
ナントこの頃の「ティファニー」の店頭には「宝石」ではなく「ライフル銃」や「刀剣」が並んでいた。
南北戦争が終わると、これらのライフルは「無用の長物」となり、その多くが明治の維新の真っ最中であった日本に流れてきたのだ。
つまりアメリカの南北戦争の「使い古し」の銃で、明治維新は戦われた。
テイファニーと日本との因縁は、コレダケにはとどまらない。
チャールズは「銀製品」の生産に力を注いだが、その息子エドワード・C・ムーアが1868年にティファニー社の筆頭デザイナーに就任するとティファニーのデザインが変化していく。
エドワードがパリ万博で日本の工芸品に触発されたのである。
そし、て日本の金属細工師の一団をニューヨークに招請した。
ティファニー社には金製品・銀製品を別々に作る技術しか持っていなかった。
一方、日本では金工象嵌に限らず、漆地に薄く削ったアワビの貝殻を嵌めこむ「螺鈿細工」などの象嵌も広く行われていた。
ティファニー社はこの技法を日本の金属細工師から学び、1870年代後半になると銀地に金や銅などの違う金属を載せる製品を次々と発表していく。
その斬新さは評判をよび、今日に至る「ティファニー」の発展のキッカケをつくったのである。