原告適格

最近、「国民の生活が第一」というアタリマエのことを「政党名」とする党が出来るくらいだから、日本という国はヨホド「国民の生活」が第一になってイナイことを、内外に「表明」したようなものかもしれない。
折りしも新聞に、オスプレイという軍用機が、日本全国各地で「飛行訓練」を繰り返すルートが表示されていた。
このたび北九州での豪雨で災害にあった地域もそのルートに入っており、この地域の人々は空を見上げては「怨嗟」のタメ息が出そうな気分になるのかもしれない。
ちなみに、オスプレイとは猛禽類のタカの一種である「ミサゴ」のことである。別名「未亡人製造機」ともよばれている。
「国民の生活」にとっては、オスプレイがもっている安全保障上の性能など「抽象的な問題」であり、ソノ飛行に「安全性が保証されているかどうか」ということが、具体的カツ差し迫った問題なのである。
それが充分保障されているとは思えない軍用機が「訓練」の名の下で、上空を頻繁に飛ぶ「不快さ」はケシテ軽いものではない。
カリニ、その「精神的苦痛」を裁判に訴えるというようなケースを考えてみると、裁判所は「誰か」の訴えがアレバ、即、受け付けるというわけにはいかない。
そんなことをしていたら、裁判所はパンクしてまう。
そもそも「裁判」に訴える「資格」がアルノカどうか、ということがマズ審査される。
主に行政事件訴訟において、原告として合法的に訴訟を提起し、判決を受けることのできる資格のことを「原告適格」とよぶ。
そして、原告適格については第一義的には「法律上の利益を有する者」と限定している。
そのため、自分に「法律上の利益」がない場合、第三者の立場から行政処分の無効や差し止めなどを求めることはできない。
というわけで、オスプレイが不快な飛行物体だっとしても、自分の頭上を頻繁に飛ぶわけではない「ワタクシ」的訴えは裁判所で「門前払い」をクラウだろう。
この「原告適格」の問題に関連して興味深い新聞記事があった。
「環境保全」の観点から公共事業の差し止めを求める訴訟では、その土地に生息する野生生物を「原告」として訴訟を提起する例がアメリカで見られるという。
最近、沖縄の海に住むジュゴンを守るため、米軍基地建設を計画しているラムズフェルド米国防長官らを訴えたアメリカでの訴訟があった。
この訴訟では、ジュゴンに「原告適格」が認められたというのだから、驚きである。
当然ながら、日本の裁判所は「人間以外」の生物を原告にすることを認めていない。
人間以外を「原告」にできるならば、「甲子園の土」だって球児によって勝手にモチダスナと訴えたくなるかもしれない。
この「砂たち」の叫びを裁判所は聞いてくれるだろうか。
さてコノ「原告適格」の問題については、高校の「政治経済」の教科書にも登場する「長沼ナイキ基地訴訟」や「朝日訴訟」という重大裁判にも、隠れた問題として存在することに最近気がついた。
「長沼ナイキ基地訴訟」は、自衛隊の「合憲/違憲」が問われた重大判決で、1971年に最高裁判決がでた。
結論をいうと、自衛隊の存在といった国政もしくは安全保障上の「根幹」に関わるような国家行為(統治行為)は、司法での判断にナジマナイので、国民の代表者で構成される「国会」で決めるべき問題であるという判決であった。
つまり、自衛隊の「合憲/違憲」を「司法審査」の対象外としたのである。
この判決で華々しく議論のマトとなった「統治行為論」の蔭に隠れて目立たないのが「原告適格」(=訴えの利益)の問題だが、ソレは次のような経緯の中で問われたのである。
政府は、長沼地区にミサイル(ナイキJ)基地をつくる目的で、治山治水のために形成された「保安林」を解除した処分は、洪水の危険性を増し「住民の利益」に反するものであった。
さらに自衛隊がソモソモ「憲法違反」である以上、この「処分」は認められないという周辺住民を「原告」として争われたものであった。
1973年「第一審判決」(札幌地裁)では「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」として、単に自国の防衛のために必要であるという理由では、それが軍隊ないし戦力であることを否定する根拠にはナラナイとして、初の自衛隊・違憲判決を出したのである。
そこで、保安林解除の目的が憲法に違反する場合、森林法第26条にいう「公益上の理由」にはあたらナイため、「国有保安林解除」を取り消すとした。
また、保安林指定解除処分とナイキJの発射基地の設置により、有事の際には相手国の攻撃の「第一目標」になるため、憲法前文にいう「平和のうちに生存する権利」(=平和的生存権)を侵害されるオソレがあるとし、「原告適格」を認めた。
さらに「平和的生存権」については、「国民一人ひとりが平和のうちに生存し、かつその幸福を追求することができる権利」と明確に判示した。
つまり、「平和的生存権」が、「原告適格」の条件として認められたということである。
ところが、1976年の第二審判決(札幌高裁)では、「住民側の訴えの利益」(洪水の危険性)は、防衛施設庁の代替施設建設(ダム)によって補填されるとして、一審判決を覆し、原告の請求を棄却したのである。
つまり、代替施設たるダムよって「訴えの利益」が失われたことを意味している。
「平和的生存権」については、プログラム規定(政府の努力目標)であるゆえに法的拘束力をもたないのか、具体的権利として裁判規範の対象となるのか、あるいは抽象的権利として法規範性はあるけども裁判規範の対象とはナラズ、「立法化」をマッテ裁判にナジムものとするか、イマダ論争があることを付言しておこう。

ところで、日本には終戦直後から「株主代表訴訟制度」というものがあったにもかかわらず、この制度が実質的に機能し始めたのは、1990年代になってからである。
「株主代表訴訟」は、株主が会社に代わって会社のために取締役らの責任を追及する制度である。
つまり、株主が主導する訴訟により会社が「救済」を得る制度である。
会社は株主代表訴訟により取締役らによって与えられた損害を回復することができ、その訴訟にあっては,取締役らの業務執行の是非が争われる。
その結果、裁判所が問題があると判断すれば、取締役らは「損害賠償責任」を負うとされるものである。
株主代表訴訟により、取締役らは株主代表訴訟に巻き込まれることを避けるべく、自身の逸脱行為を慎むようになり、健全で適法な会社経営が実行されるという「抑止効果」も期待できる。
ところでこうした「株主代表訴訟」はイワバ日本型であり、世界のソレと比べてユニークなものであるという。
OECDで は、株主代表訴訟制度を「少数株主の救済」のための制度と位置づけている。
上場企業の多くにおいても支配株主が存在するが,支配株主の逸脱行為により少数株主が害される危険性は高い。
そのために、株主代表訴訟制度は、支配株主の恣意的行為に害された少数株主を「救済」するためのものと理解されている。
さて、この制度にも「原告適格」の問題が横たわっている。
つまり「取締役」の責任を追及しうる者としてどのような者を認め、その責任追及手続をどのように設定するかという点である。
多数株主の信任を得ている「取締役」が会社の経営を実施しているという状況の中では、株主が取締役の責任追及訴訟を提起するためのハードルは高くなり、限定的なものとなりがちである。
日本における株主代表訴訟制度に転機が訪れたのは1993年の「商法改正」である。
こえまで株主代表訴訟を利用する際のアシカセとなっていたのは、裁判所に納入する「訴訟費用」の高さであった。
しかしこの「商法改正」で、一般の民事訴訟と同様に訴額スライド方式で計算されば高額となる株主代表訴訟の「訴訟費用」を低廉化・画一化することが立法的に確認され、勝訴株主の会社に対する「費用償還請求権」の対象として弁護士費用以外の経費も含められたのである。
株主代表訴訟は、提訴株主が会社に代わって被告取締役の「責任」を追及する訴訟である。
このため被告とされた取締役は、株主代表訴訟に対する訴訟防御活動に会社の「資源」を利用できずに、自ら弁護士を選任し訴訟追行しなければならない。
会社の経営陣のトップが、自身の経営判断や行動が裁判の場で問われ、経営陣自身ノミでそれに対処するという負担は直接的で大きい。
これまで「代表訴訟制度」があることスラ認識していなかった経営者に対して、常に「経営責任」を負う立場にあるということを「認識」させたという意味では、大きな「意義」をもつものであった。
さて、株主代表訴訟においても、「原告適格」の問題が様々アリ、会社が持ち株会社になって訴える側が「株主たる地位」を失ったり、訴えられる側の経営者が合併により「別会社」の取締役になったりするケースもある。
スベテの株主にその「資格」を認めるか、何割以上の株を所有する「株主」にその資格を限定するかという問題もある。
さらには、経営陣の判断ミスにより「利益」を失うのは株主ばかりではなく、債権者や従業員といえどもそうであり、 果たして経営責任の追及にあたってドコマデ「原告適格」を認めるかは、大きな問題である。

さて「原告適格」の問題として、ヤハリ高等学校「政治経済」の教科書に登場する「憲法25条」の生存権の実質的意味が問われた「朝日訴訟」がある。
なぜならば朝日訴訟は、訴訟手続きが進められている中で原告の朝日さんが亡くなられたからである。
通常、訴訟当事者が死亡した場合は、その「相続人」が訴訟承継人として当事者の地位を引き継ぐ。
しかし、原告の朝日さんが請求の根拠としていた生活保護受給権は当事者の死亡により当然に消滅し、相続人には引き継がれないという「一身専属権」であることから、朝日さんが死亡した後は生活保護受給権も消滅し、裁判を続ける意味がなくなったことから、最高裁判所が判決をもって訴訟の終了を宣言した。
この朝日訴訟の「歴史的背景」をいうと、溯ること3年、1954年に「防衛庁」が設置され、社会保障予算がほぼ半減さた。
結核療養中の患者の6割が病院から追い出されることになり、診療報酬はマイナス改定され、医師の自殺が相次いだ。
この事態を何とかしたいと、医師約80人が「予算復活」を求めて日々谷公園座り込みを開始した。
8日間続くことになる医師の座り込みを支援したのは、テントや鍋釜を下げて駆けつけた「労働者」達であった。
その座り込み開始の2日後、岡山の朝日茂さんなど500人の患者さんが県庁へ陳情に行き、知事室前で10時間も座り込みをする事態となった。
やがて東京では2300人の「患者」達が都庁で3日間座り込んだ。
このような国民の「抗議行動」が繰り返し行われたにもかかわらず、社会保障予算は増やされなかったのである。
朝日茂さんは、重度の肺結核患者で、国立岡山療養所に入所し、退職金も使い果たし、1956年当時「生活保護」の医療扶助と月額600円の入院患者日用品費の支給を受けてた。
その朝日さんに実兄が見つかったという朗報が届き、月額1500円の仕送りが届くようになった。
しかし、津山福祉事務所は、それまで支給していた600円の生活扶助を打ち切り、さらに医療費の一部負担900円を負担させるというアマリニ無情な「保護変更決定」を行ったのである。
月額600円という基準の中身は、「肌着2年に1枚、パンツ1年に1枚、ちり紙1日1枚半」といったものであった。
朝日茂さんは、仕送りの中からせめて1000円残してほしいと、生活保護基準に基づく処分は「憲法25条」に反するものだと提訴した。
この訴えに対し、1960年東京地方裁判所が「憲法25条1項は、単に自由権的人権の保障のみに止まらず、国家権力の積極的な施策に基づき国民に対し、”人間に値する生存”を保障しようといういわゆる生存権的基本的人権の保障に関して規定したものである」という画期的判決が出されたのである。
しかし、国側の控訴によって朝日さんは引き続き戦うことを余儀なくされたが、病状は悪化、危篤が伝えられるようになった。
そこで、この「訴訟」の成果を守り発展させるため、争訟運動を続けたいという声が大きくなり、やがて日本患者同盟の常任幹事となっていた人物が、朝日茂さんと「夫婦養子縁組」をし、訴訟上告審を「承継」したのである。
この朝日健二さんが、岡山県津山市の戸籍係で「養子縁組」の届出を終えたのは、朝日茂さんが「永眠」するワズカ1時間前であったという。
国立岡山療養所の講堂で開かれた「告別集会」はソノママ決起集会となった。
3年後、最高裁は「承継」を認めないとする判決を出し、裁判は終結したものの、保護基準は朝日訴訟一審勝訴をきっかけに、その翌年から23年連続して引き上げられている。
最高裁判所では憲法25条は「プログラム規定」にすぎない、ツマリ「政府の方針」の方向性を示すものにスギナイとして、「生活保護基準引き下げ」処分の違憲性にツイテは勝訴することはできなかったが、実質的な意味での成果は得ることができたといえる。
ところで、最近の高齢化社会における様々な「保護基準」の切り下げにともなう「生存権」をめぐる今日の状況は、朝日訴訟の時代に近似してしてきているともいえる。
防衛省設置の時期同様に、今後は軍事予算と社会保障予算とのセメギアイが激しくなるかもしれない。

「原告の請求を棄却する」、コノ言葉しばしば聞く言葉である。
我々は、裁判の判決という「出口」にのみ興味を抱くが、裁判の「入口」たる「原告適格」審査についてアマリに意識が高いとはいえない。
「原告適格」はアンマリ広く認めると裁判の件数や当事者が増えて裁判所の負担が増えるから、カナリ狭く解されてきた。
例えば基地周辺の住民には原告適格を認めなかったが、最近では行政事件訴訟法が「改正」され、原告適格は広がってきているという。
例えば、最高裁は「原子炉設置許可処分」で、「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」24条1項で原子炉設置の許可要件として「災害防止上支障がない」ことを掲げている。
それで、このことを根拠にして、原子炉事故の際に「災害」に当たるような甚大な被害を被ると予想される範囲の周辺住民に原子炉設置許可処分を争う「原告適格」を認めた。
これに対して、最近ではワザワザ「核原料...に関する法律」の文言を引き合いに出さなくても、周辺住民の生命・身体が法律上保護に値する利益に当たるのは「明白」だから、周辺住民に原告適格はあるとする。
それも「災害」といえるほど甚大な被害を被るおそれがある者でなくてもよいということにもなる。
最高裁の説では、一応処分の根拠法令の中でソノ者を保護する趣旨が読み取れるかドウカという「基準」で決するにもかかわらず、最高裁自身が場合によっては条文の手ガカリがない場合にも「原告適格」を認めるのだという。
要するに「原告適格」ほどアイマイな司法概念はナイといえ、それは裁判所の「恣意的」判断に任せられているといっても過言ではない。
裁判においては、判決という「出口」バカリではなく、「原告適格」という「入口」にも注視スベシということである。