言葉のちから

昨年末に、「ソロモン流」で一青窈さんの紹介やってました。
自らの言葉で独特の世界で紡いでいくのは、独自のキャラクターや壁紙で自分の部屋を飾り立てる 人にも似ているのかな、と思った。
一青窈さんは、台湾人の父親と日本人の母親との間にに生まれ、父親を早くなくして以来詩を書くようになったが、母親が病の床につくにあたっては、言葉を紡ぐことだけが「救い」であったそうだ。
中学3年の時に、母親が酸素マスクを外すときにも詩を書いていたという。
しかしそれでもしばらくの間、自分の気持ちをコントロールすることはナカナカできなかったという。
人間というものは、ポッカリと空いたところを「埋め」ようとして努力しているかもしれない。
いずれにせよ、何らかの喪失感や不安感が個人の「創造力」の源泉であることは確かなようである。
ところで最近アメリカで、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」がはやっていると聞いた。
「夜明けのスキャット」のルールルルーの歌がはやった1969年は、東大安田行動の攻防や連続ピストル射殺事件、プロ野球の黒い霧事件などで荒んだ空気が世に広がっていたことを思い出す。
911テロ以後の世界的な空気の中で「時代は巡るよ」という感じがするが、実は我が個人史の中で最初の音楽カセットテープ購入は由紀さおりのテープであったことを、ココに告白します。
また、一青窈さんのケースで特徴的なのは、例えば「あこるでぃおん」と題する歌などにある。
「あこるでぃおん」とは、「アコーデオン」という楽器が日本にやってきたときの名残かと思ったら、実は彼女が幼い頃やっていた「ラ行入れ」の言葉遊びから来ているらしい。
言葉で遊ぶということは、世界を「組み替える」まではいかなくても、入るスキマのない世界に少しばかりのユルミを見つけたり、アソビをつくりだす行為に似ているのではないだろうか。
「夜明けのスキャット」の歌だって♪夜明けのスキップ♪とか、♪夜明けの助っ人♪とか、♪夜明けのスキヤキ、じゅーじゅるるる♪などど、「替え題」「替え歌」でイメージを膨らませると、結構楽しく遊べます。(低レベルで、すみるません)

2012年正月の新聞朝刊には、政治も経済も外交もドレモコレモ「行き詰まり」感にあふれていたが、そこからくる焦燥感や不安感が、創造やイノベーションの源泉たりうるのか、暴力や破壊に繋がっていくのか、そこが2012年を決定づけることになろう。
こういう苦境の時代には、苦境をなんとか打開しようとした市井の人々が再発見されたりするものなのだ。
金子みすゞさんの生涯がドラマ化されたり、山本作兵衛の生涯がテレビで紹介されたりするのも、そうした時代の空気と無関係ではないだろう。
今確かに平凡にも思えた金子みすゞさんの「言葉」が強く浮き出してくるように思える。
金子みすゞさんの詩は、昨年の流行語大賞候補にもなった「こだまでしょうか」ですかで、さらに一般に知られたが、その生涯は「火宅の人」だったといえる。
実生活の「行き詰まり」感からくる不安感であり喪失感であり、そこから生まれた言葉が現代人を癒す力となってくれる。
ACジャパンのCMに登場する「思い」はみえないが「思いやり」は見える、だから行動しなきゃだめという意味ではナイみたいです。
自分が発した言葉によって、相手から返ってくる言葉も変わる。
それはまるで「こだま」のようで、「こだまなのかな?」と自問した結果、「いいや、ちがう、誰も」と 答えている。
つまり一人一人が「こだま」のように響きあう存在なのだというメッセージなのかもしれません。
つまり言葉というのは、人から人へ「こだま」のようにするように、人々の「思い」は目に見えないものだとしても、我々の祈りや願いなんかも「こだま」のように反響し伝わっていくものということなのだ。
かように単純ながら奥深い詩なのですが、金子みすゞさんの詩は「目にみえない」ものに心を向けた人で、「見えない」ものに寄せるべき気持ちが痩せ細ってしまった時代にこそ、逆に金子みすゞさんの詩が力を持ちえた理由かもしれない。
そういう命が通った生きた「言葉」の多くが、実は悲嘆の底から生み出したものであることを、しばしば思い知らされるのである。
金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」という詩にも、作詞の時期を調べるまでは至らなかったが、背後にどこか強い「喪失感」を感じさせるものがある。 

 青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。
 ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

つまり、自分を奮い立たせようと書いた言葉が、実は同様な境遇にある他の人々を勇気づける言葉になって いくのだろう。
ところで、冒頭で紹介した一青窈さんの話を聞いた時に、自殺を図ろうとしている母親の行為を感じ取りながら押入れのなかで本を読む以外になにもするスベがなかった作家の宮本輝氏のことを思い浮かべた。
大阪の繁華街を舞台を美しい世界昇華させた宮本輝さんの作品から、人間というものはポッカリと空いたところを埋めようとして努力している存在であることがうかがいしれる。
その「空白」の埋め方が、詩であり文章であり、絵であり音であったりするのだろう。
宮本輝氏は芥川賞作品「蛍川」に始まる、数々の作品を生み出している現代作家である。
映画化された作品では、「泥の河」や「道頓堀川」がよく知られている。
宮本氏は1947年、神戸市弓木町に生まれている。当時、父親は自動車部品を扱う企業の経営者だった。
1952年大阪中之島に転居、キリスト教系の幼稚園に入園するもシスターに左利きを矯正された際、顔が左に向いたままのに固着する症状起こしてしまう。
ある担当医が「矯正が原因ではないか」と言ったため退園したところ、症状は消え顔は依然同様前を向けるようになったという。
つまり幼少時より、ストレスに対して身体反応をおこし易い子だった。
その後、歓楽街のど真ん中にある大阪市立曽根崎小学校に入学するも、父親の事業の失敗等で一時父親の妹宅に預けられたりする。
貧困の渦中にあって、父親の女性問題、両親の喧嘩、憎み合い、その結果、母親のアルコール依存症更には自殺未遂と、アラシの只中のような家族環境の中で育った。
宮本氏の特質的なところは、当然の如く社会・家族不安に陥り、内にこもりがちになり、家庭の中に居場所を見出すこともできず、「押入れ」の中で耳を塞ぐようにして読書を始めるようになる。
そして「押入れ」の中で言葉の力に目覚めて言った。
押入れの中で読んだ井上靖の「あすなろ物語」や、山本周五郎「青べか物語」やファーブル「昆虫記」などであったという。
大学受験に失敗し、浪人生活に入るも中之島図書館に通い詰めるようになり、外国文学に熱中するようになる。
追手門学院大学文学部に入学するも、家庭は貧困の中にあり、アルバイトの収入で授業料を支払った。
自ら生活費を稼ぎ出すほかはなく、かつての「押入れ生活」から飛び出し、様々の仕事にに従事した。それらの体験が人間社会の諸相を見つめる上で役立ったと思われる。
当時父親は事業に失敗し、愛人宅に入りびたりで家には全く帰らなかったが、ほどなくして脳梗塞を起こし倒れ、半身不随でありながら暴れ狂い精神病院の閉鎖病棟の中で狂死したという。
父親の残した多大な借金の取り立てから逃げるようにして母親と一緒に転居するも、隠れるような家には寄り付かず、道頓堀界隈をふらつき、酒と博打に明け暮れる日々を送るようになった。
この大学生活が後に「青が散る」という作品になり、切ない道頓堀川での生活が「泥の河」という名品に昇華されていった。
「泥の河」は道頓堀川に住む貧しい少年と少女の切ない淡い恋愛感情を、暗く澱んだ川に映し出されている。
更に小栗康平監督のもと映画化され、国際的に評価され、当時加賀まりこさんの魅力を引き出したという評があったのを記憶している。
宮本氏は大学卒業後、サンケイ広告社に入社後、コピーライターとして仕事をするようになる。
しかし、競馬に熱中し、競馬必勝法なるものを考案したりしたものの、危うくサラ金地獄に陥りそうになる。
このままいくと父親と同様に破滅的な人生に突き進んで行きそうであったが、意外にもこれを救ったのが「パニック障害」であった。
このような危うい社会人生活を送っていた24歳のある日、電車の中で眩暈と激しい動悸、即ちパニック発作を起こす。
友人と京都競馬場に行く約束をして電車に乗って座席に座っると、何だかボーっと、面に吸い込まれていく感覚に襲われた。
眩暈で死ぬかという物凄い恐怖感が来て動悸が激しくなった。それで競馬を見にく気にもならず、這々の体で家に帰ったという。
いろんな生活や仕事のストレスというのが、まだ若い宮本氏を一機に襲ってきたのかもしれない。
その後しばしばパニック発作に襲われ、死の恐怖の中に陥るが、何とか耐えて仕事をしていた。
しかし、28歳時その恐怖が極限状況になって会社を退職し家にヒキコモルことになるが、中学生頃よりもともと、社会不安のために押入れにこもり空想の世界に浸る習性があった。
小説を書く以外に生きるスベがなかったのだが、それまでの氏の極限的生活の体験が多くの物語を脳内に醸成し小説を作り出す土台になったことが推測される。
「蛍川」の最終章で、あまたの蛍が服にカラミつくように乱れ飛ぶシーンは、大変美しいものがあった。
宮本氏の場合には、不安や焦燥が「美」へと昇華したように思えるが、蛍の飛び交うシーンがそれをシンボリックに表しているように思えた。

金子みすゞの生涯は、事実は小説より奇なり、をジでいくような生涯であった。
さらに東京西荻にあり、桃井かおりなど数多くの名優を生むことになる劇団「若草」も、みすゞの実の弟・正祐が創立したということも、童謡詩を生み出した金子みすゞの生涯と「合わせ鏡」のようなカタチにも思える。
金子みすゞは1903年、カマボコで有名な山口県大津郡仙崎村に生まれた。
兄弟には兄・堅助、弟・正祐がいた。
父・庄之助は、母の妹つまりみすゞの叔母フジの嫁ぎ先である上山文英堂書店の清国営口支店の支店長として清国に渡ったが、その翌年に何者かによって殺されてしまう。
遺族となった金子一家は、上山文英堂のバックアップで、仙崎で金子文英堂書店を始めた。
ちょうどその頃、子に恵まれなかった上山松蔵とフジ夫妻の元へ、弟・正祐が養子としてもらわれることになった。
当時、一歳の正祐にはそのことは知らされず、上山家の長男として育てられることになる。
1918みすゞの叔母にあたるフジが亡くなり、翌年みすゞの母・ミチが、亡くなった妹の夫である上山松蔵と再婚することになった。
そしてみすゞと正祐は再び姉弟は再び共に生活をつづけるのだが、正祐には依然として、養子という事実は知らされてはいなかった。
みすゞは尋常小学校時代から成績優秀で、やがて童謡に目覚め、高等女学校を卒業してからは、下関に移った上山文英堂書店の手伝いをしながら、雑誌に詩の投稿を始めた。
一方、みすゞの実の弟である正祐は作曲を覚えるようになり、みすゞの詩に曲をつけたりするようになっていく。
1923年頃からペンネーム「金子みすゞ」で童謡を書き始めるようになり、雑誌「童話」で西條八十に認められたりして、若き詩人の間でも注目を集めるようになる。
1925年、正祐に徴兵検査の通知があり、その時に正祐は自分が養子であることを知るが、実の両親のことを養父に聞くことはせず、みすゞを実の姉とも知らず親しく付き合い続けた。
1926年、正祐の養父・松蔵は、正祐とみすゞの関係を心配して、上山文英堂の番頭だった宮本という男とみすゞを結婚させることにしたが、宮本の悪い噂を聞いていた正祐は、みすゞに結婚を思いとどまるように説得した。
しかし、正祐を「実の弟」と知るみすゞは、今まで世話になった叔父・松蔵の提案に逆らうこともできず、宮本と結婚することになる。
 同年11月に長女を授かるが、宮本の女性問題が叔父・松蔵の逆鱗にふれ、店か追い出され新しい仕事を始めたが、ついには病気を持ち帰り、みすゞも淋病を移されてしまう。
また、みすゞが投稿した詩が世間に認められるのが気に食わないのか、詩作や投稿仲間との手紙を禁じたりするようになる。
しかし、宮本の放蕩ぶりは収まらず、金にも困りだし、住居を転々とする。
そして1930年ついにみすゞは長女を連れて宮本との別居にふみきるが、宮本は要求すればいつでも娘を引き渡すという条件で離婚に応じた。
しかし再三にわたって、宮本から娘の引渡し要求があったが、みすゞは断固としてこれに応じることはなかった。
宮本もあきらめず、娘を連れに行くと通告してきたが、みすゞはその前日に長女を母に預けて、ひとり写真館に行った。
そして、その日の夜、ふさえが母の寝床で眠るのを見届け、自分の寝室で、遺書と写真の預け証を枕元に置き、薬を飲んで自殺してしまった。
金子みすゞにしてみれば、娘を渡すくらいなら死んだ方がましだという思いだったのだろう。
その「死の抗議」は、周囲を動かし、娘は結局祖母・ミチの手で育てられることになった。

一青窈さんも宮本輝氏も金子みすゞさんの話も暗いといえば暗い話なのだが、こういう嵐の只中を生き抜いたり、死んだとしても自分を貫いたりして、その生き様は彼らの生み出した世界同様に勇気を与えてくれるものである。
最近、一青窈さんは、昭和歌謡のカバーアルバムの制作に挑んでいるそうだが、「ブルーライトヨコハマ」やら「他人の関係」やら「終着駅」などの歌があり、一番歌いたいと思いつつドウ歌おうかと心を砕いているのが、中島みゆきの「時代」なのだそうだ。
もちろん東北の被災地の人々への思いを込めて「時代」を歌いたいという。
「今はどんなに苦しくとも そんな時代もあったねと いつか話せる日が来る」という歌詞は、911テロの被災地にむけて歌った「ハナミズキ」のメッセージと同様に、瓦礫に佇む人々に 元気を与えることであろう。
しかし、これは何も被災地だけの話ではない。
マニュフェストやら国策誘導のスローガンやら商業的な拡声音を吹き飛ばしてしまうような、魂の深くに落ちて行く言葉に出会いたい気持ちになる、2012年の正月でした。