末法思想と貨幣

福岡県庁前の日蓮像本体は、佐賀県の谷口製作所で作られたそうだ。
佐賀県(肥前藩)は幕末期に日本で最初に「反射炉」(=金属融解炉)が作られたところであり、佐賀藩の御用鋳物師の伝統をもつ谷口鉄工所は、要するに「大砲の製造所」であったのだ。
つまり大砲を作った工場で、鎌倉仏教の開祖の銅像が生まれたわけである。
これも、軍事技術の平和利用の一つといえるかもしれない。
「技術転用」(または「素材転用」)といえば、色々なものが思いうかぶ。
花札の製作技術をトランプに転用させた任天堂、足袋の製縫技術を下着に生かしたワコール、寺の建築技術を教会堂建築にアレンジした鉄川与助、地雷探査機の技術を掃除機ロボットに転用したしたアイロボット社、機関銃の技術をミシンに転用したジューキ・ミシンなどなどだ。
また太平洋戦争末期、カミカゼの特攻機を製作した技術者が、その技術を平和利用しようと、「新幹線」を生み出したことは良く知られている。
さらには「世界で唯一の被爆国」日本が原発大国になったのは、原爆を投下した当のアメリカが「原子力の平和転用」を日本政府に働きかけたことによる。
その裏側に、日米間でドンナ「精神作用」があったのかと、今更ながら問いたくなる。
実際に、その他にも「精神作用」を問いたくなるような様々な「技術転用」の実態が存在している。
例えば、大阪の陣で有名な豊臣の「方広寺の鐘」を、徳川方が鋳潰して「寛永通宝」に変えてしまったようなケースである。
お金という「俗」のシンボル(手垢ソノモノ)が、仏像という「聖」なるモノに転じたりすることあったし、またその逆に仏像がお金に姿を変ってしまったこともあった。
もっとも文化人類学の成果によれば、ソモソモ「金」は、「宗教性」と切り離せないモノらしい。
それでも、こういう聖と俗との「転換」は、いかなる「精神的葛藤」もなく行われたか、と問いたくなる。
そしてこの聖と俗との転換が、日本に貨幣経済(一部市場経済)をハジメテ根付かせることになるとは、お釈迦様でも想定外の「衝撃展開」だったのである。

「源平の戦い」は、「忠臣蔵」と等しく日本人の精神に深く刻まれていて、いまだにそのナゴリを数多く残している。
学校教育の「運動会」や「紅白歌合戦」の白組・赤組も、お祝いの「紅白饅頭」も、源氏の「白旗」と平氏の「紅旗」からきたものである。
さて日本人に源氏が好きか、平氏が好きかときいたら、大概が「判官(源義経)びいき」の日本人は源氏が好きと答えるであろう。
しかし個人的には、幕府成立に向けて、一族が殺しあう源氏の姿はソレホド好きにはなれない。
平家は、平家にアラズンば人にアラズとまでいわれた「絶頂期」があっても、「栄華必衰のコトワリ」を見事に示す「滅亡の姿」にコソむしろ人間的な興味がわく。
それに平家は、わが住所・博多と縁が深い。
さらには、福岡県南部の筑後地方は平家の「落人の里」ラシキものがたくさんあるし、博多起源の「筑前琵琶」も平家を鎮めるために、どれほど奏でられたであろうか。
ところで、平清盛は1158年「太宰大弐」という地位で博多に滞在した。
この地位は「名誉職」みたいなものだから、必ずしも博多(大宰府)に滞在する必要もないものらしいが、エルドラード(黄金郷)としての「博多の価値」を知り尽くしていた清盛は、都を離れワザワザここに滞在していたのだ。
しかしながら清盛死後、源氏との戦いで西国に追いつめらえた平氏は大宰府で、コトの推移に息をヒソメつつ、歌をよみ合いつつ時を過ごしたとも伝えられている。
おそらくは、貴族化した平氏の「滅び」の予感を秘めた歌であったろう。
ところで、太宰府天満宮の直ぐそばに「連歌屋」という地名が残っているが、この「連歌屋」とは鎌倉時代から江戸時代末まで、連歌の「会所」があったところだが、平家滞在と無関係とは思われない。
また、大宰府からそう遠くない那珂川町には、「安徳」という地名が残っている。
後に「壇ノ浦」で女官と一緒に海に沈む幼な子・安徳天皇が、平家シンパの豪族・原田氏によって匿われていたが、その居城があった場所にこそ、「安徳」という地名がついている。
こういう身近に点在する「平家由来」の地名の故か、個人的には平家に心寄せるコトの方が多い。

ところで平清盛政権を日本における市場経済の「淵源」として捉えることは、それほど奇抜な考えではないかと思う。
なぜなら平清盛は、日本ではじめて金属としての「貨幣」を流通させることに成功した人物なのだから。
さらに、近代代的な「金融」も、この平清盛の政策に発端あったとみてよいし、港湾や瀬戸の開削など貿易におけるインフラ整備も、清盛のスケールの大きさを感じさせるところである。
ところで、世界の国々の中には、「単一貨幣」のみで経済が運営されている国々ばかりではない。
日本とて、江戸時代には「藩札」という異なる貨幣が各藩独自に流通していた。
最近の朝日新聞によると、ヨーロッパではユーロ以外に「地域通貨」なるものが生まれ、「地産地消」のスローフード運動が広がっているという。
そんな情勢の中、その国の「通貨は何か」と問う場合に、わかり安い「識別法」がある。
それは、その国の国民が「何を」税金として政府に収めているか、ということである。
国民が政府が「絹」で税金で収めさせているのだとしたら通貨は絹、「米」で収めさせているのどとしたら通貨は米と考えてよい。
もっとも絹や米のような物品貨幣は「汎用性」が高くはなく「通貨」にまで至らないので、せいぜい「米本位制」や「絹本位制」という言い方の方が適切であろう。
ところで新約聖書の中に、人々がイエスを罠にかけようとローマに税をおさめるべきかと問うと、イエスがこのコインの顔は誰かと問い返し、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ」と答えたシーンがある(マタイ22章)。
貨幣の中でも国王(カイザル)の顔が刻まれたコインとなると、それは間違いなく「税」の支払いにあてられるベキもの、すなわち紛うことなき「通貨」なのである。
したがって王は、貨幣に自分の「肖像」を刻むことによって、その貨幣の「通用性」すなわち「通貨」たることを国民全般に保証するばかりではなく、ついでに自らの「威信」をも示したのである。
したがって、もし日本円がハイパーインフレになり「お札」で何も使えない状態になったとしても、このお札で税金が納められる限りは、まだ「価値の保証」が続いているので、燃やしたりしない方がよい。
ところで、国王でもない「私勢力」が外国から輸入した貨幣をソノママ流通させるなどというのはトンデモナイ「暴挙」であると同時に、そもそも「実現不可能」なことだといっていい。
天皇を冒涜するに等しい、こうした「暴挙」を現実に行った人物コソが、平清盛であった。
さて、当時の日本における国王、国家の頂点といえば、朝廷(天皇)であった。
当時、平家一門は朝廷内で重要な官職を占めており、その頂点にいた平清盛には後白河法皇に「匹敵」するほどの実権を持っていた。
平清盛ならば、天皇しか持つことができない「貨幣発行権」を手に入れ、実質的に「国王」として君臨できるというダイソレタ考えをもつに至ってもソレホド不思議ではない。
そして朝廷側が、清盛死後自らの「威信」をオビヤカス「宋銭禁止令」を何度か出したのも、よく理解できるところでである。
実は中国から銅銭を輸入するという発想は、平清盛によって生まれたモノではない。
それは意外にも、「銅」がほしかった寺社勢力によるものだった。
なんで寺社が「銅」が欲しかったかというと、仏像を大量につくる需要が生じたからである。
つまりそれは「貨幣」としての価値よりも、「素材」としての価値に目をつけたということだ。
それを横目に、この宋銭を日本でソノマンマ「貨幣」として流通させるということをヒラメイタのが、平清盛なのである。
そして博多で「日宋貿易」の実権を独占的に握った平清盛は、ソコカラ得られる「膨大な力」についてカンヅイテいたようだ。
その意味では平清盛は、「土地」という不動産にしか価値を見出せなかった源頼朝よりも、数歩も「近代人」に近づいていたといえるだろう。
さらに、準納税(年貢徴収)手段として「宋銭」を収めさせた点では、マサニ「近代人」といっても過言ではない。
平氏政権まで「交換手段」だった絹は、品質に応じて「上・中・下」と三段階にランク分けされており、取引のたびに絹の質を見極める手間がかかっていた。
宋銭を使えば、数量でもって価値を表せるし、持ち運びにも負担がかからず、少ない「取引コスト」で多様多彩な取引が広く実現する。
また絹は小さく切ると「反物」としての価値がなくなるのに対し、貨幣は一銭単位まで「小分け」できる。
朝廷が絹を徴税し、その「絹価値」をワザト高く設定することで、その交換に米や金・銀などを安く手に入れることができる。
それは貨幣の「額面価値」を決めることとホボ同じである。
朝廷は、絹・米の交換レートなどを自由に決め実質的に「貨幣発行権」を握った。
しかしこうしたゼロサム社会に満足しない平清盛は、絹や米と格段違って「貨幣」というものが取引を一気に拡大させ、それがサラニ膨大な「税収」を生む可能性を認識していた。
もし「宋銭」が全国に普及すれば、その輸入を平家が独占的に担うことにより、宋銭の「販売益」を独占できる。それは、朝廷が握っていた「通貨発行権」を実質的に自分の側に引き寄せることにつながる。
それで、瀬戸内海の各地で行われた大規模工事の賃金を「宋銭」で払ったり、平家の勢力が及ぶ広大な領国・荘園において年貢を「宋銭」で納めさせた。
つまり、租税ではなく準課税的な年貢とはいえ、「宋銭」で支払わせるまでになっていたのである。
貨幣がサラニ「通用度」を増す指標として、「金融」の普及をあげることができる。
日本の歴史をサカノボルと、「金融」らしき行為は奈良時代から行われていた。
国司や富豪層らが一般農民に対し、春に稲を貸して、秋に利子を付けて余分に稲を返してもらう「出挙」(すいこ)という制度である。
このような「出挙」が貨幣に対して行われ、「銭出挙」ができるとなされれば、それは「金融」というイメージとと重なり合ってくる。
そして平清盛はこの「銭出挙」を盛んに行うのだが、その最大のメリットは稲による出挙と違い、「農民以外」にも対象を広げやすいことだった。
こうなると、貨幣は羽を得たごとくに「通用性」を増していく。

一般に、ある貨幣が「単一通貨」として広く使われるためには様々な条件が必要であり、究極的には「その信任」がどのように与えられるかにかかっている。
そもそも「金属貨幣」というものに、庶民はナジミもなければ、親和感もないのだ。
まして「宋銭」といった外国銭の流通は、「国辱的」な感じを抱かせるモノではなかったか。
それでも平清盛は、宋銭を鋳潰して「国産貨幣」に作り変えることをヨシとしなかった。
実は、日本の「貨幣史」の中で国産貨幣「皇朝十二銭」は失敗の歴史だった。
奈良時代に「蓄銭叙位令」をつくり、金をためたら高い身分を与えて、お金を無理やり流通させようと したが、導入初期は別としてもソノウチ貴族は貯めた銭を手放なさなくなり、結局何の経済効果を生むことなく「廃止」に追い込まれたことがある。
奈良時代の708年国産初の「和同開珎」が発行されたが、早くも翌年には「私鋳銭」(贋金)に対する刑罰についての詔が出されている。
死刑を含む「厳罰化」(711年)をはかっても私鋳銭はなくならず、国産貨幣は衰退する一途を辿った。
つまり「偽造」が難しいほどのレベルで貨幣を作る鋳造技術に至るには、まだ多くの課題があった。
ひとつの貨幣が「通貨」として流通するのは並大抵なことではないのだが、平清盛がモクロム「宋銭普及」には、当時日本全国に広がっていた「末法思想」の蔓延が味方した。
末法思想とは、仏教の予言思想の一種であり、釈迦の立教以来1000年の時代を「正法」、次の1000年を「像法」、その後10000年を「末法」の三時観で分けて考える。
釈迦の教えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行われなくなるという、仏教(特に大乗仏教)における下降史観である。
平安末期、日本では浄土信仰に加え「末法思想」の影響で日本全体でかえって仏像つくりが盛んになった。
その為には仏像の素材たる「銅」が必要になる。
もともと中国の貨幣を材料に「経筒」(経典を収める筒)がつくられたようになり、それが仏像にまで発展したのだ。
当時は、末法思想の真っタダ中、人々は絹・米のカワリに「宋銭」を通貨として受け取ったとしても、人々は「通貨として」使えなくても「仏具」になるし、経筒の「材料」となるという「安心」があった。
つまり宋銭は、「末法思想」によりその価値が保証されるという「驚くべき」関連があったのである。
言い換えると、みんなが「宋銭は、誰にとっても価値がある」と思われる状況ができていたということである。
「末法思想」が日本に「貨幣経済」をハジメテ根付かせたという「衝撃展開」がここに生まれたのだ。

「百練抄」というある貴族が書いた日記の一頁に、1179年摂関家領を保有していた娘・盛子が「銭の病」にかかって死去したとある。
さらにその翌月には 宋銭への対応で朝廷が割れる、とある。
この「銭の病」とは一体何か、銭のやり取りによって「伝染病」が発生したのか。
とすると、銭で仏具を作ろうとした神仏の怒りかナンカ想像するが、それでも伝染病のことを「銭の病」とは不思議な表現である。
すぐ次に「宋銭への対応で朝廷が割れる」とあるので、「銭の病」とは、通貨のコントロールが効かなくなって生じた「物価騰貴」を意味するのであろうか。
それとも宋銭の輸入が不足してデフレが生じたのであろうか。
ではそんな経済現象「銭の病」が原因で、娘・盛子が亡くなったとは、どういう意味だろう。
ところで、最近、NHKスペシャルで厳島神社の「平家納経」の特集をしていた。
技術や芸術の粋を集めた金にイトメをつけない「最高級の経文」である。
そこに「驕れる者」平氏のイメージを増幅させるか、反対にそのイメージをクツガエスほどの「宗教心」を読み取るかはオクとして、「平家納経」の存在は当時の「末法意識」の高まりを何よりも雄弁に物語っている。
ところで、今日溢れんばかりのペーパーマネーが世界を信用不安に陥れている。
ドルを基軸とした通貨秩序はくすれ、ユーロのような「合成通貨」も崩壊に瀕している。
「銭の病」といい、「末法思想」といい、現代は結構「平氏政権」に似通った時代なのではあるまいか。