ウジが光る

青木氏は「おくりびと」から原作者としての自分の名をハズすことを願った。
その思いの背景には或る「原体験」というべきものがあった。
青木新門氏の講演「いのちのバトンタッチ」の後半はソノ「原体験」語られることからはじまった。
青木氏は1937年、富山県黒部近くの入善という村で生まれた。5 歳で旧満州に渡り、奉天( 現瀋陽)で暮らした。
父はシベリヤへ行き、8 歳の時終戦となった。妹は4 歳、弟は1歳半であった。
父はシベリアに行ったので、母と4人で、難民キャンプに収容されたが、弟は直ぐに死んだ。
キャンプでは発疹チフスが蔓延し多くの人がなくなった。母も罹病し隔離され、やがて妹もなくなった。
青木氏は、誰かが焼かれている時に、妹の死体をそっと「焼き場」に置いてきた体験があった。
今から10年前、アメリカの写真家・ジョー・ダネル氏が長崎で「我が心良くて殺さずにあらず」という写真展を開いたことがあった。
ジョー・ダネル氏はGHQの一員として日本にやてきたが、終戦後の日本の風景をヒソカに撮っていた。
青木氏は、その写真展の片隅にある写真を見たとき、動けなくなった。
一人の少年が子供を背負っている写真である。ソノ子供は力なくブラ下がっている感じである。
傍らの「説明書き」を読むと、原爆で亡くなった弟の死体を背負って火葬場の前で「直立不動」の姿勢で立っているのだった。
そのキット結んだ口の少年の姿に、青木氏は妹の死んだ体を置いてきた自分の姿と重なり、とめどなく涙があふれるのをトドメルことができなかった。
それを見ていたダネル氏が青木氏に近寄ってきた。
青木氏はダネル氏に、中国で「この少年と同じことやってきた」と自身の「原体験」を語った。
ダネル氏は、その後ソノ少年を探しを会うことを願い、色々と手を回されたようだが、その願いはツイニかなわなかった。
ダネル氏は、晩年は離婚して日本で暮らされたが、放射能の後遺症で亡くなられている。
ダネル氏は、サイン入りの写真をくれ、その写真は今でも青木氏の机の上に飾ってあるという。

青木氏はアルことを否定するのはソレに「反する」ものではなく、「似て非なる」ものによって打ち消されると語られている。
青木氏が、自身の作品「納棺夫日記」と映画「おくりびと」と一線を画し、映画から原作者である自分の名を「外される」ことを願った理由は、両者が相反するものではなく、「似て非なるもの」だったからである。
ところで青木氏の富山の友人で、浄土真宗の住職がいる。
この住職は文学をやっていて、住職から一冊の「自費出版」の本が届いた。
その本のタイトルは、井村和清という医師の闘病日記で、「ありがとう、みなさん」と題された本であった。
住職は亡くなった井村医師の叔父さんにあたる人であった。
その本はヤガテ「飛鳥へ、まだ見ぬ子へ」というタイトルで名高達郎・竹下景子主演で映画化(1982年)された。
青木氏は、ソノ本を読み始めた途端に涙がとめどなく出てきて、読めなくなった。
井村医師が癌の手術をして治ったかなと思って、再検査に行ったら全身に癌が転移していたのである。
その日の晩の日記に次のような文章があった。
「レントゲン室を出るとき、私は決心していました。歩けるところまで、歩いていこう。その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。
世の中がとても明るいのです。スーパーへ来る買物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いてみえる。
犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いてみえるのです。
部屋へ戻ってみたら妻もまた、手をあわせたいほどに尊く輝いてみえました。」
これが、癌が全身転移して絶望した人が見た風景である。
それは、スベテが輝いて見えるということだ。
青木氏は、この医師が生きていながら死を百パーセント受け入れ、生と死が限りなく近づいて境目が消えそうになった時に、「輝いてみえる世界」に出遇っていると語っている。
それは、青木氏が「納棺夫日記」の中で「ウジが光ってみえる」と書いた世界と重なる。
ソノ文章に心をとめ、ガンジス川の川べりの混沌とした世界に、この一文を引用したいと願いでたのが、本木雅弘君であった。
それがアケデミー賞外国部門賞受賞をした映画「おくりびと」の制作に繋がったのである。

納棺夫の仕事をしていた時に、青木氏に「一族の恥だ」という言葉を浴びせた叔父がいた。
青木氏はその時、その叔父をバットで殺したいほど憎んだという。
そして、納棺夫の仕事を辞めようかと思っていた頃、叔母から「叔父危篤」という連絡を受けた。
憎しみは消えることはなく、何を言われるかわからないので、叔父とは会わないつもりでいた。
ところが「意識がない状態」と聞いて、誰が誰かもわからない状態ならば、病床の叔父を見舞ってもいいと思った。
ところが病院に行くと、叔母がチョウドいいところにおいでなさった、今チョウド意識が戻ったというのだ。
引き返すこともできず、叔父と面会するハメになった。
その叔父が青木氏に柔和な顔をして何度も「ありがとう」と言った。
青木氏は、あの叔父も、井村医師と同じように、あらゆるものが輝いてみえていたのではないか、病院の窓も、看護婦さんも、身構えてソコにいた青木氏さえも。
青木氏は、叔父の声を聞いて土下座して泣いた。
「オレがオレガ」に生きてきたと思い、「叔父さんすいません」と懺悔する他なかったという。
青木氏は、あの時モシ叔父の臨終の場に行っていなかったら、叔父を今でも憎んでいたと思うと言われた。
ところが、行って見ると、予期に反して叔父の方から「ありがとう」と言われたのだ。
人は嫌いなものはよく見ないで眼をそむける。青木氏自身が「死者」に接する時もそうだった。
しかし、生と死が交わるほど、すべての「差別」が消えてすべて輝いて見えることを知った。
青木氏はそれからというもの、亡くなった人の顔ばかりを気にして見ながら「納棺」をするようになったという。
そして死者の多くが清らかで安らかな顔をしていることに気がついたのである。
青木氏はソレマデ社会から白い目で見られ、コンプレックスを抱いて仕事をやっていた。
自分を卑下して生きてきたけれど、そういうものは人間が創り上げた「価値観の」延長線上にいたということ過ぎないことを知った。
生と死の境が消えた時に、そういうものは雲散霧消するものであり、葬儀社の「辞表」を破りすてた。
それからは、納棺夫の仕事を堂々とヤレルようになったという。

ところで青木氏は、映画「おくりびと」が評判になるにつれ、「なぜ原作者名が記されてないのか」とよく聞かれた。
アイマイな返事をしてきたが、映画「おくりびと」は青木氏が目指すところにおいて完全に一線を画すべき作品だった。
青木氏は、人間の最高の幸せは、父と母の愛情に包まれて安心して育ち、良き伴侶に出会い安心の生活をすること。老後を安心して過ごし、死を安心して迎えることだと語られた。
しかし、ドンナに災難をすり抜けて不安なく生きた人でも、最後は「死の不安」に直面する。
「おくりびと」は、「宗教性」というものが完全に消された形で、生と死のテーマが提示されていたのである。
映画「おくりびと」は、人の死の不安に対応していないものだった。
「愛別離苦」の悲しみに出あって、如何にして「心を癒す」かというところ以上には進展していない。
人は宗教を見失った時にせいぜい「癒し」を求めるぐらいである。
「おくりびと」は近代ヨーロッパ的人間愛で貫かれおり、その人間愛や山形の美しい自然の風景が「癒し」として表現されていたにすぎない。
癒しなら「娯楽」でも得られるし、そういう意味で「おくりびと」は現代人の感覚にフィットするように作られているといっていい。
青木氏が「後生」を一大事と実感するようになったのは、「納棺の現場」で死者たちが見せた「安らかな」死顔であった。
それは遺された者たちへの「後生の一大事」を伝えるメッセージであると思うようになった。
青木氏は、今日のホトンドの人が「今生」を一大事と思っているばかりで、「後生」を軽んじている。
それが「人間中心」の世界観を生み様々な破綻を引き起こしている。

ヒューマニズムは「人間中心」の西洋近代の思想である。人間に都合の悪いものはタタキ殺しても痛みを感じない。
1997年に起きた「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る少年による神戸連続児童殺傷事件はソノ典型といえる。
雑誌などの記事によると「君はなぜ人を殺そうなどと思ったのか」という調査官の質問に対して、A少年は次ぎのような答えをしている。
少年にとって祖母ダケは大事な存在であった。
しかし、A少年が小学校の頃にソノ祖母亡くなった。
少年は大好きな祖母を奪い取った「死」というものが一体何なのかという疑問が湧いてきた。
そのため、ナメクジやカエルを殺したり、その後は猫を殺していた。
中学校に入った頃からA少年は、人間はどうやったら死ぬのか、死んでいくときの様子はどうなのか、殺している時の気持ちはどうなのか、と妄想するようになっていった。
青木氏は、これがA少年の根本の動機であるなら、大人社会が「死を隠蔽」してきたことに原因があると語られた。
さらに青木氏はコレと「対照的」な一例をあげられた。
青木氏が福岡のお寺へ行った時、帰りに一冊の「冊子」を頂いたという。
その冊子には、臨終に立ち会った親族17人の文章が載っていたが、その中にA少年と同じ14歳のお孫さんの文章があった。
それは次のような内容であった。
「ぼくはおじいちゃんからいろいろな事を教えてもらいました。特に大切なことを教えてもらったのは亡くなる前の3日間でした。今までテレビなどで人が死ぬと、周りの人が泣いているのを見て、何でそこまで悲しいのだろうかと思っていました。しかし、いざ自分の身内が亡くなろうとしている所に、そばにいて、ぼくはとてもさびしく、悲しく、つらくて涙が止まりませんでした。その時、おじいちゃんはぼくにほんとうの人の命の重さ、尊さを教えて下さったような気がしました。
最後に、どうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでもぼくを見守ってくれることを約束して下さっているような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました」と。
青木氏がこの二人の14歳の少年を対比したのは、このお孫さんの場合は、おじいちゃんの亡くなる時に、死の瞬間に「その場にいた」ということである。
「自分の五感」全体で、人の死というものを捉えることが出来た。
ところがA少年の場合は、大好きだったお祖母ちゃんが亡くなった時は深夜であった。
A少年も起きていたが、父も母も明日学校だからと気を使って病院へ連れて行っていない。
つまり、少年はお祖母ちゃんの「死に様」をみていない。
現場へ行っていないので、死を頭で考える。
死を頭で考えるうちに、人を殺してみようと思うようになったということである。
核家族化、仕事の関係、さっきいった仕事の都合で「死の瞬間」を見る場が奪われている。
一方福岡の少年の場合は、「その時、おじいちゃんはぼくにほんとうの人の命の尊さを教えてくださったような気がしてなりません」と書いている。
これは、現場にいたからこそ出る言葉である。
「ヒューマニズム」を日本語に直すと、「人間中心主義」である。
「おくりびと」はこの人間中心主義の域を出るものではない。
小学校の四年生男の子の詩につぎのような詩がある。
「ぼくは、今日学校の帰りにトンボをつかまえて家にかえったら、お母さんがかわいそうだからはなしてあげなさいと言ったぼくはトンボをはなしてやったトンボはうれしそうに空高く飛んでいった。
それから台所へ行くとお母さんがほうきでゴキブリをたたき殺していた。
トンボもゴキブリも昆虫なのに」。
大人はヒューマニズムで育ているから、人間に都合がいいものは「かわいそうだからはなしてあげなさい」と言う。
その一方で都合の悪いものは、何の痛痒もなく殺すことができるのである。
、 ところで、青木氏に納棺の現場で生まれた「いのちのバトンタッチ」という詩がある。
「人は必ず死ぬのだからいのちのバトンタッチがあるのです
死に臨んで先に往く人が「ありがとう」と云えば残る人が「ありがとう」と応える そんなバトンタッチがあるのです
死から目をそむけている人は見そこなうかもしれませんが目と目で交わす一瞬のいのちのバトンタッチがあるのです」。
この詩によって。青木氏の講演のタイトルが「いのちのバトンタッチ」となっているのである。

このたびの青木氏の講演は、もともと戦場カメラマンの渡辺陽一さんが予定されていたのが、急遽変更になったものである。
この予定変更は、戦場カメラマンの山本美香さんの死が影響したのではないかとも思うが、真相はよくわからない。
そういえば、今から3年前にヨーロッパを旅したとき、ドイツのハイデルベルクの学生街の小さな映画館で「おくりびと」が「Nokan」というタイトルで上映されてるのを見かけたのを思い出した。
多くの現代人は「自分の意思」こそがスベテと思うのかもしれないが、個人的には青木氏の講演を聞けたことにも「目に目えない」ものに導かれることを意識せざるを得ない。
、 新約聖書に「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ人1-20)という言葉がある。
「神の不在」という不信に対して弁解の余地がないというコノ言葉は、現代人にストレートに届かないかもしれない。
さて、青木新門氏は、親鸞に導かれて「納棺夫日記」を書いたという。
親鸞と上記のパウロの言葉の共通点は、「ヒューマニズム」の否定である。
「神の存在」を自明とするとしている社会と、「神の不在」を了解しあっている社会とでは、あまりにヒラキが大きい。
神が不在ならば、その「空座」を人間が位置することになる。
人間が「神の御心が何か」を問うなどという発想は生まれようもない世界に生きているということだ。
それは青木氏がいうように、「後生」の一大事が人々の意思から剥落していることにも通じる。
今の世の中、人間が「善い心」でやっていることが、必ずしもよい結果に繋がらない。
それどころか悪くしているのではないかと思うことが多い。
それこそが「ヒューマニズム」の限界を示している。