あの手この手

歌舞伎界で女形第一人者といえば、坂東玉三郎(五代目)であることは、誰しもが認めるところであろう。
容姿の美しさと存在感に加え、中村歌右衛門(六代目)亡き後、カツテ歌右衛門がつとめた数々の「大役」を継承して「新しい境地」を確立した。
その妖艶なパーフォーマンスを見て、その長い指先に目がいくのはナゼカは判らないが、「手」が人間の感情を表現するということを、誰よりも「鮮烈」に教えてくれる。
その玉三郎がテレビ出演の際に驚いたことは、「梨園」の出でないばかりか、「小児麻痺」の後遺症をリハビリで克服し、ソノ影響で「左利き」となったということである。また体も少し傾くキライがあった。
また、芸風や活動方針を巡って中村歌右衛門との間に「永年の確執」があったという。
坂東玉三郎が、排他的といわれる「歌舞伎界」において、今日の地位を築いたことは「稀有の存在」であることを証明している。
坂東玉三郎は、1950年東京の料亭で生まれた。
1956年小児麻痺後遺症の「リハビリ」にと「舞踊」を習い始め、その魅力にトリツカレたのがキッカケである。
加えて10代半ばよりバレーのレッスンを受けている。
「稀有」といえば、身長が173センチの長身であったことだが、かぶり物などをすると190センチ台になるため、歌舞伎界の「女形」としては有利な条件とはいえなかったであろう。
最近日本での活動を見かけなくなったが、実はニューヨーク・メトロポリタン歌劇場に招聘され、世界の超一流の芸術家たちと多彩なコラボレーションを展開した。
バレエの実力も、プロ・バレリーナと一緒に踊りをこなしても何の遜色もないどころか、ソノ存在感への賞賛と影響力は世界的なものとなった。
また、映画監督・演出家としても独自の映像美を創造している。

ツイ手に目線がイッテしまうといえば、19世紀オーストリアの画家クリムトの官能的な作品群である。
クリムトという画家は「接吻」や「抱擁」などの金色をフンダンに使った「装飾画」で知られるが、この人の絵画もヤッパリ「手」に目線がいくものが多い。
テレビ番組「美の巨人達」の解説によれば、アル作品に描かれた女性が示す手はとてもセンセーショナルな「意味合い」を含んでいるそうだ。
クリムトは「手の描写、手の描写による内面感情の表現において当代随一であった」という世評を得ているという。
ところで、「手の造形」といえば、美術の教科書にしばしば見かける高村光太郎の作の「手」のブロンズ像である。
高村光太郎はコノ「手」について、とても興味深いことを書いている。
「私が子供の頃、弟子達との雑談の中で父が、”光りッ手、さびッ手”の言ひ伝へを話してゐるのをきいて、弟子達が気味悪そうに自分達の手を見てゐた事をおぼえてゐる。
”光りッ手”といふのは其の人の道具や刃物がいつのまにかつやつやと光つてくるたちの手をさし、”さびッ手”といふのは、それがいつのまにか錆びて来るたちの手のことをさすのである。
手には何か未知の秘密が匿されてゐる。~中略~
手は関係の器官だ。人間が世界と関係を結ぼうとするとき、最も媒体としての機能を発揮するのは手だろう。
手は”指”が様々に蠢くことで形を変え、世界との関係のヴァリエーションをどこまでも多様にさせていく。
自分を取り巻く世界と関係するということ、世界と自分が関係によって同時に変化していくということ、それは人間にとって”存在する”ということそのものだ。
だから”手”は芸術家にとって並々ならぬ関心を呼び起こし、芸術にとって重要な素材になりうるのだろう」。
そういえば、今日の格差社会ではワーキング・プアといわれる人々を多く出しているが、しばしば引用されるのが石川啄木「働けど働けどわが暮らし楽にならざり じっと手を見る」という詩である。
この啄木の詩における「手」も、自分の身体でありながら、この世界と「関係」をとる前衛にあるため、ドコカ「ご苦労様」とでもいいたくもなる、ヤヤ「客観的」存在という意識が読み取れる感じがする。
さらには、人の思いは手先にまで篭っているということなのだろうか。

人の心は顔だけではなく色々なところに現れ出でる。つまり思った以上に心とは隠せないもののようだ。
悲しみを隠す人がハンカチを握り締めていたり、平静を装おうとした人が手もとのカップを滑らせたりもする。
グラマン疑惑で国会証言を求められた商社マンが、宣誓のサインをする時、手の震えをドウニモ抑えることができなかった、国会中継のワンシーンは今でも記憶に残っている。
また、「心の動き」を「手の動き」で表現した映画シーンをいくつか思い出す。
「奇跡の人」でヘレン・ケラ-とサリバン女史の手の触れ合い、「手錠のままの脱獄」の白人と黒人の最後まで離れることのなかった手、「ET」の人間と異星人との指の接触シ-ン、ついでにアダムズファミリ-の「不気味に」動く手ナドを思いうかべる。
「手」が印象的だった映画の一つが、1990年のアメリカ映画「シザーハンズ」である。
心は純真無垢なのに、「ハサミの手」をモッタがゆえに、触れるもの触れるものスベテを断ち切ってしまう「哀しい宿命」を負った男の話である。
「男」とはいっても、主人公のエドワードは、とある孤独な発明家の手によって生み出された「人造人間」である。
しかし発明家はエドワードを完成させることなくこの世を去ってしまい、エドワードは両手がハサミのママ一人取り残されてしまう。
ある日、エドワードの住む城に化粧品を売りに来た男が、彼を家に連れて帰ることにした。
エドワードは植木を綺麗に整えたり、ペットの毛を刈ったりして近所の人気者になってゆく。
そして、エドワードは男の娘キムに恋をする。
しかし、人間社会の辛く悲しい現実が、「ハサミの手」の男を待ち受けていたのである。
ところで。主人公である「シザーハンズ」を演じたのは、今モットも輝く俳優のジョニー・デッブである。
今この映画をみて、化粧をした主人公が、ジョニーデッブなんてなかなか気づきにくいが、この主人公の演技がドウにいっているのも、売れないミュージ・シャンであった当時のジョニー・デッブ自身の姿を描いたものだったのカモ、などと推測する。
さて、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」も「手」が印象的だった。
主人公である貧しい鬱屈した青年が裕福で何もかもが容易に手に入る友人を殺し、その男にナリスマスという「完全犯罪」を目論んだ話である。
裕福な青年は貧しい相手の劣等意識につけこむかのようにヨットに誘い、自分の恋人さえも見せつける。
その結果殺人をまねきよせる結果となるのだが、燦燦と輝く太陽の下、互いの「青春の残酷」がギラつき、切ない映画音楽がそれを引き立たせる。
水面下に潜む確執や葛藤をドラマチックに沸騰させている。
相手の男のサインをスライドに表示して、手でなぞるように模倣するそのシーンは忘れがたい。
ラストシ-ンで、「完全犯罪」を自ら祝うかのようにワインを傾けるアランドロンの「白い手」と、ヨットに絡み付いて打ち上げられた死体の「黒々しい手」のコントラストが印象的に、そして象徴的に描かれていた。
あふれる陽光は、貧しい青年が掴みとろうした未来を暗示しているようだし、いずれ白陽の下に露になる人間の罪をも表しているようでもある。
ちなみに、この映画では、当時二枚目の主人公は「正義」の人でなければイケナイと思い込んでいた私に、人気二枚位目俳優が「悪い奴」を演じるということがアルンダということに「軽い衝撃」を与えてくれた映画であった。
「太陽がいっぱい」と並んで青春映画の古典と位置づけられながら、今なお新鮮さを失わないのは「エデンの東」だろう。
スタインベック原作の「エデンの東」は、旧約聖書の「カインとアベル」兄弟の物語の現代版であることはほぼ定説である。
「エデンの東」の登場人物は「キャルとアロン」だから、名前までも符合している。
聖書の方は、捧げモノが神に顧みられなかったカインが、捧げモノが受け入れられたアベルに嫉妬し殺害するという兄弟の話である。
アダムとイブの子供がカインとアベルなので人類創生後にさっそく殺人事件がおき、人類は「カインの末裔」ということになる。
映画「エデンの東」では、愛らしく純真なアロンとヒネクレ者のキャルが登場する。
町育ちの美しい少女アブラと仲睦まじくなっていくアロンを横目に、ジェームズ・ディーン演じる孤独なキャルは自分でも分からない何かを探し求め、深夜の街を徘徊しはじめる。
兄は優等生で何をしても父親のお気に入り。なのに弟キャルは父親に気に入られようと色々するが、すべては裏目にでて逆に父親に怒られるばかりである。
キャルは、失踪した母を追ってに港町で娼婦の仕事をしている事実を知る。
そして父が自分に向けている目線こそが母親をおいつめ母は家を出たのかもしれない、などと思う。
キャルは自分の抱える混沌をぶちまけるかの様に母親の真実を兄に伝え、純真一徹な兄は発狂する。そして、父親もそれがもとで亡くなる。
みんなそれほど悪いヤツなんていなのに、ソレラは「エデンの園」から追放された人間の姿なのか。
映画「エデンの東」は、スタインベック原作の同名の小説の「断片」を切り取ってまとめたものである。
ちなみにスタインベックの「怒りの葡萄」は、旧約聖書のモ-セの「出エジプト」物語に着想をえているから、聖書がアメリカ文学に与えた影響力は相当なものである。
果たして映画監督のルネ・クレマンが意識したかどうかは知らないが、「太陽がいっぱい」にも聖書を少々感じさせるものがある。
それは「エサウとヤコブ」の話で、この話では「人間の入れ替え」があり、しかも「手の偽装」が行われる。
長男のエサウは猟に優れ勇猛で活動的で父親好み、一方の次男のヤコブはテントから出ず何を考えているのか屈折感のある人物、ここまでは「エデンの東」にも重なるが、母親は父好みのエサウよりも繊細なヤコブの方が気に入った点で、兄弟間のバランスがとれている。
猟を楽しみ野から帰った腹ペコエサウに、ヤコブはワナをかけて待つ。
「長子の特権」を譲ったらオイシイ物をいくらでも食べさせてあげるといったものだが、このワナの意味はとてつもなく深い。
新約聖書では「長子の特権」はそのまま「地を継ぐ者として」としての「救われる者」の特権なのだ。
世事に通じ世故に長けた人間エサウは、逆に本当に大切なものが見分けられない。
「救い」の特権を、目の前の利益に眩んで、アッサリとヤコブに渡すのだ。
しかし、ヤコブとエサウでおきた「長子の特権」の委譲は兄弟間の「密約」でであって、父親イサクは知らない。
そこで母親リベカは好みのヤコブに智恵を授けるのだが、それが「手の偽装」だった。
父イサクはすでに視力が弱って床に伏していた。死に瀕して自分の特権を譲るべく長子に祝福を祈るのだが、ヤコブはこともあろう毛深い兄エサウに似せてヤギの毛を手につけてエサウに成りすまし、父イサクの今際の床で「神の祝福」を祈りうけるのだ。
つまり「手の偽装」により人間が入れ替わるのだが、「サインの偽装」で人間が入れ替わるのが「太陽がいっぱい」である。
エサウの人の良さとヤコブの狡さが目立つが、能力に秀でていたにも関わらす、目の前の利益にホダサレ大事なものを失うエサウと、騙してでも「神の祝福」を得ようとするヤコブ。
エサウが求めるものは常に「この世」のものであり、神(上)から来たモノを軽んじたともいえる。
人間的尺度ではアマリ「道徳的」とはいえないリベカとヤコブ母子の行動だが、その後を見ると「神の恩寵」はあくまでもヤコブの側に「傾いて」いったといわざるをえないのだ。
ヤコブはその後十二部族の族長となるが、エサウの子孫は聖書の中でエドム人としてあらわれ、ダビデ王の代にエドム人はその属国となりしばらくして滅亡している。
「兄は弟に仕える」(創世記25章23節)という預言ドウリになったのである。
さらにヤコブは「経済的な祝福」を得て、ある意味では資本主義の淵源ともいうべき「ヤコブの産業」を確立していく。
世の中で社会的に上ろうとすれば当座の上司に気にいられるように努力するのが一般的、実際にエサウは父イサクに気に入られていた。
しかし父に愛され自分の狩人の能力を誇ったエサウは神に求めることがなかった。
しかしヤコブは父に愛されなかった分、その恩寵を人間にではなく神にダイレクトに訴えるように求め、そのアスピレーション(渇望)こそが彼の特質であったといってよい。
神はヤコブの「手の偽装」が道徳的か否かを問うよりも、むしろそのアスピレーションに目をとめたのではないか。それは人間にはわからない。神のみぞ知るである。
新約聖書には「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ロ-マ9:13)とあるノミである。
ところで、エサウという人間像は、この世がスベテでこの世のことに満足を得ていく人間像を示している。
一方ヤコブは、ある旅の途中に「神の御使い」と出会い、「自分を祝福しろ」とスガリついた。あんまり激しくスガリついたので御使いはヤコブの骨を一本はずしたほどだという。
それでもヤコブは、はなれずにスガッた。
その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26)
それで神はヤコブに「神と争う」という意味の名を与えた。
その名こそが「イスラ エル」であるが、 イスラエル国家の過去・現在を見るかぎり、その国名の意味するところはあまりにも深い。
さて、聖書の中の系図は、ヤコブの子孫とエサウの子孫の興味深い「モチマワリ」を示している。
ヤコブの子孫はダビデ、ソロモン、イエス・キリストという系図を辿るのだが、エサウの子孫が、イエス・キリスト生誕時に突然登場する。
それは、ローマとの協力関係を約してユダヤを統治することになったヘロデ王なのである。
ヘロデ王は、イエスがベツレヘム生誕の時、「メシア」(救世主)誕生のウワサを聞いて心に不安を感じて「三歳以下の子供」の殺害を命じた人物である。
エサウの血脈はドコマデモ神の計画の中で「卑しく用いられる器」(ローマ人9章)というほかはない。
また新約聖書では、民衆の(イエス)を「十字架につけよ」という声に、ローマ総督ポンティオ・ピラトが、群衆を前にして「手を洗う」シーンが印象的である。
「ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、”この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい”。
すると、民衆全体が答えて言った、”その血の責任は。我々と我々の子孫の上にかかってもよい”。
そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした」(マタイ27章)。