言葉の盾

1940年代後半、イタリア・ナポリ沖の島に、チリ政府から追放された一人の詩人が住みついた。
彼の元には、世界中からファンレターが送られる。
その島に、一人鬱々と暮らす漁師の青年がいた。
この青年が、この詩人に手紙を届けるダケの ために、郵便局の臨時配達人となる。
そして、詩人と青年との間に交流が始まる。
従来、物事を直接的に語ることしかしなかった漁師の青年は、詩人からメタファー(隠喩)で語ることを教わる。
そして思いを寄せる島の美少女に、「君のほほ笑みは蝶のように広がる」といった表現もできるようになり、少女の心を射止める。
そして朴訥な漁師の青年は、詩人の仲立ちで、その美少女とメデタク結婚する。
これは、イタリア映画「イル・ポスティーノ」(=郵便配達人)のストーリーであるが、この映画の話の「本番」はココからである。
そのチリの詩人が世界的に知られたのは、当時「共産主義」が吹き荒れていたという時代背景があり、詩人はイタリアでも熱狂的に歓迎されていた。
そして漁師の青年が住む島は水道もなく、水道をひくという選挙公約も、いつも反故にされてきた。
こうした島の人々の不満や苦しみを詩人は、メタファーをもって世に訴えていく。
詩人はこの島を去ることになるが、「メタファーの霊感」に目覚めた青年は、島の自然の美しさを表現するにとどまらず、「政治的」にも開眼していく。
そして、島を代表してイタリアの共産党の大会に参加し、自ら作った詩で放置された「島の窮状」を訴えるのである。
言葉の力に目覚めた人間が、それによって事態の「焦点」を明確にしてソコに関心を集め、人々を動かしていく物語であった。

珠玉の名作「イル・ポスティーノ」という映画のストーリーに、「国家の壁」に言葉の力で挑んだ一人の日本人作家を思い浮かべた。
この作家は「詩人」ではなく、独特の「散文精神」の持ち主だった。
2012年2月「静かな落日」が、新宿の紀伊國屋サザンシアターで上演された。
祖父と父と娘の「作家三代」のおかしな家族の近景をユーモラスに描き出した劇である。
、 思わずこぼれる笑い、知らず知らずのうちにあふれる涙、心にしみるセリフの数々で、多くの人々の共感をよんだ(そうだ)。
この「作家三代」の血脈は、福岡県・八女福島に江戸時代より続く「儒者」に溯ることができる。
豊臣秀吉の島津征伐の時、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、矢が秀吉の輿に当たる事件を引き起こし、罪せられたのが島津蔵久である。
この蔵久から何代か後に、久留米の有馬家に仕えた「儒者の家柄」が広津家であった。
そして、明治時代「この家系」から一人の小説家が生まれた。
広津柳朗で、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能の発動から犯罪を犯す人々を描いた。
ソノ息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
その際、広津氏の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する感性であったといえる。
1949年、鉄道に関わる「不可解」な事件が相次いだ。下山事件・三鷹事件・松川事件である。
同年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件である。
線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの目的をもって「工作」したことは明らかであった。
こうした「謎」に満ちた「三事件」に共通した点は二つあった。
「一つ」は事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
その背景には鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」を信じ、広津和郎でさえその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって、「世論」を味方にすることもできず、「馘首」は相当スミヤカに行われていったという。
「二つ」めの共通点は、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がチラツクことであった。
列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる「英語文字」が刻んであった。
では、この松川事件の「真相」と同様に興味を惹かれるのは、小説家・広津和郎がドウシテこの裁判を終生のテーマとしたか、についてである。
広津氏は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津氏自身はモトモト、三つの事件を「共産党の仕業」と思い込んでいた。
ところが、広津氏がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による「無実の訴え」である文集「真実は壁を透して」を読んでからである。
この文章には、一片のカゲリもナイと直感した。
この点では、アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだす。
陪審員の一人が、被告になった青年を見た時、その陰りのない「透明さ」に、犯罪者とはドウシテモ思えなかったことによる。
しかし広津氏はアクマデ小説家であり、「刑事事件」の専門家ではない。当初は「素人が口出しをするな」「文士裁判」「老作家の失業対策」などとはげしい非難中傷を浴びた。
広津氏は「松川裁判」の虚偽性を暴くために、「新しい証拠」を見つけたり、「極秘資料」を探したりしたわけではない。だいたい公開された資料自体がキワメテ少なかった。
広津氏はアクマデモ「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の「虚偽性」を追及していったのである。
裁判記録は、通常文学者が使うような「濡れた」言葉ではなく、「乾いて」いるといっていいが、言葉であることに変りはない。
広津氏はソノ乾ききった「言葉」の背後にあるナマナマしい真実を暴くために、言葉の端々を「吟味」していったのである。
だから、広津氏の最大の武器は、論理的思考と文学者としての「言葉のアヤ」に対する「嗅覚」あったといえる。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その「調書」から「架空の」組合員による「共同謀議」にもっていこうという「プロセス」をウキボリにしていった。
つまり最近の「最初に結論ありき」の「国策捜査」であったのだ。
、第一審、第二審でそして死刑、無期その他の重刑が、二十人の被告に対して判決が言い渡されている。
友人・宇野浩二によると、二審の判決後、広津氏は一人泣いていたという。
広津氏は後に、「ああいう納得のゆかぬ裁判で多くの青年達が死刑や無期にされているのを黙視できない」と、語っている。
国費によって裁判費用がまかなえる検察側に対して、裁判を戦うのに一文の費用も出せない被告達に対するカンパは当初、広津氏自身の「言論」活動にカカッテいたのである。
しかし、広津氏の「中央公論」に掲載された裁判批判は少しずつ「世論」を動かしていった。
何よりも、密室の取調べと自白偏重による判決の非論理性と非人間性を見事に明らかにしている。
広津氏の処女作は「神経病時代」という作品で、自己同一性を保つことのできない青年を描いている。
広津氏はそういう作家的な関心をバックに、松川裁判の被告の言葉から、監禁状態の中で取調官のコントロールにより「自己喪失」していった青年達の心理を見抜いたのである。
被告のひとりの身体障害と歩行の程度を調査した医師の鑑定書が非科学的な根拠づけによるものでないこと。
同一被告の数次にわたる調査の間にズレがあること。検事調書の中心から外れた記録などから、それ以前の警察調書における強制と誘導を論証していった。
後に、広津氏の「松川裁判」は中公文庫版で三冊におよぶ大著として出版された。
広津氏はもともと作家としてではなく、「文芸評論」家として執筆活動を始めた。
検事調書が「創作」ならば、広津のそれは「文学批判」ということになる。
最近、国策捜査の前で「社会正義」という言葉は色アセタ感さえあるが、松川裁判の被告の「全員無罪」という最高裁判決は、薫風が駆け抜けていくような「爽快さ」を今日にも伝えている。
そして2011年は松川裁判全員無罪判決50周年であった。
それを記念して、劇団「民芸」が、松川事件を題材として「静かな落日」を公演したのである。
広津氏は娘の桃子さんからみて、「父親」としてはあまり褒められた人ではなかったようだ。
家を出て行ったままに父への不信があったし、戦争協力をしない父への憤りや、自由の時代になっても仕事をしようとしない父への落胆もあった。
しかし娘は、松川裁判と「ペン一本」で粘り強く戦う後ろ姿に、次第に理解と愛情を深めていく。
広津氏は「含羞」の人であり、インタビューには、松川に関わったのは怠け者で暇があったから、放りだすことなく粘ったのは相手がやめないから、意志の強さを感心されれば、強いも弱いも意志なんかないとトボケテいる。
また、自身を弱い人間だと言っている。
娘・桃子を演じた女優の樫山文枝は次のように語っている。
「当時、私は俳優座養成所の二年生でした。白黒のテレビで、ちょっと猫背の広津和郎さんがインタビューに答えている姿に父が感動して、兄に”すごい人だね。こういう人がいるのだね”と言ったのを鮮明に覚えています」と。
ちなみに、小津安二郎監督「晩春」(1949年8月公開)は、広津さんの「父と娘」が原作である。
現在、松川事件事故現場には「松川の塔」が立つが、その「碑文」に刻まれた言葉は次のとうりである。
「この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階層を超え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援活動に立ち上がったのである。 この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。救援は海外からも寄せられた。」

広津氏が松川裁判に没頭していった動機の一つには「謙遜を欠いた権威」に対する「納得のゆかなさ」にあったと記している。
「権威」そのものを否定しようとしたわけではない。
最近の政府の沖縄に対する「謙遜を欠いた」対応を思い浮かべるところである。
広津家があった八女からそう遠くない、熊本県と大分県の県境の山林地主で、国という「権威」と戦った室原知幸氏も、この広津和郎氏と重なり合うところが多い。
つまり「権威」に対して法律という「言葉を盾に戦ったのである。
室原氏の山林を流れる川の下流にある久留米がしばしば大水害に見舞われており、この地の「ダム建設」に当初から反対したわけではなかった。
ただ訪れた役人が、小学生を諭すように「建設省は地球のお医者さんです。信頼して任せて下さい」といったり、一方で「日本は戦争に負けたんです。それを思えばこれくらいの犠牲を忍ぶことが何ですか」といった高飛車な態度に出る、そうした「横柄」さの一つ一つが室原の逆鱗に触れた。
早稲田法学部卒業の室原は、地元では「大学様」とよばれていた。
すでに60歳を超えていたが、国との戦いに備え自宅にコモリ「六法全書」を片手に憲法、土地収用法、河川法、多目的ダム法、電源開発促進法、民事訴訟法、行政訴訟法までをも跋渉した。
そして、国との間での訴訟は75件を超えるに至った。
室原は国との戦いで「智謀」の限りをつくした。
たとえば国は土地収用法14条の適用にあたり、測量に当たって已むをえない必要があれば障害となる伐徐を県知事の認可で出来ることを定めているが、その障害物を「植物若しくは垣、柵等」と限定している。
これを字義どおり解釈すれば、小屋は厳然たる構築物として伐除の対象外となるはずだと考えた。
住民等は民法上の権利を居住性を具備した小屋を次々に増やす戦術にでた。
つまり実用ではなく、「法的戦術」のために小屋をつくりはじめ、いつしか黒澤明の「蜘蛛の巣城」にちなんで「蜂の巣城」とよばれた。
国側(建設省)は、小屋を法的に除去できるか「解釈論」が分かれたが、「河川予定地制限令」という明治以来埃をカブッテ埋もれていた重宝な法令を持ち出した。
ただちに国は、標高338mのダム湛水予定線下の全域を河川予定地として「制限令」の適用区域とすることを告示した。
つまりこれらの小屋を河川敷内の「違反物件」として除去できるからだ。
国はシテヤッタリの思いであったろうが、室原はこの法令は河川工事によって「新たに」河川となるべき区域に適用すべきことを明確にしているが、ダム建設工事がハタシテこの河川工事の範囲に属するかという「反論」で応戦した。
下筌ダム建設期間中、建設大臣は三人変わったが、変わるたびに室原知幸に会見を申し入れることが恒例となり、国側が室原にコビを売ったカタチになていったが、室原は「面会謝絶」の木札さえ立てる。
この戦いは、北里柴三郎を生んだ北里家と並ぶ室原家の山林地主としての財産がそれを可能にしたともいえる。
しかし裁判費用は室原一人の拠出であったにせよ、一般の村民は監視小屋につめることなどにより、その間 働くことさえできず、長期の闘争は日稼ぎに頼っている者にとっては深刻だった。
イツ終わるともしれない戦いに、住民達が生活の糧をこの地以外に求めるにつれて、蜂の巣城も縮小して室原の孤軍奮闘の様相を呈していった。
森を守るためのダム建設反対の費用捻出の為に山林を売らなければならなかったのは、皮肉なことであった。
裁判では国側が勝訴し、下筌ダムはツイニ建設の運びとなり、室原は訪れる人々に「ダム反対」を逆さに「タイハンムダ」と読ませた。
しかし、室原が語った「公共事業は法にかない、理にかない。情にかなわなければならない」は、その後の行政闘争の灯火として生かされていった。

法律用語は、日常的な用語とは微妙なズレ方をしている分、その解釈が「恣意性」をもってしまっては、法律の「言葉」としての力を失ってしまう。
そこで具体的な裁判所の判決(判例)をもって、法律の条文に具体的な基準が与えられていくのだ。
イギリスが「不文憲法」の国であるのは、そうした「判例」のストック(コモンロー)がたくさんあるので、今さら憲法を作定する必要がなかったからである。
最近では、1999年の「周辺事態法」は日本の安全に関わる「周辺」で、米軍が戦闘状態にはいったら自衛隊は輸送などの「後方支援」できることを定めた法律だが、ソノ「周辺」とは何をさすかで、国会がモメたのは記憶にあたらしい。
沖縄が揺れているのも、様々な「言葉の問題」である。
歴代担当官の数々の失言もあるし、すっかり表に出てしまった「密約」という第三者のハイルことのできなかった言葉の世界もある。