人がブランド

シャープが創業100年をもって「倒産の危機」というニュースが新聞紙面を賑わせている。
ほんの数年前まで三重県の亀山市に液晶テレビの工場がありソコで作られる液晶テレビは、世界中の羨望の的であり「超ブランド」品として液晶テレビの頂点に君臨していたのに、没落はアットいう間であった。
なぜこのような没落をマネイタのか。
「生産面」でいえば、地元からの「補助金」目的で国内に最新工場を設置したことが、超円高時代の工場の海外移転のアシカセになったことがアゲられる。
それがために地元の経済とか地元の雇用は無視するわけにはいかず、海外にハヤク脱出していれば韓国・中国との「価格競争」に敗れる事はなかったかもしれない。
また「需要面」では、「世界市場」の消費者需要の調査不足がアゲられる。
数年前に、ジェトロ(日本貿易振興機構)と電気メーカー各社が、アフリカで商談会を開いた時、「日本製の携帯電話は、電話通話だけでなくネットも出来る。メールも出来る。ナビ機能など最新技術が満載だ」とアピールした。
するとアフリカ各国の首脳は「わが国では、24時間電気の安定供給が無い。ネット環境も整備出来ていない。宝の持ち腐れだ」と応えた。
一方、韓国政府・韓国系電気メーカーは「わが社の携帯電話は、通話に特化している。値段も安い」と主張し、アフリカでの需要に適合していることを示した。
ところで、シャープの歴史は早川徳次という人物にいきつくが、「早川電機工業時代」以前からベンチャー的な志向を持っていた人物である。
今から100年前の9月13日は、18歳の早川が隅田川ベリに金物細工の店を開いた日である。
ズポンの穴なしで長短自在に留めるバックルでアテた。次に作り出したのが「繰り出し鉛筆」でシャープペンシルとなる。
当初、「早川式繰出鉛筆」として特許を出願したものの、「和服には向かない」「金属製は冷たく感じる」など評判は芳しくなく全く売れなかった。
それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けるうち欧米で、次いで日本でも売れ始めた。
商品の大量生産のために工場に流れ作業を導入するという、当時としては「先駆的」な試みを行った。
会社の規模は大きくなり、1923年には従業員の数が200名を越えるに至った。
しかし1923年の関東大震災では、九死に一生を得るが、妻と二人の子供は死亡し、工場も焼け落ちてしまう。
残った債務の返済のため、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却し、再び「無一文」となった。
心機一転、大阪へと移り、翌年には早川金属工業研究所を設立し、アメリカから輸入された鉱石ラジオを見かけ、日本でもラジオ放送が始まることを知り、「ラジオの製品化」に取り組み始めた。
1925年には国産第第一号機の「鉱石ラジオ」の開発に成功する。
この年の6月1日に始まった大阪のラジオ放送では、明瞭な音声が聞こえ、全員で抱き合って喜んだという。
このラジオは爆発的に売れ、ラジオにまもなく“シャープ”というブランド名を付けた。
以後も次々に新しい技術を生みだしていった。
しかし今は早川徳次の時代とは違って、ものヅクリは国内市場ではなく、世界市場が相手である。
国内市場での競争でシノギを削っていると世界市場での戦い方を見失いガチとなる。
そこから日本企業の「思考」が世界市場との「ズレ」が生じているのではなかろうか。
例えばシャープが築いた「国内ブランド」ソノモノが「対応」を遅らせている原因になっていないだろうか。
つまり「国内ブランド」の確保のために、「世界ブランド」への方向性を失ってしまうという構図である。
そもそもドレホドの人々が「生身」を見るホドの高い「解像度」の映像を求めているのだろうか。

新幹線で東京に行くと、川崎あたりの高架線から広大な「町工場」群を眺めることができる。
小さな工場であっても、「宇宙開発」に使われるような世界水準の技術を持つ工場もあると聞く。
しかし、グローバル時代にはモノヅクリの拠点が「海外移転」をせざるを得なくなるのならば、ソノ技術たココで働く人々はどうなるだろう。
円高の下での「価格競争」が中小企業を苦しめているのだが、それダケではなく「金融庁」が策定した検査基準というものも、中小企業金を苦しめていると聞く。
現在の信用組合など金融機関の中小企業向けの「貸し渋り」や「貸しはがし」というものの原因をたどれば、1998年に発足した金融監督庁(現・金融庁)の検査に行き着く。
これもやはりグローバル化の一環であるといえるが、アメリカで経済学を学んで帰国した秀才が中心になって作った「マニュアル」を、金融庁のノンキャリアの検察官が使命感に燃えて実施している。
10年以内に返済できない借金があるとダメなど、果たして日本の「中小企業金融」の実態に即した「検査」だったのだろうか。
金融機関はオビエて融資を渋り、その結果「信用収縮」がおこり中小企業がツブレルということが相次いでいる。
ところで先日、日本振興銀行「解散」のニュースがあったが、コノ銀行は日本史上初の「ペイオフ」(預金保護)が発動された銀行として名を残している。
破綻したのは今から凡そ2年前だが、この銀行の破綻をメグル人々の「めぐり合わせ」はコトノホカ興味深い。
立派な「理念」をもって沢山の本を書き、しかも元日銀マンといった「ブランド人」が鳴り物入りでスタートした銀行だっただけに、わずか5年後の破綻には色々な「人間縮図」が浮かび上がる。
個人的な変な連想だが、「江夏の21球」を思い浮かべた。
野村監督が1979年広島・近鉄日本シリーズ最終戦の9回裏という「土壇場」のビデオを見ながら、人間の強さ、さもしさ、意地、プライドなどが、この「21球」の合間に見てとれるとボヤイていたことが思い浮かんだ。
さすが「生涯一捕手」だが、こういう心理のアヤが読み取れる人というのは、巨人軍ブランドの選手とかとは遠い「ブランド外」(野村はドラフト外入団)だったカラかもしれない。
ところで日本振興銀行の社長となって、日振銀の破綻処理にあったのは「社外取締役」から社長に抜擢された小畠晴喜という人物であった。
この人物は、今やビジネス小説作家・「江上剛」として知られている。
いわば「新ブランド」で生き抜いたわけである。
江上氏は日本発のペイオフ発動について深々と陳謝したが、「預金保険機構」によると、全預金者12万6799人中3423人の人々が、1000万円以上の分は保護されなかったということである。
江上氏には「失格社員」「社長失格」「背徳経営」「隠蔽指令」「大罪」などの著書がある。
これらのタイトルから相当な「修羅場」を潜った銀行マンであったことが予想される。
経歴を調べると、江上氏は「第一勧銀」総会屋事件の際に広報部次長の地位にあって事件に関与している。
実は、第一勧銀の経営刷新に取り組んだ4人組をモデルにして、作家の高杉良は「金融腐食列島」を書いたが、そのモデルになった人物であった。
江上氏が「書かれた」ことが自ら「書く」キッカケになったという「めぐり合わせ」は面白い。
ちなみに、最近「下町ロケット」で町工場で働く職人達の姿を描き、直木賞を受賞した池井戸潤氏は三菱銀行出身である。
しかし「めぐり合わせ」ということならば、江上剛氏の前に日本信託銀行の社長をつとめた木村剛氏の方がハルカに面白い。
木村も日銀時代から「織坂濠」というペンネームで本を出していて江上剛氏と共通部分があり、木村氏に誘われて日本振興銀行の「社外取締役」を2004年から務めてきた。
とういのも日本信託銀行の破綻に際して、金融庁の検査を妨害して「銀行法違反」によって逮捕された木村剛氏は、小泉首相・竹中平蔵のもとで経産省の下で「金融検査基準」を設定した当の本人だったのだ。
自分を締め付ける厳しいルールを自分に課す結果になった上、様々な「専門知識」を生かして金融庁の検査を妨害したということになる。
当時のの木村剛会長・西野社長らの経営陣の逮捕で、それまで「社外取締役」であった前記の江上剛氏が急遽、日本振興銀行の社長に就任したという経緯であった。
「社外取締役」の役割というのは、一応社長や会長の暴走に歯止めをかけたり、コーポレートガバナンス、コンプライアンスなどを厳しくウォッチして、経営陣にアドバイスすることである。
ところで、日本振興銀行は、2004年4月に中小企業向け融資専門の銀行として開業した。
「中小企業の救世主」と同行を持ち上げる世の中の雰囲気もあった。
日本振興銀行の経営を主導してきたのは、小泉政権下で竹中平蔵金融担当相のブレーンとして金融庁顧問も務めた木村剛氏だ。
日頃、銀行は「雨の日に傘を取り上げ、晴れた日に傘を貸す」などと揶揄されるだけに、融資を受ける側から見れば、もしも雨の日(不況時や業績悪化時など)に積極的に傘(資金)を貸し出してくれる銀行があれば、確かに理想的な話ではあった。
しかし、サラ金まがいの商法に頼ったことで、法令違反が次々に発覚し、「メール削除」などで金融庁の検査を妨害したとして、木村氏は銀行法違反(検査忌避)の疑いで警視庁の家宅捜索を受けるに至った。
乱脈経営が白日のもとにさらされることを恐れた木村剛は、連日のように会議を開いて対策を協議し、証拠隠滅を図ったというが、当時「社外取締役」であった江上氏のはドコをどうチェックしていたというのかという疑問はわく。
何しろ木村氏は何しろ「ブランド人」だし、身内を優遇した貸し出しをしても甘くなったという面があったのかもしれない。
日振銀の経営不振の理由の1つは、日本振興銀行が進めた「中小企業」の資金貸し出しの業務に、かつて金融監督庁の委員としてシメアゲタ大手の銀行が進出してきたという皮肉なめぐり合わせとなった。
捜査において、損失隠しや偽装ばかりではなく、そして「金額」の大きさが明らかになった。
ここまで大きな金額だと政府も簡単にはツブセナイという気持ちも働いたのかもしれない。
木村剛氏は山のように本を書いて、政府の金融政策などに意見してきた人物である。
木村氏の書いた本のタイトルには、「粉飾答弁」「小説ペイオフ~通貨が堕落するとき」「退場勧告~居直り続ける経営者たちへ」などがあり、生身の自分を「供犠」にして、本の「売り上げ」拡大をハカッタのかとサエ思いたくなる。
日本振興銀行のその基本理念の中には、「お預かりしたご預金は中小企業への融資に活用される」とあり、資金使途が明確に表記された一文がある。
また、「将来性・成長性のある中小・新興企業にとって利便性の高い資金調達手段を提供することにより、わが国経済の健全な発展に寄与する」とある。
しかし残念ながら、預金者の資金は「理念通り」には運用されなかった。
銀行や信用金庫の中小企業向け貸出金利の相場が2~5%であるところ、日本振興銀行は金利の「空白地帯」を開拓するとして、5~15%の金利を設定している。
しかし、5~15%の金利を支払って、事業を継続できる「空白地帯」というのが存在するのだろうか。
実際、思ったように融資は伸びず、06年度まで経常利益は赤字を続けた。
業績が上向いたのは、サブプライム問題をきっかけに資金繰りに困った商工ローンの債権を安く買い取れるようになった07年後半からである。
しかし、日本振興銀行の開業は、予備免許の申請からわずか8カ月後という異常ともいえる速さだった。
ナゼこんなことが可能になったのか。
いわゆる「竹中プラン」でなかで、不良債権処理を進めるにあたって中小企業の金融環境が悪化しないようセーフティーネットを講じなければいけないと、「中小企業の資金ニーズに応えられるだけの経営能力と行動力を具備した新しい貸し手の参入については、銀行免許認可の迅速化を積極的に検討する」という一文が盛り込まれた。
この「竹中プラン」を作ったプロジェクトチームの主要メンバーこそが当時金融コンサルタントだった木村氏である。
その木村氏が東京青年会議所の例会に呼ばれて「いまなら銀行をすぐに作れる」と発言し、それを消費者金融の資金元である「卸金融」を手がけていた人物が資金を用意したことから、動き出した計画なのだそうだ。
「理念先行」の安直な出発だった感が否めない。
日本振興銀行は、「預金」に関してもソノ理念が大きなアピールポイントになったはずだが、そうした努力は見当たらず、むしろ「コスト削減」に基づく有利な運用(高金利)という点バカリを訴えていた。
同行がせっかく崇高な基本理念を前面に立てたのだから、それに賛同する預金者を獲得できていたとすれば、「運用面」に関する預金者からのガバナンスがもう少し「有効」に機能していたと考えられる。
ところで、中国の秦国の政治家・商鞅は、徳治を唱える儒家と対照的に、厳格な法による統治を説く「法家」の一人で、秦の孝公に仕えた人物である。
国政改革では法にもとづく信賞必罰を徹底した「法家」が主体となったが、孝公が没するヤ商鞅は「政敵」たちから激しい追及を受ける。
彼は都を脱出して函谷関で宿に泊まろうとしたが、宿屋の主人は彼の正体を知らずに「通行手形をもたない者を泊めては商鞅の法で罰せられる」と断ったという。
この故事の「現代金融版」が木村剛氏ともいえる。
銀行の不良債権問題の論客として時代の脚光を浴び、銀行の「資産査定」の厳格化にむけて徹底的な「金融検査」をウナガス発言を行ってきた。
その木村氏が金融庁の検査妨害の容疑で逮捕されたのだから、実質的に自分が策定したルールつまり「商鞅の法」で罰せられる「めぐり合わせ」となったのである。

日本振興銀行の破綻のように、安易に「ブランド」を信用するとロクナことはないようだが、2~3日前の新聞に、山口県柳井の機械メーカー「大畠製作所」の倒産で見い出だされた「或る」ブランドの話が掲載されていた。
1946年に創業し、半導体の製造装置や自動車部品の加工機などをツクってきた。
「大畑製作所」はもともと、旧日本海軍の軍需工場「海軍工廠」の技術者が中心になってつくった会社である。
しかし半導体不況で業績が悪化、6月に民事再生法の適用を再生したが、今年5月再生手続きの廃止決定を受けた。
再建を断念して、破産手続き平行する見通しである。89人の社員は全員解雇された。
しかし、7月頃から地元ハローワーク柳井に、社員を紹介してほしいという「指名求人」が相次いだ。
その数は、正社員を求めている会社だけで27社で、1社あたり2~3人の求人があるという。
ほとんど機械製造関係で、技術指導や即戦力に期待している。
何しろ、社員の半数以上が機械加工などの技術検定を持ち、地元では技術の高さで知られていた。
勤続34年の男性(50)は「自分しかできない仕事をやってきた。工具の研ぎ方から技術を伝えて、人を育てたい」と話す。
実はハローワーク柳井の有効求人倍率は0.57で県内最低である。
その中での「指名求人」殺到に、ハローワーク所長は「社員自体が大畠ブランドになっている」と驚いているという。