ボンクラーズ

将棋名人と人工知能との戦いをテレビでみた。
人工知能はすでにオセロ名人を負かすレベルに達しているが、将棋はオセロよりハルカに懐の深いゲームなので、果たして将棋名人に勝てるのか。
将棋名人は元名人の米長邦雄氏で、「定石」にないサシテで人工知脳「ボンクラーズ」をかく乱する作戦にでた。
するとボンクラーズは、同じマスメを右と左に駒を往復させるノミ、将棋名人の「かく乱」作戦は効を奏したかに見えた。
しかし、将棋名人が何手か駒を進めた頃合を見計らうように、ボンクラーズも駒を動かし始めたのだ。
つまりボンクラーズは、「かく乱」されたというよりも、将棋名人の「出方」を待っていたのだ。
そしてこの「膠着状態」を抜け出るや、徐々にボンクラーズが劣勢を挽回し、133手目にして将棋名人を負かした。
米長元名人は対戦後、「相手がミスするのを待つ、まるで棋聖・大山名人と戦っているような感じだった」と語っている。

神の手(名人)とロボット(人工知能)との戦いは、「将棋の世界」だけの話ではない。
このたび天皇の心臓バイパス手術を執刀した医師・天野篤氏は「ゴッド・ハンド」と呼ばれる人だった。
中でも心臓を動かしたまま行うバイパス手術の「オフポンプ術式」の第一人者で、世界的にも知られている。
高校時代に父親が、心臓弁膜症の手術を受けたことをきっかけに心臓外科医を志したという。
その天野氏「手術後」の話は印象的だった。
「陛下が希望された公務と日常生活を取り戻すのが成功と言ってよい時期。その日が来ることを楽しみにしています」と。
この医師の実績に裏付けられた「自信」が、昔の「職人」の気質のように聞こえた。
というのも、「手術」の精度の確かさは、ソノ「回復の早さ」に現れるという「信念」をお持ちのようだ。
しかしコレって、ドコカデ聞いたような気がした。
日本で始めて「バチスタ手術」を成功させた須磨久善氏がNHKの「プロジェクトX」で同様なことを語られた記憶がある。
手術が成功したといっても、術後の経過が悪ければ患者は死亡する。
それは1968年の日本の初の和田「心臓移植手術」ばかりではなく、須磨氏自身の最初のバチスタ手術による「失敗」の体験からきていた。
須磨氏がイタリアで学び日本で最初に行った「バチスタ手術」は成功したかに思われたが、術後の経過が悪く患者が亡くなったという「痛恨」の体験があったからだ。
バチスタ手術は「肥大した心臓」の三分の一近く切り取るという危険な手術でもあり、後の処理が悪ければ患者の回復が図れない性格のものだからである。
しかし須磨氏は、次の手術で失敗すれば、自身の「医師生命」も失われかねないにもかかわらず、一人でもソレを望む患者がいる以上は、挑戦しなければならないと手術に挑んだ。
これが、日本初の「バチスタ手術」の成功に繋がった。
ところでNHKの「プロジェクトX」で見た、須磨氏が手術をする前に、何度も手を動かしてイメージトレーニングする姿は、医師というより「職人」という感じを抱かせるものがあった。
そして天皇手術当日のNHKニュースで、この天野医師が、須磨医師が働く千葉の病院で須磨氏の指導の下でワザを磨いていたことを知った。
須磨医師はイタリアで学んだバチスタ手術を、マンツーマンで天野医師に伝授したのだ。
須磨医師によると、天野篤医師は誰よりも向上心が強く、手術回数を重ねるうち、乾いたスポンジが水を吸うようにミルミル上達していったという。
1983年の日大卒業後は、バイパス手術の受け入れが多い総合病院経験を積み、平成18年から22年の5年間で、約3000件もの手術を手がけた。
東大医学部が中心となってきた陛下の医療体制のもとで、執刀医に天野氏が「異例」の起用をされたのは、そうした「実績」があってのことであった。
天野氏は師の須磨氏同様に東大の学閥と無縁で、日大医学部を三浪の末に合格し、いわゆるエリート医師というわけではない。
つまり、「白い巨搭」とよばれる「権威の世界」に生きる医師ではなく、包丁一本ならぬメス一本でワザで磨きヌキ、「ゴットハンド」とまでよばれるようになった。
といわけで、オコラレルかしれないが、「医師」というより「職人」といった方が近い。
ところで、永六輔が職人を取材して書いた「職人」という本の中にも、そうした「医師」の含蓄のある言葉が並んでいる。
「外科医なんてものは、メスを持ったら板前だよ。手術を料理と言ったら悪いけど、でも皿に盛りつけると同じで、きれいに仕上げたいって気持ちはあるんだ」。
「目医者、歯医者が医者ならば、蝶やトンボも鳥のうち そんな歌を歌っていた目医者も歯医者もいましたが 、いまはとんでもない。歯科技工士なんか、高齢化社会には神様のような職人ですよ」。
「最近では、結石を電磁波で破壊してしまう方法があります。こうなると、対外から体内の結石を狙い撃ちするわけですから、湾岸戦争の中継だと思ってください。これも医者というより、職人ですね」。
これでいくと、心臓手術の最後のツメである「縫合」は何かというと、オーダーメイドの「仕立て屋」といったところでしょうか。

世界の医療機器のなかでも、日本で生まれた「内視鏡」いわゆる「胃カメラ」は画期的な発明であった。
1949年8月、台風で立ち往生した列車内で、東大病院外科医の宇治達郎とオリンパス光学工業(現オリンパス)の光学技師の杉浦睦夫が意気投合し、互いの「夢」を語りながら、時が過ぎるのを忘れていた。
ふりかえって見れば、この時が「医学」と「光学」が出あった日、あるいは日本のモノツクリ技術と医療が結びついた日でもあった。
宇治達郎は、戦地から復員し1946年当時30歳、東京文京区にある東大医学部付属病院分院に勤め始めていた。
当時、日本は食糧難にあえいでおり、宇治はソノ貧しい「食生活」が原因で当時急増していた胃の病気と格闘していた。
その宇治の前に、立ちハダカッタのが、手の施しようのない「胃ガン」であった。
この時、ガンによる死亡者数が急増始めていたのだが、そのガンを早期に発見するスベは何もなかった。
宇治は患者の腹部を手術で開いても、すでに手遅れになったガンを前に、ただ縫い合わせるだけの空しい日々が続いた。
その時、宇治の胸にあるの途方もない構想が芽生えた。
「胃袋の壁を内側から写真に撮ったら、胃ガンを早期発見できるにちがいない」。
宇治はかねてからカメラに趣味があり、欧米の科学雑誌などで紹介されていた「ガストロフォト」(胃内写真)に強い関心を持っていた。
だが医療器具として使うとなると、硬いうえに、挿入の苦痛が激しく、写真も診断に役立つレベルには程遠かった。
宇治は「胃カメラ」を、共同で開発してくれるメーカーを探した。
すぐに浮かんだのは、宇治の義父が関連会社に勤めていた高千穂光学工業(現オリンパス光学工業)だった。
東京渋谷のバラックの家がヒシメク中に、かろうじて戦災を免れた高千穂光学工業の社屋があった。
その建物の一室が研究所だった。
この時、宇治が会おうとした相手は、主任技師である杉浦睦夫(当時32歳)であった。
当時、オリンパスの工場は、終戦直前に長野・諏訪に疎開した工場は焼失を免れていた。目当ての杉浦はこの長野工場にいることがわかった。
杉浦睦夫は1938年、東京写真専門学校を卒業後、高千穂製作所に入社し、社運をかけた開発をマカサレた。
当時杉浦は、海外の資料を取り寄せ、より高度な「位相差顕微鏡」の開発に向け、忙殺の日々を過ごしていたのである。
その工場に、宇治達郎は杉浦睦夫をおって「直談判」に訪れたのである。
宇治の提案した胃の撮影装置とは、胃の中に直接超小型カメラを挿入して胃壁を写真撮影し、レントゲン写真では診断不可能なカイヨウやガンなどの「早期発見」を可能にするものだった。
宇治の打診に対して、杉浦は「ナンとかなるのでは」と安請け合いしたものの、研究所の所長は反対した。
所長からすれば、胃カメラのことを考える暇があるなら、社運を賭けた「位相差顕微鏡」を一刻も早く完成サセヨということだったに違いない。
杉浦は東京の本社へ帰ることを告げ、宇治とともに下諏訪発の列車に乗って東京へと向かった。
その途中に、関東一円を襲ったキティ台風と遭遇したのである。
車内放送で朝まで列車が動かないことを知ると、ドチラカラともなく、胃カメラの話になった。
それが医学と光学が結びつく「記念日」となったのである。
この日のことを、杉浦は次のように述懐している。
「胃カメラ誕生の運命は、昭和二十四年八月三十一日のキティー台風の夜に決まった。宇治さんの諏訪工場への訪問。研究所長の不可能の言。キティー台風による思わぬ長時間ディスカッション。この三つの出来事のうち一つが欠けても今日の胃カメラは生まれなかっただろう」と。
杉浦は、昼間は位相差顕微鏡の研究に精を出す一方、皆が帰るのを待って、夜こっそり暗室に入り、胃カメラの「基礎実験」に着手した。
まず、胃の中には光がないため、光を持ち込む必要がある。
しかし、レンズやフィルムの小型化の実現に比べ、「光源」の小型化には限度があり、たとえ小型にしても、当時の光源では光の強さが不足していた。
杉浦の脳裏に、夜のネオンサインを撮るときは、カメラを振りながら撮れば、ネオンは交流のサイクルにより明滅して、100の1秒間隔で撮影できる事実でああった。この原理を使えば、ヤレルと思えた。
キテイ台風の夜から約2ヵ月後、その日は会社創立三十周年の記念日を迎えた。
高千穂光学工業からオリンパス光学工業に社名が変更される「歴史的」な日でもあった。
その晴れがましい記念日に、杉浦が開発した「位相差顕微鏡」の発表会も組まれた。
この日は杉浦にとって生涯で最も輝かしい思い出になるハズであった。
しかし杉浦は、社員の誰かが「所詮はアメリカの模倣さ」とササヤクのが耳に入った。
この時、有頂天となっていた杉浦は、冷や水を浴びせかけられた気がした。
「位相差顕微鏡」は高性能とはいえ改良型にスギズ、「アメリカの模倣」ということを認めざるをえなかったからだ。
しかし、その時杉浦には、自分が進む道がはっきりと見えたような気がした。
国産「胃カメラ」の開発である。
そして1950年11月3日、試行錯誤の末に遂に世界初の「胃カメラ」が完成した。
杉浦睦夫はその後会社を退職し、「杉浦研究所」を設立しサラナル医療機器の発明に挑戦し続けたが、1981年8月、心筋梗塞で逝去している。

人間のワザとロボットが協働する「ダヴィンチ」と呼ばれる「医療用ロボット」がある。
日本にまだ数台しか導入されていない最先端の「手術支援」ロボットである。
主に冠動脈バイパス手術など、主にに「心臓関連」の手術を行うことができる。
1~2cmの小さな創より「内視鏡カメラ」とロボットアームを挿入し、手術者は3Dモニター画面を見ながらロボットアームを操作して手術を行う。
2005年10月に金沢大学に、「研究目的」で導入された。
ロボットとはいえ、「操作」に精通した医師が二人必要で、一人はコンソールに座って操作し、もう一人は手術台の横にいて患者の身体に内視鏡や、ロボットのアームについた手術器具をセットする。
先端にカメラが二つあるため、これまでの内視鏡手術で使っていたカメラの映像が「二次元」であったのに対し、「ダヴィンチ」は「三次元」で見える。
映像が立体的に見え、かつ実際より10~15倍に拡大されるのが、使い勝手のヨサを倍増させる。
また、従来の内視鏡手術の道具は、「手首をギブスで固定した状態で指先だけ動かす」感覚で訓練を積まなければ、使いコナセなかった。
一方、「ダヴィンチ」では手首も自由に動き、「操作性」が格段と向上し、三次元の画像を見ていると「小人」になって皮膚の下に潜り込んで「手術」をしている感覚なのだという。
ただし、「柔らかい」とか「硬い」とかという触覚とは「隔絶」されることになる。
「ダヴィンチ」利用が患者にもたらす一番のメリットは、傷が小さくて済むことで、特に女性にとっては有難い。
通常の心臓手術では、胸の中央を20-30センチの長さで切開し、胸骨も切らなければならない。
このため、入院期間は二週間ほどに及び、3カ月近く退院後の「生活の質」は低下している状態となる。
しかし、「ダヴィンチ」による手術では、傷は数か所の穴だけで済み、三日もあれば退院できる。
「ダヴィンチ」は、「皮膚の下にすべり込んで手術する」感覚だそうだが、文字どうり「体内に入って」施術を行う「マイクロロボット」の開発もすすんでいる。
動脈を泳ぎ進む医療用のマイクロロボッットだ。
オーストラリアの研究チームが、動脈や消化器官を泳ぎ進み、画像を送信したり、既存のカテーテルでは届かない体の部分に微量の物質を送り届けたりする。
このマイクロロボットは髪の毛「二本分」の幅しかなく、このサイズでは磁界が非常に弱くなるので、電磁気モーターではなく、「圧電モーター」を利用するという。
このマイクロロボットの設計は「大腸菌」にヒントを得たもので、体内を進むための「鞭毛」が付いているというから、ロボットがまるで「ウイルス」と化して体内で作業をするわけである。

ゴットハンドか人工知能が。今のところ「競合」か「棲み分け」といったところであろう。
ところでチェスには一手あたり平均35通りの「次の手」の可能性があり、一つの対戦では40手ぐらいだから、35の40乗、すなわち10の62乗となる。
一局面の評価に1000分の1秒かかるとすると、全数探索には10の54乗「年」ほどかかるという。
将棋は「81マスの宇宙」と呼ばれるほど複雑だから、コンナモノではすまない。
つまり人工知能がシラミツブシの探索で、「将棋名人」に勝とうとしても無理な話である。
では将棋名人に勝った「ボンクラーズ」とは、どんな「設計」がなされているのだろうか。
将棋名人の場合は、過去の経験から現在の盤面の何手か先にある「陣形」をイメージすることができ、そこへの道筋を容易に「逆算」していると考えられる。
単なる「計算能力」と「知性」の違いである。
これこそが「大局観」だが、こうした人間の「思考方法」が、米長名人と対戦した「ボンクラーズ」に取り入れられたのだ。
「ボンクラーズ」には、江戸時代から現在までのプロ棋士の五万局の対局のデータが入力されていたという。
記憶するだけでなく、プロ棋士がどんな時に有利になるかを分析し、優れた指し方の「原則」を見つけ、「未知の局面」でも自分で応用ができる能力や「取捨選択」の技術を身につけていたというのだ。
「ボンクラーズ」の名前では申し訳ないような「経験知」に裏打ちされた知性派ロボット誕生の日は、そう遠くない気がした。
ロボットの名は、「インテリーズ」とかナントカ。