パートの時代

今本屋で売れいるのが「大往生したけりゃ医療とかかわるな~自然死のすすめ」という本である。
筆者は死ぬなら癌が最高というのだから、癌と戦っている人からすれば、怒りたくなるかもしれない。
さてこのお医者さん、癌という病は老化のあらわれであるから、年とともにおきる「自然」な現象であるとおっしゃる。
このお医者さん、家族に点滴に使う液体を飲んでもらい、点滴をするかどうか選択させるのだそうだ。
自然にしておけば「癌による死」はサホド苦しいものではない。
なぜなら、あらゆる「自然死」は食欲の喪失から弱ってくるものであり、究極的には「餓死」なのだという。
人間は飢餓状態になると、ドーパミンというある種のモルヒネみたいな物質が出て気持ちよくさせるために、「苦しみ」さえも低下させ、思うほどには苦しまなくていいのだそうだ。
癌は突然死ではないので、宣告されたら身辺整理も周囲への挨拶もする余裕ができるというのだ。
ところが現代において「自然死」というのは滅多に見られなくなっている。
死に際しては病院に運ばれ、酸素マスクか点滴をうつケースが多く、体中に菅をサシコマレる状態で死んでいく人々がたくさんいる。
これでは、人間は「死」が与える「恩恵」について何一つ知ることなく、アヅカルことなく、殺伐と逝くダケであると。
癌を悲惨にしているのはむしろ医療で、「副作用」によって体全体を弱らせ苦しませるというのだという。
これは医療の面から見ると「癌」というパートを取り出して直そうとして、「全体」をもっと悪くする。
ヘボな医者ほど、患者さんは「パートさん」にしか見えないのだろう。
実はこの世には様々な「パートさん」というものがいて、現代という時代は「総パート化」時代とでもいえるのではなかろうか。

モデルの業界では、「パーツ・モデル」とかいう仕事がある。
「パーツ・モデル」とは全身のモデルとは違い、特出した体の一部分だけのモデルのことを言う。
それは手だったり足だったり、様々な種類のパーツ・モデルがいる。
一般的には「手タレ」、「足タレ」、「髪タレ」などと呼ばれ、変わったところでは目、唇、おしり、背中のパーツモデルもいる。
それでいくと、「目タレ」、「お尻タレ」、「唇タレ」、「鼻タレ」と呼ばれているスーパー・カリスマ・パーツモデルがいるのか思うと、楽しい。
パーツモデルはその一部分がズバヌケテ「美しく」なければならない仕事であることはいうまでもない。
だから「パーツ」に対するケアが欠かせない。
そのケアには大変な努力が必要なので、一般の人々が思うほど華やかな仕事ではなく、地味な部分がとても多い仕事なのだそうだ。
しかし、ダイエット前の「三段腹」とか「二重アゴ」のモデルとかは、むしろケアをせず好き放題できるのはないかと夢みたりもするが、「三段腹/二重アゴ」の持ち主を「パーツ・モデル」とよぶのは無理でしょう。
「生活習慣病」または「メタボ」の「バツ・モデル」ならヨシとしても、である。
ところで、プロ野球史上で最もユニークなプロ野球選手とくれば、躊躇なく1968年に当時東京オリオンズ(現ロッテ)に入団した飯島秀雄選手という名前をあげたい。
なぜユニークかというと、野球経験がゼロに等しいプロ野球選手だったからだ。
飯島選手は当時、100メートル走の日本記録保持者であり、「代走」専門の選手としてプロ野球に入団した。
つまりプロ野球史上初の「パーツ選手」が誕生したわけである。
しかし、スタート・ダッシュに優れ、50メートルならば「世界最速」といってイイぐらいの走力をしても、プロ野球選手として成功しなかった。
相手チームにとって飯島選手の「盗塁」はツネニ「予想可能」だったからである。
打つ、投げる、走るのなかで、実質「走る」ことダケのために選手登録されていたのであるから、相手を騙そうにも騙せなし、「塁を盗む」なんていう卑怯な行為が、正直で律儀な飯島選手の性に合わなかったのではないかと推測する。
ところで「パート化」といえば、マダマダ様々なことが浮かんでくる。
不動産を証券化して、バラ撒いた「サブ・プライム・ローン」もパート化のひとつであるかもしれない。
また東北の震災で明らかになった「サプライ・チェーン」もその一例である。
つまりヒトツの製品に対して世界的に広がる「パーツ」のクサリも、グローバル化社会に特有のものだろう。
ところで今現在、国会では「改正労働法」が話題になっているが、パートといえばマズ「パート・タイマー」という労働形態をを思い浮かべる。
しかし翻ってみれば、賃金労働そのものが人間生活の「切り売り」つまり「パート化」なのだ。
マルクス経済学では、時間労働制を資本家に売るというように見なすが、もっと根源的なことをいえば、近代の成立とは「機械的な時間」に自らを明け渡しているともいえる。
そして「時間労働制」とは、ソノコトに拍車をかけているということがいえないだろうか。
人間の活動の中で一部をとりだして、「時間キザミ」で他人の監督下で働き、それに対して給与が支払われるということは、人間史の中で極めて特異なことである。
つまり産業革命以後「労働力の商品化」と「労働時間性」が広範に拡がるが、その前史はユルヤカニ進行していた。
日本の歴史の中でも明治期以前からも、「労働価値説」つまり労働の質を量に換算することによって「代金」が支払われるということは行われていた。
例えば江戸時代、東海道五十三次の旅の過程で、大井川は軍事的な理由から橋がかけられず箱根の山とともに難所の一つであった。
川を泳いで渡った旅人も多かったが、川越を人夫に依頼して行う場合には金を払わなければならなかった。肩に跨る、連台に乗る、駕籠に乗る、駕籠をそのままのせる「大高欄連台」に乗るなどがあった。
肩にまたがり川を渡る場合、その時々の「水かさ」によって人夫に支払う値段が異なり、アダム・スミスのいう「労働価値説」そのものであった。
「水位」と「値段」の関係を紹介すると、水位を示す「股通」48文、「帯下通」52文、「帯通」58文、「帯上通」68文、「脇下通」88文、「脇通」94文といったように、同じ川を渡るでも人夫の労力をソノママ反映して値段が決まっていた。
そして、水カサがワキ以上となると川留めとなった。
ファースト・クラスといってよい「駕籠」に乗って川を渡る場合には、現在の相場に換算して1万円ほど支払ったから、江戸の旅は結構な金を要したといえる。
大井川の川渡の話は「労働の値段」を素朴な形で教えてくれるが、「人の命」の価値を素朴に教えてくる尺度はないかと調べてみた。
「人の命」の価値など誰に決められるわけではないが、様々な事故の際して支払われる「補償額」というものがあり、これをこの世における「人の命」の価値尺度のヒトツとみなすこともできる。
当時の金額であまり参考にならないが、「お金雑学事典」という本でみると、1954年青函連絡船「洞爺丸」沈没事故で一人56万5千円、1966年の全日空機羽田沖墜落事故で一人500万円、1975年の青木湖バス転落事故で一人2810万円である。
保険会社は「人の命」価値の算定基準は、基本的にはその人が事故に遭わなければ得られたであろう収入プラス賠償額プラス葬儀代ということになる。
しかし「補償額」が安く思えるのは、会社の「負担能力」や、被害者の年齢や年収などに大きく左右されるからでもある。
仮に「人の命」の価値を1億円とみて交通事故(死亡事故)を考えると、自賠責保険は支払われる最高限度額が2000万円程度だから、任意の自動車保険で8千万円程度支払の保険にはいるのが望ましいことになる。
ところで「人の命」の価値を調べるうちに、人間の体の一部(パーツ)を損傷した時の事故の補償額を示す「後遺障害別等級表」なるものが存在することを知った。
例えば「指の値段」からみると、親指と人差し指を失った場合が第七級で1051万円、中指薬指を失った場合が第十一級で331万円、小指を失った場合が第十三級で139万円が支払われる。
その他面白かったのは、女子の「外貌に著しい醜状を残すもの」が第七級で1051万円、男子の「外貌に著しい醜状を残すもの」が第十四級で75万円と男女でかなり格差がある。
ちなみに男子の第七級には、「両方の睾丸を失ったもの」となっており、「女性の顔と男性の睾丸が同じ価値」をもつことになっているのも、興味深いところである。

ところで人間の歴史を振り返ると、人間の活動の一部である「労働力」が売られ給与が支払われる、つまり労働が「切り売り」されるよりも、労働マルゴトつまり「人身売買」の方はハルカに古くからあった。
そして現代の人身売買は、「闇臓器」売買と関わっているという恐ろしい現実がある。
この現実は、アカデミー賞の受賞作品「スラム・ドッグ・ミリオネア」にもよく描かれていて、かなり衝撃的であった。
もっとも芥川龍之介の「羅生門」でみるとおり平安時代には髪の毛を死体から奪って売ろうとした老婆がいたが、「髪の毛」とちがい「臓器」は人間の生存に関わる不可欠なパーツであり、それを切りだして他者に移し替える行為は、人間の生命観や死生観とも関わり、非常に本質的な問いを投げかけている。
人間は「心臓死」→「脳死」→「呼吸停止」という自然の流れにゆだね「呼吸停止」をもって死亡宣告されることが望ましい。
「呼吸停止」は誰しも納得できる確実な「死」であるからである。
しかしながら交通事故などで脳を破損して病院に送られた人が、先端医学のおかげでたまたま「脳死」の段階で踏みトドマッタとする。
新しい臓器がありさえすれば命が助かる人が多くあり臓器移植の技術が実際にある以上、自分の臓器を他人の臓器として使ってもらいたいと思う人、またはその人の関係者がいることはありうる。
「臓器移植」で一番の問題は、「脳死」と「植物状態」との混乱である。
しかし「脳死状態」では、人工呼吸器をはずせばスグに自然な死へと移行する状態をいう。
人工呼吸器が、全身の組織が死ぬ前に「脳幹」に代わって呼吸を可能にさせているにすぎない。
一方、「植物状態」の場合には脳幹の外側の大脳が破壊された状態で、脳幹そのものは働いており、自分で呼吸もでき、食物も喉まで入れてやると消化し排便もでき、汗もかけば、まばたきもする。
ただ意思や感情など自発的な反応ができないというにスギナイ。
一般的には、人が「再生」可能なのは「植物状態」のことで、「脳死状態」のことではない。
「脳死」は近代医学を学んだ医師達が新たに「見出した」死、あるいは近代医療機械が「生みだした」死というべきものといえる。
このことが「人体」のパーツの市場価値(または闇価格)という現象を生み出したのである。

近代は人間の時間が「機械的時間」にしばられる。出勤時間がきまっているので、逆算して起きる時間、朝食の時間、家をでる時間がきまる。
だから、眠たくもないのに時間になったら「寝る」、腹が減っていなくても時間になったら「食べる」ということがおきる。
しかし近代以前に人々は、「自然的時間」を生きていた。日が昇ったら起きる、日が沈んだら寝る、眠たければ寝る、腹が減ったら喰う、春になれば蒔く、秋になれば刈り取るである。
近代的時間が自然的「時間」や「空間」を奪い取るにツレテ、人々の中にはウツや心身症というものがおきているのではないかと、推測する。
この「時間圧」がストレスを引き起こさないためには、とにかく「規則正しい生活」ということになる。
しかし、それは「機械」が刻む時間に合わせるということを意味しない。
ところで、200本安打を10年間続けたイチローという選手が、アレダケの成績を維持できるのは野球センスだけではない、ヨホドしっかりした「自己管理」のあり方があるにちがいない。
最近、TNCの「テレビ寺小屋」で出演していた山口幸治という人がいる。
1993年にイチロー(当時20才)が日本最多安打記録210安打達成のとき、専属打撃投手をしていて「イチローの恋人」などともよばれていた。
山口氏は、一歳年下のイチローが19才、20才の頃、毎日、寮・グランド・遠征先・食事をともに行動することで、どうしてここまでの一流選手になれたのかを間近で見ることができたという。
そのイチローの考え方や意識をの持ち方は、「ビジネス社会」にも通じるという。
また山口氏は、中学生に野球を教えた経験から「指導者」としての視点をもって、講演活動などをされている。
ちなみに山口氏のクラブ・チームからは、楽天イーグルスの田中将大が育っている。
山口氏の話で印象的だったのは、アメリカのコーチと日本のコーチの「根本的」なチガイである。
日本のコーチは、バッテイングやピッチングの技術を教え伝授しようとするかが、アメリカのコーチは、選手のことは選手が一番よくわっかいるハズだから、選手自身が問題点や課題を正しく伝えて、ソノうえでコーチするという。
これは、外国語の問題をソデにおいても、日本の選手にはカエッテ苦しいことなのだという。
アメリカでは、プレーにおいても自分を表現できない選手は、成功がオボツカナイのだというから厳しい。
またイチローの行きかたは「タイム・コンシャス」ではなく「オブジェクト・コンシャス」ということがいえる。
つまり「小さい目標(=オブジェクト)」を設定して、それが達成できるまで、どんなに夜遅くなっても練習をやめない。
時間による練習制限を設けないが、低めの目標設定だから、日々達成感を味わいつつ練習を終える。つまり「プラス思考」が維持できるわけだ。
イチロー流の「規則正しさ」とは、「目標が刻む」時間に従うということだ。
また、あらゆる行動が毎日同じで、バッターボックスに入るストレッチからフルマイをみればそれがわかる。
ベンチも同じ場所に座り、バットも同じ場所におく。
イチローというヒトは、「機械的時間」に自分をあわせるのではなく、日々のフルマイが生み出す「自然的時間/空間」の中で、自分を確立しているということではないか、と個人的には推測している。
イチローは無駄な練習は体を疲れさせるだけという一方で、ホトンドの選手は不調になると練習をし、好調になるとそうした練習をやめる、だから好不調の波も大きくなるともいう。
言い換えると、イチローの「プレー」は日常の生活の中に「埋め込まれて」いて、並みの選手の「パーツ」としてのプレーではないのかもしれない。
昔、新日鉄のラグビーチームが無敵を誇っていて、日本選手権で学生チャンピオン・チームはどうしても勝つことができなかった。
その時、学生チームの監督が言った言葉が印象に残っている。
新日鉄釜石チームには学生チームは勝てない、彼らはラグビーが生活の中に溶け込んでいるからであると。
ところで、冒頭で紹介した「自然死のすすめ」のお医者さん、まだ働きざかりの人に、繁殖を終えたらソロソロ死ぬのを考えるのがイイという。
なかなか普通の医者では語れない言葉でありヨホド変な医者かというと、患者さんたちからはトテモ信頼されていて評判が良いらしい。
ユニークなのは、自宅の一室にダンボールで棺オケをつくって、その棺おけに時々はいって自分を反省するのだという。
「メメント・モリ」(死を思え)を日常的に実践している医者だが、信仰如何はオクとして、自分の命を全宇宙のホンノ一部であるという「深い自覚」をもっておられる方、とみた。