隠れ家提供

2012年は日本とインドとの交流が始まって「60周年」にアタル年なのだそうだ。
日本はほとんど中国・朝鮮を通じてアジア文化を受け入れてきたので、インドとの「人の交流」を通じた「直接的交流」の話はホトンド聞かない。
しかし、仏教のルーツはインドであるのはいうまでもなく、「七福神」(弁財天・恵比寿・大黒天など)はヒンズー教の神々だし、将棋のルーツはインドの「チャトランガ」という盤上遊戯に淵源をもっている
実は、福岡を中心にインドとの間で「顔の見える」交流をナシタ人脈があるのだが、あまり表立って取り上げられることは少ない。
福岡市の那珂川沿いの町・春吉は「寺尾四兄弟」の出身地である。
寺尾兄弟といえば、角界に「寺尾三兄弟」というのがいるが、こちらはカナリの「肉体派」である。
角界の「寺尾三兄弟」と対照的な「知性派」といっていい「寺尾四兄弟」は、春吉公民館の有志の努力などでソノ歴史の「掘り起こし」がなされてはいるが、今ひとつ資料が少ないのは残念である。
特に、熊本県荒尾出身で「孫文」を支援し辛亥革命に関わった「宮崎四兄弟」の発掘史料と比べると、カナリ見劣りがする。
さて、「寺尾四兄弟」の長男である寺尾寿は、初代国立天文台長で日本天文学会をつくった人物である。
東大ぶ物理学科出身で、フランスで天文力学を修め、29歳で東大星学科教授となった。
1887年、東大が行った日本初の皆既日食観測隊長となった。
次男・享が法学博士で東大教授、三男・徳は医学博士で、四男・隆太郎は弁護士で裁判官という「スーパー・ブラザーズ」である。
さて次男の寺尾亨は、日本史の教科書にでてくる日露戦争の開戦を提言した「東大七博士」の一人である。
(日露開戦については、今の「国際情勢」をモノサシとして批判することは避けなければならない) 。
また、イギリスの植民地支配に反抗するインド人反体制運動家の「潜伏生活」に関わっている。
そして、もうひとり、博多出身の作家・夢野久作の父親である杉山茂丸もこのインド人の逃亡に直接「自動車」を提供し、逃亡の幇助をしたといえる。

そのインド人とは「ラビ・ビハリ・ボーズ」で、最近では「中村屋のボーズ」としてもヨク知られるようになった。
ラス・ビハリ・ボーズは、イギリス政府よりマークされ、有力な庇護者を日本に求めていたが、最初に会ったのが「寺尾四兄弟」の次男である東大教授の寺尾享である。
寺尾享は、孫文が辛亥革命を起こした際には、帝国大学教授の職を捨てて現地に飛んで孫文の補佐にあたり、事敗れて孫文が日本に亡命した後もこれを支援した。
ボーズは孫文と面識があり、孫文の紹介で1915年10月15日赤坂霊南坂の寺尾亨の自宅を訪問している。
そして偶然ナノカ事情はよく知らないが、同じ福岡出身で玄洋社社主の頭山満の自宅は、寺尾亨の自宅の隣にあったのである。
11月30日の夜、東京・霊南坂の頭山満邸で、頭山は杉山茂丸や内田良平という福岡出身の人々と対座していた。
三人人が話し合っていたのは、「日本国外」へ退去を迫られているインドの革命運動家ラス・ビハリ・ボースの「救出策」についてであった。
ボースは1912年12月に首都デリーで、イギリスのインド植民地政府の首脳であるハーディング総督爆殺未遂事件を起こし、さらに1915年2月にはラホールでインド兵の叛乱を計画するなど、祖国の「独立」をめざす急進的革命運動に従事していた人物である。
そのため植民地政府(イギリス)の官憲に追われ、同年6月に偽名を使って日本に入国し、在日の同志とともに「武器の調達」など、インドに残った革命運動家を支援する活動を行っていたのだ。
しかしイギリス政府はボースが「偽名」を使って入国していることを「探知」し、外交ルートを通じてボースの「逮捕」を要求することになる。
日本政府は「ボース逮捕」に難色を示したものの、「日英同盟」もあってイギリス側の強硬な姿勢に屈し、ついに11月28日、ボースの「国外退去命令」を発した。
退去期限は12月2日であり、そのタイムリミットの真近に迫っていたのである。
ボースは、孫文の紹介で寺尾や頭山とも面識があり、この「絶体絶命」の危機に際会して、彼らを頼ったのである。
そんな時、ボーズの潜伏先として「急浮上」したのが新宿中村屋であった。
中村屋は新宿歩行者天国の起点にも位置して、我々にとっても「お中元」「お歳暮」でナジミの店であり、本格インドカレー「発祥の店」としても有名である。
この店が「逃亡先」として浮上したのは、中村屋の主人相馬愛蔵・黒光夫妻はロシアの「反体制詩人」などを保護していたという事情があったからと思われる。
そして頭山らは、杉山に対してはボースらを逃亡させるために「自家用車」の提供を要請した。
何しろ杉山の自家用車は当時東京に何台もない「最新の高速車」であったという。
12月1日夜、警察官に尾行されたボースは暇乞いと称して頭山邸を訪れると、内田良平らに誘導されてソノママ裏口から抜けだし、杉山の自家用車に乗って一路新宿へと逃亡したのである。
このボースらの逃亡事件において杉山の役割は「高速車の運転」だが、杉山に託されたのはソノ「高速自動車」の故ばかりではなく、政官界の隅々まで根を拡げた人脈をヌキには考えられない。
ボースは新宿中村屋で匿われた後も、頭山や杉山らの人脈のお蔭で、官憲もソレ以上踏み込んで追求することはなかったようだ。
一方、「隠れ家」を提供した中村屋夫妻はボーズと生活を共にするにつれ、ソノ純粋な人柄に惚れ込み、娘俊子と結婚させボーズは日本に「帰化」することとなったのである。
ところで日本にはすでにイギリス経由で渡ってきたカレーライスがあったが、ボースによれば本場インドのカリーとは程遠いものであった。
そして本場インド・カリーの作り方が、この新宿中村屋に伝わったのは、ボーズを家族として受け入れ「匿った」ことによるのである。
ちなみに、福岡で調理学校(現・中村学園)を開くことと成った中村ハルは、頭山のツテを通じて、「中村屋のカレー」の調理を伝授されたのだという。
そして、「高速自動車」の持ち主・杉山茂丸の長男が、福岡出身の小説家・夢野久作である。
1913年3月、夢野久作は福岡市の北東、香椎村の唐原の丘陵を買収し、約四万坪といわれる農園を拓いた。
時に久作は二十四歳であり、買収資金は父・杉山茂丸がまかなった。
では、この「杉山農園」は何のために設立されたのであろうか。
夢野久作の長男・杉山龍丸氏は「わが父・夢野久作」の中で、杉山農園とは茂丸の「アジアの独立運動を推進するための構想計画の一つ」であり、「最大の目的は、アジアの開発に役立つ人材の養成」であったと記している。
ナントモ雄大な構想だが、それは杉山龍丸氏によって、祖父の思惑とは少し「カタチ」を変えて実現することになるのである。

2012年という年は、1952年「日印平和条約」が締結締結され、60年のフシメとなる。
日本は戦争に負けたあと1951年に戦勝国とサンフランシスコ講和条約を締結した。
しかしインドの初代首相ネルーは、インド国会で演説し、戦勝国が多数で敗戦国日本を「裁く場」になることを批判して講和会議への出席をとりやめた。
そしてサンフランシスコ講和条約の翌年の1952年、すなわち60年前の6月に「単独」で平和条約を結んだ。
その際にインドは、日本国に対するすべての「賠償請求権」を放棄した。
ネルーが、後に首相になる娘のインディラに語りかける形で書いた言葉に、次ぎのようなものがある。
「(日露戦争で)日本は勝ちました。そして大国の仲間入りをしました。アジアの国日本の勝利は、すべてのアジア諸国に計りしえない影響を与えたのです。少年の私がこれにいかに興奮したか、以前、あなたに話したことがありますね。 この興奮はアジアの老若男女すべてが分かち合いました」。
これがインドが日本をドノヨウに見ていたかよくわかる言葉である。
東京裁判で、インドのパール判事が勝者が敗者を裁く「裁判の不当性」を訴えたことも、頭をヨギル。
さらに、戦後まもなくインドから贈られたゾウは娘と同じインディラという名前であった。
さて現在のインドの都市開発において、「デリームンバイ産業大動脈構想」があり、日本とインドにとって大きな共通の利益をもたらすという。
産業大動脈に沿って人々が田舎から都市に移動すれば、より良い都市が建設され、今後10年間にインドでは、6億人が都市の中心部に暮らすことになる。
コノ構想における地下鉄建設において日本企業が貢献し、水道などの「インフラ整備」でも日本のいくつかの自治体と連携して事業を行おうとしている。
インド政界の重鎮カマルナート氏は、デリーの地下鉄について日本の技術がインド人の暮らしを変えていると高く評価している。
「メトロはインド人の生活を変えました。車を動かすのではなく人を動かすという考え方です。それにとって渋滞はなくなり、みんなメトロを使いたかったがっています」と。
しかし、インドへの貢献において「顔の見える」カタチで支援してきたのが、杉山泰道(夢野久作)の長男である杉山龍丸氏である。
夢野久作の長男すなわち「高速自動車」の杉山茂丸の孫として、1919年に福岡市に生まれた。
終戦後、プラスチックの仕事を経て1955年インドのネール首相の要請で、アジアの発展途上国のために「国際文化福祉協会」をつくり、ガンジーの弟子たちとの交流を深めた。
1962年龍丸はガンジー翁の弟子たちに招かれてはじめてインドへ行き、「アシュラム」という集団農場をまわり、できる限りの技術指導をしていった。
杉山龍丸氏は父・夢野久作が祖父から譲り受けた福岡市香椎の「杉山農園」を売って、飢饉に飢えるインドの砂漠を緑化し、今でも「グリーンファーザー」と尊称されているという。
また祖父茂丸の関係者に協力してもらい、台湾から「門外不出」であった蓬莱米の種を譲り受け、ガンジー塾で米作りにも成功し、不可能と言われていた稲作を成功させた。
そしてインドは今や「米の輸出国」にまで成長している。
ソノ活動が認められ、オーストラリアで行われた国連の環境会議の議長にも選ばれているが、日本の国内では、杉山龍丸の活動はホトンド知られることはなかった。
杉山龍丸は父や祖父と同じ脳溢血で倒れ、1987年9月20日に亡くなっている。

学生期に下宿していた東京都・文京区関口には地蔵通りをハサンデ山吹町があり、そこをぬけると神楽坂につく。
後に知ったことは、下宿先の目と鼻の先の場所に周恩来が下宿していた時期があり、また江戸川橋から神田川沿いに東にある西五軒町あたりには中国人留学生が日本語を学ぶための施設である「弘文学院」があった。
弘文学院にはかつて中国人作家・魯迅もかよっていたという。
このアタリは出版社が密集しており、今「弘文学院」の場所を確認することは困難であるが、こうした環境が中国人の「日本留学時代」に興味をもつキッカケとなった。
神楽坂・飯田橋あたりは、日本における中国・辛亥革命の拠点となったところ、つまり中国人留学生達が母国の行く末を案じながらも、「革命への血」をタギラセタところでもあった。
魯迅は弘文学院を卒業後一人仙台に向かい、現在の東北大学医学部に学んだ。
彼はこの大学で彼自身の人生を「転換」せしめる決定的な体験をする。
ある日のこと大学の階段教室で幻灯の上映が行われ、中国人が日本人に銃殺されているシーンを見たのである。
。周囲の日本人学生の喚声があがる中、その銃殺の周囲にいる中国人民衆の無表情さ・無関心さに大きなショックをうけた。
そしてこの時、彼自身の内部で憤怒とともに恥辱の気持ちが広がり医学を学んで「人の体」を直すよりも、中国人の「精神を正す」文学を志す決意をする。
この幻灯のシーンの中の民衆の姿をシンボリックに描いたのが「阿Q正伝」である。
ところで東北という同胞から離れたところで学ぶ孤独な魯迅にとって救いとなったのが、東北大学の教授であった藤野先生であった。
藤野先生は、魯迅のノートを細かに添削して魯迅の勉学の進路について絶えず励してくれた。
魯迅は、藤野先生の恩を一生忘れずに、藤野先生の写真をいつも座右においていた。そして藤野先生が極め細やかに添削したノートは現在、東北大学資料館に展示してある。
ところで、カツテ勤務していた高校の同窓会誌で魯迅にとっての「もうひとりの恩人」ともいうべき鎌田誠一というを人物を知った。
同窓会誌会誌には鎌田氏について「魯迅の恩人」と紹介されていた。
魯迅の時代を簡単に述べると、孫文死後その後継者であった蒋介石は、「孫文の遺志」をウラギリ共産党を攻撃に転じた。
魯迅は中国に帰り大学などで教えながら「文芸」にたずさわっていたが、左翼作家連盟に所属し共産党に近かったタメ、魯迅にも身の危険がせまっていた。
そして魯迅がよく利用していたのが上海にあった日本人経営の内山書店である。
魯迅は上海に住むようになって、ほとんど毎日内山書店を訪れ、多くの日本の書物、あるいは海外の書物を購入している。日本人と中国人の文化人が出会う場所になっていたのだ。
そして内山書店で働いていた鎌田誠一氏は、店主の内山完三の依頼に従い身の危険をかえりみず、魯迅を匿ったのである。
この鎌田誠一氏について調べるために上海にあった「内山書店」の名前をインターネットで検索したところ、東京神田の古本屋街の中に同名の「内山書店」という店があることがわかった。
しかも神田にあるその書店のホームページには「中国書籍専門」と書いてあった。ひょっとしたら上海の「内山書店」と関係があるかもしれないと、さっそく「人物年鑑」で内山書店の店主・「内山完三」を調べたところ、内山氏が上海で内山書店を開いており、戦後、帰国して東京神田に同名の店を開いたことがわかった。
この書店に間違いないと思い、さっそく神田の内山書店に鎌田誠一氏の資料かないかと手紙で問いあわせたところ、驚いたことに、「上海時代の内山書店と鎌田誠一」という書籍を含む多くの資料がつめこまれたダンボール箱が自宅に送ってきた。
その史料によると、魯迅は鎌田氏を「終生の恩人」と感じており、鎌田氏の墓碑には「魯迅の書」が彫られたという。
また鎌田氏の母校である高校の図書館には、上海の魯迅博物館より送られた著名な書家による校訓「自主積極」の文字が掲げられている。
なお鎌田家の人々はその後もなお日中友好の絆をうけつがれ今もなお友好のために活躍されている。
上海の内山書店記念館で、鎌田誠一氏の写真と表札を見ると、鎌田誠一氏が中国では「歴史の一証人」として大切に取り扱われているのがわかる。
さて日本は今、「内向き志向」という点では世界でも最も突出した国になりつつあるのではなかろうか。
グローバル化の進行が、カエッテそうした「傾向」を浮き立てせている。
国内では若者のヒキコモリやら、社内競争で神経をスリ減らし、外に心を向ける余裕を失いつつあるのか、大企業の海外駐在員ですら、滞在国の滞在都市ごとに自国民間での精神的な「租界」をつくり現地の人間とは、あまり交流しないと聞く。
太平洋戦争において日本とアジアの関係は不幸な道筋を辿ることになり、福岡の先人達のアジアに開いた「思い」は色をつけられ「片隅」に追いやられた感じがするが、今ひとつ光があてられてしかるべきかと思う。