いきものがたり

震災からの復興が始まると、できるだけ高台に生活の場にいこうとしても、日常の生活の「利便性」を考えると、生活圏も海岸近くに少しずつシフトしてしまうのだろうか。
今は余震続きでイマダ震災のキズは深くキザマレているが、将来震災の記憶がカスメば、人々は同じところに同じような生活を始めるのかもしれない。
そうした生活を守る「保証」は何一つないにもかかわらずである。
人間の暮らしを「鳥瞰」すると、人間とはアキズに同じことを繰り返す単純な「生き物」なのかもしれない。
つまり平和にも安全にも「慣れて」いくうちに、「日常」というものが優先していくのだ。
昨今のニュースから、黒澤明監督の映画「生きものの記録」が頭をヨギる。
鋳物工場を経営する老人が家族皆でブラジルへ移住しようと突然言い出す。南米なら原水爆の放射能から逃れられるというのだ。
家族は、ワンマン社長の頭がツイニおかしくなったと、猛反対する。
確かに、老人の言っていることは、全く間違ってはいないが、家族にとっては目前の日常生活をイカニ過ごすかの方がハルカに大切なことなのだ。
一家の財産を老社長に任せておいては大変な事になると、法律に訴えて老社長の権利を全て剥奪してしまう。
実際にこの老人、本当に頭がおかしくなり、自分は「異なる星」に住み着いたと思い込み、朝陽が昇るのを「地球が燃えている」と錯覚するのである。
黒澤明がこの映画に「生きもの記録」というタイトルをつけたのは、ヒトには危機を直感しソレを回避しようとする「本能的」なものが備わっているということだろうか。
だが同時にヒトには、慣性や常識も備わっていてソレ故に「本能的」な部分を押さえ込んで、「人間らしく」生きているのである。
中学校の時、先生がこんな質問をした。
二人の男が冬の山小屋で寝ていた。一人の男が朝目を覚ますと、 自分だけが毛布にクルマり、隣でもモウ一人の男が凍え死んでいた。
この件をドウ思うかという質問だった。
一人の生徒が、隣の男が毛布をかけて犠牲になってくれたのだと答えた。
すると、先生が「違う!」と強く否定したために、生徒達は皆驚いた。
先生は、生き残った男は「無意識」に毛布を引き寄せクルマったのだと答えた。
学校では道徳メイタ講話が多いせいか、この話の「真実性」が妙に印象に残ったのを覚えている。
ところで動物の「寓話」によって人間の本質を明らかにしようとしたのは、紀元前6世紀のギリシアの奴隷アイソーポス(イソップ)以来たくさんのものがある。
中世には聖書の真実を「動物寓話」によって伝えようとする「フィシオロゴス」までも発達した。
近代においては、心理学に登場する「山アラシのジレンマ」が、その代表的な例といえるかもしれない。
元ネタは、哲学者ショーペンハウエルがその「随想録」に書いた寓話であるらしい。
のちに精神分析学者のフロイトはこの寓話を引用し、「近づきすぎると傷つけ合う、離れると寒くなる二匹がついたり離れたり繰り返すうちに、痛くも寒くもないちょうどよい距離を見出す」と、人間心理のアレゴリーとして解説した。
精神分析医ベラックが、これを「ヤマアラシのジレンマ」と呼び、その著書のタイトルにしたことで有名になった。
ヤマアラシでは針毛の長さ、人間では相手を傷つける距離、もしくは自分が傷つく距離は、人それぞれであるゆえに、「試行錯誤」によって、ソレを学んでいる存在なのである。
「山アラシのジレンマ」は、映画「クライング・ゲーム」(1998年)で一人の男が語った「カエルとサソリの寓話」と、人の「サガ」をツイテイル点で共通するところがある。
ある時、川を渡ろうとしていたカエルとサソリがいた。
サソリはカエルに背中に乗せてくれてと頼んだが、カエルは刺されては大変だと断った。
しかし、サソリが絶対に刺さないからというので、カエルはサソリを背中に乗せ、川を渡り始めた。
川の真ん中あたりに来たときに、カエルは背中に痛みを感じた。
サソリが刺したのだ。カエルは「なぜだ」とサソリに聞いた。
サソリは「仕方がないんだ。これは自分の性(サガ)だ」と答えた。 そして、二匹は川に沈んでいった。
世の中を見渡せば、タトエ自分が不利になると分かっていても相手に親切にする人間がいるし、親切にされてもどうしようもなく裏切っていまう人間がいる。
つまりこの世の中「クライイング・ゲーム」なのだ。

生物にとって「死は避けられない」ものだと思われているが、生物には「本来的」には死なない存在だったのである。
細胞分裂で増えて行く限り、千年経っても元の個体は生きていることになるからである。
しかし、細胞分裂による繁殖では、何年たってもDNAは変化しない。
仮に、なんらかの要因でDNAは変化しても、極めて「緩慢」な変化である。
完全に同じ個体が殖えて行くだけで、その結果、進化は不可能になるから、「環境の変化」に対応できず、新たな環境の中に進出することも出来ない。
そこで、人間を含む多くの生き物がオスとメスとの「有性生殖」により子孫を残すようになっている。
家族というものの発端は、男女の出会いと「愛の芽生え」によって始まる。
それは人間を「生物」としてみれば、DNAの新しい「組み合わせ」を作るためである。
無性生殖であれば原則的に「個体の死」はないが、人間は男と女という「性」を獲得することにより、新たなDNAとの「組み合わせ」作りだして人間は、新たな環境の中にどんどん進出して行くことが可能となったのである。
だから「死」というアリガタクナイことを背負うことにより、それが可能となったのである。
かくして「愛」または「性」というものは、「人間の死」と深く結びついているのである。
それでは、こうした「有性生殖」において、オスとメスはどんな「役割」を果たすのであろうか。
基本的な役割のことをいうと、オスは「DNAの異なる組み合わせ」を次々と作って行くということである。
オスは、種の発展の可能性(進化)をどんどん探って行く「使命」を負っており、メスは、そのようにして作られた「組み合わせ」を一つの個体として「具現化」して行く使命を担っているといえる。
オスが「DNAの異なる組み合わせ」を作るとは、可能な限り多くの「異なる」メスのDNAとの組み合わせを作ることである。
だから、「選り好み」をせず広く手ダシするオスこそ「高い効率」で進化の可能性を広げている「使命感」あふれるオスであるということができる。
というわけで、浮気性の男は「正しい」オスなのであり、「進化功労賞」を出してもイイくらいの存在なのだ。
オスの役割の本質は「選り好み」をしないことである。一方、メスが「優れた個体を選ぶ」という役割を担っている。
オスの方だって選べばイイと思うかもしれないが、「優れた個体を選ぶ」という役割をオスまでも担うとすると、「進化の可能性を探る」効率が極端に低くなってしまう。
つまり、「個体の死」という犠牲を払ってまで得た「有性生殖」の意味が失われてしまうのである。

人間正しいだけでは生きられない。時にワルクなくっちゃ。
そんな「生きもの」のサガを描いたのが、西村美和監督の映画「蛇イチゴ」である。
西村監督には一人の女性をめぐる兄弟の心のアヤを描いた映画「揺れる」もスゴイだと思ったけれど、家族のアヤウサを「真実味」をもって描いた点で、この女性監督の初作品「蛇イチゴ」は、見事な映画である。
見る人誰もが様々なディティールやアヤ/ヒダに思いつくことがあるし、明るくもない、ムシロ暗い映画なのに「娯楽的」である。
この一家の娘は小学校の教員で結婚まで考えている同僚がいる。
娘は家族に恋人を紹介し、恋人は認知症の老人も入れて一緒に食事をすることとになり、自分の家族にはナイ「温かい」ものを感じることができた。
しかし、その老人の葬式の際、娘の父親がすでに会社をクビになり借金マミレであることが判明してしまう。
一家の幸せが、一夜にして崩れ去る儚さのサマが描かれている。
そして、この一家の「当面の危機」を救ってくれたのが、若い時に悪いことをして勘当され突然に葬式に現われた長男であった。
この長男、闇金融をやっていた経験を生かし、突然「弁護士」にナリスマシ、借金取りを追い返してしまうのである。そればかりか、父親の借金返済のために大金を工面する。
妹はニュースで兄が関東各地で起きている「仏前泥棒」の犯人であることに気づく。
それでも、両親はかつて追い出したソンナ息子に頼らざるをえなくなっている。
学校の教員で真面目一本な娘は、家も財産も自分のモノにしかねない長男の存在にアヤウサを感じている。
この映画の凄いのは、演出の影がミエナイごく普通の光景に見えるトコロである。
折角朝早く起きて作ったお弁当を忘れられたのを知った母親の姿は、個人的な思い出として、折角母親がお弁当を作ってくれたのに、「お箸」がはいっていなかッタ時の「落胆」以上のものがあるだろう。
ボケたじいさんがボロボロと飯をこぼして、味噌汁にジャムをたらしこんでも、母親は全く動じない。
これがこの家の日常なのであり、イチイチ反応していたのでは、身が持たないからである。
だからといって、かなりのストレスがたまっていることは、「円形脱毛症」を発見した時の疲れきった表情に見ることもできる。
老人が発作をおこしても、蛇口の音を大きくして気付かないフリして風呂桶を磨き続ける母親の姿を、誰が責められようか。
ハルカ以前から内部はボロボロなのに、「体裁」をたもとうと必死の父親と、その陰で「十円ハゲ」にまで出来てしまった母親の「忍耐」によって、家族はカロウジテ保たれていたのだ。
そして祖父の葬式でこの家族の「実体」を知ってしまった娘の恋人も、騙されたと去っていく。
母親からすれば、キマジメな娘の言うことはイチイチ正論なのだが、娘は母親の苦労を本当に知っているのだろうか。
母親はそんな息がツマル娘よりも、突然「財産めあて」で帰って来た息子に助けを求めてしまう。
人間は遊びが必要だし、ウソをつかねばならないこともある。正しいばかりでは生きていけないのだ。
それを裏書するかのように、マジメ一辺倒の娘は兄が昔語った作り話「蛇イチゴ」を取りにいこうと森の中に誘い込む。
そして、森の中に「仏前ドロボウ」が逃げ込んだと警察に通報するのである。

アリといえば、イソップ物語の「アリとキリギリス」に代表されるように、「働き者」のイメージが非常に強い昆虫である。
誰しもが、道ばたで餌を運ぶアリの行列や、落としたアイスが溶けきる前に群がるアリの大群を目にしたことがあるだろう。
ところが実験によると、アリの中で働いているのは2割で、8割は働いていないという「2:8の法則」というのがあるらしい。
こういった働く/働かないという差は、「労働に対する感度」(=反応閾値と呼ぶ)のバラツキによってもたらされている。
つまりアリの世界では「反応閾値」が違っていて、一度に全部が一生懸命に働くようにデキテいないのだそうである。
アリは「単為生殖」もするが、「違った閾値」のアリを誕生させるため、「女王アリ」は多くのオスと生殖するというのも驚きである。
ここでいう「働かないアリ」とは、社会の利益にタダノリするナマケモノでも、自分の利益だけを追求するウラギリモノでもない。
「反応閾値」とは、働くことに対する機敏さといっていいが、これが低いのは働く意欲がないというのではなく、出足が悪くてイツモ先を越されてしまって「働く場」がない、ソンナ感じである。
働かないアリは、怠けているのではなく、自分の出番が来るまでは、ボーッとしている。
しかし、ソンナ出番がないアリが、環境の激変時に大きな役割を果たすことがアル。
当面の優秀なモノを集めても、直接役に立つことばかりを求めて、予測不能な場面のイザいうときに応用がきかないことがよくある。
アリの場合に予測不能な場面とは、巣が襲われてワーカー(=働きアリ)が激減するとか、大きな餌が見つかって急遽大規模な労働力が必要になる、といった場面である。
こういうとき、全ワーカーが労働に従事していると「即応」するのは難しい。
ところがつねに「怠け者」のアリを残しておくことで、こういった緊急時に手の空いたアリに対応させることが出来るのである。
学問の世界でも、優秀な人間ほど最先端の学問に集まる傾向があるが、「時流」に流されずに黙念と研究したことが突然生かされることがある。
原子力エネルギーの開発が頓挫した時代には、時流に取り残されたような地道な「自然エネルギー」の研究者が脚光をアビルことになるのである。
普段はムダだと思っても、時が来れば、大きな力を発揮きするということである。
働かないアリとは、「予測不可能性」に対処するための社会全体の「余力」として存在しているとみることができるかもしれない。
アリの世界から想起したのは、「世界標準」のVHSを生んだ「窓際」の男たちの物語である。
この物語は、NHKの「プロジェクトX」にも取り上げられたし、「陽はまた昇る」というタイトルで映画化されたのである。
1970年、日本ビクターはビデオ事業に乗り出したが、赤字続きだった。
日本ビクターにあって高校卒業以来、開発一筋に歩んできた高野鎭雄(47歳)は、突如「お荷物」事業部ともいわれる部長に就任した。
そこには、本社復帰をめざす「事なかれ主義」のエリート経理マンと、やる気を失いリストラを待つだけの社員達がいた。
高野は、このままでは事業部は廃止となり、みんなダメになる、だれもヤメさせたくないと思った。
そして高野は、一人一人の人間をアヅカッタ財産として、何ができ、何ができず、何が得意で、何が不得意かを調べ上げ、家庭用VTRの決定版を作れないかという夢をウチ出した。
そしてソノ夢をカナエルため、わずか3人の技術者で「極秘プロジェクト」を結成した。
一方で、家をアケる父親に反発する家族や、その父親に「惚れなおした」と支え続ける妻もいる。様々な家族模様が繰り広げられる。
そして日本ビクター横浜工場に起こった波は、本社社長の心を揺り動かし、通産省の思惑をケトバシ「奇跡の大逆転」を生み出していく。
本社の合理化方針のなか、プロジェクトを守り続け、6年の努力の末、「VHS」の開発に成功した。
そして高野は、「VHS」の技術を国内外のメーカーに無条件で公開する。
このことが意味することは重要で、短期利益に集中する「いきもの」の壁を乗り越えたということであり、カナラズシモ優秀とはみなされてはいなかった「窓際」の男達だからデキタ発想なのだと思う。
自社の利益を度外視したこの戦略が、先行のソニー・ベータマックスを大逆転し、「VHS」を世界標準規格に押し上げるに至ったのである。
高野の退社の言葉は、「夢中にさせてくれて、ありがとう」であった。