駅前と郊外

人通りが多い駅前の商店街がスタレ、狐か狸でそうなところに「巨大ショッピング・モール」ができて、人が集まっている。
最近、日常の風景の中から「駅前」と「郊外」とのドラスチックな変化を感じることが多い。
というわけで、この稿のタイトルは「駅前と郊外」としたが、これを「鉄道と自動車」に置き換えるとエネルギー効率、「平等と格差」とすれば経済学、「共生と排除」とすれば倫理学のテーマに接近する。
現代社会を、鉄道を中心とした「社会形成力」と、自動車を中心とした「社会形成力」のユーゴウとセメギアイとして捉えることはできないだろうか。
例えば、近隣の町でニチイが潰れて、イオンが隆盛した。この出来事を、自動車の社会形成力が鉄道の社会形成力に優ったというようにとらえる、とか。
また相当雑な論であるが、鉄道は相対的に「平等化と共生」に寄与するのに対して、自動車は相対的に「格差と排除」を助長する傾向をもつ、とか。
ところで、巨大ショッピングモールまで、車を使ってガソリンを吹かして買い物をしに行くのだから、「エネルギー効率」としてはトテモ悪そうだ。
さらには、この風景からみて「買物難民」が生じるのも、容易に想像できる。
「車社会」から排除された人々が、人が集まる駅前に向かっても、そこがシャッターで締め切ってあれば、行きき場がなく、難民化する。
だから、自動車は排除と格差を助長する。
そういえば、「駅前留学」を謳った英会話学校の倒産や、東京上野の「駅前旅館」が外国人バックパッカーの「安宿」群になっているのを思い浮かべた。
日本社会は、「自動車」に適合しつつソコニ付属するものを充実させつつ、鉄道とそれに付属しているものを次第に追いやった感じもある。
今、東京の「地元」でスカイツリーに次いで注目を集めるのが、巨大ショッピングモールをサラニ「複合化」したような人工都市空間「二子玉川ライズ」である。
若い夫婦が子供を連れてショッピングをかねて1日遊んでいられるこの施設は、クルマ社会の「産物」である。
そして今、高速道路のドライブインは、単なる「休息所」ではなくなって、シャワーあり、遊戯施設あり、シアターあり、特産物ありの複合施設となって、ドライブインそのものを目的にやってくる客もいる。
30分に一台ぐらいの車しか通らない処に高速道路を作ってしまったのだから、それくらいのことをしないと、税金の無駄遣いと批判されそうだから、かドウカは知らない。

ところで、日本の多くの地方都市は「鉄道の社会形成力」で潤ってきた。
人口もふえデパートができ、工場群が移転してきた。
しかし、「トンネルを抜けると雪国だった」県に生まれた田中角栄元首相は、鉄道の社会形成力ではタリナイとばかりに、盛んに道路をつくることをした。
この新潟県から佐川急便の会長の佐川清や社長の渡辺広康も生まれている。
同じく裏日本・島根県出身の竹下登も同様の発想で、県内に道路をめぐらせ「政治力」を肥大化させた。
道路を作るのに国の予算が下りるので、政治家・官僚・建設業界の「利権の構造」も生まれる。
ド田舎に利用者がほとんどない高速道路をたくさんつくり、そこに群がるイワユル道路族や利権官僚を生み出した。
民主党の「仕分け」でヤリダマにあがった「道路技術保全センター」は、「日本最悪の公益法人」といわれていた。
最近、週刊誌にようやく解散するというの出ていた。
この法人の仕事は、高速道路の下に存在する「空洞」を見つけることらしいが、そんな空洞さえも実は発見する能力ないことが判明した。
民間に頼めば簡単にできることを、ワザワザ仕事の能力がない「天下り役人センター」に運輸省は仕事を発注してきたのである。
ココは、役人が役人の退職後を保証するダケのために存在している法人を絵に描いたようなもので、今まで存続してこれたこと自体が「自動車の社会形成力」の負の一端といえるかもしれない。
作家の石田依良は池袋西口近くの公園に集まった4~5人のスケボー少年たちの姿にインスピレーションをえて、「池袋ウェストゲートパーク」(1997年)である。
、 池袋のディティールを描いた部分が個人的に懐かしく感じるが、そこには「駅周辺」がそうした青年の棲家になっているのも、現代を感じさせる処である。
さて、こうした駅前と郊外の人の「流れ」の変化が起きたのは、イツごろからだろうか。
大きな契機は、1974年に「大店法」という法律ができたことで、大都市圏の地場の零細商店街に大規模店舗の進出に対する「拒否権」をを与えるものであった。
それで、大都市に中心部では、ほとんど大きな店は立たず、大きな店がたつのは、反対運動がない郊外や地方だけという方向に、「大店舗」の立地はネジマゲられていった。
そして民主党の岡田副総理のお父様が経営するイオンのように、「エネルギー効率」の極めて悪い場所に立地したショピングモールの巨大な集客力が、駅前の商店街の客さえも呑み込んでいった。
、 そして最近特に目に付くのは、そうした郊外のショッピングセンターを舞台におきる「犯罪」である。
自動車による「負」の社会形成力といっていい。
そういえば黒沢明監督の「天国と地獄」では、警察が犯人の指示で鉄道のトイレの細窓から「現金入りトランス・ケース」を線路下にいる犯人の下に投げる印象的なシーンがあった。
なぜ印象的だったかというと、列車のトイレの窓の大きさに合わせて犯人がトランクの大きさを指定してきたからである。
鉄道が犯罪の舞台あるいは道具として利用されたのだ。
松本清張の「点と線」では東京駅の二つのホームと福岡市香椎の二つの駅の存在がトリックに使われたが、 香椎駅も香椎浜もすっかりモータリゼーション(=自動車化)の渦に巻き込まれてしまった感がある。
一方で、滋賀県警が取り逃がした森永グリコの犯人は幹線道路下で目撃されていた。
犯人は道路の「死角」をツイテたくみに逃げおおせたが、その後に県警本部長が責任をとって自殺するという「痛ましい」結果を招いた。

今、最近は円高と不況で自動車の社会形成力にアヤカッタ工場群も海外に移転し、地方都市の衰退は著しい。
田舎に道路が出来ることをアテニ、たとえ「耕作放棄」した土地であっても、税金の安い「農地」として持ち続ける農民達も数多くいる。
要するに、道路にまつわる様々な非効率や不公正が露になりつつあるのだ。
自動車といえば、ガソリンの効率化、バイオガソリン、ハイブリッド、電気自動車、燃料電池車など、クルマの原動力の話題が多い。
しかし、それを鉄道などの大量輸送機関と比較して「エネルギー効率」を「駐車場スペース」や「道路の渋滞」のカラミて見てみると、「自動車社会」は実はかなり「低効率」社会である。
マイアドレスの福岡は、衰退する地方都市の中で活気のある都市ある。
福岡は、中国や韓国からの旅行客の玄関口となっていることもあるが、「博多駅」のリニューアルは人を集める大きな要素となっている。
それは当然に「駅前」の元気に繋がっているので、福岡に住み限りでは、地方都市の衰退を感じないで済んでいる。
そこで話を「鉄道の社会形成力」に目を転じると、東京で特に目をひくのが「大井町」である。
私が東京に住んでいた30年以上も前は、大井といえば「競馬場」ぐらいしか聞かなかったが、今やお台場・天王洲と結び、埼玉とも結んでいる「一大拠点」となっている。
様々な電車の乗り入れ地として、この駅が生み出す社会形成力(コミュニティ)はきわめて大きく、駅前の再開発が進んでいる。
ということは、路線と路線を繋いだところに「新しい集客力」を生むということだ。
日本で最初の鉄道は、1872年の新橋から横浜間で、その時の「車両」は新橋の駅前広場に展示してある。
銀座から新橋、そして有楽町までの山手線・線路下に延々と続く赤提灯の「飲み屋街」があるが、ココこそが「鉄道の社会形成力」を如実に物語っている。
新橋は「サラリーマン」の聖地であり、そこに日本初の列車が置いてあるのは、「鉄道の社会形成力」を歴史的に表しているようにも思う。
「有楽町であいましょうが、あなたとわたしの合言葉」であった時代こそが、鉄道の社会形成力が最も優位に働いていた時代であったようにも感じられる。
ちなみに、新橋に隣接するJRの旧「汐留操車場」は今、「汐留サイト」に生まれかわっている。
そこには日本を代表するIT産業の雄であるソフトバンクが入っている。

己の長所を知り、長所を生かすというのが、多くの経営者の「鉄則」であり、人の生き方全般の原則ともいえる。
日本人は勤勉で高い質の労働力とか、治安の良さがそうした「長所」である。
しかし、今やそうした長所は色アセつつある感じがする。
不動産アナリストの増田悦佐氏は「日本文明・世界最強の秘密」の中で、日本の最大の強みは、鉄道ネットワークというインフラであり、これを生かし賦活していくことこそが、日本の「再生の道」があると主張されている。
さらには、ネットワークを支える人的資源も、他国がマネができない。そして複雑なダイヤをすぐにも修正できる能力がある。
そして「エネルギー効率」の観点から、従来の常識とは「真逆」の社会形成のあり方を提唱しておられる。
密集によって「エネルギー効率」の高い国づくりである。
欧米社会だったらうまくいかなくても、 世界一の「鉄道網」を生かせばもっともっと「成長」と「雇用」を生み出す潜在力があるというのだ。
ところで、鉄道網は世界中にあるのに、日本のソレがなぜ「世界」に冠たるモノなのか。
それを一番雄弁に物語るのが、世界一の乗降車数を誇る「新宿駅」である。
欧米では、同じ都市に乗り入れる鉄道路線でも、駅がそれぞれ別にあるのが普通である。
会社が違えばホボ例外なく、別の駅をそれもかなり離れたところに作っている。
ためしにパリの地図を見たら、サン・ラザール駅、オーステルリッツ駅、東駅、モンパルナス駅、リヨン駅がパリ駅乗り入れている列車の駅であり、それらはまったく別々の離れた場所にある。
、 他社との「接続」には一切、関心がないようである。
新宿駅の場合は、山の手線、中央線、東横線、小田急線、京王線が「新宿駅」に集まり、改札口をたった1回通るだけで、あらゆる路線に「乗り換え」が可能である。
イギリス人が鉄道を発見したが、日本人が「鉄道網」を作り出したともいえる。
日本ではむしろ士族授産による「私鉄」優勢であったが、日清・日露の両戦争を経験し「軍事目的」でそれらが日本国有鉄道法(1906年)によって「国鉄」として統合・連結されていった経緯がある。
この私鉄を繋げて国鉄に組み込んだ「実績」は、JRや様々な私鉄を含めて国の隅々までも鉄道のネットワークを築き上げた土台となったであろうことは推測できる。
サービス業は消費者と生産者が出会わなければなりたない。鉄道の駅とその周辺は「自然」とたくさんそのような場を作り出す場を提供している。
クルマ社会だとそうした場を「意図して」作らなければならない。
鉄道インフラが充実している東京、大阪から機能を分散化するのではなく、あらゆる機能をアメニティを配慮しつつ統合していくことこそ、弊害が大きくなった自動車の負の「社会形成力」に歯止めをかける一手かもしれない。
先述の増田氏によれば、東京圏や大阪圏のように鉄道と徒歩だけで、仕事も生活も娯楽も何不自由なく享受できる場所は、世界的に見てほとんどナイという。

「自動車社会」から「鉄道社会」への転換は、政官財界の抵抗に加え、運転や所有の「自由」を求める人々の抵抗もあるので、そう簡単にはできないことではある。
最近の中東情勢の不安定もあり「石油の値上がり」、「駐車スペース」の経費もあり、車に乗るのはヤメよう。ヤメズとも軽自動車に変えようとしている人も今増えている。
ハイブリット車や電気自動車への転換が行われていることはあるが、自動車社会の進展が「頭ウチ」になれば、輸送機関として鉄道の比重は上がることになる。
そして徒歩と鉄道だけで生活できる圏に人々が集まるという流れは起きる可能性がある。
さて、日々電車に乗って通勤している人ならばわかると思うけれど、毎朝同じ車輌に乗り込んで来る人というのは、ホボ同じメンバーだ。
2、3日顔をみなけれアノ人はどうしたのかと、アリの耳掻き程度には気にする。
日本には「袖振り合うも他生の縁」という言葉があるが、そんなカリソメな縁でもない。
いわば、「行きずりの共同体」ということになる。
長く同じ時間と空間を共にしながら、運転手に同じく運命をあづけていながら、チョットとばかりの声をかけてもよいと思うが、誰も彼も「葬列」かと思えるほど無言・無表情でバスを待っている。
田舎の巡回バス(コミュニティ)なんかと比べて、「地域」の結びつきの弱さを思わされるが、それでも 顔ナジミになっていて、いわば「ゆきずり共同体」を形成している。
対照的にすべての人間が個々が車に乗っていく社会のことを、ためしに想像してみたらよい。
同じ車輌の中で様々な人が、多少、身をかがめたり、席を譲ったり、一方アノ客が降りる駅の座席をネラッタリの駆け引きもナドあリツツ、人間はどこかでツナガリ依存しあっていることを「無意識」にスリ込まれる時間である。

優れたインフラは、社会の効率に決定的に重要な要素である。
日本の東京圏と大阪圏には世界一の鉄道ネットワークがある。
これから日本が高度なサービス業を中心とする社会に変化していく方向であるならば、「密集する」ことによってこそ、雇用と所得の拡大とが可能となっていく。
ただ、増田氏の論には、太平洋圏を都市で繋いだ人口の多い圏とは異なる地域における「経済浮揚」に対する積極的な論及はない。
増田氏の「文明論」は、原発事故の前に書かれたものであったが、その最大の論拠は、「エネルギー効率」ということである。
問題は人口が少ない地域では、「公共交通機関」のエネルギー効率は極度に低くなるということである。
そうした地域に「エネルギー効率」のモノサシをあてるならば、地場でのモノツクリと農作物の「地産地消経済」ということになる。
一つの参考として韓国の例をみよう。
韓国には日本の有力電器メーカーが束になってもかなわない強力かつ巨大な電子産業がある。
80年代には日本の後塵を拝していた韓国電子産業だが、今や日本企業を追い抜き多くの面で世界トップシェアの座を占めている。
また韓国FTA(自由貿易協定)をアメリカ、EUと合意済みであり、日本よりも各国方面でグローバル化に適応している。
ところが、このような大成功した韓国に今、「帰農現象」が起きている。
つまり若い世代に職がなく農村に帰る傾向がでているということである。
電子産業では世界の勝者になった韓国だが、別の産業では多くの若者が職を失ったことを「帰農現象」が示している。
グローバル化先進国・韓国で起きたことはイズレ日本で起きるかもしれない。
帰農しようにも「集落崩落」が起きていれば、限度をこえて都市圏の「密集度」を高めていくかもしれない。
限度を超える水準がドコカはわかないが、それは「鉄道の社会形成力」が、都市圏のアメニティ(生活快適度)を完全に喰い尽すドコカの水準である。