実物価値へ

サッカーアジア予選における日本とオーストラリア戦で、本田選手の姿は特に印象に残った。それはプレーではなく審判への「抗議」するシーンであった。
本田選手はロシアという言葉の通じない世界で一人プレーする習性か、顔の表情と身体全体でクレームをつけていた。
あのクールでニヒルな本田選手が、顔を「漫画」のように変形させツツ訴えたものだから、「お宝映像」といってイイほどのシーンであった。
コミュニケーション能力に欠けた者にとっては、本田選手が素晴らしく「輝いて」見えた。
人は「ヘン顔」のユニバーサルデザインを学ばなければならないと思ったホドである。
最近の若者がするようにソーシアルネットワークや「ツイート」でのヤリトリで人間が繋がるのも悪くない。
パワーポイントを使ったクールなプレゼンテーションを展開すのも、時として有効で便利でもあろう。
しかし、言葉ソノモノの力や「所作」による「伝達の力」をもう一度見直す動きが起きている。
最近、バーチャルな世界に人々はカナリ「食傷」の気配もアルのではないのかと思える。
テレビで、ハーバード大学のサンデル教授らの「白熱教室」などが人気を呼ぶのは、加工されていない「リアル」を感じ取れるからではなかろうか。
欧米には、誰かが講壇に立ってナンラカの主張をするのは伝統であり、ヨーロッパの古い町にはかならず教会と広場があり、そうした「主張の場」としても利用されていた。
今、アメリカではTEDという(テクノロジー・エンターテインメント・デザイン)というプレゼンテーションが大人気となっている。
聴衆の前に立ち、ビジネスや研究活動を通して得た「広める価値」のあるアイデアを18分以内で語るプレゼン・イベントである。
ビル・クリントン、ビル・ゲイツ、サンデル教授、ジェームズ・キャメロン監督など、名だたる著名人など8000人が参加している。
動画はネットで全世界に広がり、1千万回視聴されたものもある。
5月末には日本で初めてのオーディションが行われ、ビジネスマン、科学者、建築家などが参加し、世界を目指したという。
一方、TEDの広がりをキッカケに日本でもアイデアを人に伝えることの重要性が改めて見直されている。
ここから得たアイデアで人生が大きく変わった人々もいる。
しかしTEDの見所は、語られる「アイデア」の中身ばかりではなくムシロ語られる「スタイル」の方である。
その「スタイル」によって膨大な数の人々がその「プレゼンテーション」にひきつけられるからだ。
そしてソウシタ「究極のプレゼンテーション」は、日本の「伝統」の中にもアッタのかもしれないと思った。
明治期における「自由民権運動」の広まりは、そうした「弁士」の熱い弁舌が、官憲によって「弁士中止」をクライながらも、広がっていった。
その際に、作者不詳の「民権数え歌」や博多の川上音二郎の「オッペケベー節」にみられるごとく、自由民権の精神をカツテよく知ったメロディーにのせて歌って民衆に広げたものだった。
こうした弁士が活躍した会場は、慶応義塾大学のキャンパスの中にある「三田記念館」などによく保存されている。
官憲に監視されながらギリギリの演説を行った弁士とそれを「ヤッタレ」とか「ヤバイ」と内心思いながら聞いていた聴衆の激しい鼓動が聞こえてくるような場所である。
最近「アウトソーシング」という言葉をよく聞く。ある企業で本貫とされた過程以外は、外の会社に「注文」してコスト削減を図るものだが、ようく考えると家庭もそれがおきて来た。
子育てを保育園に頼ったり、食事をファミレスに頼ったりるるのも、家庭から見たら「アウトソーシング」であるわけだ。
それをサラニ溯れば、人間の「身体」から様々な「所作」までもがアウトソーシングする過程こそが人間の歴史であった、ともいえかもれいない。
そのことは市場経済の発達がハズミをつけたということができるだろう。
例えばカツテ人間が食べるものを自らの手で獲得していたが、そういうことをしなくなった。
以前、ジュゴンという海の生き物を狩猟するヤリカタを読んで、深く印象に残った。
ちなみにジュゴンの肉は黒毛和牛に匹敵するほど美味であるらしい。
そのジュゴンの掴まえ方というのは、まずは海の中でダイナマイトを爆破させジュゴンを気絶させる。
さっそく人間が海にもぐりジュゴンに抱きつき、いちはやく二つ鼻の穴に「栓」をして窒息死させるという。
このジュゴンの「抱きつき鼻栓漁」にみるごとく、本来「食す」ことは、全身全力で行うことだったのかもしれない。
そして「食する」ということは、その捕獲や殺しも含めたプロセス全体ということなのだと思わ せられる。
そうしたプロセスのない「食生活」は便利な一方、有り難味に欠けるモノとなる。

さて、日本古代史には、稗田阿礼(ひえだのあれ)という日本史・史上ユニークな人物が名を残している。様々な伝承を記憶していたそうだ。
律令政府は記憶力に優れたこの人物をイワバ「人間テープレコーダー」として用いる。
なぜ人に「天皇制」をかたどるための重要データを「記憶」させていたかというと、大化の改新における蘇我氏滅亡の際に、重要書類が消失したことと関係あるのかもしれない。
または多様に拡散する伝承の「一元化」という狙いもあったのかもしれない。
稗田阿礼が語ったことを太安万侶が筆録して出来上がったのが「古事記」である。
今風に解釈すると、元データの保存媒体を増やして、記憶保持の「安全チャンネル」を一つ増やしたわけだ。
これは、ペーパー(当時は木簡や竹簡)社会から実物社会への「転換」ともいえる。
現在ヨーロッパの信用不安などでで緩やかに「ペーパー・マネー」からの離脱が進行している。
しかしこれは「記憶保存」の媒体としてではなく、「価値保存」の媒体としての「実物資産」へと転換が進行しているしているということだ。
実物資産としてマズ思いつくのが「金(ゴールド)」だが、「価値保蔵手段」として金の比重がかなりススンデいるのが中国のお金持ち達である。
2010年度の年間金購入量(民間の投資・宝飾需要)で中国は725、5トン、インド1034.7トンで、我らが日本は先進国唯一の27.1.1トンの「売り越し」ということになっている。
中国は、日本のバブル崩壊にも学んだろうが、金持ちが不動産(土地)に実物投資するようなことはアンマリしていないようだ。
それはまだ「社会主義」の看板を掲げていることと無関係でないかもしれない。
しかし、金(ゴールド)だってイツ暴落しないともかぎらいないが、何しろ「実物」であるために、その価値が「紙きれ」のようにゼロになることはない。
またこれからの世の中は、金融不安と同時に自然災害への対応も迫られている。
「土地」だって放射能で住めナクなるかもしれないし、生きるか死ぬかという時に、「絵画」を楽しむ人はいないでろう。
最近のテレビで、客から提供された貴金属類をポケット大の金(ゴールド)に「鋳直す」場面をみたが、こうしておけば価値保存ばかりではなく、持ち運びも容易で他の資産への転換もシヤスクなる。
つまり「流動性」が増すことになる。
そういえば、中東のドバイやアブダビで、自動販売機で「金」が売られているそうだ。
日本でも 紙幣を投入するとその場で本物の純金バー、金貨などが買える「純金自動販売機」が、開発元のスペース・インターナショナル(東京都中央区銀座)のエントランスに設置されたという。

「価値保蔵」手段としては、金ばかりではなく絵画のような芸術品もある。
戦の時、勝者が敗者より奪おうとするものはいくらでもあろう。いわゆる戦利品である。
ナチスのが「ヨーロッパ侵攻」の最中には、様々な文化財も略奪された。逆にいうと、戦争や争乱時にこういうものは、「価値保蔵手段」としては失敗するということも意味している。
ヒットラーは、本来自分が画家にナリタカッタだけに、侵略した領土の名画を集めた。
五木寛之原作の「戒厳令の夜」は、第二次世界大戦中に日本がドイツと同盟を結んでいたために、そうした名画を福岡県筑豊の炭鉱に隠したという設定で展開する「フィクション」である。
ヒットラーにとって欲しかった戦利品のもう一がワインであった。
もっともヒットラ-のワインに対する嗜好はソレホドでもなかったそうだが、ヒットラーの側近達の中にワインに目がない連中が多くいたのである。
しかしヨーロッパの国を旅して気がつくのは、何百年もカケテ価値を生み出そうとするワインにかける情熱であり、ビールなどとはマッタク違う意味合いをもっていることである。
ソレ故に、ソムリエなどという仕事が生まれたのだろう。
ワインは趣味のヨサを示すばかりではなく、国の威信や権力の象徴でもあった。
フランス人はワインのおかげで戦争を革命を乗り越えることができ、ワインはフランス人にとって「希望」そのものであった。
このワインの価値は「何年モノ」というのがあるように、金持ちは自分のセルラーをもって「資産価値」ともなっている。
随分昔に、イタリアのある町にワインを没収しようとやってきたドイツ人将校とその町の住民のやり取りを描いた「サンタ・ビットリアの秘密」という映画をみたことがある。
町の唯一の財産である百万本のワインを、ドイツ軍の掠奪から守ろうとするサンタビットリア住民の活躍をコメディ・タッチで描いた作品で、アンソニー・クイン演じる市長を中心に市民たちは団結してその数百万本というワインを夜昼わかたず運びついにドイツ軍が来る1時間前に、丘の中腹に隠し終えたのである。
ドイツ軍の将校は、ワインを見つけだそうと色々な手段で住民を篭絡しようとするが1びんも発見できずむなしくこの町を去らねばならなかったのである。
実はこの映画はイタリアを舞台としたフィクションであるが、現実の話としてはヒットラ-は占領地フランスに猟犬のようにワインのありかを探し回る「ワイン総統」とよばれた部下を配置し組織的のにワインをドイツに送り込んでいる。
フランス人もドイツの略奪に対して色々と抵抗を試み、ドイツ向けの貨物列車に忍び込んで、ワイン樽からワインをぬきとったり、銘酒のボトルに安物を詰めて送ったり、ボトルに絨毯の埃をまぶして年代物に見せかけたりしている。
戦争においては、「略奪」において敵味方はアマリ関係ないともいえる。
実はノルマンディーは、連合軍がドイツ軍と戦うために上陸した場所であり、有名なワインの産地シャンパ-ニュ地方も近く、フランスとしては最高級ワインの産地には連合軍でさえ立ち入ることを、できるだけ避けようとしたという。
「セルラー」とよばれるワイン倉庫には、高価なワインが眠っていたからである。
フランス人はワインがあったからこそ戦争も革命を乗り越えることができたと言う。
フランス人にとってワインは宝というよりも魂ともいうべきものであった。
このワインの価値は「何年モノ」というのがあるように、金持ちは自分のセルラーをもって資産価値ともなっている。
日本においてフランスのにおけるワインにあたるような戦利品があるのかと思いメグラしたが、思い当たらない。
しかし「実物資産」としての意味を含めて、日本では室町から安土桃山に到る「茶器」がワインに近い存在かと思う。
当時一流茶人として認められるためには、「名物茶器」を所持していることは一種の「ステータス・シンボル」であった。
松永久秀は「戦国の梟雄」といわれている反面、優れた文人、風流人としての側面をもつ人物でもあり、早い時期から今井宗久はじめ堺の有力者達と交流があった。
そして久秀自慢の茶入れは当時の茶人の垂涎の的であったのだ。
松永久秀は1568年織田信長の入京の際には一度はそれに降るものの信長に滅ぼされるのをヨシとせず大和信貴山城で茶器「平蜘蛛釜」をシバリツケて壮絶な「爆死」をとげている。

取引所で取引されている「実物資産」としては、金(ゴールド)以外にもガソリン、灯油、トウモロコシ、 大豆、コーヒー豆、粗糖などがある。不動産も実物資産の1つといえる。
これらの実物資産は、「資産運用」面で、一般的に、これから物価水準が上昇すると予想される場合、 短期的には株式・債券といった金融資産価格が下がりやすくなるのに対し、実物資産(商品価格)にはプラスに作用するということが「最大の魅力」である。
また、経済にとってマイナスの影響になるテロ・戦争・自然災害などのイベントは、金融資産価格にマイナスのインパクトを与える(つまり下落する)のに対し、供給低下(品不足)の懸念や資金逃避から実物資産(商品価格)には 短期的に価格上昇要因となるケースが多いとされている。
つまり、実物資産をポートフォリオに「組み込む」ことによって短・中期のインフレに対する備えをすることができる。
実物資産は、戦争や自然災害などが起きても一定の資産を守ることができるというわけだ。
しかし金融不安から自然災害、テロや内乱まで考えると実物資産たりとも、それほど安全なものではない。
究極において、人間ソノモノが「価値」を生む出すものとして、自分や子供の教育に投資して何が起こっても生きていけるように力をつけておくことこそ、究極の「実物投資」といえるかもしれない。
ユダヤ人など迫害や追放の歴史の中で生きた民族にはそういう考えが身についている。
早稲田大学で教鞭をとっておられる数学者のピーター・フランクル氏も、けして趣味としてノミ「大道芸」を身につけたわけではないと思う。

最近強く思うことは、経済的な営みの多くが「実物価値」か離れた世界で繰り広げてきた、異様な上げ底経済だったともいえる。
その原点に「ペーパーマネー」の登場があり、最近では実物資産までも「証券化」(金融化)されるようになった。
そもそも資本主義の発展は、「信用創造」というものを柱として発達したといっても過言ではない。
もともとお金は金との交換が保証されていたのので、イギリスで金の「借用書」みたいなものが出回ったのが通貨のハジマリである。
信用創造は、銀行に金(ゴールド)に換金する人はホンの一部なので、そのアイマニ金量の「何倍」かの通貨を貸し出しても問題ない。
そこで、実際に存在するゴールドの何倍かの通貨が出回ることになる。
これが信用創造の原型だが、国内経済においては通貨量と金との関係はカナラズシモ固定しない管理通貨制度となるにおよんで、通貨は「ペーパー・マネー」と化した。
ただ戦後、国際通貨たるドルは金量と結びついた「固定相場制」が採られてきたが、アメリカの国際収支の赤字などから、1971年のニクソン・ショックによりそれが断ち切られ、ドルは金保有量に関係なく「刷る」ことが出来るようになって、世界は完全にペーパーマネーの時代へと移行することになった。
そうして株や債権の値上がりが需要を喚起するとった金融主導の成長経済が実現するのとなったが、 近年、ITブームやら住宅ブームに乗っかり、東西冷戦の終局による人材の流失から新たな「金融技術」が生み出され、サブプライムローンやら不動産の「証券化」までもがみられるようになった。
しかし高いレバレッジをかけて破綻したリーマン・ショックを機に、こうした「ペーパー化」「証券化」は、ホンの一部の人間が短期に莫大な儲けを得て売り抜け、大多数の人間に負荷だけを残す代物でしかなかったことが判明したのである。
またヨーロッパにみるごとく、国ごとに経済実勢が異なる中でEU通貨のように「人工的通貨」を創造し維持することがいかに困難であることが判明した。
この世界の不安とは、究極的に「バーチャル」なリアリティーに倦んでいるということではなかろうか。
それはマスコミの「操作された」情報なども含んでいる。
今一番人々が求めているのは、「実物価値」が物言う真っ当なリアリティーではなかろうか。