人力車の風景

ラフカディオ・ハーンという人は、「耳なし芳一」や「むじな」などの怪奇談で知られるが、ハーンの「知られざる日本の面影」や「神国日本」などの滞紀記や旅行記などを読むと、幸せな気分に浸れる。
それはこうした紀行文を残したハーン自身が、「幸せな気分」で書いているからにちがいない。
ところで、ハーンに似て「日本に居る」ことの幸せを生物学者の目で書き残している人がいた。
東京大学で動物学を教えていて、「大森貝塚」を発見したことで有名なエドワード・モースである。
二人は「滞在期間」に少々のズレがあるものの、ソレゾレの書物に互いの名を見出せることから、どこかで意識しあっていたのかもしれない、と思う。
かつて「銀座のモダニズムの物語」という稿を書いた時、「天皇の料理番」でありノチに精養軒を創立した秋山徳蔵と「天皇家の洗濯番」でノチニ白洋舎を創立した五十嵐健二が、それぞれの波乱の人生を歩みながらも、天皇家「御用達」という同じ「地点」に到達したことの「機微」を書いたことがある。
さらには、天皇家の祝宴などで腕をフルッタ秋山の料理を載せたテーブルクロスを、五十嵐が洗濯をしたこともアッタに違いないなどど想像し、「縦糸」と「横糸」が出会う人世(ひとよ)のアヤを感じとった。
ハーンとモースは、日本政府「御用達」の外国人教師として働いたが、どこかに二人の「交叉点」があるのではないかと探してみたら、横浜で同じ人力車に揺られたことがあったかもしれない、などと想像した。
こんな瑣末なことと思われるかもしれないが、日本の地に足を踏み入れ最初に「人力車」から見た「日本の風景」は、二人の日本滞在に非常に大きなインパクトを与えたという点で共通している。

来日の年はモースが1877年で、ハーンが1890年である。
モースは2年アマリで帰国しているので、両者の「日本滞在」が重り合った期間はない。
しかし、二人の日本滞在体験には「共通」するところがいくつも見出せる。
モースがミシガン大学で「進化論」の講義をした時に聴講していたのが外山正一で、外山に請われて東京大学の初代の動物学教授となった。
ハーンはジャーナリスト・作家としてる程度社会的に評価も得ていたが、このハーンを日本に招いたのも外山であった。
二人がアメリカから太平洋を渡って横浜に到着した時、トモニ39歳だったし、二人とも「短期滞在」のつもりで来日したのである。
特にモースは、専門の腕足類が日本近海に豊富にあると聞き知り、「ひと夏」を江ノ島で調査収集のために過ごすぐらいの気持ちであったが、しばらくして家族とともに再来日している。
ハーンはニューヨークの雑誌社に原稿送るため、日本に関する記事を書く仕事で来日したが、日本という国に魅了されていくに従って滞在期間を延ばした。
松江中学校、熊本第五高等学校をへて、最後は東京大学で英文学を講じた。
その間に、日本について数多くの作品を書き続け、日本に帰化して、小泉八雲として1904年に生を終えている。
それまでの他の外国人滞在記には、はじめて見た日本の商店や人々の第一印象を小さくて「醜い」と書いたり、日本文化のすべてが西洋文明と比較して「貧弱」だとも書いている。
モースは「日本人の住まい」の序文で、民族学者が研究対象である異文化を観察する時、「偏見の煤で汚れた眼鏡」で見るよりは「薔薇色の眼鏡」をかける方がましだと書いている。
さらに、必要なのは「対象に対する共感の精神」であると述べているが、この言葉はそっくりハーンの日本に対する姿勢だった。
例えばハーンの横浜上陸の文章は、その心のウキウキ感が伝わってきて、幸せ感にあふれいている。
ハーンにとってそれは、まるで“fairy land”(おとぎの国)だったようだ。
ハーンは初めて日本の土を踏んだ4月の朝のことを、次のように書いている。
「朝の大気には言い知れぬ魅力がある。その大気の冷たさは日本の春特有のもので、雪におおわれた富士の山頂から波のように寄せてくる風のせいだった。何かはっきりと目に見える色調によるのではなく、いかにも柔らかな透明さによるのだろう。(中略)小さな妖精の国――人も物も、みな小さく風変わりで神秘をたたえている。
青い屋根の下の家も小さく、青い着物を着て笑っている人々も小さいのだった。おそらく、この日の朝がことのほか愉しく感じられたのは、人々のまなざしが異常なほどやさしく思われたせいであろう。不快なものが何もない」。
モースは2年余の滞在中、進化論を紹介し、科学的考古学の講義などを行う一方で、日本人の生活文化にも深い関心を寄せた。
モースは日本の民具や陶磁器を収集し、その「モース・コレクション」がボストン美術館や、ボストン近郊のセイラムの博物館に所蔵されているという。
一方、モースは「生物の多様さ」を見出す「博物学者の眼差し」で、日本の民具を見つめている。
竹が様々な物に素材として用いられていることや、箸を食事の時に使うだけでなく、鉄箸で炭をつかみ、宝石商は細工に使い、往来では掃除夫がごみをひろう、という応用の幅広さに感心する。
横浜の市場を訪問したときも、「興味深い光景の連続」だと感嘆し、いろいろな形の変わった桶や皿や笊を見るだけでも面白かったが、それが鮮やかな色の、奇妙な形をした、多種の生魚で充ちているのだから、じつにユニークだと、道具と魚介類を列挙し、その種類の多さに感じいったりもしている。
そして、生活における道具の工夫や応用と「発展性」に感心するのも、動物の環境適応能力や「生物の進化」に注目するところに似ている。
モースは帰国後「日本人のすまい」という本にソレラをまとめている。
そこでモースは、軒を並べる家々は質素だが清潔で品がよく、あらゆる階級を通して、人々は家の近くの小路に水を撒き、短い柄の箒で掃き清め、欧米と比べてゴミや廃棄物の処理がうまくなされており、それゆえ衛生的で、病気が少ないと書いている。
モースから見ても、日本人の「風呂好き」「きれい好き」は印象的であったのだろう。
以上のようにモースとハーンの二人は19世紀西洋の価値観にとらわれていなかった、というよりソレヲ意識的に「回避」していたのかもしれない。
また二人を当時の他の多くの来日外国人と分かつのは、西洋で育ったキリスト教信仰との「距離感」といえる。
ハーンは実質の育ての親たる大叔母の「カトリック教育」に反撥し、それはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んだファーストネームをアエテ使用しなかったことにも表れている。
モースも父親の厳格なピューリタニズムに反撥して育っている。
特にモースが育ったボストン郊外のセイラムは、アメリカピューリタリズムの汚点である「魔女狩り」の記憶が残る土地であった。
要するに、二人は西洋版キリスト教に「違和感」を覚えたり、反発サエしていたのだ。
一方でソウイウ自分のドコカに「罪悪感」をオボエる中、日本との出会いが二人の心を潤す予期せぬ「岩清水」のようなモノだったのではなかろうか、と推測する。
モースは、外国人は日本人にすべてを教える気で日本にやってくるが、数ヶ月もいれば、残念ながら教えることは何もない、自分の国で道徳的徳目として課される善徳や品性を日本人は生まれながらに持っているらしいと気づいている。
モースは日本の社会を、近代の悪徳や弊害の未だ無い社会として捉えていたのだ。
さらにハーンとモースの二人の突出した「共通点」は、日本の「庶民の生活」に関心を寄せたことだった。
ハーンは、来日すると一番に島根県松江市の英語教師として招かれている。
生活の世話をした松江の女性小泉せつと結婚し小泉八雲と名乗った。
小泉せつからの聞き書き「怪談」のほかに「知られざる日本の面影」や「神々の国の首都」というタイトルで滞在記を著した。
ハーンは松江の町の風景を、下駄の音やコメをつく音、物売りの掛け声などを織り込み、人の風情・生活文化などを実に丁寧に興味深く描いた。
その数年後には1904年に急逝するまで東京牛込に住んで、頻繁に各地を旅行しながら日本の神秘にとりくみつづけた。
ハーンがその作品に描いたのは名もない市井の人々の物語であり、古い民間伝承や民間信仰をモッパラ書き留めた。
モースも、立派な寺院や城郭や庭園には興味を示さず、普通の日本人が実際に暮らす住まいをとりあげた。
そしてハーンもモースも書物を通した研究ではなく、直接自分の目で見、自分の耳で聞き取ったことを記述することを重んじている。
それは、消え去ろうとする昔の「日本の面影」の貴重な資料ともなっている。
ハーンが、胸騒ぎを覚えつつも、日露戦争勃発の直前に亡くなった事実も、何かシンボリックな出来事だったようにも思える。
というわけで、民具を収集したモースと、民話や怪談の再話作品を残したハーンのそれぞれの仕事は、「もの」と「こころ」の民俗学として「対」をなしているといえる。

ハーンは日本の第一印象を「知られぬ日本の面影」に紀行文風に、モースは「日本その日その日」に日記風に書いている。
その二人の目線に写った「共通の風景」がある。それは「人力車からの風景」だった。
ハーンは、乗り物が大の苦手だったとエピソードにあり、機関車も船も辛い思いであったという。
ところが、滞在記によれば、乗り物嫌いのハーンが唯一気に入り、どこにいくにも利用したのが「人力車」だった。
その人力車の発明は、ちょうど明治元年である。
ハーンが最も愛しソノ居を構えた島根県の記録によれば、1874年(明治7年)には県内約50台の人力車が営業してたようである。
明治の終わり頃、のちの大正天皇が皇太子の折、島根県に行幸しているが、その時の記録では人力車98台・俥夫234名が行幸の足として集められたとある。
ハーンは松江の町からおよそ150キロ西の浜田という港町まで行ったとあるが、列車嫌いのハーンが人力車でいったとすれば、文字どうり「記録モノ」かもしれない。
一方、モースも、「日本その日その日」の中で、横浜到着後の風景の中で「人力車」について印象的に書いている。
「不思議な建築、極めて清潔な陳列 箱にも似た、見慣れぬ開け放しの店、店員たちの礼儀、様々な細かい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。我々にとって珍しくないものとては、足下の大地と、暖かい輝かしい陽光くらいであった。ホテルの角には、人力車が数台並んでいて客を待っていた}と書いている。
そしてモースは、人力車に目をとめるが、人間が引く俥に乗ることを「申し訳なく」感じて歩きだす、という優しさものぞかせている。
だが、イザ乗ってみると、車夫の力強い走りに魅了されてしまう。
そして、「それにしても人力車に乗ることの面白さ!狭い街路を全速力で走って行くと、人々、衣服、店、女や子供や老人や男の子たち。これらすべてがかつて見た扇子に描かれた絵を思い起こさせた」
「人力車にのることは絶え間なき愉快である。身に感じるのは静かな上下の動だけだ。速度も大きい。」と繰り返し記している。
モースは、風変わりな開け放たれた家々の中を覗き込み、店であれば棚に並べられている品物を観察した。
また、お客と店の主のやりとりを、その奥で家族がすごす部屋のつくりや道具類を、人々の生活の様子を活き活きと、書き留めていった。
母親が往来の真ん中で堂々と子供に乳房をふくませる姿をみかけると、「この国の人々がもつ開放感こそ、見るものに彼らの特異性を印象づける」とも書いている。
この「人力車から見た風景」が、日本の住まいや民具への関心を呼び起こしたことは、充分に推測できる。
そして、日本の住まいでは鍵も閂もかけずにいることができる、「人々が正直である国にいることは実に気持ちが良い」と述べている。
またモースが特に感心したのは、行動をともにした人力車の車夫の礼儀正しく丁寧であることで、つねに微笑をたやさないし、動物はいたわる、アメリカの馬車屋なら喧嘩になるような場面でも穏便に事を収める、と再三車夫の話が登場する。
その13年後の4月に横浜に降り立ったハーンもまた力車に乗って町に繰り出す。
ハーンは「人力車からの風景」を次ぎのように書いている。
「陽射しは暖かに快く、人力車は、世にこれほど小じんまりと寛げる乗り物があるかと思う。
わらじ履きの俥屋のかぶっている白いきのこのような笠が上下に揺れて、その笠越しに見晴るかす町並みの魅力は、これまた見飽きるということがない。
小さな妖精の国――人も物も、みな、小さく風変わりで神秘をたたえている。
青い屋根の下の家も小さく、青いのれんを下げた店も小さく、青い着物を着て笑っている人々も小さいのであった」。
ところでハーンとモース以外にも日本に滞在した外国人の多くが横浜の町を歩く盲目の按摩の存在に言及している。
そして一様に「按摩の制度」、つまり、障害者が自立して社会の中にシカルベキ場所をえているという点に感心している。
ハーンも一日の終わりに夜、宿で外から聞こえてくる「あんまーかみしもごひゃくもん」という按摩の呼び声に耳をすませる。
モースもまた、昼夜を問わず、哀れっぽい調子の笛を聞くことがあるが、この音は盲目の男女が按摩という彼らの仕事を知らせて歩くものであると記し、盲目の娘がバンジョーの一種を弾きながら歌を歌ってゆっくりと町を歩くのをよく見たとも書きとめている。
また「逝きし世の面影」のエドウィン・アーノルドが、「人力車のある風景」を次のように書いている。
「目の見えぬ按摩は車馬の交通がはげしいところでは存在しえないだろう。
彼の物悲しい笛の音なんて、蹄や車輪の咆哮にかき消されてしまうし、彼自身何百回となく轢かれることになるだろう。
だけど東京では、彼が用心すべきものとては人力車のほかにない。
そいつは物音はたてないし、子どもとか按摩さんと衝突しないように細心の注意を払ってくれるのだ」と。
ところで、明治という時代にやってきたハーンやモースが「日本の面影」に心を癒したように、今日本人の我々がいる「到達点」から、「日本の面影」に心を癒すことができるのが、不思議といえば不思議ある。
ハーンは1850年のギリシアのレフカス島に生まれ、そのハーン家の原郷がアイルランドだったのだ。 それからアメリカに渡り、日本にやってきた。
このように、ギリシアとアイルランドの「古代神話」に育ちながら、その後はたえず異郷をめぐってきた経 歴をもつハーンが、近代の繁栄に酔いつつあったアメリカを捨てて、日本の松江に落ち着いた。
それは、ハーンにとっても意外な人生の展開だったのだろうが、日本人にとってこそ「恩寵」のような奇蹟だっ たのかもしれない。
しかし何が「奇蹟」かといったら、ハーンにとっての日本こそが奇蹟だったのであり、そのハーンが書いた 「日本の面影」が奇蹟だったともいえるだろう。
ハーンと日本、モースと日本、そしてハーンとモース。
「地図なき人生」で巡りあうのは、人にも土地にも目に見えぬ「磁力」が存在するということか。