シーマンシップ

海上で事故がおきた場合に、映画やテレビなどでは、船舶の沈没が免れない状況では、船長が一人自室にこもるシーンや、操舵器に体を縛り付けて、「退船指揮」をとるシーンが描かれる。
昔、日曜洋画劇場でみた「白鯨」で義足の船長(グレゴリー・ペッグ)が自分の体をモービーデイック(白鯨)の体に結わえつけたまま、鯨と共に海に沈んでいったシーンさえも思い浮かべる壮絶な最後だ。
海難事故で、船長はどうして船と運命を共にするのだろうか。それも、乗客を完全に避難させた後までも、そうするのはどうしてだろう。
まるで戦争中の海軍における「崇高な最期」が、今に至るまで慣習化しているのものかもしれない、などと思う。
船長は、海難事故については「海難審判」で真相を明らかにしなければならず、むしろ生き残ることコソが、「職業倫理」としても正しい姿ではないのか、と思うところである。
ところで山口県豊浦出身のある女性から、ある「心なごむ話」を聞いたことがある。
その女性は商船の船長の娘で、父親の商船が下関海峡を渡る時に、家族でソロッテ数ヶ月家をあける父親に手をふって別かれるそうだ。
父親も操縦室から陸の家族に手をふりかえすといっていた。汽笛をならすかまでは聞かなかった。
最近、イタリア中部沖のジリオ島付近で、豪華客船コスタ・コンコルディアが座礁した。
事故をおこした船長は、客に故郷を見せたいあまり、ギリギリまで岸に近づくという心温まる大サービスをした。
しかし、船が沈みそうになると乗客をおいて近くの島にのがれ、携帯電話で「ママ 僕は戦っているよ」と電話した「親孝行」ぶりには、心がなごみ過ぎて溶けてしまう。
このギリギリ船長は、「過失致死」などの容疑で検察に身柄を拘束されたが、乗客らより先に近くの島に避難しているのを沿岸警備隊関係者に見とがめられ、船に戻るよう促されていたことが判明した。
イタリアの航海規則では、緊急時に船を放棄した船長には、最高12年の「禁錮刑」が科される可能性があるという。
ところで、日本における海難事故では過去に、船長の「殉職例」が数多くある。
1945年 播但汽船「せきれい丸」船長は救助を拒否して殉職した。
1955年宇高連絡船・「紫雲丸」(客貨船)に、同連絡船・第三宇高丸(貨物船)が衝突し、「紫雲丸」はわずか4分で沈没した。
死者・行方不明168名は、タイタニック号、洞爺丸に続く当時「世界第三番目」の海難事故となった。
「紫雲丸」の犠牲者168名の中に修学旅行中の高知市の小中学校児童生徒100名がおり、亡くなった生徒の多くが船室に戻って学校のカバンをとりに戻ろうとしたため死者を増やしたともいわれる。
彼らの多くが貧困家庭の出身者が多かったこともあり、高知県から「教科書無償化運動」が始まった。
高知県といえば自由民権運動の発祥地の一つであったが、この件でも「人権の歴史」を刻むことになった。
なお、「紫雲丸」の船長は最期まで船橋で退船指揮をとり殉職している。
その他、1970年 北海道の石炭運搬船「波島丸」の海難事故で船長退避拒否殉職している。
同年 野島埼沖で鉱石船「かりふぉるにあ丸」でも船長が退避をして拒否殉職している。
これらの「救助拒否」や「避難拒否」のイタマシサの背景には、船員法(旧法)の第12条に「船長の最後退船義務」が課せられたことがあった。
また一方で、刑法では第37条に「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる」と「緊急避難」が定められている。
助かったら助かったで、タイタニックから救助されたミュージシャンの細野晴臣氏の父親のように、様々な憶測で「誹謗中傷」にサラサレルのも、海難事故の「特徴」なのかもしれない。
まして「刑事犯」ともなれば家族に迷惑がかかるが、逆に殉職者には「暗に」その責任を明確にしないという「慣例」もあり、こういう「救助拒否」や「非難拒否」の例の多さと関係がナイとはいえない。
また法的な責任の問題は置くとして、「船を沈める」ということの「重さ」は、船長でなければワカラナイものがあるのかもしれない。
つまり、操縦機器に自分をシバリつける行為からわかるように、船体は自分の「体の一部」ということだ。
ところで、1970年、「船長協会」の要望により船員法(旧)12条は「改正削除」され、船長が船と運命を共にするなどの「殉職」はホボなくなったという。

船乗りの世界には、「シーマンシップ」というものがあるという。
要約すると 「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂」 ということらしい。
シーマンシップを好んで多用するのはヨットマンだが、その場合「精神論」としてではなく、船を安全に航海させる上での「知識・技術」論として語られているようだ。
ヨットの上では一人の怠慢や不注意が全員の存亡にかかわるので、「精神論」だけで片付くような問題ではないといえる。
例えば一人一人が、舫結び(ボーラインノット)や巻き結び(クラブヒッチ)と同じように、全ての船乗りとして体得していないといけない。
日本では「五分前集合」などが精神神論として語られるが、これは「帆船」の長い歴史から生まれたものあるらしい。
船では全て5分前に次の行動の準備を終わらせておくのは、「技術的要請」なのである。
そして、自分にあった船を選ぶのも、その船で自分の腕で乗り越えられる天候を選ぶのも、全てが「シーマンシップ」なのである。
もちろん「シーマンシップ」には、「精神的」なものも多分に含まれている。
たとえば、船乗りはたとえ敵であろうと、溺れている者には手を差し伸べるというものである。
実際レース中のヨットで先行艇が事故でマストが折れ浸水でもしていれば それを見つけた後続艇は 競技の順位を投げ捨て、救助にあたるというものである。
世界選手権で、優勝を目前にした艇が、他のヨットの救助に向かったという「美談」も聞いたことがある。
ところで、「シーマンシップ」を見事に描いた映画が「白い嵐」(1996年公開)である。
青少年の心身鍛練のためのヨットスクールの物語で、1年かけて大型帆船で訓練をする海洋訓練学校である。
このスクールに所属する生徒達は不良だったり、家庭問題から高所恐怖症になったり、父親の重圧で精神を病んだりいろいろな問題を抱えている。
指導者であり船長でもある人物が、その生徒達を徹底したスパルタ式で鍛えて行く。
多くの生徒達は長期航海に際し、あまりに厳しい船長に対して、ヤッテイケナイと不安と不信感を抱いていた。
しかし、トラブルと波乱続きの大海原を経験していくうちに、そして船長の厳しさの「本当の意味」を理解していく。
そして、最初は「お荷物」でしかない少年の間にはモメゴトや対立などが出てくるが、次第に船長を尊敬を抱くようになり、船を動かすという「共通の目的」の下、バラバラであった彼らにも「団結心」が芽生えてゆく。
さらに次第に海に対する意識と認識が変わり、立派な「航海士」として育っていく。
そして成長した彼らに対して、船長はその優しさの一面をのぞかせるようになっていく。
ところが帰る時にトンデモナイ嵐に出くわす。
「白い嵐(ホワイト・スコール)」と呼ばれる伝説の嵐で、船長の指示に従いながら、生徒達は必死で船をコントロールしていく。
それは、すべてを引き裂くように襲い掛かる嵐で、映画の画面で見るのもつらいほどのものであった。
しかし彼らの必死の奮闘も虚しく、やがて船は横転して沈んでいく。
結局、船長の妻と4人の生徒が死亡した。
「白い嵐」は当時としては原因不明の予期できない気象現象であったが、船長の責任が問われるべく「海難審判」が行われた。
少年4人を死なせてしまったことで船長は「監督責任」を問われれたのだが、生還した少年たちが船長の指示がいかに的確であったかを訴え、傷心の「船長」を必死に守ろうとする。
犠牲者を出したこの嵐が、どんなにか生徒達の心を成長させたかということが伝わってきた。
この映画が1961年に実際に起きた「海難事故」に基づくものであることを思えば、ナオサラその感動は増すものとなろう。

「シーマンシップ」という言葉思い出すのは、1994年に史上最年少で「ヨット単独無寄港世界一周」をなし遂げた白石康次郎氏と、その師・多田雄幸氏の話である。
白石氏は6歳で母を亡くし、父としばしば出かけた海に憧れを抱くようになった。
そして「いつか、海の向こうに行ってみたい」と水産高校に進学したが、ある日テレビの映像にクギヅケになった。
それは多田雄幸氏が単独で世界一周のヨットレースに参加し、優勝したことを伝えるニュースだった。
航海の厳しさを知る白石氏は、お酒を飲み、サックスを吹きながら愉快に世界を周った多田氏のレース・スタイルに衝撃を受けた。
白石氏はさっそく多田氏と電話で連絡をとり、あこがれの多田氏と会い、「弟子」にしてほしいと頼んだ。
多田氏は、白石氏のことを「目の色が違う。こいつならものになる」と直感し、すぐに受け入れた。
あっさり弟子入りがかなった白石氏は、その後2年ほど仙台、清水、伊東と住み込みヨット建造の仕事をし、修理技術を身に付けた。
その間、多田氏のヨットに乗り舵を持たせてもらう。
多田氏はどんな悪天候でもセーリングを楽しみ「自然に遊ばせてもらう」とクチグセのように繰り返していた。
当時その言葉の意味を充分理解できなかったものの、その言葉は白石氏の冒険が目指す「方向性」を示しているように思えた。
多田氏は最初の優勝から7年後の1989年、スポンサーから多額の資金を得て、再び世界一周に挑戦した。
白石氏も、食糧や部品を届けヨットの修理をするサポートクルーとして港を転戦し、このレースに参加していた。
ところが、このレースは思いもよらない「展開」が待ち受けていた。
多田氏は、前回の好成績から周囲の期待が高まり、そのプレッシャーに苦しんでいた。
スピードを出すための改造が裏目に出て、ヨットは何度も横転した。
多田氏を寄港地シドニーで待ち受けていた白石氏は、いつもと違ってヤツレハテた師匠の様子に気がついた。
そして「衝撃的」なことが起こった。
多田氏はシドニーでレースを棄権し、そればかりか「自らの命」を絶ってしまうのである。
その後白石氏は、多田氏のヨットを修理してシドニーから日本に回送し、多田氏の船で世界一周を成し遂げ、「師匠の遺志」を継ごうと思った。
多くの船大工の善意協力をうけてヨットを修復し、師匠・多田氏の「無念」を晴らすべくした出発したが、故障で9日目に引き返した。
万全を期したはずの2度目の挑戦でも再び「不備」が見つかり、寄港先で「一体自分は何をやっているのか」と自責の念にかられ、二度と帰国する気になれないホドの惨めさを味わった。
その時、多田氏と交友のあった冒険家・植村直巳氏の妻・公子さんから励ましの電話があり帰国を決意したという。
そして10か月後、白石氏は師匠の教えであった「あるがままの自然を受け止める」覚悟で3度目の出発をした。
そして、初めての「横転」を経験し数分間死と向かい合いながら、自然の力にはトウテイ太刀打ちできないほどの「人間の無力」を痛感した。
そして、自然をネジフセようとするのではなく、自然を信じ 自然に遊ばせてもらうという師の言葉の本当の意味を知ったという。
白石氏は、この3度目の挑戦で26歳10か月での世界最年少で、「単独ヨット無寄港世界一周」を達成したのである。

ところで、「重大な難」が降りかかった時にいち早くそれを察知して「脱出」をはかる人と、あえてその難の中に留まり運命を共に戦おうという人々がいる。
そしてこのことは、「シーマンシップ」の精神的な部分と通じるものがあるかと思う。
責任逃ればかりする東電幹部と、福島原発の事故現場で生死をかけて戦った人々のコントラストも思い浮かんだりする。
一方で、ドナルド・キーン氏は、日本人と「運命」を共にしようと、震災後に 「帰化」を決意されたようだ。
そして思い起こすのが、太平洋戦争中の「日米交換船」のことである。
戦争が始まると、「国交」が断絶するので交通が断絶する。
その場合、よその国にいる人は自分の故郷に帰れないので、「捕虜交換船」という方法が案出された。
日米の戦争が勃発した時に、アメリカには日系人の他、大使館員、外務省役人、商社員、学者、留学生、旅芸人、サ-カス団など様々な人々が滞在していた。
そして1942年6月に、「第一次日米交換船」がスタ-トし、そこには色々な人間ドラマがおこった。
ある者は、交換船に乗らずアメリカに残り、あるものは交換船で日本に帰ってきている。
それは「人生をかけた選択」が行われたといってよい。
というのは交換船に乗らないということは、敵性外国人といことで収容所に入れられる可能性があったし、日本に帰国するということはは日本で「敗戦」をむかえることになる。
もちろん、アメリカに残留した者の中にも、アメリカの収容所に入れられた者もいれば、免れた者もいた。
911テロで崩落する世界貿易センタービルを設計したミノル・ヤマサキは「免入所派」であり、工芸デザインのイサム・ノグチは「入所派」である。
実はアメリカに住む大概の日本人は客観的な国力の差から、口には出さずとも日本が戦争に負けることを予測していた。
当時、アメリカへの留学生であった鶴見俊輔は、日本は敗戦となるだろうから、何としても日本に帰らなければならないと思ったという。
ところで「第一次日米交換船」で乗り込んだ人々の中には、都留重人・鶴見俊輔・和子兄妹など後に日本のオピニオン・リ-ダ-になる人もいれば、竹久千恵子などモダンガ-ルとよばれた女優、さらには後にジャニ-ズ事務所を設立するジャニー喜多川など異色の人々もいた。
交換船は、6つの階層にわかれ最上階のAには野村吉三郎(駐米大使)・来栖三郎(特派駐米大使)などで、都留夫妻はD、鶴見兄妹は最下層のFだったという。
ところで反対に日本側から出発した日米交換船には、カナダの外交官ハーバート・ノーマンが乗船している。
ハーバート・ノーマンは、アメリカでマッカ-シ-旋風が吹き荒れた時に、都留重人の証言がきっかけでアカと審判され、まもなくエジプトで自殺している。
都留とノ-マンがこの時「交換船」でそれぞれコーカンで本国に帰国しているのも「運命」を感じる。
ところで政治家も官僚も、一般国民よりいち早く情報をウル立場にあるので、重大な危機が迫ったときに「日本丸」からいち早く脱出したり、財産を移したりすることが可能な立場であるといえる。
というわけで「シーマンシップ」というものが、「ステーツマンシップ」と通じ合うものが大きいことを、感じさせられるのである。