家政婦の子守唄

日本国憲法の制定に少なからぬ影響を与えた家政婦がいた。静岡県・沼津の網元の娘・小柴美代で、「家政婦のミヨ」ということになる。
ところで、朝日新聞朝刊の一面トップ(2月19日)にロシアの「ユダヤ自治州」のことが紹介されていた。
スターリン時代のソ連が、ヒットラーに優るとも劣らぬほどユダヤ人を弾圧していたことは、ソ連と中国の満州の国境付近に「ユダヤ人自治区」を作って「強制移住」させていたことでも知られる。
さて、このロシアのウクライナ地方キエフの町にユダヤ人レオ・シロタ・ゴードンという音楽家と貿易商の娘との間に、ベアテという娘が生まれた。
父レオ・シロタはオーストリアのウイーンに留学し、1920年代「リストの再来」と評され、世界の三大ピアニストに数えられるほど、超絶技巧を誇るピアニストとして注目されていった。
しかし、1917年のロシア革命の混乱で帰国不能となり、家族と共に「オーストリア国籍」を取得した。
しかし、当時のヨーロッパ経済は不安定で公演のキャンセルが続き、ドイツを中心として「反ユダヤ主義」が台頭していたこともあり、一家三人は半年間の「演奏旅行」のツモリで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへと向かった。
そしてレオ・シロタはこの「演奏旅行」の途中で、日本を代表する音楽家・山田耕筰と「運命的」な出会いをする。
ハルビン公演を聞いた山田耕筰がホテルを訪れ、日本での公演を依頼したのである。
レオはその年に訪日して1カ月で16回もの公演を行ない、山田耕筰によって東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘された。
さらに世界恐慌でのヨーロッパ情勢の不穏の中、ベアテ一家は日本に滞在し続けるのである。

現在、東京・赤坂の「東京ミッドタウン」がある一帯は、かつては「赤坂区檜町」と呼ばれていた。
古くから著名人や外国人などの集まる地区の一つであり、ウィーンからシベリヤ鉄道経由で日本にやってきたベアテ一家もここで暮らすことになった。
東京での生活は大きな混乱もなく静かに始まった。檜町の家には、両親と娘ベアテのほか、英語の家庭教師であるエストニア人の女性がいた。
ベアテ家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰や近衛秀麿、ヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロンとなっていた。
ちなみに小野アンナもロシア生まれで、ロシア留学していた小野俊一と結婚して日本に滞在し、数々の著名なバイオリニストを育てた。
小野俊一の姪にあたるのが、ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコである。
ところで、幼いベアテにとって、家の近くの乃木神社の境内などは格好の遊び場となった。
そしてすぐに近所の子供たちと仲良くなり、色々な遊びを覚えていった。
日本の子どもの遊びであるオハジキ、紙芝居、自転車、羽子板などはすべてやったと振り返っている。
特にオハジキが得意で、戦利品を家族にみせるのがベアテの日課だったという。
また、遊びと結びついた童歌や童謡などをも聞きながら日本の文化を学び、日本に来て3カ月ぐらいで日本語を話せるようになっていた。
そして東京大森にあったドイツ学校に通うようになったが、ユダヤ系であることから学校の方針も一変し、ベアテ個人に対する直接の迫害も目立つようになっていった。
心を痛めた両親は、当時目黒区にあったアメリカンスクールにベアテを転校させ、ベアテはそこを大変気に入り、卒業までの残り2年間をノビノビ過ごすことになった。
ちなみに、この学校の終戦間もない頃の様子は、小島信夫が小説「アメリカン・スクール」の中で描いている。
ところでベアテは、6歳ごろからはピアノ、ダンスを習い始めたのだが、自分にピアノの才能がないことは、父レオが自分よりも他の生徒達を熱心に指導することなどから、悟らざるをえなかったという。
しかしベアテには、自然にモウヒトツの道が開かれていた。
ベアテ一家での会話や、ベアテ家に集まる人々との情報のやり取りの中で、ベアテはさまざまなことを吸収していった。
それができる環境にイツモ置かれていたということである。
とりわけ、ベテル家では日常的に日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語が飛び交う環境で暮らしていたことも幸いして、ベアテ自身はさして努力をしているワケでもないのに、日本語をはじめとする5カ国語の会話とラテン語をマスターしていったのである。
そしてもう一人、ベテルの精神形成に大きな影響を与えたのが、家政婦の小柴美代であった。
ベアテ家は、洋画家・梅原龍三郎の家のすぐ近所でもあった。
あるとき、近所に著名なピアニストが引っ越してきたと聞いた梅原氏が、自分の娘にもピアノを教えてもらえないかと訪ねてきた。
梅原氏は、5年間ほどフランスに留学した経験からフランス語が話せたため、両家の間で自然に交流が生まれた。
そしてベアテ家の方から梅原氏に、身の回りの世話を頼める家政婦さんを紹介してくれないかという申し出があった。
そして紹介されてやってきたのが、小柴美代であった。
高い能力がありながら、「教育を受ける機会」がなかったという、当時の日本人女性を「代弁」しているような女性であった。
ベアテ一家では、父レオが上野の音楽学校から帰ってくると、ベアテと両親に家庭教師を含めた4人で食卓を囲んだ。
食卓の4人で交わされるのは、音楽学校の生徒のこと、町で出会った日本の人々のこと、ベアテが経験した日本の子供達との遊びのことなどであった。
ベアテにとって小柴は毎日の生活の中で一番「身近に」接していた日本人女性であったため、ベアテの精神形成に大きな影響を与えたのである。
小柴を通じて、ベアテの心の中にイツノマニカ日本の女性についての「情報」が蓄積されていった。
好きな人と結婚することもできず、父母の決めた全然知らない人と結婚させられる。
結婚の前に一度も会わないことすらもある、そういう結婚の仕方のために嫁いだ先でトラブルに悩まされ、理不尽な生活に追い込まれている女性達の話を聞いた。
もちろん、ベアテ自身も様々な体験の中から、日本女性が置かれている状況について、身をもって感じ取ることができた。
日本のお母さんの家庭での働きぶりを見たり、日本の女性たちが夫と外を歩くときには必ず後ろを歩くこと、客をもてなすときにあまり会話に入らないことなど、自分が育った環境とのチガイを感じ取った。
自分の父母と比べてみても、日本では夫婦で話す時間が少なく、まして夫婦で何かをする時間がほとんどナイように感じられた。
またベアテにとって忘れられないの日が、1936年2月26日の大雪の日であった。
226事件が起こった際には、ベアテの自宅の門にも憲兵が歩哨に立ったのだが、ベアテはそれを実際に見ながら、日本人は表立っては優しいのに、内面にカゲキナなものを秘めていると、強く思わせられたという。
また軍神・乃木希典をまつった乃木神社には、戦地で亡くなった兵隊達の葬列を見かけることが増えるにつれて、日本の雰囲気が次第に慌しくなっていっていることも、子供心に感じとった。
ところでベアテの父のレオ・シロタ・ゴートンは、世界的なピアニストとして、日本の音楽の向上に貢献している。
個人教授にも力を入れ、レオ・シロタ門下からは、日本のピアノ界を背負って立つ人材が多く輩出した。
豊増昇、永井進、園田高広、松隈陽子、藤田晴子などである。
この点では同じくロシア生まれの小野アンナが、小野俊一氏との離婚後に「音楽教室」を開いて、諏訪根自子、巌本真理、前橋汀子、潮田益子など、数多くの日本を代表するヴァイオリニストを育てたのと似ている。

ベアテは一家と共に約10年間ほど日本に滞在するのだが、そのことがベアテ自身を含め誰も予測もできないような展開をもたらしていく。
1939年5月、ベアテは日本のアメリカンスクールを卒業し、もうすぐ16歳になろうとしていた。
ヨーロッパでは、「ユダヤ人敵視」をかかげるナチス・ドイツが目覚しい台頭がを見せつつあった。
そこで両親は、ベアテをアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のオークランドにあるミルズ・カレッジに留学させることにした。
ミルズ・カレッジはアメリカでセブン・シスターズとよばれる名門女子大のひとつであった。
ミルズ・カレッジは全寮制の女子大学で、ベアテにとってこの大学が「女性の自立」について深く学べる場所となったのだという。
1945年、太平洋戦争が終結し連合国軍(GHO)が日本占領の為にやってきた。
そして、ベアテ・シロタ・ゴードン女史が22才の若さで、日本国憲法制定の「人権委員会」のメンバーに選ばれたのである。
その偶然というものに、ベアテ女史は「運命的」なものを感じたという。
それは、10年にあまる日本滞在の日本文化の理解と語学力がマネイタ「偶然」といってもよかった。
ベアテ女史は、大学卒業後アメリカ国籍をとり、一時期ニューヨークのタイム社でリサーチの仕事をしたことがある。
1945年太平洋戦争の終結とともに、一刻も早くに日本にいる両親に会いたくて、日本に入国可能な「軍関係」の仕事を探した。
そして、偶然見つけた仕事がGHQの民生局であった。
民生局の仕事を見つけた当日、民生局課長ケーディス大佐の面接を受けて、政党科に配属されたという。
ただGHQ民生局のメンバーとして日本に帰ってきたベアテ女史にとって、美しい風景が無残な焼野原に変ってしまていることに、「悲しみ」を抑えることができなかった。
ベテア女史の両親は軽井沢に逃れていたために難を逃れていたが、乃木坂にあった家は焼けつくされており、 玄関の門の柱だけが、かつての自宅の場所を確認する唯一のメジルシだったという。
日本に帰って1ヶ月ぐらいして、突然に民生局に「憲法草案作成」の指令が出た。
そしてベテル女史の抱いた悲しみは、日本で新しい「憲法草案」を作るという「使命感」によって打ち消されていった。
それどころか、全人類に適用できる、民主的で世界に誇れる憲法を作ろうという理想にも燃え立っていたのだという。
そしてケーディス大佐は、この大学を出て間もない22歳の女性に、「女性の権利」についての条文を書くことを命じた。
しかし、そんなベテア女史の仕事は「極秘事項」であり、両親にさえ口外することが許されていなかった。
もしそれがわかったら、そんな小娘に日本国憲法が書かせたのかと、「反対勢力」に利用される可能性があったからだ。
ベテル女史は、女性の「参政権運動」に携わった市川房枝女史がミルズ・カレッジで講演した際に、同行したことがある。
その際に、あの「憲法24条」は自分が書いたんですよと、ノドまで出かかったがナントカおしとどまったこともあったという。
ベアテ女史はタイムス社でリサーチの仕事をしたことがあったが、その経験が「憲法草案作り」にも生かされていった。
ベアテ女史は10年にわたる日本の暮らしから、日本人女性に何の権利もないことを知っていた。
まずはジープで図書館を回り、世界の憲法が「女性の権利」をどのようにに定めているかをリサーチした。
草案の作成は「極秘」で行われていたために、民生局の人が沢山の本を持っていったとか、一カ所だけで調べものをしたりすると怪しまれるので、ワザワザいろいろな図書館を回って資料を集め、それをGHQの「民政局」に持ちこんだのである。
ベアテ女史のリサーチの結果、「女性の権利」についてはワイマール憲法、ソ連憲法、スカンディナヴィアの憲法が特に優れていることが判った。
実はアメリカの憲法には、今でも「女性」という言葉は登場しない。
ベテル女史は草案の中に、母親・妊婦・子供、養子の権利、職業の自由までをも含めて書き、それを民生局課長ケーディス大佐の所にもっていた。
しかし大佐は、「社会保障について完全な制度をもうけることまでは民生局の任務」ではないと一蹴され、その権利条項の大半が削られたのだという。
ベテル女史はその時、悲しさと悔しさで涙が止まらなかったという。
しかしこの時ケーディス大佐が「削除した部分」こそが、その後の世界的な人権の流れの中で、日本の女性たちが勝ち取っていかなければならないものであった。
ところで、ベアテ女史が憲法の24条の「両性の本質的平等」の草案を書くにあたって、赤坂の乃木坂の家で家政婦として働いていた小柴美代の存在が、けして小さいものでなかったことは確かである。
ベアテ女史は、5歳から15歳という多感な時期を日本で過ごすが、小柴から日本では正妻とおめかけさんが一緒に住んでいるとか、夫が不倫しても妻からは離婚は言い出せないとか、夫が他の女性に産ませた子を養子として連れ帰ったとか、東北の貧しい農家では娘を身売りに出しているとかいう話を聞いた。
べアテ家の家政婦・小柴美代は、静岡県沼津の網元の娘だがが、そういえは近くの焼津の港に山口音吉という漁師がいたのを思い出した。
明治時代のアメリカ人の作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、焼津の地と人を愛し、夏を過ごしにしばしばこの地を訪れた。
小泉八雲が避暑のために借りた家の主が、山口音吉という漁師だった。その純朴な人柄を八雲はおおいに愛し、自身の作品に登場させている。
ハーンが一人の漁師から普段の「日本男性」を学んだように、ベテル女史も小柴美代の言葉づかいフルマイのひとつひつから、普段の「日本女性」の姿を学んでいったにちがいない。
ベテル女史は講演会などで、必ずといっていいほど小柴との出会いを語っている。
そして1966年には、ニューヨークの自宅に小柴を呼び寄せたりもしている。
ベアテ自身の著書「日本国憲法を書いた密室の九日間」の中で「日本女性の地位の低さ」を小柴美代の口から「子守唄のように」聞かされていて、それが後に日本国憲法24条草案を積極的に書かせる「動機」になったと語っている。
またベテル女史はインタビューで、日本の女性のために憲法に「男女平等」を盛り込みました、ほとんど感情で書きました、とも語っている。
日本国憲法の「下敷き」になったGHQによる憲法草案は「マッカーサー草案」としてだけ知られ、各条文についてGHQの「誰が」担当したかまでは、長く「極秘事項」であった。
気になるのは、家政婦の小柴美代が、自分がベテル女史に語った「子守唄」が、憲法14条「法の下の平等」、24条の「男女平等」のモチベーションとしてハタライタいう事実を、承知していたのでしょうか。