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再会の時

春は別れの季節であり、出会いの季節である。
出会いの中には「再会」をもふくむが、ドラマや映画でみる「再会」といえば、色々と思い浮かべる。
以下に古今東西の「再会ストーリー」を何の脈絡もなく、思いつくまま書いてみた。
そしてわかったことは、「再会」とはとてもショッパイものであり、それは人間というものの長い時間を経た「変化」にともなうモノといえる。
映画の「イチゴ白書」がマタ来たとしても、もうあのトキメキをもって見ることはナイということだ。
太宰治は、中学時代に英語の時間に習った「彼は昔の彼ならず」(=「He is not what he was」)という言葉が心に残っているらしく、この言葉をタイトルにした小説も書いている。
この言葉は、様々な意味で「再会」のホロニガサをこめた言葉にも聞こえる。
O・ヘンリーの短編「二十年後」は、ショッパすぎる「再会」が描かれている。
或る時、ニューヨークの街角に佇む一人の男がいた。そして、巡回中の警察官に職務質問をうけ、次のようなことを語った。
「オレとアイツはあの日あの時刻からキッカリ20年後に、もういちどココで会おうと約束したんだ。その時にお互いがドンナ立場になっていようと、ドンナに遠く離れていようとかならずまた会おうと。20年後にはおたがい道も定まって、財産もできてるだろうと計算していたわけだ。それがどういうものかは別として」
その場所は、オレとアイツ、つまりジミーとボブの二人で「別れ」の食事をしたレストランがあった場所であったのだ。
警官はジミーにここでイツマデ待つのかと確かめ、彼らの「再会」が果たせるように願いつつ、ソノ場所を立ち去った。
そして数分後、ボブが現われて、彼らは久方ぶりの再会を喜んだ。しかし二人の男がシバラク歩いて行くうち、街明かりに照らされた瞬間に、横に歩く男がボブではないことが判った。
お前はボブなんかじゃねえ/そうさお前は数分前から逮捕されているんだ/
その男はモウ片方の男に手錠をかけ、持っていた一通の手紙を渡した。
ソノ手紙には次のように書いてあった。
「ジミーへ。おれは時間どおり約束の場所に行ってきた。おまえが葉巻に火をつけようとマッチをすったとき、おれはその顔がシカゴで手配されている男の顔だと気づいた。なんにせよ、おれはおれの手でおまえを捕らえるのが忍びなかった。だからおれはその場を去り、仕事を私服刑事に任せたのだ。ボブより。」

日本映画の巨匠・溝口健二には、「山椒大夫」や「雨月物語」という傑作があるが、二つの映画ともに「別れ」と時間を隔てた「再会」のドラマであるといっていい。
「山椒大夫」の方は、森鴎外の小説のタイトルでもあり、人買いに売られた姉弟と母親との再会のドラマで、「安寿と厨子王」の物語として巷間に良く知られているものである。
ところで、「大夫」という言葉は、荘園の管理人をサス言葉で、日本史で学ぶ「荘園」というものの実際を知りたいならば、コノ映画ほど適当な教材はないといっていよい。
一方、「雨月物語」の方は、男の野心と妻たちの犠牲、そして絶頂から奈落の底へと落ちてく人間模様と、最後の「再会」で味あう悲哀と悔悟の物語である。
ハッピーエンドではないが、人間の再生と更正を描くヒューマニズムあふれる作品となっている。
江戸時代に書かれた上田秋成の「雨月物語」の中の二話を合成して一つの話としてマトメタものである。
一つは悪霊にトリツカレた男の話、そしてもうひとつは男の野心と犠牲になった妻の話を非常にうまくミックスさせて、見事な脚本に仕上げている。
時は戦国時代、ある村に百姓をして生計をたてている夫婦がいた。
だが戦乱の世に乗じ、ヒトモウケをたくらむ「源十郎」は百姓仕事にあきたらず、焼き物をつくっては行商し、イクバクカの儲けを得ていた。
いっぽう同じ村の「藤兵衛」は侍に仕官することが夢であった。
だが妻たちは、ただ百姓をして平穏な生活を望むノミのであり、そのような夫たちの野望には反対であった。
ある日、源十郎は焼き物が思いもかけぬ高値で売れ、それを機に本格的なカマドを作り、隣村まで売りにいくことを決意する。
ちょうどソノコロ戦があり、落ち武者たちがナダレこんできた。
源十郎と藤兵衛夫婦は混乱のなか、出来上がった焼き物を舟にのせ対岸をめざすが、海賊に襲われることを考え、子供のいる源十郎の妻だけは村に残すこととした。
源十郎たちは無事目的地に着き、焼き物はトブように売れた。
大もうけをした二人だが、一方の藤兵衛は、侍を見るとヤモタテモたまらなくなり、儲けた金で具足を買い、仕官してしまう。
だが妻は夫を捜す間に、野武士に襲われれてしまうのであった。
一方の源十郎は焼き物を届に行った先で、元「御姫様」という女性に大いに誉められ、その上で一夜の契りを交わしてしまう。
そうして、その女主人の家で生活し、焼き物を作っては売りにいくという生活を始めてしまうのであった。
やがて時はすぎ、藤兵衛は戦の功績が認められ、子分を与えられ、出世した自分の姿を見せに村へ子分をひきつれ戻ろうとする。その途中子分たちを慰労しようと女郎部屋に立ち寄る。
そしてソコデ、妻と「再会」するのだが、その妻は遊女となってカワリハテタ姿となっていた。そして、藤兵衛は悔悟にサイナマれる。
さて、源十郎の方はといえば、行商の途中に坊さんに呼び止められ、「死霊」に憑かれていると言われる。
そして全身にオマジナイの文字を書かれ屋敷に戻る。
すると、その文字をみた「御姫様」とその召し使いは正体をあらわし、決して帰しはシマセンとせまる。
決死の思いでその屋敷をでた源十郎は、翌朝目を覚ますと、いままで屋敷だと思っていたところは戦乱で焼けたあとの「アバラ屋」であった。
そして、源十郎は何年ぶりかで妻のもとに帰郷する。
妻はやさしく源十郎を出迎えてくれ、源十郎も自分の過失を認め、これからは夫婦仲良く暮らそうと誓いつつ、眠りにつく。
しかし、翌朝起きた時、ソコニは妻の姿はなかった。
源十郎が発ったあと落ち武者がバダレコンデ来た時、妻は襲われスデニ落命していたのであった。
そして妻は、源十郎にタダ「再会」したい一心で、亡霊となり現れたのだと知って、藤兵衛同様に悔悟の涙にクレルのであった。
役者についていうと、源十郎の妻役である「田中絹代」の楚々とした姿と御姫様役の「京マチコ」の妖艶な姿の「対照」が印象的で、この2大女優の競演こそがコノ映画の魅力のヒトツともなっている。

辻仁成の小説「海峡の光」は、イジメッコとイジメラレッコのある皮肉な「再会」を描いている。
青森・函館間の連絡船・羊蹄丸の客室係だった主人公の青年は、青函トンネル開通と共に廃航になる羊蹄丸から「函館少年刑務所」の「刑務官」に転職した。
その「函館少年刑務所」に、18年前の小学五年生の時に同級になり、青年をイジメテいた花井修が、「傷害罪」で逮捕されて、青年が勤める「函館少年刑務所」に移送されてくる。
刑務官の青年は戸惑い、帽子を目深にかぶって、自分が同級生であったことが発覚することを恐れる。
元々不良達にイジメられていた主人公だったが、花井は主人公を助けるような風を装い、さらなる隠微なイジメを加えていたのだった。
花井はしかし1学期の夏休み前に転校することが決まり、クラスの人達と別れる際には主人公に対して、「君は君らしさを見つけて強くならなければ駄目だ」という偽善的な言葉を言い残して、船に乗って去っていった。
花井が刑務所で「何か」ヤラカスではないかと青年は疑心暗鬼にトリツカレルが、意外にも花井は殆ど模範的に刑務所生活を送る。
花井は航海実習には真面目に参加し、船舶教室の授業にもよく取り組んだが、ナゼカ2月の6級海技士の試験には落第してしまう。
花井ナリの「計算」があったのかもしれない。
翌年1月、年号が平成に変わり、新天皇による恩赦によって花井は「仮出獄」することになった。
主人公は、小学生の花井を口惜しい思いで見送った時のことを思い出し、雪の降る中、反射的に門の向こうへ行こうとする花井の肩を捕まえ、「お前はお前らしさを見つけて、強くならなければ駄目だ」と口走った。
主人公は勝ち誇った気持ちになったが、次の瞬間、「斎藤、偉そうにするな」の大声と共に、腹部に強烈な拳を喰らい、倒れる。
意識の遠のく最中、「俺はここにズットいたいのだ」と叫ぶ花井の声を青年は耳にする。
監視されるものとされるもの、自由なものと不自由なもの、ソレガすべて入れ替わったような物語で、函館というとドンヅマリの砂洲のマチで、「再会」が織り成した皮肉なドラマであった。

旧約聖書の創世記の「ヨセフ物語」も劇的な再会を描いている。
ヤコブは年老いて、ラケルとの間に生まれたヨセフを特別に愛して、彼にだけは長ソデの着物を作って着せていた。
兄弟たちはそんなヨセフをねたみ、彼とマトモに口をきこうとしなかった。
その上ヨセフは、兄の悪い噂を父に告げ口したために、兄弟たちはさらにヨセフを憎んだ。
ある時ヨセフは夢を見た。畑で束を結わえていると、ヨセフの束が起き上がって、兄たちの束がまわりに来て、ヨセフの束を拝んだという夢である。
こんな夢は、普通誰にもこんな夢を語らないのに、ヨセフはよほど世間知らずなのか、その夢を兄弟たちに語って聞かせた。
当然にソレは彼らを不快にさせ、彼らを怒らせた。
「おまえはわれわれの王になるというのか。実際われわれを治めるつもりか」と怒った。
またヨセフが「日と月と、11の星が、わたしを拝んだ」という夢を語ると、ヨセフを愛する父ヤコブも、さすが心が騒いだ。
しかし「それはどういう事か。ほんとうにわたしと、母と兄弟たちが行って、地に伏しておまえを拝むのか」と、ヤコブはヨセフをトガメた。
ある時、兄弟たちが原野で羊を飼っていたので、ヤコブは兄弟たちの様子を見にヨセフを行かせた。
兄弟たちはヨセフが来るのを見て、彼を殺す絶好のチャンスと思った。
「あの夢を見る者がやって来る。ヤツを殺して穴に投げ入れて、悪い獣に食われたことにしよう。彼の夢の果てがどうなるか見てみよう」
しかし、ヨセフの血を流すことには反対だった兄弟の一人が、「弟を殺しても何の益にもならない。それよりも彼をあの隊商に売ろう。ヨセフもわれわれの肉身だから、手を下すのはまずい」そこで兄弟たちはヨセフを、銀20シケルで奴隷商人に売った。
兄弟はヨセフがイナイことの言い訳に、ヨセフの着物にヤギの血を浸して父ヤコブに見せた。ヤコブは着ている衣服を裂き、腰に荒布をまとって号泣した。
さてヨセフは奴隷としてエジプトに売られ、パロの役人であった侍衛長が買い取った。主人は神がヨセフと共におられることを知り、彼をそば近くに仕えさせ、家の管理をすべて彼に任せた。
ところがヨセフは姿がよくてイケメンであったために、侍従長の妻はヨセフに目をつけ彼を誘惑する。
ヨセフは拒んだが、家に誰もいない時、彼女はヨセフの衣服をつかんで、「わたしと寝なさい」とヨセフに強く迫った。
ヨセフは着物を彼女の手に残したまま、裸で外へ逃れた。
すると、侍従長の妻は突然、大声で叫んで人を呼んだ。「あのしもべが、わたしに戯れようとしたのです」主人は妻の訴えを聞いて激しく怒り、ヨセフを捕らえさせ、獄屋に投じたため、ヨセフは獄中の身となった。
こうした事の後、エジプト王の給仕長と料理長が罪を犯して、ヨセフと同じ獄中の身となった。
給仕長と料理長はともに夢を見て、ヨセフはソノ夢を解き明かした。
給仕長の夢は三日目に釈放されるというお告げで、一方の料理長の夢は三日後に処刑されるという予告であり、二人は夢のとおりになった。
ヨセフは釈放される給仕長に、自分が無実であることをパロに話してくれるように頼んだが、彼は出獄するとその事をスッカリ忘れてしまった。
それから二年が過ぎ、パロは夢を見た。
ナイル川から肥えた七頭の牛があがってきて葦を食っており、それからやせ細った七頭の牛があがってきて、肥えた牛を食べてた。
パロはこの不思議な夢に心が騒いだが、どんな魔術師も解き明かすことができなかった。
この時、給仕長は獄中のヨセフを思い出し、ヨセフはパロに呼び出された。
ヨセフは、今後エジプト全土に七年の大豊作があり、その後に七年の飢饉が起こると解き明かした。
こうして七年の大豊作の時に、パロとその家来たちは食料を蓄えた。
ヨセフは王の信任を得て、やがてエジプトの「宰相」となったのである。
奴隷の身分から獄中生活へ、そこから解放されて「宰相」となったこの時、ヨセフは30歳になっていた。
ところで、7年の大飢饉はヨセフの家族が住むカナンの地にも及んだ。
ヤコブは子らに、エジプトに下って食料を買い求めてくるように命じた。
そこで十人の兄弟たちは一人の幼い兄弟を除いてエジプトに下り、エジプトの宰相に会い、地にひれ伏して彼を拝んだ。
もちろん彼らは、その宰相がヨセフなどとは、思い浮かべることサエできなかった。
それは二十年後の再会であり、あの「ヨセフが見た夢」はこの時現実となったのである。
しかし、ヨセフはソ知らぬ顔をして、彼らを荒々しく扱い、残してきた幼い兄弟と父ヤコブを連れてくるように命じた。
兄弟達は、異国で災難に遇ったのは、弟ヨセフに罪を犯した「報い」だと互いに言い合っているのを扉越しに聞いたヨセフは号泣した。
そして幼い兄弟をつれてエジプトに向かい、宰相のヨセフを拝んだ。
そして意外や宰相は、「あなた方の父は、その老人は無事か」とその安否を問い、食事の席に招いた。
ヨセフはついに自分を制しきれず、「わたしは弟のヨセフです。あなた方がエジプトに売ったヨセフです。しかし恐れることも、悔やむこともありません。神が命を救うために、先にわたしをエジプトにつかわされたのです。ききんはなお五年は続きます。帰って父に告げなさい。ためらわずにエジプトに下ってくださるように。わたしが家族も家畜も、すべてのものを養いましょう」
そしてヨセフは同じ母親をもつ幼い弟を抱きしめて泣き、他の兄弟たちとも抱きあって口づけをした。
兄弟たちは父のもとに帰り、すべての事情を話し、ヤコブは気を失うほど驚き、なお信じられず、わが子の数々の贈り物を見て、ヨウヤクそれを信じた。
「わが子ヨセフは生きている。何と幸せなことだろう。死ぬ前にわが子に会えるとは」
そしてヨセフは車を用意して、父ヤコブを出迎た。こうして父と子とソノ兄弟は「再会」を果たして抱きあった。
ヨセフは父と兄弟たちをエジプトで最も良い土地、ゴセンの地に住まわせた。イスラエルはその地で大いにふえ、財産を得たのである。
以上がが、「出エジプト」の前段となる「ヨセフ物語」である。
ところで、詩編105:16~18には、次のような記述がある。
//主はこの地に飢饉を呼び
パンの備えをことごとく絶やされたが
あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。
奴隷として売られたヨセフ。
主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ
首に鉄の枷をはめることを許された
主の仰せが彼を火で練り清め
御言葉が実現するときまで//