でくのぼー

ある本に、「美徳とは自分の為になることの中で他人の為にもなること」とあった。
皮肉ッポイ言葉だが、確かに自分でヤッテ気分がイイことではないと、ソウソウ他人の為には動けない。
逆に、自分が楽しめてカツ人にも喜んでもらえることなら、ソレヲ貫きとうせばトテモ貴重なものを生み出せるかもしれない。
岐阜県出身の一人の男が、車掌になった。
車掌は昇進が早いからという理由だったらしいが、周りの同僚にオマエはイイ男だから「俳優」になってみないかといわれて、整形手術までして映画会社を受けてみた。
けれども全ての映画会社を落ちてしまう。
恥ずかしいやら憎らしいやらで、車掌の仕事にも「喜び」も見出せず、身が入らなくなった。
ところが或る時、ダム建設で川底に沈む村で、たまたま桜の移植を記録する写真撮影を頼まれた。
そして、移植に成功した桜に涙を流す人々の姿を目撃して、自分の乗車するバス道りを「さくら道」にしようと思いはじめた。
休日に、給料をハタイテ桜の木を植え始めた。
家族にしてみればサホド「有難い」話とはいえまい。それだけにコレヲ「美談」とよぶには、少々抵抗を感じるところである。
バスの車掌の話ならば、長崎にモット「美談」らしきものが伝わっている。ソレはモウヒトツの「塩狩峠」とでもいえる話である。
長崎のグラバー亭から15分ほど、長崎市郊外の時津町に、「打坂」というバス停がある。
1949年、長崎自動車の当時木炭バスが37名程の乗客を乗せて、打坂を登っていった。
乗客は殆どが原爆症の治療の行く老人と子供達であったが、坂の途中で突然にエンジンが停止して、動かなくナッテしまった。
運転手がブレーキを踏んで、エンジンを入れ直そうとしたところ、ブレーキは利かず、補助ブレーキも働かず、バスが後ろ向きに暴走し始めた。
当時はガードレールなどがなく、崖から落ちれば全員が即死する可能性が高かった。
運転手は、当時21歳の車掌・鬼塚道男氏に「すぐ飛び降りて、棒でも石でもなんでもいいから車止めに放り込んでくれ」と叫んだ。
鬼塚氏が飛び降りて、道の近くに落ちていたものを投げ込んだものの、加速がついたバスは止まる気配を見せなかった。
しかし、断崖絶壁まで4~5メートルのところでバスが「奇跡的」に止まった。
運転手は乗客を誘導して近くの草むらに連れて行って、放心状態の乗客達を座らせた。
全員がそろった時に、運転手が気づいたのは、車掌の鬼塚氏がまだ戻っていないということであった。
運転手はバスに向かい、車掌が丸太を抱いたような形で、バスの後車輪に飛び込んでいるのを発見した。
乗客は皆でバスを押し鬼塚氏を引きずり出したが、その時スデニ鬼塚氏は内臓破裂で亡くなっていたという。
戦後まもない1947年に起きたこの出来事は、誰にも語られることもなく忘れ去られていた。
しかし長崎バスの社長がこの時の新聞記事を見つけて、1973年、この事故があた「打坂」に地蔵を建てたのである。
さて冒頭に紹介したのは、金沢と名古屋を結ぶ156号線の長距離バスに、桜の木を植え続けた車掌・佐藤良二氏のことである。
佐藤氏の生涯は、「さくら道」(風媒社)という本で知ることができる。
現在の国道156号線沿い御母衣(みぼろ)湖畔に移植された巨大な桜の老木があった。
ダムの底に村が沈んで、バラバラになっていた村人たちが桜の木の下に集まり「再会」を喜びあった。
そして一人の老婆が、「移植しても枯れる」と言われていた荘川桜が見事な花を咲かせるようになったことに、感極まって泣いていたのだった。
桜の花にこれほど人の心を動かす力があることを目撃した佐藤氏は、「太平洋と日本海を桜でつなごう」と思い立った。
そして名古屋と金沢を結ぶバス路線伝いを中心に、12年間で2000本の桜を植え続けた。
1977年に47歳で病の為に亡くなっている。
「さくら道」を読んで最も印象的なことは、佐藤氏が絶え間なく桜の木を植え続けたことではナク、ソノことによって起きた佐藤氏の「心の奇跡」なのだ。
俳優の試験を落ちて車掌の仕事を続けている時の気持ちを、佐藤氏は次のように語っている。
「こんなめめしい職業がその頃はいやでいやでしかたなかった。乗り込んだ老婆が、発車でよろめいて私にすがりつこうとすると、私ははらのけたいほど気持ち悪く、いやな気がした。10円切符を買う人のに千円札を出す人には、誰かに借りて出せといった。10円玉があっても1円玉ばかりを寄せ集めて出す人などは、ビンタをはってやりたいほどだった。バスがゆれていようが、網棚から物が落ちようが、車内の老人にも私はいっさいしゃべりたくなく、ただただ美人はいないか、自分のネクタイが歪んでいないか、だけを気にしていた。」
ところが、桜を植えることは、車掌としての仕事に「ハリ」と「喜び」を与えていった。
何しろソノ「さくら道」をバスが走るからである。
そして次のような心境に変化していく。
「こんなに世の中が楽しくていいだろうか。花のつぼみもふくらみだした。東西南北どちらに行っても、最近は面白い。あんまり楽しいので不気味だ。オレは車掌で死ぬ男。日本一の車掌になってやろう。」
「俺のシャツはだぶだぶだ。このシャツの中から、まだ一着はつくれそうだ。みんなのように、りんりん、つんつんしていない。車掌とは人間が和んでゆく温かいこまかな感情を客にむかって思いださせてくれる人でなくてはならぬ。」
車掌としての佐藤氏は以前とは別人のように客に接するようになり、みんなに愛される「名物車掌」となっていく。
そうして、「バスの雰囲気は車掌できまる」ナンテことまで言ってのけるようになる。
顔をつくり、顔を飾ることで「スター路線」を目指した佐藤氏の心が、ようやく「バス路線」に移植されて周りを華やいだものにしていった感がある。
佐藤良二氏の功績はNHKのローカル番組で紹介され、篠田一郎・田中好子出演で「さくら」として映画化され、2009年には「さくら道」のタイトルでテレビドラマ化された。

佐藤良二氏の話は、フランスの絵本作家が書いた「木を植える男」の話を思い出させる。
実は佐藤氏の話も、「木を植える男」の話同様に学校の教科書に載ったことがあるらしい。
プロヴァンスの荒れ地に毎日100個ずつ木の種を植え、森をよみがえらせた老羊飼いの話である。
1913年のこと、フランスのプロヴァンス地方の山深い地域を訪れたジャン・ジオノは、その荒れはてた地で羊飼いの仕事をする一人のブフィエという男に出会った。
ジャン・ジオノがブフィエの後をついていくと、ブフィエは持っていた鉄棒を地面に突き立て、できた穴の中に丹念により分けたどんぐりを1つ1つ埋め込んで、丁寧に土をかぶせた。
彼はカシワの木を植えていたのだった。
その様子を見ていたジャン・ジオノが色々質問すると、ブフィエは3年前からこの荒れ地に木を植え続けているという。
ブフィエはその時55歳で、かつては農場を持ち、家族と暮らしていたが、息子を亡くし次いで妻をも亡くしてしていた。
世間から離れ、こうして不毛の地に生命の種を植えつけることに、まるで自分の「役割」であるかのように働いていた。
翌年、第一次世界大戦が勃発し、ジャン・ジオノはそれからの5年間は戦場ですごす。
当然、ブフィエのことも、彼が植えた木のことも忘れ去った。
しかし、戦争から戻ったジャン・ジオノは、無性に新鮮な空気が吸いたくなり、かつての荒れはてた地に向かった。
そこで彼が目にしたのは、ブフィエが植えた1万本のカシワの木の素晴らしく成長した姿であった。
ブフィエが植えたカシワの木は10歳となり、ジャン・ジオノの背丈を超える大きさになっていたのだ。
そしてブフィエは、幸いにも生存していた。
やがて第二次世界大戦が始まったが、ブフィエはそんな中でも黙々と木を植え続けた。
そして、ジャン・ジオノがブフィエと再々会した時、彼はもう87歳になっていた。
カバの木立も、そして小川のせせらぎさえも創り出していた。
森がしげると雨が地中にたまり、やがて川となり、人々が住み着くようになる。
たった一人の地道な努力でも何十年続けることで、自然が変わり、町までができてしまう。
そんな町の人々も、ブフィエという人物を知ることはないだろう。
しかし、かつて荒廃していたムラの状況とは一変して、甘い香りのそよ風がやわらかく包んでいるかのようであった。
1947年、ブフィエは養老院で安らかにその生涯を閉じた。
この「実話」を織り込んだと思われる物語は、秋篠宮殿下ご成婚の時、妃殿下の愛読書として有名になった。
またこの物語の背景を知るために、日本の作家が現地を訪れるほどに、心を揺り動かしたものである。
資生堂の福原義春元会長は、この本にいたく感動して、自費で「社員全員」に配ったという。

さて「木を植えた男」といえば、NHKの「プロジェクトX」に紹介された一人の日本人がいる。
中国にはゴビ砂漠があるが、その周囲では「砂漠化」の進行に見舞われていた。
つまり毎年東京都分の面積が砂漠化し、百万人の人々が土地を追われる過酷な地域なのである。
日中国交正常化後の1972年、一人の日本人がその砂漠に木を植えようと決意する。
その人は鳥取大教授を退官した遠山正瑛(せいえい)という人物で、そのとき65歳だった。
遠山氏は鳥取砂丘の「農地化」を計画し、日本で初めて砂漠にスプリンクラーを導入、鳥取砂丘の「農地化」に成功した人であった。
そして定年後の人生をドウ生きようかと考え、カツテ研究目的で訪れたことのある中国の砂漠に木を植えようと決意したのである。
内蒙古自治区のエンゴペイ砂漠で緑化に取り組み始め、毎年8~9カ月の滞在期間には、毎日10時間近くにも及ぶ作業を14年続けた。
夏の気温は40度に達し、冬はなんと零下20度になったのだが、遠山氏はボランティアらと一緒に木を1本1本植えていった。
遠山氏が高齢であったことを考慮すれば、並々ならぬことなのだ。
彼がゴビ砂漠に木を植えることを思い立ってから7年後のこと、日本からボランティアを募集し、数十人が現地へ飛び立った。
その中には、武村正義元度大蔵相もいたという。
そしてゴビ砂漠にポプラの木を植え始めた。
何もない砂だけの砂漠に穴を掘り、苗木を植えていく。苗木が枯れたり、羊に食べられたりもする。
現地の人からはバカな行動だとして理解されないが、遠山氏他の日本人ボランティアはひたすらポプラを植え続けた。
そして遠山氏の意思は次第に広まり、家族を含めた数万人の日本人が内蒙古のエンゴペイ砂漠来て、「緑化活動」に参加した。
そこには多くに木が植えられ、約2万ヘクタールの「砂丘の移動」が食い止められたのである。
そしてこの地域は緑に囲まれ、2001年植林は目標の300万本に到達し、かつての砂漠地帯は、根付いて成長したポプラの森が広がる緑地となった。
さらにポプラの森の中では畑がつくられ、農業が始まっている。
住民も300人以上になった頃、遠山氏は国連から「人類に対する思いやり市民賞」を授与された。
300万本目の植樹式には中国総主席紅沢民氏も来たという。

宮本賢治の童話の中で、セロ弾きのゴーシュはセロが上手ではない、むしろ下手だ。もくもくと練習し最後は見事に輝く。
よだかは醜い、名を捨てなければ殺すと言われる。死を間近にして初めて自分も殺生をしていたことに気づく。
すべてから解放され救われることを願い星となり輝く。
さてもう一人、虔十(けんじゅう)は、可笑しくもないのに笑ってばかりいる「知恵足らず」の少年である。
当然にして、周囲から馬鹿にされている。
雪の残る早春に、虔十は家の裏手に杉苗を700本を植えることを思いついた。
最初兄から土が合わないと反対されるが、父が虔十の初めてのワガママであることに気づいて、ヤラセテてみようということになる。
しかし虔十が木を植えているウワサは広まり、近所よりサラニ冷笑されるハメになる。
サラニ不運なことに、木は5年まで普通に育ったものの、8年経っても3メートルに届かず成長が止まったママである。
百姓の冗談を真に受けた虔十は下枝を刈って、「盆栽」のような林になってしまう。
兄はそれを見て笑ったものの、「良い薪」が出来たと虔十を慰める。
しかし、翌日からそこは子供達の「恰好の」遊び場になり、虔十はそれを見て満足する。
その虔十も、病気で亡くなってしまう。
それから20年の間に街は急速に発展し、昔の面影はどこにもナクナル。
ある日この村を出てアメリカの教授になって帰って来た博士が、虔十の林だけがソノママ残っているのを発見して、子供心に馬鹿にしていた虔十の事を思い出す。
そしてこの背の低い虔十の林のおかげで「遊び場」が提供されていた事や、今の自分があることを悟り、森や林の重要性に初めて気がつく。
博士は「ああ、全くだれが賢くだれが賢くないかはわからない」と言って、校長にこの林を「虔十公園林」と命名し子供たちのために永久に保存することを提案する。
その話が広く伝わり、碑が立つと、かつて虔十の林で遊んで立派になった大人達から多くの手紙や寄付が学校に集まった。
虔十の遺された身内はそのことに本当に喜び泣いた。
ところで「けんじゅう」という名前と賢治自身の名前とも響きが似ている。
あの有名な詩「雨にもまけず、風のも負けず」の中に「ミナニ、デクノボー トヨバレ」、「サウイフモノニワタシハナリタイ」という言葉があった。
そういえば、「でくのぼー」はアメリカの「ライ麦畑」にもイタような気がする。
アメリカの作家・サリンジャーが「ライ麦畑で捕まえて」で描いた主人公ホールデンは、最後に次のように語っている。
「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕があぶない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてやることなんだ。一日じゅう、それだけやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げていることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ」
崖から転がり落ちそうになった子どもたちを救いたいとホールデンは言う。
彼自身が崖から転がり落ちそうになっているにもかかわらずである。