亡命者と追放者

ある一つの「突発的」な事件が、一挙にモロモロのことがらを明らかにする。
1976年9月のソ連ミグ戦闘機の日本侵入”直後”の「緊迫した」雰囲気は、北朝鮮の「人工衛星」打ち上げ”直前”のソレと 少し似ていたように思う。
このたびの北朝鮮「打ち上げ失敗」情報は、原発事故に続いて日本の「情報伝達」の弱さをマタシテモ露呈したが、ミグ戦闘機「強行着陸」も、日本社会の当時の「機能不全」を明らかにした出来事だった。
ソ連防空軍所属のミグ25戦闘機数機が、ソ連極東のウラジオストク近くにあるチェグエフカ空軍基地から「訓練目的」で離陸した。
そのうちの「一機」が演習空域に向かう途中、突如コースを外れた。
これを日本のレーダーが13時10分頃にトラエ、「領空侵犯」の恐れがありとして、急遽航空自衛隊千歳基地のF4EJ機が「スクランブル」発進した。
北海道の函館空港に接近し、市街上空を3度旋回したあと13時50分頃に滑走路に「強行着陸」した。
パイロットは「抵抗の意思」のないことを明らかにするため、空にむけて空砲を一発うった。
そして警察が到着すると共に函館空港周辺は、北海道警察によって「完全封鎖」された。
北海道警察の取り調によれば、ミグ25戦闘機にのっていたのは、ヴィクトル・ベレンコ空軍中尉で、この時、残りの燃料はほとんどナクナッテいた。
べレンコ中尉はアメリカへの亡命を希望していることを語り、その後、希望通りアメリカに亡命した。
ベレンコの亡命理由については諸説挙げられているが、本当の理由は「待遇の悪さと、それに伴う妻との不和による衝動的なもの」という説が有力である。
ところで、このミグ戦闘機侵入という「突発事態」は、日本という国がもつ様々な問題を浮き彫りにした。
その第一の問題はイウマデもなく、日本の「防空網」の脆弱さである。
航空自衛隊は地上のレーダーと空中のF4EJ機の双方で日本へ向かってくるミグ25機を捜索した。
しかし、地上のレーダーサイトのレーダーはミグ25機が低空飛行に移ると「探知」することができず、またF4EJ機のレーダーは「ルックダウン能力」つまり「上空から低空目標を探す能力」が低いことが判明した。
そのため、ミグ25戦闘機は航空自衛隊から「発見されない」まま、ヤスヤスと侵入できたのである。
この事件ではパイロットが「亡命目的」での侵入であったことが幸いしたが、「攻撃目的」であったらならば重大な事態を引きおこす危険性が露呈したのだ。
このため、日本のレーダー網や防衛能力が「必要最低限」にスラ達していないという批判がなされた。
この事件を契機に、それまでは予算が認められなかった「早期警戒機」E2C機の購入がなされている。
第二の問題は、日本の自衛隊と警察の間で「管轄権」のチガイによる「縦割り行政」のイキスギが明らかなった。
ミグ戦闘機の侵入事件の際には、「領空侵犯」は軍事に関わる事項であるが、空港に着陸した場合は「警察の管轄」に移行することになっている。
警察によって「封鎖」された空港現場から、その「管轄権」をタテに陸上自衛隊員はシメダサレタのであった。
しかし、「非常事態」にソンナ「管轄権」ドウノコウノいっている場合か、「協力体制」の構築の方が必要ではないのか。
第三の問題は、「情報」または「風評」への対応である。
ミグ25戦闘機が函館空港に「強行着陸」した直後、ソ連軍が特殊部隊などを使って機体を「取り返し」に来るとか、機密保全のため「破壊し」に来るとかいうウワサや憶測が広がった。
コノ当時、米ソは「デタントの時代」であったが、「予断」を許す状況にはなく、函館周辺は緊迫した。
実際に、函館駐屯地で開催予定だった「駐屯地祭り」の展示用として用意されていた61式戦車、高射機関砲が基地内に搬入され、「ソ連軍来襲時」には、戦車を先頭に完全武装の陸上自衛隊員200人が函館空港に突入、「防衛戦闘」を行う準備がなされていた。
海上自衛隊は三隻を日本海側、二隻を太平洋側に配置して警戒に当たり、掃海艇は函館港一帯の警戒し、魚雷艇は函館空港付近の警備に当たった。
同時にヘリコプターが常時津軽海峡上空で警戒飛行に当たり、上空にはF4EJ機が24時間体制で「哨戒飛行」を実施した。
第四の問題は、ソビエトからの「機体返還要求」に対する対応がある。
ソビエト連邦からは機体の「即時返還要求」があったが、当時「親ソ連」の最大野党であった日本社会党はコレに「同調」したが、日本(と同盟国のアメリカ)は、国際「慣例上」認められているとされる「機体検査」のためにミグ25を「分解」することにした。
そのために、アメリカ空軍大型輸送機にミグ戦闘機を搭載して百里基地(茨城県)に移送した。
機体には「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」と書かれた横断幕が掲げてあった。
機体検査の後、11月15日にソ連に返還された。
第五に、この事件の「情報隠し」ラシキことがあり、役所の「隠蔽体質」を明らかにしたことである。
事件終結後、日本政府は対処に当たった陸上自衛隊に対して、同事件に関する記録を全て破棄するよう指示した。
これに対し、当時の陸上幕僚長三好秀男は自らの辞意をモッテ抗議したという。
ミグ25戦闘機侵入事件では、日本国内バカリではなくソ連国内においても、様々な「波紋」を投げかけている。
当事件の調査のためチュグエフカ空軍基地を訪れた委員会は、現地の「生活条件」の劣悪さに驚愕し、直ちに五階階建ての官舎、学校、幼稚園などを建設することが決定された。
この事件は、極東地域を始めとする国境部の空軍基地に駐屯しているパイロットの「待遇改善」の契機ともなったのである。
さて、このたびの北朝鮮の「人工衛星」の打ち上げ失敗は、ソノ技術レベルの「旧式」ブリを明らかにしたが、ちょうど同じことが当時のミグ戦闘機にもアテハマル。
アメリカは、これまでミグ25戦闘機を「超高速戦闘機」として恐れており、それを意識する形もあってかF15機を開発していた。
しかし、実際にはミグ25はソレホドの「脅威」とするに値するモノではないことが明らかになった。
特に機体が耐熱用のチタニウム合金製と考えられていたが実はステンレス鋼板にすぎなかったことや、旧式の電子機器を多用しており、当時の水準としては著しく「時代遅れ」なことに、驚愕したくらいであった。
というわけで「ベレンコ旋風」は、アメリカの「対ソ連軍事戦略」にも大きな影響を及ぼしたのである。

日本のミグ戦闘機進入事件とアメリカの「赤狩り」は、あまりにカケハナレてはいるが、「東西冷戦」を背景におこったイワバ「旋風」のヨウナものであった点で共通している。
「自由の国」を標榜するアメリカが、その「魂ごと」抜き取られるかのごとき出来事が起こった。
いわゆる「マッカーシー旋風」であるが、その嵐の中でラブ・ストーリーは突然に生まれた。
タチの悪いマッカーシー・ウイルス蔓延の中で、「ローマの休日」が誕生したのである。
ところで、1947年のトルーマン・ドクトリン言い換えると「共産主義封じ込め政策」で東西冷戦の時代をむかえることになった。
1949年、ソ連が核実験に成功しアメリカの「軍事的優位」が脅かされた。そしてアメリカの上院議員であるマッカーシーの政府内にソビエトと通じた「共産党員」がイルという根も葉もない発言を元に、いわゆる「赤狩り」が行われた。
ヨーロッパにも昔、「魔女狩り」という暗黒時代があったが、自由と民主主義を標榜したアメリカで、それが突然に蘇ったような事態が生じていった。
これが現代の「魔女狩り」と言われた所以は、「思想調査」の公聴会に出席した際に、共産主義者ではナイというだけでなく、「仲間の名前」を言わなければ、なかなか「身の潔白」を証明することができなかったからだ。
「共産主義者」の友達がいるだろうといわれ、仲間を裏切り、密告、偽証する者さえ現れた。
そして「マッカーシー旋風」の最初のターゲットとなったのが、「ハリウッドの映画界」であった。
あのウォルト・ディズニーでさえも「自由の国アメリカから共産主義をあぶり出すべきだ」と先頭をきった。
共産主義者のブラックリスト「ハリウッド・テン」が作られ、そして300人以上の映画人が追放された。
その中に、後に「ローマの休日」の脚本を書いたダルトン・トランボがいた。
トランボは、1940年代初期「反フアシズム」で米・英・ソが「共同戦線」(人民戦線)をハッテいた時期に、アメリカ共産党に入党している。
1947年9月トランボは非米活動委員会に召喚され、翌月に非米活動委員会「公聴会」が開始された。
いわゆる「思想調査」がはじまったのである。
(委員会尋問)あなたは共産党員ですか。かつて共産党員だったことがありますか。
(トランボ)あなたはいかなる理由でその質問をしているのですか。
(委員会尋問)質問するのはあなたではない。あなたは共産党員だったことがありますか。
(トランボ)私は質問の根拠を知る権利がある。あなたはいかなる権利を持っているのか。
皆、共産主義者でないという「身の証」を立てねばならず、自分が助かりたいばかりに罪のない人の名を告げてしまう。
密告を恐れて、古くからの友人同士が口もキカナクなったりする。
そんな風潮の中、トランボたちは「証言しない」ことで「赤狩り」に抵抗した。そして、長い「悪夢」が続いているようなものだったと振り返っている。
1950年6月、アメリカ最高裁はトランボに実刑判決を下し、トランボは10ヶ月間投獄された。
しかし、トランボは投獄が決まってからも、「架空の名前」で脚本を執筆し続けた。
嵐が吹き荒れる中で、トランボが書きあげたのが「ローマの休日」であった。
トランボの経歴を書くと、1905年コロラド州の靴屋の息子として生れ、南カリフォルニア大学でジャーナリズム作家をめざした。
1935年(30歳)アシスタント・ライターとして映画界に入った。
34歳の時に、「ジョニーは銃を取った」を出版した。 1971年にトランボ唯一の監督作品「ジョニーは戦場へ行った」は、この本を土台にしている。
高校時代に「ジョニーは戦場に行った」を見たことがある。
戦争ですべての四肢を失った兵士を描いたスサマジイ映画だったけれど、この映画の監督が「ローマの休日」の脚本を書いたナド、イマダ信じがたいものがある。
トランボは1979年9月10日亡くなっている。
ところでトランボは、「ローマの休日」で親友の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名前を借りている。
このことはハンターにとっても危険な事であった。
それがトランボの脚本だとわかれば、二人の関係が疑われハンターも職を失いかねなかったからだ。
ウイリアム・ワイラー監督は「ローマの休日」の製作で、映画会社に譲歩して予算の関係ではモノクロになったが、ローマ行きにはこだわった。
ハリウッドが行き詰まっていた時に、ローマが自由な映画活動ができる所だったからだ。
ローマでなら、内容についてら注文がついても、「知らなかった」でスマサレルし、ワイラーの意のままに撮影できたのである。
アメリカではなくローマだから、「赤狩り」で追われた人間とも仕事ができるし、自由に新人俳優も入れて、オールロケーションで映画を撮れる。
ワイラーは信頼できる人物だけをローマに連れて行き、1952年夏 ローマで撮影が開始された。
脚本担当のトランボは、刑務所に投獄される状況の中で、お金を作る必要もあっただろうが、誰よりも優れた映画を作って人々を感動させることコソが、自分を追放しようとする者に対するプロテストではなかったのだろうか。
ところで、「ローマの休日」の配役は、当初ケーリー・グラントとエリザベス・テイラーがあがっていた。
しかし、監督のワイラーは、グレゴリー・ペックとジョ-・ブラッドレー(新聞記者役)に起用した。
そして「アン王女」役では、オーディションでオードリー・ヘップバーンを発掘した。
ちなみに、グレゴリー・ペッグは、赤狩り反対の抗議団体にいち早く参加した俳優であった。
、 オードリー・ヘップバーンは1925年5月4日ベルギーで生れだが、オランダのファシズム政権下で秘密裏にレジスタンスを支援した少女であった。
「ローマの休日」はヨクヨク考えると、主人公が二人とも「ウソ」をつきあっている。
ワイラー監督は、トランボの脚本にはなかった嘘つきが手を入れると手を失うという伝説がある「真実の口」のシーンをとりいれた。
しかしそのシーンは、意図しない二人のアドリブだったという。
となると、「真実の口」の微笑ましいシーンは、「赤狩りの舞台」となった公聴会がマルデ「踏み絵」の場と化していたことと、ドコカで関連しているのかもしれないと思えてくる。
ワイラーは、フランスのアルザス生まれのユダヤ系・アメリカ人である。
ワイラー55歳の時、ユダヤ人のパレスティナ帰還を映画「栄光の脱出」の中に描いた。
マッカーシー旋風すなわち「赤狩り」に、「ユダヤ人狩り」の側面がなかったとはイイキレナイ。
米ソのユダヤ人同士がウラで繋がっているという見方もあっても、ケシテ不思議ではないのだ。
ウィリアム・ワイラー自身は共産主義とは距離を置いていたが、当時の有名監督やスターたちと抗議団体を設立して「赤狩り」に反対し、ブラックリストにあがった「ハリウッド・テン」をマッサキに応援した一人であった。
そしてラジオで、非米活動委員会の「赤狩り」こそが非アメリカ的であり、「恐怖は検閲をもたらす。検閲はスクリーンを麻痺させる」とよびかけた。
しかし、それは現実の前に失望し挫折したが、映画監督として「赤狩り」と闘う「別の方法」を探したのである。
そしてワイラーは、ハリウッドから追放された人達とともに仕事をすることを望み、それが「ローマの休日」として結実したのである。
このようにみてくると、「ローマの休日」のラスト・シーンは、「何か」違ったメッセージが込められているようにも思えてくる。
ローマを去る最後の日の記者会見で、写真を見せられたアン王女はここで初めてジョー・ブラッドレー(新聞記者)が「スクープ記事」をネラッテいた事を知る。
しかし、二人は信頼を確かめ合う言葉を密かに交わす。
(アン王女)「永遠を信じます」
「人と人の間の友情を信じるように」
(ジョー)「王女のご信念が裏切られぬ事を信じます」
(アン王女)「それで安心しました」
このラストシーンの言葉は、この映画を作った者たちの互いの「約束」の言葉のようにも聞こえてくる。
1954年の「ローマの休日」公開の翌年マッカーシーは失脚し、「赤狩り」の嵐も収まっていった。
1993年、ダルトン・トランボはスデに他界していたが、「映画公開40周年」を記念して、アカデミー選考委員会によりトランボにオリジナル・ストーリー賞が授与された。
その授賞式では、トランボ婦人が亡き夫に代わってオスカーを手にした。
なお、2003年、映画公開50周年を記念して、ついに「ローマの休日」にトランボの名前がスクリーン上に流れた。
東西冷戦を背景に、アメリカに亡命するベレンコ中尉、イタリアに仕事の拠点を移すトランボ、亡命者と追放者それぞれのストーリーは突然の旋風のように生まれた。