武装解除

様々な交渉で、「理」に優っているからといって相手を納得させるとはカギラズ、むしろ「逆効果」の場合が多い。
例えば親からすれば、子供から「理詰め」で責められるくらい腹立たしいことはない。
そこには「育ててやったんだ」という「固有」の感情のモツレというものがある。
「竹島問題」のように、どんなに過去のデータや経緯で「日本固有」の領土を主張しようと、韓国のように竹島を修学旅行に組み込んだり、学校に「独島部」という部活動マデがあるヤル気のある国を、及び腰気味の国がソウ易々と納得させられるものではない。
それどころか、韓国には戦時中の「日帝支配」の記憶があり、ドンナ反論でも用意してくるだろう。
ところで世の中には「交渉術」というものがあり、学問化もされているという。
日常レベルで子供に掃除させるのに、相手が拒否するを見越してトイレ磨いてと頼んでおいて、イヤだといったら「セメテ庭を掃いておいて」、というぐらいの「交渉術」はあってイイ。
さて学問化された「交渉術」に、「ハーバード流交渉術」というのがあって、その中に互いの「利害」の中身をよく調べるというものがある。
「価格交渉」や「賃金交渉」などの場合でも、利害は一点ダケにみえるが、広い観点から「利害」を捉え直すことによって「妥協点」を見出すこともできる。
利害に着目することによって、「領有権」という国際間の対立を解消させることに成功したケースもある。
アラビア半島とアフリカの間、紅海の北にシナイ半島という三角形の半島がある。
ここの「領有権」をめぐってイスラエルとエジプトとの間で紛争がおきた。
コトの発端は、エジプトによる攻撃を恐れたイスラエルが国防上重要な拠点であるシナイ半島を攻撃し1969年以降占領したことに始まる。
エジプトはファラオの時代からシナイ半島を領土としていたことから強く反発し、両国は長年紛争状態(第三次中東戦争)。
石油ショックの関係もあり、中東情勢の安定は世界的課題でもあった。
そこで当時のアメリカ大統領ジミー・カーターは、イスラエル、エジプト双方の「利害」に着目した「調停」に乗り出した。
イスラエル・エジプトともにシナイ半島は「固有の領土」と主張している点で共通であったが、前者の利害は「エルサレム防衛」であり、後者の利害は「プライドの満足」と、中身が異なっていた。
調停の結果、シナイ半島の「領有権」はエジプトに返還されたが、シナイ半島を「非武装地帯」とする合意が結ばれた。
イスラエルは攻撃される不安を解消でき、エジプトは領土を奪還でき、お互いに満足の結果を得ることができた。
つまり「調停」によって、「Win-Win」の結果を導きだすことができたのである。
このように国の存亡にかかわるようなキワメテ大きな課題でさえも、「利害」に着目することで「合意」への一歩を踏み出すことができたのである。

1週間ほど前におきた、報道カメラマンの山本美香さんの不慮の死で、「戦場で働く」何人かの人々のことが頭をよぎった。
もちろん、直接知っているのではなく、テレビの番組で知った人々である。
山本さんが卒業した都留文科大学は、地方の公立教員養成大学で、卒業生の多くが教職の道に進むという。
マスコミに就職する卒業生は少なく、ましてやフリーのジャーナリストなど皆無だったが、卒業生の中では、今売れてるジャーナリストといえる上杉隆さんがいることはいる。
山本さんは、学閥の残るマスコミの世界では、孤軍奮闘といってもよい存在だった。
山本さんは「自分は何もできない。記事も書けないし、頭が良くないから単にビデオを持って現場に行くだけ」と語る人だった。
上杉氏との会話の中で山本さんは「私なんかに一時間の生放送なんてとても、とても。イラクやアフガニスタンならばもっと詳しいジャーナリストがいるから、そちらにお願い」などと控えめだった。
しかし、聡明な文章を書く人だったという。
戦場に出た時の研ぎ澄まされた緊張感は、経験した者しか知りえない。
冷静で静かに戦地に向かう山本さんだが、やはり「恐怖」と戦っていた。
「少し休めって、きっとそういう天の声なのよ。そうした予感ってあると思う。戦地ではいつも慎重に慎重を期して行動しているけど、絶対の保障はないから。覚悟はするけどやはり誰だって死にたくないから、私もいつもおまじないして暗示をかけている」と。
しかし、シリアの内戦状態はそうした経験を積んだものが「落とし穴」に落ちるくらいに迷路にいりこんシマッテでいた。
報道をとうして内情を知ってもらいたいのではなく、報道で知られたくない部分が大きくなっているのだ。
ココまで来ると報道カメラマンや新聞記者もネラワレル。
もうひとり頭をヨギッタのは、テレビで知った戦場カメラマンでの鴨志田穣氏である。
世界の紛争地帯を取材し続け、目の前で人が死んで行く様、自分にも向けられる銃口、必死に銃を持つ子供たちなど、数えきれない現実の場面を目の当たりにした。
極限のストレスから重度のアルコール依存症となる。
アルコール断ちのため仏門に入り僧侶となったこともあった。
もっともミャンマーの場合、ビザが取得しやすくなるとの理由もあった。
1996年、タイを取材中の漫画家・西原理恵子さんと出会った。
同年9月、西原さんと勝谷誠彦のアマゾン川取材企画にビデオカメラマンとして同行し、過酷なジャングルロケを敢行した。
西原さんによれば、鴨志田氏ほど自分を笑わせてくれた人はソレマデいなかったそうだ。
取材後、帰りの飛行機の中で西原さんにプロポーズし、9年ぶりに日本に帰国し、西原さんと結婚し、一男一女をもうけた。
日頃は心優しい鴨志田氏だったが、アルコール中毒であったために、家庭内での暴力がエスカレートすることがしばしばあった。
鴨志田氏はテレビの番組で、戦場に生きる人々の表情がとても好きだといった。
家族を失っても、残された者のために夕食の用意をする母親の姿、廃墟の街でなんとか寝場所をつくって再び生活を始める人々の姿が印象的だった。
爆撃音の中、水遊びに興じる子供達の表情なども忘れない。
アル中を克服され、再婚(事実婚)しているが、2007年3月腎臓癌のため42歳で亡くなっている。
戦場は死と隣り合わせであるがゆえ、明日すべてが「無」に帰してしまうかもしれない場所である。
だからこそ、人々の生活のヒトコマ・ヒトコマに見せる「人の表情」が愛おしく感じられるのかもしれない。
戦場ほど「熱い」ところはないが、戦場ほど「無」に近い場所はない。
人間は何とか色彩が保てるように、何事かに「励んだり」、誰かを「愛したり」しているのかもしれない。
つまり人生とは「無」の世界を下地に生きている影絵のようなもので、戦場とはソノコトを思い起こさせてくれる場所といえるかもしれない。

山本美香さんの死でモウ一人思い浮かべたのが瀬谷ルミ子さんである。
瀬谷さんは、ジャーナリストではないが山本さんと年齢も「ルックス」でも似かよったところがあった。
何よりも「戦場」を仕事場としている点で共通している。
瀬谷ルミ子さんの仕事は、戦場カメラマンではなく戦場における「交渉人」である。
「交渉人」といえば、体をはって「人質解放」のためにテロリストと戦うイメージがあるが、これは映画の見スギかもしれない。
瀬谷さんについて知ったのは、2009年4月にNHKの番組「プロフェッショナル」で、取り上げられてからである。
世界のどこかで紛争が勃発したときに「紛争解決」専門家として国連や外務省からお呼びがかかり、紛争地で世界から集まってきた紛争専門家と共同して仕事にアタッテいる。
となると、スゴウデをイメージがするが、実際は「華奢」な感じのするヤマトナデシコである。
かつて、緒方貞子女史が大学教授であった頃にお見かけしたことがあるが、その時の印象は、体が小さくてとてもキサクということだった。
同じく、テレビの映像でみるかぎり、瀬谷さんのドコニそういう「凄さ」があるのかと不思議に思う。
瀬谷さんは群馬県新里村(現在の桐生市)に生まれ育ち、両親と姉、弟の5人家族であった。
皆がが知らないようなこと、「未知のもの」に目が向く子供だったという。
中学生になった頃から、自分は得意なことを伸ばす方にのタイプだと感じた。
そして、アフリカなどに興味を持ち、英語の勉強に集中した。
瀬谷さんが「紛争解決」の仕事をしたいと思ったきっかけは、高校3年生の春であった。
瀬谷さんの目に飛び込んできたのは、新聞で見た「ルワンダの難民キャンプの親子の写真」であった。
死にかけている母親を、3歳ぐらいの子どもが泣きながら起こそうとしている姿である。
この写真で、瀬谷さんの目標は定まったといっていい。そして中央大学の「総合政策学部」に進学した。
瀬谷さんは大学在学中に「ルワンダに行く」ことを目標としており、そのためアルバイトでお金を貯めては休みに海外に出かけて英語を磨いた。
しかし大学には、「紛争問題」が専門の教授はいなかったので、図書館で英文の専門書を読みアサッタという。
大学3年(20歳)の夏にホームステイで実際にルワンダを訪れたが、すぐに気づいたのは「自分は役に立たない」ということであった。
そこで大学卒業後は、イギリスのブラッドフォード大学平和学部大学院に進学した。
修士論文では、「紛争後の和解問題」について書くことにした。
そのため、「秋野豊」賞に応募し、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアに「現地調査」に行く助成金を獲得している。
大学院を修了する直前、学生時代にインターンをしていた日本のNGO組織のアフリカ平和再建委員会からルワンダに新しく立ち上げる現地事務所の「駐在員」として行くというサソイを受けた。
そして2000年10月、23歳の時、ルワンダで働くことにした。
現地では、事務所探しから備品購入まですべてを1人でこなした。
そこでは、虐殺で夫を失った女性に洋裁の職業訓練をするプロジェクトを担当し、地元の小学校へ机や椅子を寄付する支援も行った。
しかし、瀬谷さんは「ニーズがあるのにヤリ手がいない分野」にこコダワッテいた。
担当プロジェクトが終了する頃、西アフリカのシェラレオネで「武装解除」が始まっていた。
そしてある日、ニュースに「紛争地では、元兵士や子ども兵士をいかに社会に戻すかが問題となっている」という記事を目にして、「これが自分の仕事だ」と思ったという。
つまり大学院で勉強した「武装解除(DDR)」に実際に「取り組む」ことにしたのである。
「武装解除」の仕事とは、イマダ硝煙の匂いの漂う場所に出向き対立する双方の言い分を聞き「妥協点」を見出し、停戦にコギツケル仕事である。
しかしアフガニスタンで、ある日フラッとやってきた外国人にはわからないことがタクサンあるということを思い知らされた。
家族を虐殺された被害者が加害者と和解しないのは、それが被害者の心の傷を深めることにしかならないと思わされた。
この時の経験から、平和をつくるプロセスとは、当事者が「望んでから」はじめて行われるべきであること、部外者が「興味本位」でカキ乱すことがあってはならないことを痛感したという。
国連からの要請を受け参加する瀬谷は、国連や政府に提言する際、徹底して「現地調査」を行う。
目の前の一人一人の声に耳を傾け、現実の中から答えを見つけ出す。
紛争後の状況は、その国によって違う。それを見ずして本当に必要な支援は分からない。
それは、アフガニスタンでのつらい経験から得た教訓でもある。
ところでアフリカといえば、大変なのが食事や病気であるが、マラリアには、覚えているだけでもこれまで8回かかったという。
当時は、かかりそうというのが分かるようになり、早めに薬を飲んで治すという。
食事は、村などで出されたものは必ず食べる。そうすることで、村人たちにも受け入れられ、関係が深まることがある。
ルワンダでNGO職員として働いたのち、2002年にシエラレオネの国連PKOに勤務、除隊兵士の社会復帰を行った。
2003年からアフガニスタンの日本大使館において、軍閥の武装解除を担当したのち、2006年にコートジボワールの国連PKOで武装解除を担当した。
ところで瀬谷さんの担当する仕事DDRは単に武装解除にとどまらず社会復帰までを含むものである。
「国家規模」の武装解除を担うということで一人でできる仕事でない。
2007年に特定非営利活動法人 日本紛争予防センターの事務局長に就任した。
現在瀬谷さんは、NGO日本紛争予防センター事務局長の立場にあり、兵士から武器を回収、治安を回復させ、国を復興へと導いていく。
ソマリア、スーダン、ケニアなどで紛争予防活動を行うほか、アフリカのPKOの軍人、警察、文民の訓練カリキュラム立案や講師も務める。
瀬谷さんの「仕事の流儀」の1つは、解決は机上にあるのではなく必ず「現場」にあるということである。
例えば、争いの根源が「水争い」ならばソレを確保するために「井戸の設置」を本部に働きかける。
つまり、これがあればなんとか後は自分たちで争わずにいけるというところを探し当てる。
その「現場能力」を買われて。ソマリア、スーダン、ケニアなどで紛争予防活動を行うほか、アフリカのPKOの軍人、警察、文民の訓練カリキュラム立案や講師も務めた。

瀬谷さんの人生の中で「家族」の存在は大きい。
瀬谷さんが小学6年生のとき、当時小学3年生だった弟さんが脳内出血に襲われた。
1ヶ月後に奇跡的に意識を回復するが、左半身麻痺が残った。
ご両親は、治療費のために夜遅くまで働き、また病院に寝泊まりする生活である。
小学生だった瀬谷さんの面倒を見てくれたのは3歳上の姉であった。
この時期に彼女自身が不自由した記憶はほとんどなかったという。
脳内出血に襲われた弟さんは、家族に支えられながらリハビリを続け、現在は自力で職場まで通っている。
母もイギリスのブラッドフォード大学進学の際も、瀬谷さんのやりたいことを全力で支えてくれたという。
家族を思いツイこの仕事をやめようと思ったこともある。
しかし弟は、姉の仕事は「自分の誇り」でもあるから辞めないで欲しいといってくれた。
瀬谷さんは、「和平合意の上では平和な状態になっても、心の中で平和がまだ訪れていなかったら、それは本当に平和な状態になったと言えない」と語っている。
瀬谷さんの持論では「真の武装解除」、それは単に武器を回収しても終わらないということである。
内戦中、スーダン南部だけでも2万人に達したという少年兵の社会復帰はことさらケワシイ。
長年にわたり戦いを繰り広げてきた人々の、互いへのわだかまりや憎しみは深い。
たとえ戦争が終わったとしても簡単には憎しみの連鎖は消えるものではない。
憎しみや争いの原因を徹底的に探り、解決する方法を模索している。つまり「心の武装解除」だ。
瀬谷さんの仕事の原点に「家族」がある。
それは、自分の最も身近な家族が困難な人生に立ち向かう姿勢を見てきたからだという。