増えたポケット

ポケットのどこにモノを入れたか分らなくなる人が、「キー専用」のポケットをつけたところ、モウ一つキーを探す場所が増えたダケの結果となった、という話を聞いたことがある。
この話を思い出したのは、検察における「市民参加」のために設けた「検察審査会」というものが、「公正」というキーを探す上で、「モウ一つ」増えたダケのポケットのように思えたからである。
先日、小沢一郎氏の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、氏が「政治資金規正法」違反罪で「強制起訴」された判決公判で「無罪」が言い渡された。
何しろ収支報告書に「虚偽記載」があったということだから、正直コノ程度のことならば、ドコノ政治家にもある問題ではなかろうかと思いツヅケてきた。
むしろ検察が「虚偽記載」をコトサラに大きく捉えて問題化したこと、一旦「不起訴」となったことが、市民が参加した「検察審査会」で強制起訴となったソノ「プロセス」の方コソ、検証する必要があるように思った。
検察審査会は、司法への「市民参加」が実現されつつある中で、「国家を代表して罪を訴える」ことにおいて、検察の「一存」ダケでなく「市民の意見」を反映しようという趣旨のもとに設置された。
具体的には、検察官の恣意的な判断によって、被疑者が免罪され、犯罪被害者が「泣き寝入り」する事態を防ぐという役割を有する、つまり不当な「不起訴処分」を抑制するためにある。
検察審査会法により、各検察審査会管轄地域の衆議院議員の選挙権を有する国民の中から、クジで「無作為」に選ばれた11名で構成される。
ソレマデは検察審議会の議決に「強制力」はなかったが、2009年5月の改正検察審査会法では、検察審査会が”二度”「起訴相当」の議決をすれば「強制的」に起訴されることになった。
というわけで、政治資金問題で立件不能で小沢氏の「不起訴」をキメタ検察庁に対して、検察審査会は二度「不起訴」不当という結論を出したのである。
ところで「検察」という役所は、同じ国家機関ではあっても他の省庁とは「別枠的」な位置づけがなされている。
例えば国家の不正をアバキ起訴に持ち込むためには、「同じ穴のムジナ」では不可能で、ある程度の「独立」が図られていなければならない。
したがって法務省の管轄の検察庁ではアッテモ検察庁全体を「一般的」に統括しても、具体的かつ「個別」の事件について「指揮できない」という仕組みになっている。
いいかえると、法務大臣は現場で実際に取り調べを行う検察官にまで「影響力」を行使できないのである。
例外的に、法務大臣が直接指揮できるのは、検事総長ノミということになっている。
これを「指揮権」発動といい、コンナモノなくていいとズット思っていたが、昨今の「検察暴走」の実態を見るにツケ、政権党にとって「指揮権発動」は命綱になるのではなかろうかと思えるようになった。
ただ一方で、検察の「適正な」捜査の場合、法務大臣の「指揮権」が発動された場合には、不正や諸悪に対する捜査が政府によってストップされた、またはサレヨウとしたという「後味の悪さ」をヌグイきれないという面もでてくる。
1954年造船疑獄の時に、自民党幹事長の佐藤栄作がソレよって逮捕を免れた「後味の悪さ」である。
時の法務大臣が指揮権を発動して「検察庁」の捜査にマッタをかける場合には、一体「何を守るのか」が一番問われることになる。
一般的に「指揮権」発動の理由トシテ、検察の捜査が大きな混乱を招き、「差し迫った重要法案」の審議に著しい遅滞が生じるということがある。
実際に、佐藤栄作幹事長逮捕に対して、法務大臣の「指揮権」が発動されてマッタがかけられた時には、国の命運を左右するような「重要法案」が待っていたのである。
ソレが「自衛隊設置法」と「防衛庁設置法」というアメリカによって「後押しされた」法律であった。
このタイミングで佐藤氏が逮捕されれば「内閣総辞職」に追い込まれる可能性が高く、アメリカとの関係の上でも自民党政府がコケルわけにはいかなかったのだ。
検察は、「諸悪の可能性」を前に「何を」捜査対象とし、「何に」切り込んでいくかを自ら決定する実に大きな権限をもっている。
やろうと思えば、その決定如何で時の政府をツブスことさえ可能である。
検察がもし、具体的にアイツを潰してしまえとなれば、あらぬ怪情報を流したり、証拠までもデッチあげ、ターゲットを起訴に追い込むことは不可能ではない。
仮に「罪人」にまでできなくとも、政治生命を「絶つ」ぐらいのことはアサメシマエなのである。
カクモ検察は巨大な権力を「独立」してもっている。
また、政権が「入れ替わった」時に、かつての政権与党から「現政権ツブシ」のために、政治的な圧力がカカリうるからである。
長年、自民党の単独政権が続いたので、そういう事態をあまり想定していなかっったが、そういう文脈における「検察」を抑えるためにも法務大臣に「指揮権発動」があるのである。
特に日本の場合、「国策」というものは政権がどちらにブレようともモット大きな文脈から考えなければならない面がある。
具体的には、日本とアメリカが長年築いた関係などを背景として、アメリカの日本に対する”国策誘導”がツネニ行われれてきたといって過言ではない。
となると、国策には「アメリカの意を帯びる」という要素をヌキに語れないが、ソコデ思い出すのが1973年のロッキード事件である。
航空機購入をめぐりロッキード社から日本政府高官に多額の賄賂(ピーナッツ)が渡ったという事件であるが、この事件の発端は日本側の捜査ではなくアメリカ側にあった。
つまり、日本政府にとって、フッテわいたような事件なのである。
ヨウヤク明らかにされてきたのは、田中角栄は、1974年の石油危機を見て「資源自立の政策」を進めようとしたため、これが世界のエネルギーを牛耳っていたアメリカ政府とオイルメジャーの「逆鱗」に触れたということであるらしい。
しかし、この事件は意外にも検察当局からすれば大変ヤリヤスかった事件だったそうだ。
普通、大物政治家に絡む事件では政府より横槍が入るものであるが、ソレサエなく予算もフンダンに与えてくれ、色々と「便宜」をハカッテくれたのである。
最高裁もアメリカ側の調書の「証拠能力」を法的に認め、コーチャンやクラッターなど「贈賄」側が何を喋ろうと、日本としては罪に問わないという「超法規的措置」までしてくれて、検察の動きを助けたのだという。
とはいっても田中氏もサルモノで、依然として最大派閥の率いる領袖として、無為無策であったわけではない。
以後、田中氏は政界から追放されるどころか自らの派閥の勢力を増して、「闇将軍」として君臨し続けた。
検察に怨念を抱いた田中氏は、次々と自分の息がカカッタ代議士を法務大臣にして法務省を支配し、検察を「封じ込め」ようとした。
そして以後、検察は「冬の時代」にはいったのだが、1983年田中氏の第一審での実刑判決がデテからは「反転」した。
つまり刑事被告人が「親分」だと自派から首相が出せないと「田中離れ」が起き、竹下登氏らの「創政会」結成に繋がっていくのである。

ソノ田中派の「若頭」であり創政会の「中心」にいた小沢一郎元民主党代表の判決公判で、東京地裁は、裁判の判決文で検察の虚偽の「捜査報告書」にフレている。
それは、「司法の信頼」をマタモ打ち砕いたという点で小沢氏の収支報告書の「虚偽」よりもサラニ重大であるように思う。
2年前の厚生労働省の女性キャリアに対する「冤罪事件」の記憶がまたも蘇ってくる。
小沢氏の元秘書の石川知裕衆院議員を取り調べた東京地検特捜部の検事が、実際にはナカッタやり取りを「捜査報告書」に記載していた。
報告書は平成22年5月17日付で、小沢被告を起訴相当とした検察審査会の1回目の議決を受けて作成されたものである。
取調べの最中に小沢氏の元秘書の石川議員が身につけた「隠し録音」には、まったく残っていないヤリトリが記載されていたことから発覚した。
コノ「捜査報告書」は検察審査会に出され、小沢氏の強制起訴を決めた「判断材料」になったのであるから、「不法」がマカリとおったワケである。
検察審査会では、事務局が提供するこうした「基礎資料」と審査補助員の「弁護士」とが決定的に重要な役割を果たす。
さて小沢氏の「再起訴」を議決したのは、「無作為」に抽出されたという平均年齢わずか35歳グライの人々であるが、検察審査会にはこの議決を左右する上でとても大きな意味をもつ「審査補助員」という人がいる。
すなわち、どのような審査が行われるかは、ヒトエに「審査補助員」の選定にカカッテいるといっても過言ではないのである。
一度めの起訴担当の「審査補助員」である弁護士は自民党寄り、二度目の起訴担当の「審査補助員」たる弁護士も、「反小沢」急先鋒である人物と懇意であったという事実がある。
こういう素人の若者集団を法律のプロたる「審査補助員」が誘導することは、赤子の手をヒネルくらいにタヤスイことではなかろうか。
さらに、一連の検察の捜査は「法の下の平等」に反するということもある。
つまり、同じことをしていて一方は捜査対象として、別のものは捜査対象とはしない、という問題である。
小沢氏の資金管理団体の収支報告書に「虚偽の記載」があり、この点につき小沢氏に「違法性」の認識があったかということが焦点となった。
小沢氏の政治資金管理団体は、「未来産業研究会」と「新政治問題研究会」からの献金として政治資金収支報告書に記載し報告した。
検察は、この二つの政治団体から提供された政治資金の出所が西松建設であると考え、政治資金収支報告書には西松建設と記載すべきとした。
しかし、政治資金規正法が規定しているのは、政治献金を受けた場合に収支報告書に「寄付したもの」を記載するということである。
つまり「資金拠出者」ではなく「寄付行為者」を記載することが定められているのだそうだ。
したがって違法でもナンデモなく、秘書の大久保氏の報告は「合法的」なモノであったということである。
コレに対して検察は、「未来産業研究会」と「新政治問題研究会」という二つの政治団体には実体がない「架空団体」であり、架空団体を寄付行為者として記載することが「虚偽記載」にあたるとした。
なるほどソウカモしれない。しかしソコに「違法性の認識」があったかどうかが問われたのである。
また政治資金規正法では、政治家本人は「監督責任」を果たさなかっただけではなく「元秘書」たちと「共謀」して積極的に不正に関わった点を立証しなければ、「違法」とはならないのである。
さらに、架空とされた「未来産業研究会」と「新政治問題研究会」を通じた政治献金者は小沢一郎氏だけではなく、多くの政治家への献金事実があり、もし小沢氏を起訴するならば、それらの政治家スベテを起訴しなければ、「法の下の平等」に反することになる。

経済犯罪の「違法性の認識」については、東京地検特捜部の元検察捜査一課の田中森一氏が「反転」という本に書いている。
特捜部がテガケル経済犯罪において、その最大の証拠となるのが、犯人や関係者の調書である。
しかし、そこには関係者の「主観」というものが欠かせないものだという。
賄賂ひとつをトッテも、請託を頼んだ「見返り」の金という意識がなければ、犯罪は成立しない。
いわば「心の問題」であり、検事はソレヲ上手に引きだして「調書」をとらなければならないのである。
その調書にサインさせるのが、またホネであり、逆にそれさえできれば、事件はホボできあがる。
物証の少ない経済犯罪で、金にどう色をつけるか、それが調書づくりであり、特捜部の捜査テクニックといえる。
被疑者にとっては、「供述調書」をとられたらアウトだと考えたらよい。つまり「供述調書」が命取りになる。
そしてこの「供述調書」を、どれだけ信憑性をともなうものにできるか、それが検事の「腕」ということになる。
ウラを返せば、逮捕起訴したはいいが、公判で調書の信用性が問われたら、検事は目も当てられない。
だから調書つくりには慎重の上にも慎重を期すという。
だがしかし、それは一定の「テクニック」をともなうものだという。 極論すれば、「犯意」などというのはドチラデモとれる。
ある人間が屋根の上から瓦を落としたとする。通行人に当てるという確かな意思があるか、もしかしたら当るもしれないという程度の認識か、それは本人にしかわからない。
また「激情」にカラレタものか、厳密に殺人現場の心理がどうかなどは、本人でもわからないことが多い。
「未出の故意」は「密室の恋」としばしば聞き間違えられる「法律用語」だが、必ず相手が死ぬと予想できなくても、殺す意思があったと認定される場合には、「殺人罪」に問われるというものである。
「憎かったのではないか、あれほどのことをされれば誰だって殺したくなる」。
そうしたことを毎日、毎日教え込むほど、相手は教え込まれた事柄と自分自身の本来の記憶が「錯綜」しはじめる。
最後には密室でこちらが教え込まれたことを、さも自分自身の体験や知識のように「自慢げ」に話し出すのである。
イザ被疑者は裁判になって記憶を取り戻し、これは検事に教えてもらったことナノダと気がついても後のマツリだ。
それほどに調書は完璧にできてシマッテいる。
調書に何度も消した痕を残しておくのも一つのテクニックだそうだ。
それだけ被疑者の言い分を聞き取ったという印象を抱かせるからである。
何度も調書をとり傍らの事務官に欠かせるが、それで署名しないとなると目の前で派手に破いて、「最初からやり直そう」という。
それを何度か繰り返すと、人のイイ被疑者は、事務官に申し訳ないという気持ちが働いて、また「やり直しても大して変らんやないか」ともいわれて、「本意」ではないが署名してしまう。
検事は、犯人が否認したままでは、「能なし」の烙印をおされてしまう。
こうして被疑者を「心理的」に追い込んで調書をとる、そのテクニックに最も優れていものが、東京地検や大阪地検の特捜検事となる。

政治資金収支報告書にウソの記載があったことは認めながらも、「共謀」を否定した。
判決は、検察審査会の議決や、検察官役の指定弁護士が指摘したことを、かなりの程度まで認めている。
まず、「資金管理団体」で、収支報告書に「虚偽」の記載があったことが認定されているが、故意に「虚偽」を記載したとは証明できてていないとして「無罪」の結論になった。
元秘書の捜査段階の「供述調書」は、サスガニ証拠として採用しなかったが、間接的な「状況証拠」によって、ココマデハ認定できるという判断であった。
具体的には「収支報告書」を見たことがナイと言っている点については、およそ「信用」できないと批判した。
「違法性の認識」について、土地の購入をイツ記載するか、提供した4億円を記載する必要があるかという点について、「違法」とは考えていなかった「可能性」が否定できないと判断した。
しかし、元秘書は1審で有罪になっているのだから、小沢氏は依然として「政治的・道義的責任」は消滅したわけではない。
以上まとめると、検察が「不起訴」、検察審査会で「強制起訴」、そして検察の違法捜査や虚偽の捜査報告書のテンマツがあり、結局裁判所は「小沢氏無罪」という判決しか出せなかった。
しかしこの判決に到るまで、コレだけの時間とエネルギーを使ったことをドウ「評価」すべきか。
コノ件に関し検察審査会は有効に機能したのか、ソレトモ「増えたポケット」にすぎなかったのか。
少なくとも、検察審査会はある事件の「不起訴」が妥当かダケではなく、「起訴」に持ち込むことが果たして「法の下の平等」に反してイナイカも意識すべきである。
さもなくば、「公正」のキーはどこにも収まらない。