学ぶ人々

昔、吉永小百合主演で「キューポラのある街」という映画があった。
キューポラとは「鋳物」(奈良の大仏 茶道に使われる茶釜 自動車のエンジン)などをつくるための「鉄の溶解炉」をさす。
、銑鉄溶解炉キューポラやコシキが林立するこの町で、昔から鉄と火と汗に汚れた鋳物職人の町である。
主人公の石黒辰五郎(東野英治郎)も、昔怪我をした足をヒキズリながらも、職人気質一途にこしきを守ってきた「炭たき」である。
この辰五郎の勤めている松永工場には5、6人の職工しかおらず、それも今年20歳の塚本克巳を除いては中老の職工ばかり、それだけにこの工場が丸三という大工場に買収され、そのためクビになった辰五郎ほかの職工は翌日から路頭に迷うより仕方なかった。
中学三年の少女ジュン(吉永小百合)は、鋳物職人の父・石黒辰五郎が「解雇」されたことから、貧困・親子・小中学生の不良化・民族・友情・性など多くの様々な問題に直面しながら、生きていくという物語である。
この映画のポイントはドンナことがあっても「真っ直ぐ」生きるということで、今日のような社会情勢にあって主人公の素朴な生きかたに励まされるところである。
この映画のタイトル「キューポラのある街」というい異国風のタイトルを聞いた時、どこかロシアあたりの街かと思ったら、実は埼玉県川口市のことで伝統的に鋳物産業が盛んなところである。
在日韓国・朝鮮人の多いところで、この街に住むということは実際は「異国体験」と全く無縁でなかったであろう。
ただ浦山桐郎とともに共同で脚本を執筆した今村昇平は、この当時の社会風潮にナラッテ「北朝鮮は天国のようなところだ」と語らせていることを後に深く反省していると語っている。
ちなみに、この映画の原作は「早船ちよ」という女性で、岐阜県で看護婦として就職しソノ後に長野県の諏訪工場で働いた職歴が、こうした作品に大きく反映されている。
他に「トーキョー夢の島」、「ポンのヒッチハイク」などの児童文学がある。

2ヶ月ほど前にアメリカで最近話題になった一人の難民男性の話がニュースであった。
アメリカの名門大学の一つコロンビア大学で、19年間構内の「清掃員」をしながら「授業料の免除制度」を利用して 勉強を続けた男性が「学士号」を取得して卒業した。
この男性は、ニューヨークに住む52歳のフィリーパイという男性で、旧ユーゴスラビアで生まれ、大学で法律を学んでいたが、紛争のさなかに中退を余儀なくされ、32歳のとき、戦渦を逃れてアメリカに渡った。
当時、英語が全く話せなかったフィリーパイさんは、コロンビア大学で清掃員の仕事を得たあと、大学が職員に対して設けている「授業料免除」の制度を利用して英語を勉強し、40歳からは一般教養の授業を受け始めた。
午前中は授業に出席し、午後は11時まで掃除やゴミ捨ての仕事という生活を19年間続けた結果、「古典学」の学士号を取得して卒業に至った。
アメリカのメディアは、フィリーパイさんの卒業を大きく取り上げ、「働きながら学ぶ」ということに「新しい意味」を与えたなどと称賛している。
フィリーパイさんはこのまま清掃員として大学に残り、次は「修士号」を目指して勉強を続けるという。
アメリカではフリーパイさんに賞賛を与えているらしいが、フリーパイからすれば「学ぶ」ことはごく自然なことで、 騒がれることの方が面映いことかもしれない。
清掃員の傍ら「学ぶ機会」を与えてくれたアメリカという国に感謝の気持ちの方が強かったかもしれない。
さて、NHKの「ドラクロア」という番組で、一人の「難民女性」が紹介されていた。
北朝鮮は、深刻な飢餓が人々を襲っているが、その女性は生後4か月の息子をおぶって、命を懸けて川を渡って「脱北」した。
自分は死んでもいいから、息子だけは助けたいと思いで脱北したという。
何とか「韓国」に亡命できたが、言葉もわからず「差別」などがありナカナカよい職に就くことはできなかった。
睡眠時間2時間で掃除婦と新聞配達をしても月3万しか稼げず、食べるものにも困り、貧しさと孤独で押しツブサレそうになったことがあった。
たまたま新聞配達時にみた記事で、保険のセールスを初めたが断られつづけた。
それで、トニカク相手の話をよくきくことに徹するようになってから、お客が求めている「保険」が分かるようになったという。
実は韓国では「泣き落とし」というヤリカタが一般的だが、彼女はそのような方法は一切取らず、ダンダン売り上げが上がるようになった。
そして1年半後には後6万人中9位となり、サラリーマンの3倍の給料をもらえるようになり、息子と二人で生きていく目途がたった。
知り合った大学教授に「話術」をかわれ、大学で教えないかと声をかけられ、働きながら大学に通い「栄養学」の博士号をとり、現在は「北朝鮮の食事業」ということを専門に大学の教授をしているという。
現在、脱北した女性のために「栄養教室」を開催し調理師の資格をとる手助けをし支援をしている。
2010年 「勇気ある国際女性賞」を受賞している。
脱北して14年、息子は14歳になった。その息子は「南北融和」の役にタチタイと思っているという。
その女性が語った「暗闇の中では最初は何も見えないが、でも、暗闇に目がなれてくれば徐々に色々見えてくるのです」との言葉が印象的だった。

難民や脱北のような経験はなくとも、むしろ恵まれた立場の人でも「暗闇」の中に迷い込んでしまうことがある。
最近新聞などで知った元アナウンサーの菊間千代さんも、そうした暗闇から脱却した一人ではなかろうか。
菊間さんは早稲田大学法学部卒業して1995年念願かなってフジテレビ・アナウンサーになった。
お父様は、バレーボールの名門・八王子実践高等学校監督であるのだが、そのことが彼女の運命を「微妙」に左右する。
入社試験で「今日のファッション」についてかれ、ファッションが「ファッショ」に聞こえてしまい、政治用語である「ファッショ」を一生懸命に語ったそうだから、よほどキマジメな性格であることは間違いない。
入社後は「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンアナに抜擢されたのを皮切りに、「発掘!あるある大事典」、「FNSNスーパーニュース」(スポーツキャスター)などの番組を担当しアナウンサーとしての実績をつんでいた。
、また、父の縁でバレーボールワールドカップ、バレーボール・ワールドグランプリといったバレーボール中継のMCを担当するなど、幅広くに活躍していた。
しかし1998年9月2日突然の不幸がふりかかる。
当時リポーターを務めていた「めざましテレビ」のコーナーで、災害時に高所から脱出する避難器具の体験リポート中であった。
マンション5階の窓から落下、地上のマットに叩きつけられ、全治3カ月の重傷(腰椎圧迫骨折)を負い入院した。
生放送の番組内で起こった事故であっために、視聴者に衝撃を与えた。
翌年には「現場復帰」したが、リハビリは1年にわたった。
ところが健康を回復するヤ、今度は自ら招いたサイナンに見舞われる。
2005年7月16日、バレーボール中継後に他の社員とともに、当時未成年の男性アイドル・ユニットのメンバーだった男の子と飲酒していたことが発覚し、「無期限謹慎処分」を受けた。
これによって、自分に対する会社の雰囲気がイッキに冷ややかになったことを感じ取ったという。
ただアナウンサー仲間が温かい励ましの声をかけてくれたことが、何よりも嬉しかったという。
これを機会として、大学で学んだ法律を生かす仕事を考えるようになった。
しばらくはアナウンサーの仕事と「並行」して、ある法科大学院大学に入学し、法律の勉強をしていった。
そして弁護士を目指して司法試験の受験勉強に専念するため、2007年12月31日をもってフジテレビを退社した。
そして2010年、司法試験に合格し、ハレテ司法修習生となる資格を取得したのである。
菊間さんは、弁護士としては企業法務を多く扱う事務所に所属し、知的財産権、倒産、マスコミ関連など幅広く手がけフジテレビの顧問弁護士も務めているという。

国の戦乱や飢餓で難民生活をしたえわけでもなく、何かの事故が襲って生活の変更を余儀なくされたワケではないのに、ただ「学ぶ」ために自分を過酷なところに置いてみる人もある。
その人生は、ソウイウ体験からくる違った「音色」を発するようになる。
二胡(にこ)といえば、かつて中国人女性で結成された「十二楽房」を思い出す。
それは草原をわたる風のような感じがした。
しかし日本でヨク知られる二胡の演奏家チェン・ミンさんが2本の弦で奏でる音色は、ソレダケではおさまらないササヤクような「何か」がある感じがする。
チェン・ミンさんは、中国・蘇州生まれの上海育ちである。
幼い頃、たまたま通りかかった家の二階で二胡を弾く女性を見た時に、自分もあのように美しく二胡を弾きたくなりたいと、早くも決意を固めた。
音楽教育家の父から二胡を習って、上海戯曲学校でも二胡を専攻をした。
「私の心と体、考えていることや感じていることのすべてが演奏にあふれてくるんです。もう離れられない、生涯弾き続けたいと思うのですが、ある日ふと、今日は距離を置きたいなと思ったり。まるでもう一人の自分という人間が、私のそばで生きているような生命感があります」と語っている。
卒業後にメーン二胡奏者として活躍た。恵まれた音楽環境に生まれ育つ。音楽教育家の父を持ち、二胡の英才教育を受けて、上海越劇オーケストラの「メーン奏」者に成長した。
女優の母譲りの美しい容姿、約束された音楽家としての未来はユルギないように見えた。
しかしソノ彼女が、1991年中国を旅立ち来日した。
来日した理由を次のように語っている。
「それなのに、何だか満ち足りなかった。自分の将来が単純に見えてしまって、このままここで二胡を演奏し続けて終わるのかと」
そこで、以前から興味を持っていた日本で「新しい生活」を始めてみようと思い至った。
父親は「二胡の演奏に戻る日が来るかもしれないし、このままやめてしまうかもしれないけれど、君の人生だから、いいんじゃないの」とアッサリと承諾してくれた。
日本へ来日した当初、日本語も話せないママお金もなく4畳半のアパートに暮らし、アルバイトをかけもちして2年間で学費をためた。
この2年間孤独で貧しく、タダの一度も二胡に触れることはなかったという。
そして日本文化を学ぶべく、共立女子大学入学を果たしたが、二胡を奏でてみるが弓が逃げていって弾けない。
二胡をヤメルオカと自分に問いつつ、何とか練習して弾けるようになってくると、驚いたことに二胡が以前とマッタク変化している。
チェン・ミンさんは、「私が変わったから音色が違う。それから夢中になりました」と語っている。
1997年大学を卒業後、本格的に演奏活動を始めた。
2001年にリリースしたアルバムで脚光を浴び、中国音二胡ブームの「火付け役」となった。

チェンミンさんの環境や生き方から連想したのは、日本の女優の桃井かおりさんである。
桃井かおりさんがテレビ出演して語ったことで印象的だったことは、「醜いアヒルの子」という言葉だった。
桃井さんは1951年に東京都世田谷区の裕福な家庭に生まれた。
父親は国際政治学者の桃井真、母親はアトリエを構える芸術家であった。
3歳からクラシックバレエを始め、中学生の時にイギリスのロイヤルバレエアカデミーに単身留学した。
しかし、現実の厳しさを知り、挫折した。
桃井はこの時を振り返り「同じ年くらいの白人の子達と並ぶと、自分が“みにくいアヒルの子”という感じがした。自分を醜いと思わざるを得なかった」と語っている。
帰国後、女子美術大学付属高等学校・中学校へ入学し、同校在学中は東京バレエ団に所属したが、同校卒業と同時にバレエを辞め、両親に内緒で演劇を目指し文学座付属演劇研究所(養成所)第11期生に研究生として入った。
1971年に映画「愛ふたたび」(市川崑監督)にて浅丘ルリ子の妹役でデビューした。
あの田原総一朗が監督をしたATG映画「あらかじめ失われた恋人たちよ」にてヒロインを演じ、本格的に映画デビューした。
しかしこの映画に出演したことは家族にバレテしまう。
母親が美容室に行った際、置かれていた雑誌で、映画でヌードになった桃井の写真を見てソノ場で卒倒したという。
バレエを続けているとバカリ思っていた母としては当然であろう、
そして父に「勘当」を言い渡され、家出した。
その後、羽田から広島県江田島に行き、地元の飲食店で住み込みで働いた。
4ヵ月後、新聞に「かおり許す、父」と掲載されていることに気がつき家に戻ることはできたが、モウ元の生活には戻れないと、再び「女優」として活動を開始した。
1973年に「赤い鳥逃げた」で女優復帰するも、22歳の時に撮影現場で腹部に違和感を覚え、歩くのも困難になり、帰り道の山道で倒れてしまった。
幸い通りかかったトラックの運転手に発見され一命はとりとめたが、その後の検査で腎臓結核であることが分かり、片方の腎臓を摘出している。
その後順調に回復し、萩原健一の強い要望からドラマ「傷だらけの天使」へのゲスト出演で復帰を果たした。
1975年、倉本聰脚本による日本テレビ系列「前略おふくろ様」の海役が当たり役となりお茶の間でブレイクした。
1977年公開の「幸福の黄色いハンカチ」では、それまで過激な役が多かった桃井の新たな一面を引き出した作品として高評価され、第1回日本アカデミー賞助演女優賞、ブルーリボン賞などを受賞した。
1979年公開の「もう頬づえはつかない」で映画初主演している。
父は、厳格で教育熱心であった。桃井が6歳になるときに「かおりも、もう小学生になるから社会のことをよく 知らなくちゃいけない」と言い、辞書と時計をプレゼントした。
20代の頃、父は、厳しい割に口紅や喫 煙などには寛大であった。何も言わないことに疑問を思い、「どうしてタバコを吸っても何も言わないんで すか」と紙に書いて渡したところ、「タバコを吸うようになってからよく歯を磨くようになったと聞いて おります。それはそれでいいんじゃないですか」と紙に書いて返してきた。
口紅のことも同様に聞くと、 「僕がキスするわけじゃないので別にいいです」というメモ書きが返ってきたという。
2004年にソノ父が他界し父の死を乗り越えるために、もっと辛い状況に身を置くことを決意し、ハリウッド映画のオーディションを次々に受けた。
2005年に「SAYURI」でハリウッド映画初出演し、翌年にアメリカ合衆国映画俳優組合に加入した。
桃井は「演じるとは、毒を吐くこと」と語っていて、妥協を許さず、仕事に厳しい人であるあらしい。
そのためたびたび共演者やスタッフと衝突している。
過去に「自己中心的で生意気」と、マスコミに叩かれたことも何度かあるが、桃井は「スタッフに好かれるために仕事してるわけじゃないから」と言い放っている。
映画にこだわりドラマを適当にやろうとしてるように映った松田勇作に「ドラマをなめんじゃないわよ! 映画でもドラマでも真剣にやんなさいよ!」と一喝したのは、結構有名な話である。
最近では女優業に留まらず、ジュエリーデザイン、雑誌創刊など、活動の幅を広げている。
2009年に女子美術大学・女子美術大学短期大学部客員教授に就任されている。