老松と雲

津波の波がさらった七万本の陸前高田の松原に、たった一本残った「松」がある。
この話を聞いて、我が実家に「松老雲閑。曠然自適」と書かれた掛け軸があったのを思い出した。
今になって調べると、「まつおい くもしずかなり こうねんとして じてきす」とよむ。
「臨済録」の言葉で、老いた松のごとく、静かに流れる雲のごとく悠々と生きよ、という意味である。
つまり、世の中のシガラミとらわれず、心に任せに生きる様を表している、ということが今頃わかった。
そういえば、西日本各地に老松神社というのがある。
「老いた松」には、ナンらかの「霊験」でもあるのだろうか。
よくわからないが、老いと共にメデタさが出てくる「松」のごとくでありたい。
ところで「松老雲閑。曠然自適」という生き方は、「一生懸命」という生き方とはあまりフィットしない。
「一生懸命」は充分に尊重されるべき生き方だが、一方で「視野狭窄」からくるリスクもある。
働きざかりでは、仕事や家族、家計のことでアクセクしていて、世の中を「高み」から展望するほどの余裕がないのは当然だろう。
「老松」の強みとは、「世の中」を高みから見る気持ちの余裕から生まれる。
さて、「松老雲閑」の情景の中で、老松の上にモウ一つ上空に浮かぶのが、「閑かな雲」の姿である。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」とは、封建の世から目覚めたばかりの日本が、昇って行けばヤガテはそこに手が届くと思い、登って行った雲のことである。
つまり日本が、近代国家をつくり列強に仲間入りしようとした「時代精神」を表しているともいえる。
それにしても「雲」という言葉には、どこか「切なさ」が感じとられる。
今という時代だから、ナオサラそう思うのかもしれないが、日本語では「雲をつかむ話」とか、「雲がくれ」とか、「雲散霧消」とかいう言葉があるように、パット消えてなくなるといった語感がある。
バブル経済がはじけるまで、日本はアメリカのコロンビア映画を買収したり、ロックフェラー・センターを買収したりして、「雲」を下に見た感があった。
その高みに二度と昇れないとは、あの時誰も思わなかった。
バブル期以前から「峠の時代」とかいわれても、ヤッパリもう少し上の「雲」を見ようとした人々がたくさんいたからだ。
「下山」を言い出す人ナンテまずいなかった。
枝野経済産業省大臣は、「成長の旗」を掲げない戦後初の経産相となるらしい。
枝野氏の談話では、坂の上には「もう一つ」雲があるかと思ったが、ナカッタという。
ただ「下山」といっても、それは「心痩せる」思いで降りるのではなく、心の豊かに降りる「降り方」というのもあるだろう。
最近のセンター試験の受験会場のトラブリ方を見ても、いっそインターネットやら携帯電話などない時代の方が、心休まる時代ではなかったかと思わざるをえない。
ラジカセで音楽を楽しんだり、ラジオの深夜放送を聞いていた頃の方が、ずっと心豊かであったような気もする。
ステイーブ・ジョブスの開発したiPADなどに心躍る反面、観察するところドーシテモなければならないものかといえば、1970年代当時布団の中で聞いていた「壊れかけのレディオゥ~」の方が、ハルカニ必需品だった気がする。

ところで人生の「下り坂」とは、「老い」にともなって意識されはじめる言葉である。
どうせなら心豊かに「下山」したいところだが、「死の哲学」で知られる元上智大学教授のアルフォンス・デーケン先生は「老い」の豊かさについて啓蒙されてきた。
というよりも、老いを「絶好のチャンス」とらえておられる点で、ユニークであった。
要するに「老い」とは若い頃とは異なる新たな「精神的次元」を提供するので、かえって「創造的」な仕事をしている人々の多いというのだ。
「老い」とは、体の衰えや不足を感じれば感じるほど奮発して、障害や試練や幻滅を「刺劇」」や「起爆剤」とも思い、精神力や創造力を自分の内面から開拓し、「新しい」人間となって敗北を勝利へと転換できるというのである。
つまり、老人とは「新しい人」のことである。老人は新人である。
黒沢明の「生きる」の主人公は、癌の宣告を受けて初めて、何か人の為になることを小さなことであってもしたいと、ハジメテ思うことができた。
そして衰弱した体に鞭打って最後の半年を町の児童公園つくりの実現の為に奔走し、ついにそれが実現した。
生涯はじめて「何事か」をなしとげて、亡くなった。
この映画の主人公のように、「老い」には自分の生きる意味を問うという態度をもたらし、この世の執着から離れ、権力から自由になれるという面もある。
さらには衰えとの戦いや「廃物」にはなりたくないという反発心こそが、創造力の源泉となったりする。
また、失うものが多くあったとしても、ジャマなものが消えて、ますます「澄んで」物事を見ることができるというものである。
さらに、時間が思うように使えるという面も大きい。
個人的な体験をいえば、若い頃には絶対にアリエなかった方向に、嗜好が向かっていることに気がつく。
ジャズの「孤高感」や「屈折感」にシビレルし、自然観の「営み」の不思議さに心ウバワレル。
動物番組なら一日みていても飽きない。
近所の動物園に何度も通って、ペリカンとコミュニケートできるようになった。
近くの小学校でボールの壁アテをしていると、なぜかシュートが投げれるようになっていた。
このシュートボールさえあれば、「狩り」にも出かけられる。
前述のデーケン先生は「第三の人生」という著作の中で、その「新しい人」の実例をいくつか紹介されている。
ミルトンという詩人は、晩年の20年間両眼失明という憂き目を見たのに、崇高な詩文を書き、ベートーベンは晩年の15年間全く耳が聞こえなかったが、死ぬまで作曲を続けた。
ゲーテは80歳を過ぎて「ファウスト」を完結させ、デフォーは職を転々として59歳で「ロビンソン・クルーソー」を書き、ミケランジェロは70歳でサンピエトロの大壁画を完成した。
ハイドンもヘンデルも70歳を過ぎてから不朽の名作を創作した。
シャガールは、90歳の誕生日に長生きの秘訣を尋ねられ、「働いて働いて働きぬいたのです」と答えたが、働くとは「創作」を通じての創造的自己実現であり、「働く」こと自体に喜びの源泉があるということだ。
また人は、年齢に関係なく失ってみてハジメテ気がつくことがある。
その「気づき」によって、失なった分より大きなものを得ることだってある。
その点で、作詞家・大石良蔵さんの体験談は興味深い。
赤穂浪士の討入りのようなイサマシイ名前に相応しく、波乱万丈の人生を送った人だ。
若い頃から放蕩三昧で、五人の愛人を世話するアソビ人だった。
そのヘビーローテーションがタタったのか、30歳を過ぎた頃から原因不明の痛みで歩けなくなった。
4年間の入院生活を送り、下肢麻痺で車椅子生活となった。その間に、経営していた建築会社も閉じた。
、 どん底の中、病院の窓から雲ばかりを見てすごした。
そんなある日、雑誌の歌詞募集を知り、体は歩けなくなったけど心は青空を飛ぶんだと、書いたのが「雲にのりたい」であった。
歌詞は、「雲にのりたい やわらかな雲に 希みが風のように 消えたから」で始まる。
1968年、黛じゅんの歌で大ヒットした。
「車椅子党」を立ち上げて参議院の八代英太議員などを精力的に応援してきた。
2010年、77歳で亡くなっている。
個人的には、芸術家の共通項とは「喪失感」ということだと思うが、それならば老年期こそは「輝かしき喪失期」ではあるまいか。

年をとって、出来ることが出来なくなるとか、仲間と思っていた人々が疎遠になるとか、同世代が死んでいくなどすると、誰しもが「老いる」ショックに見舞われるらしい。(推測です)
大概の人は、退職すれば何もすることがなくなってボ~として生きるのだが、老いを「実り」として生きられる人は幸せものである。
それは職業上の「功績」とまったく関係ないし、むしろワークホリックとして生きてきた人が退職すると突然に生きる方向性を失い、利害関係でしか結ばれていなかった人間関係を知ってトテモ侘しくなるらしい。
どんなに華やかに見えても、結局は一人ボッチだと思い知らされる。
そんなことを痛烈に印象づけられた人物が、1979年ダグラス・グラマン事件で世に知られた「ザ・商社マン」の海部八郎氏であった。
海部氏は、日商岩井副社長時代、船舶・航空機における日商岩井の商権を確立した伝説の商社マンで、しばしば伊藤忠商事の瀬島隆三氏と比肩される人物であった。
特に航空機分野ではいわゆる「海部軍団」と呼ばれた。航空自衛隊FX選定におけるF4の92機、F15の203機の採用で、いずれも日商岩井がメーカー代理店となり、自衛隊航空機部門で圧倒的なシェアを誇った。
海部氏は、 旧制神戸経済大学(現・神戸大学)を首席で卒業後、当時の日商に入社した。
新設間もない米国日商の駐在員となり、平均睡眠時間3時間のモーレツな仕事ぶりで、船舶輸出の実績を上げた。
1963年には 東京航空機部長、同年わずか40歳で取締役となり、1974年には「副社長」に昇進している。
当時、商社を目指す学生は海部氏に憧れて「商社マン」を目指す学生もいたが、その「実像」にはとても「寂しげ」な一面をノゾかせていた。
ダグラス・グラマン事件で「隠れ家」として渋谷区のマンションに捜査の手が及んだ時、踏み込んだ捜査員が見たものは、部屋一杯に敷き詰められた「鉄道模型」だったという。
海部氏が「息抜きのための書斎」とよんだ高級マンションの部屋の中は、分厚い絨毯の上を模型機関車が走り回っていて、BGMとして童謡のメロディが流されていた。
海部氏は週に2~3回の頻度で会社の専用車でやってきては2時間程度この部屋ですごしていたというのだ。
社長を目前にして、 ダグラス・グラマン事件で外為法違反・偽証罪の容疑で逮捕され、1980年5月 日商岩井を退任している。
事件当時、海部氏の「隠れ家」で鉄道模型を覗き込む海部氏の「孤影」を見た感じがしたが、「老松」とはアマリニかけ離れた姿だ。

ところで松は「松・竹・梅」の筆頭だから「吉」をもたらすものらしい。
では雲はどうかといえば、「暗雲」という言葉もある一方で、「慶雲」という言葉がある。
「慶雲」(けいうん)は、日本の元号のひとつで大宝二年(702年)に死去した持統天皇の葬儀などが済んだ大宝四年(704年)に藤原京において現れたメデタイ形をした「雲」だったという。
この時代の天皇は文武・元明天皇の時代で、704年から708年までの期間を「慶雲」としている。
ちなみにカツテ我が実家で飼っていた犬に、国文科出身の姉がこの故事にちなんで「慶雲」(=よしくも)と名づけた。
曠然と自適して、隣近所の犬達にもにもよく慕われ、天寿を全うした。
というわけで雲は案外と「めでたいことのシルシ」、つまり「吉兆」として見られることが多いようだ。
仏教では紫色や五色の珍しい雲をめでたい兆しとして出現するもので「瑞雲」としていた。
また、旧約聖書の「列王記」に「手のひら状の雲」がでたら、神の「ゴーサイン」とした話が登場する。
水をも求める砂漠の民にとっては、雲の存在が「吉」であったことであったことはナントナク推測できる。「十戒」で映画化されたモーセの「出エジプト」において、神は砂漠をさすらう民を昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」で導いていったという記述もある。
この出来事にちなんで、キリスト教社会運動家であった賀川豊彦は「雲柱社」という結社をおこしている。
また新約聖書では雲は「イエスの再臨」など様々な場面に登場し、神の「臨在」のシルシとされている。
最近では、最近コンピュータの世界で「クラウド」という言葉がめにつくようになった。
このクラウドこそは、「雲」という意味である。
コンピュータの環境をハードデスクに保存しておけば、そのコンピュータ上では環境を何度でも再現できるのだが、別のコンピュータではそれができない。
そこでネット上(比喩的に「雲の上」)にのせておけば、そこからダウンロードすればいつでもどこでも、別のコンピュータで自前のパソコンとして利用できるのだ。
このように、データを自分のパソコンや携帯電話ではなく、インターネット上に保存する使い方、サービスのことをクラウド・コンピューティングとよぶ。
こうしたクラウド・コンピューティングを略して「クラウド」と呼ぶことが多い。
最近では、「クラウド」を使って人生の全てをデジタル化しようするサービスもでてきた。
いつもカメラで撮って「クラウド」に保存しておけば、あの日あの時家族は何をしていたか、イツでもドコでも、ダウンロードできるのだ。
しかし「クラウド上」つまり雲の上に人生を保存させるという発想はどこからきたのだろう。
聖書の教えでは、人の歩みは「天に記され」、その宝は腐ったりサビたりする地上ではなく、「天に積め」とある。
そしていつも神の臨在と共に歩めるように「絶えず祈れ」とある。
そして新約聖書ではこの臨在の「表象」が「雲」と表されている場面がいくつもある。
ところで前述のA・デーケン先生は、老年期の様々な苦しみが「眠れる可能性」を引き出す挑戦となるといっておられるのだが、問題は老年期の「精神力」だ。
老年期になると、そんな「精神力」自体が衰えるのではないかと思われる。
これに対して、A・デーケン先生は、「老人は、体力の衰えがはげしいだけに、かえって自分のもろさ、はかなさと対照的の神の力を身にしみて感ずることができる立場にある。
人間は尊い信仰を障害のどの次期にも様々な形で日々の生活に反映させていく機会にめぐまれているが、とりわけ晩年には摂理と恵みに対する信頼の気持ちが一段と強くなるように思われる」と書いておられる。
つまり「ヨワさ」や「モロさ」の実感こそが、精神に「新次元」を開くのだが、その土台にイエス・キリストに対する「信仰」がある。
そんな時にこそ、自分は神に造られたものであり、足のすくむような深遠の淵にたっていて、神の絶え間ない創造の働きにより、辛うじて生かされ、支えられていることを知ったのだという。
また、聖霊によって導かれた伝道者パウロは「コリント人第二の手紙」の中で、次のように語っている。
//だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである//と。