毒はマワル

最近の「いじめ」報道などを見ると、単純にいじめが繰り返されるというより、加害者とソレを覆い隠そうとする側が響きあうと、何か独特な「毒」みたなものがウミ出されているかんじがする。
こんな嫌なカンジにはしばしば体験するところで、例えば集団の列に車で突っ込んでおきながら、倒れた被害者達を前に何の感情もなく、手立てもなく佇むだけの若者の姿ともオーバーラップする。
かつて、中国人作家・魯迅が東北大学の幻灯室で、中国人同胞が日本軍に殺されんとした時、何の感情もなく「無表情」に見つめる姿を見て、中国人は「病」に冒されていると見なし、医者ではなく作家になる決意した。
魯迅はこの時、中国人の心血を冒した「病」に気がつき、「阿Q」という人物像を通して、ソレを作品に描き出そうとした。
冒頭の「毒の正体」を一言で表現するのは難しいが、「毒はマワル」という性質上、色んなカタチで表れるものであり、その「表れ」も様々である。
例えば、一人のタレントや有名人をさんざんモチアゲテおきながら、一寸したスキャンダルを見つけては徹底的に貶めて、視聴者をひきつけるなどのマスコミの風潮も、そうした「毒」のアラワレの一つであろう。
最近の映画「ヘルター・スケルター」は、美しいモデルの肌に浅黒く現われるアザとして、世に棲む毒をシンボリック表現していたように思う。
ちなみに「ヘルター・スケルター」は、シッチャカ・メッチャカの意味である。
とういうわけで、コノ世の中「心」も「生命」も「物質」もシッチャカ・メッチャカにモツレ合いながら、様々な「毒」を作り出しているのではなかろうか。
その意味では、イジメも原発事故も似かよった土壌の中から生まれる。

最近、「デトックス」という言葉を聞くようになった。
デトックス とは "detoxification"、つまり体内から毒素や老廃物を「取り除く」という言葉からきている。
人間は食事からは残留農薬や食品添加物をトリこみ、トイレタリーや化粧品からは肌を通して化学物質をトリこんでいる。
サラニは屋外では排気ガスを吸って有害物質を取り込んでいる。
体内に蓄積されたこれらの「毒」は、体を蝕み様々な病気を発症させている。
デトックスとは「サプリメントの摂取や入浴などで、こういった体内の有毒な物質を排出しようとする方法」とされている。
そういえば効果のホドはよくわからないものの、足裏から毒素を出すというフットシートも売られている。
しかし、長い目で見た健康のためには「解毒」よりも、「抗毒」が必要ではないかと思わぬでもない。
アメリカの耕地の半分に大豆とトウモロコシが栽培され、その大半が「遺伝子組み換え」された種に替わってきている。
今アメリカの「食糧メジャー」とよばれる大企業がやっているように、草食動物に「草」にカエテ経済的に 安価な飼料であるこうしたトウモロコシが与えられ続けるとドウなるか。
体内のバクテリアは突然変異を起こして、「O157」などのウイルスに変っていくという。
したがって、こうした新型の「ウイルス」は、人間が自然界のオキテをフミにじって経済的富を追求した結果、「飼育場」で発生させたものである。
家畜だけでなく「人の命」までも犠牲にして、「安い」食肉生産が維持されているのだ。
このように人間のあらゆる活動は、自然の条件を「大幅」変えながら営んでいる以上、いつドコデ新たな「毒」を生成するとはかぎらない。
人間の身体には、カドミウムなどの有害な金属の蓄積さえ起こるらしいが、人体の金属がすべてが「毒性」なのではなく、有用な「ミネラル」成分のようなものもある。
人間にはある程度、そういう有用物質と有害物質を自然に選別する能力が備わっているものの、動物の世界で形成されているる「サラオ」という特殊空間の形成は、人間にとっても深い意味アイを含んでいるように思える。
南米のジャングルには「サラオ」という空間があって、そこに様々な動物が降りてきて「土」を食いに来る。
調査してみると、その空間の「土」には「毒消し」の作用があるのだそうだ。
それにしても、様々な動物達が集まって土を食べるサマは何とも異様である。
動物とても、この空間にくれば他の動物とも「接触」の機会が増える分、身を危険にサラサねばならない。
近年の「環境破壊」によって動物達は、従来は必要ではなかった「毒性のもの」をサエ食べざるをえなくなったという。
ソレが「毒消し」の必要を生み、「サラオ」という空間の成立事情だという。
人間の世界では、天然物から、カタチを整えたり色を見よくするために、微小な「毒」を加えている。
さらには、自然界の成長条件に手を加えるカタチで食糧増産をスルということは、結局は「毒性」のモノを生産することに他ならない。

最近テレビで、この世の中で、心の毒と物質の毒が繋がっていることを思わせる出来事をみた。
中華料理の高級食材に「ツバメの巣」があるが、最上級品の場合には1キログラムで1000ドル以上の収入があるらしい。
マレーシアのボルネオ島では、それは金鉱を掘るような作業のように行われている。
採取の採取の場所の1つであるニア洞窟の鍾乳洞では、長い棒をつなぎ合わせた数十メートルの棒を、ネラッタ天井付近の場所に立てることから始まる。
一本ズツの棒は簡単にツナギ合わされている不安定なもので、四方から、棒が倒れないようにロープを引っ張っているだけのものだ。
それらの棒を数十メートル以上も登ってツバメの巣の採取をするのだが、天井部ではソノママでは足で体重を支えることはできない。
そこで特殊な形をした木具を、ちょうど電球を取り付けるように穴に差し込んで固定して体重を支える。
それもトテモ簡単なもので、ツバメの巣をとるのは命ガケの作業であることがわかる。
実際に事故が絶えないという。
ソコデ「洞窟」をつくり人工的にツバメの巣を作ることを考える。
すなわち人々は、ツバメの巣の「養殖」に向かうことになるのである。
マレーシアペナン州のジョージタウンは、「東西交流」の歴史を伝える建築物が数多く存在し、2008年世界文化遺産に登録された。
そのジョージタウンは今、ツバメの巣を生産する「洞窟」つくりが問題となっている。
ユネスコはジョージタウンが世界遺産登録を申請した際、歴史を物語る古い建築物が重要なポイントの一つとなっていた。
ジョージタウンの「ツバメの巣」養殖は、民家や商店を改装して行われている。
そこでは、二階を窓が開いていてツバメが入りやすくし、部屋を暗くして加湿器で湿度を上げて「洞窟風」にしている。
こうしたツバメの巣の生産施設が200~300箇所もある。
これでは建物の痛みが激しさを増すばかりか、「衛生面」が一番気になるところである。
これでは鳥フルエンザをはじめ、どんな「毒」が蔓延するか分からない状況である。
この歴史の街は、確かに何かの「毒」に侵されてしまったという他はない。
何しろタカガ「ツバメの巣」を集めるために「歴史」を否定して「洞窟」に変えてしまったのだから。
文化遺産をツバメの巣に変えてしまったのだから。

「物質の毒」以上にヤッカイなのは、人の心の毒やソレを醸成する組織内の「土壌」である。
芥川龍之介の「羅生門」という小説は、この世に生じた「毒」の伝播の姿をよく表した物語ともいえる。
この小説に登場するのは、一人の善良な男なのだが、その男に「毒素」が芽生える。
その頃平安京では地震とか辻風とか火事とか饑饉などの災が続いていた。
都の門は荒れ果て狐狸や盗人が棲むようになり、引取り手のない死体が棄てられている。
平安京の門にタタズム下人も主人から暇をだされて、何もすることなく途方にくれている。
結局、餓死するか盗人になるか、に思い巡らせていたところ、門の階上で死体の髪の毛をむしりとる老婆を目撃してしまう。
この鬘にして売るのだという老婆に、ヒトカタナラヌ嫌悪と憎悪を抱いて、老婆の襟首を捕まえる。
その時老婆は、この死んだ女は蛇を干魚だといって売り歩いた女であり、そうするホカ饑死をする他なかったのだから、この女のした事が悪いとは思わない。この女もわしのする事も大方大目に見てくれるであろう、と言う。
するとコノ言葉は下人の心に今まで全くなかった「勇気」を与えた。
下人は「きっと、そうか」と確認の上、「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と、老婆の着物を奪い取り、夜の闇へと消えていく。
人間の「心」が毒をマワラセルというのは、日本の行政の中にも見出すことができる。
今は統合して名前は変ったが、「厚く生きる」という役所の名前があった。
近年、使用者の不自然行動や自殺などで有名になったインフルエンザ治療薬「タミフル」という薬の輸入販売元の製薬会社に、新薬担当の厚労省元課長が「天下って」いたことがわかった。
この元課長は1997年から薬の「副作用」を担当する安全対策課長、さらに「新薬」を審査・承認する審査管理課長を歴任し、2003年8月に退職して公益法人に約2年間勤務した後に、同社の執行役員になっている。
こういう「公益法人」を間にハサムなどの経歴をとっているのは、不正な金が「架空会社」をトオって流れるサマを連想させる。
タミフルをめぐっては、異常行動との因果関係について「否定的な」調査結果をまとめた厚生省研究班の主任研究者が、自分の大学講座に同社から寄付を受けていたことが明らかになったバカリの時期にこのことが判明している。
ところで、医師の中には、同効薬の中から一つを選択するときに「国内メーカー」の薬を優先して処方する、という方針でやっている人が少なくない。
製薬会社に「新薬の認可」は生命線だが、上記のような「組織的な毒」がまわってシマッテいては、公正で正常な認可ができるはずもない。
ひどいのは、天下り役人を採らない会社の「新薬の認可」を故意に遅らせる傾向がある。
例えば競争する国内メーカーの認可がでるまで、認可を遅らせるナドの妨害やイヤガラセをするわけである。
こうした「天下り拒否」の会社は外資系の会社が多いのだが、外資系にの中でも例外的に「タミフル」の製造販売元の この会社だけは、「天下り役人」を積極的に受け入れていた。
このようなイヤガラセで、厚労省の役人は自らの天下り先を確保しているトモいえる。
それでは、政治家が言うとおり、「天下り」を禁止すればそれでコト足りるのかいえば疑問がある。
役人の給与はその能力と仕事量に比べれば不当に安い。
ちょうど夜間・休日出勤の代償として医師が「お礼」というかたちで、患者もしくは家族から非合法に対価を得ているのと同様に、役人は「天下り」というカタチでそれまでの努力の対価を得ることになる。
だから「天下り」禁止するダケなら、官僚は他に「厚く生きる」方法を考え出すにちがいない。
むしろ官僚としてのキャリアを正当に評価し、適切な再就職先を公正なかたちで確保するのが先決である。
一方、製薬会社の側は、基礎研究からスタートした薬の候補のうち、ココマデたどり着くことのできるのはおよそ一万分の一程度、10~15年の歳月がカカルといわれている。
ちなみに新薬開発にかかる費用は最終的な段階で100億円規模になり新薬研究は製薬メーカーにとっても大変な負担になっており、「不認可」という「失敗」などアリエナイことなのだ。
クスリが癌に効く効かない以上に重大なのは、「認可」されるか、されないかが問題である。
一度クスリが出回ると、その売れ方にはスサマジイものがあるという。
製薬会社はひとつ製品がヒットすれば株価は急上昇するしてビルがたつぐらいだから、「新薬」を認可してもらうためにはカネに糸目をつけない。
そのキキメを裏づける医学データを用意してくれる医師達に便宜を図るのは、あってはならないことではあってもヤッパリおきる。
製薬会社と医師と官僚が結びつく図は、その為の過剰な「接待攻勢」にもあらわれる。
政治家も、こうした医学界・製薬会社・官僚の「毒の回り」を抑える「クスリ」でもない限りは、「国民の生活第一」なんて掛け声は、ホド遠いとモノと言わざるをえない。

写楽の「役者絵」なんていう毒気の多い絵を見ると、かえって毒気がヌカレタ気がしてくる。
「毒をもって毒を制する」という勇ましい言葉があるが、医療の世界では、緩やかに「毒」を育てて、毒に対する「抵抗力」を付けさせるなどの方法もとっているようだ。
最近亡くなった立川談志は、「毒のある」芸人といわれた。
かつて毒あるといわれたタモリもタケシも、すっかり「お茶の間」芸人の雰囲気が漂うが、談志は好き嫌いは別として「毒アル」芸人をツラヌイタといってよい。
談志には数々の名言があるが、そのひとつに「落語とは業の肯定である」というのがある。
落語は善悪を教えたり、教訓的なことを言うものではない。だかといって、ただ笑うだけのものではなく、人情ばなしや、因縁噺には人生の機微をおさえたものが多い。
談志のいう「業の肯定」とは、意味もわからず衝撃的に行動してしまうことを描いていて、人間というのはコウイウことをやってしまう面白い生きものナノダという「笑い」である。
ところで、1960年代クレージー・キャッツで一世を風靡した植木等は、もともと正統派歌手をめざしていて「スーダラ」節を見せられたとき、どんなに売れるからといわれても、ナカナカ歌う気がおきなかった。
寺の住職であった父親に相談したら、この歌は「仏教の心」に通じるといわれて、歌うことを決心したという。
その仏教の心とは人間の「業」のことで、「わかっちゃいるけど やめられない」ということなのだ。
談志は一時は政治家となって世間の表面的で偽善的な反応を切りステ、本質をアッサリつかんで言いハナッテ、そのナマイキさで反感をかったりもした。
一方で噺家としては、観客のもモヤマオヤした気分をスッキリさせてくれるという落語のスタイルが共感を呼んで、人気が衰えることはなかった。
談志は、自分の言動の「解毒作用」を意識していたのかもしれない。
談志は古典をそのまま上手く演じることには意味は無いと考えていたようだ。
どうすれば古典の持っているエッセンスを現代に通じさせられるか、若者にも古典を楽しんでもらえるかを考え、その工夫変革に死ぬまで挑み続けたサービス精神のカタマリだった。
ところで、「わかちゃいるけどやめられない」という業が人間のカワイサとかイトシサであるかぎりは「古典落語」の世界である。
しかし「毒」のマワリの激しいこの世の中においては、落語もオノズカラ「毒」を孕まざるを得なかった、ということでしょう。