球場「夢の跡」

あのアタリ、たしか「東京球場」という野球場があった。~TVで、スカイツリータワーを見て時々思うことである。
東京球場といえば、隅田川の川面にも映し出された強烈なナイター照明で、人々から「光の球場」と呼ばれていた。
東京球場は1962年、当時大映映画社長で「大毎オリオンズ」のオーナーであった永田雅一の発案により28億円の巨費を投じて建設された。
その年から大毎オリオンズ(現在のロッテ・マリーンズ)のホーム球場となる。
サンフランシスコの「キャンドルスティックパーク」をモデルにしており、内野スタンドは2階建てで、1階と2階の間にはゴンドラ席が設けられた。
永田氏のセ・リーグに、いや、巨人に負けたくないという思いが、その威容を東京の下町・南千住に輝かせることになった。
毎日オリオンズは、1969年球団名を「ロッテ・オリオンズ」と名前を変え、その翌年には「パリーグの覇者」となり、ホーム球場建設に応えた。
というわけで、この球場はオールスターゲームや日本シリーズの舞台となった。
いっときは住民にとって「下町の太陽」のようなものだったにちがいない。
しかし、斜陽の一途を辿る映画産業のため会社は経営難に陥り、セリーグ人気にオサレて客が集まらなくなった。
1972年を最後にプロの球場として使用されなくなり、その5年後に解体された。実働わずか11年間の短い命だった。
現在は荒川総合スポーツ・センターとなっている。
ロッテ球団はしばらく本拠地となる球場を失い、全ての試合をアウェイで戦い、「ジプシー球団」などと呼ばれていたこともあった。
ところで、ドコデモそうだが「野球場跡地」に行くと特別な思いにカラレる。
プレーする選手の息吹や汗の臭いが蘇ってくようであり、選手ばかりではなく、彼らのプレーを見ていた観客にとっても、ソコは「青春」が詰まった場所なのだ。
30年ほど前に、アメリカ映画で「フィールド オブ ドリームス」という映画があった。
ある男が、トウモロコシ畑を歩いていると、フト謎の声「それを作れば、彼が来る」が聞こえてくる。
その言葉から強い力を感じ取った彼は、周囲の人々がアザ笑うのをよそに、生活の糧であるトウモロコシ畑を切り開き、何かに取り憑かれたように、小さな「野球場」を作り上げる。
すると、かつて憧れだった野球の名プレイヤー達がトウモロコシ畑から次々と現われる。
選手時代の「若さ」ソノママで現われた彼らは、その小さな球場でキャッチボールをし始めるのである。
そして、その野球場に往年の名選手達が勢ぞろいして、アメリカ全土から客が押し寄せるという「荒唐無稽」を絵に描いたような映画だった。
この映画は、ケビン・コスナー主演でアカデミー賞「作品賞」を受賞した。
「球場跡地」に立つと、アノ映画をつくった人の気持ちが、よくわかる気がする。

地方の名もなき球場といえども、「輝かしき歴史」を秘めている。
たとえば埼玉県の大宮球場は、長島茂雄が千葉県の佐倉一高校時代に公式戦でたった一本放ったホームランの場所である(1953年8月1日)。
この特大のホームランは当時の新聞を飾ったし、この球場には立教大学の野球部関係者が見に来ていた。
無名の高校球児だった長島の運命は、この「一本」によって大きく展開していく。
逆にいうと、この「一本」がなければ、長島茂雄は存在しなかったともいえる。
さて、我が福岡市にはソフトバンクが本拠地とする福岡ドームがある。
それ以前の平和台球場は解体され、現在「鴻臚館跡地」として整備されている。
平和台球場の個人的な思い出は、福岡城跡の木に登って観戦する人々の「白い輪郭」が夕闇に浮かんでいたのが懐かしい。
この場所は、万葉集に歌われた三つの歌から、九州大学の中山平次郎博士が古代の迎賓館であった「鴻臚館」はこの地以外にはナイという推定のもと発掘が行われ、その推測はピタリと当った。
そして、平和台球場は古代遺跡の調査・発掘のために解体されることになった。
何しろ、西鉄ライオンズの「黄金時代」を築いた「聖地」であるだけに、往年の西鉄ライオンズのファンの「惜別感」たるや、相当なものがあったにちがいない。
さてこの平和台球場の前には、福岡市にある野球場といえば「香椎球場」と「春日原球場」で、両球場ともソレゾレの「歴史」を刻んでいる。
かつて福岡市東区香住ヶ丘(現住所)に「香椎球場」はあった。
現在は香椎浜MOTOWNになっている場所で、香椎球場は、そのジェットコースターの辺りであったという。
香椎球場が出来たのは1939年で、香椎チューリップ園(後の香椎花園)と共にオープンした。
1950年代の初頭の西鉄ライオンズ黄金時代の「二軍施設」として使用されいた。
1954年には、メジャーリーグの大スターであるジョー・ディマジオがマリリン・モンローとの新婚旅行を兼ねて来日し、この球場で野球指導を行っている。
香椎花園では、その内野スタンドの一部が「土手」として現存しているという。
1970年代始めに、香椎球場は廃止された。
また、春日原球場は1920年代から60年代まで存在した。
「春日原」は、もともとマツタケが自生するような原野だったが、九州鉄道(後の西日本鉄道)が開設して運営していた。収容人員1万人であった。
戦後すぐに、東京巨人軍もキャンプを張ったが、1949年に西鉄クリッパースがプロ野球に新規参入すると、平和台野球場との併用の形で本拠地として使用されるようになった。
板付飛行場も近く春日原には米軍の基地があったため、米軍の暮らしの風景の中にあった。
1950年に始まった朝鮮戦争以来、球場周辺が急に喧しくなったと選手達は回想している。
春日原球場は「アマチュア野球」を中心に開催され、西鉄ライオンズの若手合同練習場として使われるようになった。
西鉄の若手選手たちは、米兵から親善試合を申し込まれ、同僚にひそかに声をかけて対戦に応じ、勝てばステーキをごちそうになり、野球用具ももらったという。
あくる1951年に西鉄クリッパースが西日本パイレーツと合併し、「西鉄ライオンズ」になると本拠地は平和台球場一本に絞られた。
春日原球場のセントラルリーグ唯一の試合は1950年の「阪神」対「大洋」戦であった。
今季スタートしたDeNA球団の淵源は、「大洋ホエールズ」といい、本拠地を下関に置いていたのである。
1953年10月11日の「西鉄ライオンズ」対「東急フライヤーズ」戦が、プロ野球公式戦の最後の試合となった。
現在、JR春日駅と西鉄春日原駅の間に「竜神池」という池があるが、そのあたりが「春日原球場」があったところだそうだ。
今、付近を歩いてもソノ面影は何もない。
唯一、「春日原停留所運動場道」と記された石碑が、幽かにそのオモカゲを伝えている。
また、北九州「八幡駅前」の商店街を抜け、緩い坂道を上ると、皿倉山のロープウエイに到着する。
その皿倉山の麓に長い歴史を誇る「大谷球場」が今でも存在する。
ここは当時の社会人野球の雄・八幡製鉄がプレイした場所である。
そしてこの球場で八幡製鉄チームが、プロ野球草創期の伝説的な右腕と一戦を交えたことがあるのだ。
1935年(昭和10年)10月6日、前年末に産声を上げた東京巨人軍(現読売巨人軍)が、日本製鉄(現新日鉄)八幡製鉄所と初めて対戦することになった。
他のプロ球団の誕生は、もう少し先であるため、巨人軍は「対戦相手」を求めて5か月の米国遠征を終え、アマチュアと40試合を重ねる「国内遠征中」であった。
八幡製鉄所野球部は、同年の都市対抗で「準優勝」し、地元で絶大な人気を誇っていた。
巨人の先発は、当時注目を集めていた18歳の沢村栄治であった。
結局、延長十二回に巨人が3―2でサヨナラ勝ちし、沢村はこの試合で完投した。
八幡製鉄は敗れたもののプロと対等に戦い、ノンプロの強さを存分に示した。
ところで沢村は、1年前の日米野球で好投して注目を集めていた。
1934年12月のソノ「伝説の一戦」のグランドは、静岡県の草薙球場であった。
この試合で、沢村がベーブ・ルースを三振に打ち取るなど、アメリカ大リーグ選抜相手に8回で9奪三振無失点、失点は最終回のルー・ゲーリッグのホームランによる1失点のみと球史に残る快投を見せた。
草薙球場前にはその史実を伝えるべく、沢村榮治とベーブ・ルースの像が対峙するように建立されている。
この草薙球場では1974年の公式戦終了後に日米親善野球シリーズが開催され、そのシリーズ最終戦となった11月20日の巨人対ニューヨーク・メッツ戦が開催された。
その試合は長嶋茂雄の読売ジャイアンツの現役選手としての「最終出場試合」となったのである。
ところで「製鉄」といえば川崎製鉄のある「川崎球場」を思い浮かべる。
1954年、同年発足した高橋ユニオンズがプロ球団で初めて川崎球場をフランチャイズとした。
プロ本拠地としては歴代6球場目となる照明設備が増設され、ナイターの開催が可能となった。
ただ、周辺の工場群の電力消費がピークを迎える時間帯がたまたまナイターと重なった時には、電圧低下によって照明が消灯してしまうハプニングもしばしば発生した。それが「川崎球場名物」ともなった。
1955年からは大洋ホエールズが川崎球場を本拠地とした。
この川崎球場も様々な「記録」に彩られている。
巨人のスタルヒンが日本プロ球界史上初の300勝を達成したのも川崎球場だった。
さらに1962年7月1日に開催された大洋対巨人回戦で、巨人・王貞治が実戦で初めて「一本足打法」を披露したのも川崎球場であった。
巨人はこの試合まで投手陣が好投しても打線が繋がらず惜敗を繰り返しており、この試合前の首脳陣ミーティングで、投手コーチの別所毅彦が打線の不甲斐なさにゲキをとばしていた。
打撃コーチの荒川博は当時、王と二人三脚で「一本足打法」に取り組んでいたが、イヨイヨ実戦で試す時が来たと意を決し、練習中の王に「今日からアレで行け」と命令を下したという。
そして第一打席、王の右足がスッと上がり、快打をはなった。さらにこの試合で王は本塁打を含む三安打を放ち、王貞治にとって川崎球場は「打撃開眼」の球場となったのである。
ちなみに、スカイツリーから遠くない隅田川の土手で小学生の王貞治と後の荒川コーチが「運命の出会い」をしている。
川崎球場は、テレビの「珍プレー好プレー」番組でよく登場する球場としてもよく知られている。
1966年10月12日の「サンケイアトムズ」対「中日ドラゴンズ」のダブル・ヘッダーで、二試合とも観客100人ソコソコを記録し、観客動員数のプロ公式戦「最少記録」を打ち立てている。
試合をよそにスタンドでソーメン流しや麻雀などをしたり、カップルがイチャツイてる場面をみたら、まず川崎球場と思っていい。
というか「川崎劇場」といった方がよい。
観客の中には、隣接する川崎競輪場の競輪を三塁側スタンド最上段から見るためにきていたという「都市伝説」サエも残っている。
大洋球団はカネテから川崎球場に限界を感じ、隣接する横浜市に本拠地を移転する構想を持っていたが、当時横浜市長だった飛鳥田一雄の同意のもと覚書を取り交わし、横浜球場に移り「横浜ベイスターズ」と名前も変えた。
その後、1978年から1991年にかけての14シーズンは、ロッテが本拠地とした。
著しく老朽化した川崎球場では誘客が望めないとしてロッテも、千葉マリンスタジアムに本拠地を移転した。
そんな「切ない」川崎劇場は老朽化が著しくなり、一試合中4回も電気がキレルという伝説を残しつつ、閉幕のハコビとなった。
さて「川崎劇場」の終幕は観衆21000人がつめかけ、ロッテ対横浜の試合でロッテで降ろされた。この試合ロッテが横浜に22対6で勝利している。
勝利投手・黒木知宏/敗戦投手・斎藤隆と記録に残っている。

現在、早稲田大学総合学術情報センター内の一角に、胸像と石碑が立っている。
胸像は早大野球部初代部長の安部磯雄、その脇に立つのが早大野球部を長きにわたって指導した飛田穂洲である。
飛田は、日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、「学生野球の父」と呼ばれた。
また安部磯雄は、福岡藩士の次男に生まれ地元の私塾向陽義塾、同志社大学で学び、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となった。
キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。
また、早稲田大学野球部創設者でもあると共に、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれた。
個人的な感想をいうと、「社会主義者・安部磯雄」と「日本野球」とはナカナカすぐには結びつかない。
安部の胸像の横にある碑は、「ここにかつて野球場があった」ではじまる。
昭和が終わりを告げようとする1987年11月まで、ここは野球場だったのである。
戦前は「戸塚球場」の名で知られ、戦後は「安部球場」と名を変えた。
この球場は1902年10月、学校創立20周年記念式および早稲田大学開校式にともない新設された。
以後85年、日本野球史とともに歩んだ。
完成したばかりの25000人を収容できるスタンドには「早慶戦」を見に超満員となり、周囲の道々まで見物客で埋め尽くされたという。
この試合を機に、「早慶戦」は日本国中を熱狂のルツボとなし、「大学野球全盛期」をむかえる。
神宮球場以前は安部球場が大学野球のメッカであったのだ。
また驚くべきことは、日本最初のプロ野球リーグ戦も、この球場で開催されたのである。
それが、1936年7月1日の「巨人軍」対「名古屋金鯱軍」(現中日ドラゴンズ)の一戦であった。
巨人の先発は「速球王」沢村栄治であったが、名古屋軍の猛打の前に、沢村は3回でノックアウトされている。
また、ラジオがプロ野球の試合を「実況放送」したのも、この日が初めてだったという。
しかしこの球場はカゲの側面もあった。
太平洋戦争中、学徒出陣壮行試合とし「最後の早慶戦」が開催された。
多くの学生にとって「戦死」しかない時代であり、歓声が渦巻いたスタンドも、日本初のナイター試合を照した照明塔も、すでに軍艦や戦闘機、弾丸へと生まれ変わるべく供出されていた。
戦後は主に早稲田大学野球部の練習場となった。
そして1987年11月22日、この球場「最後の日」として「オ-ル早慶戦」が催された。
試合終了後、グラウンドの土を集める人々の姿があった。

我が地元球団のホークスは大阪の「南海ホークス」が福岡にやってきて、「ダイエーホークス」として再出発した。
当初、戦績は芳しくなかったが、「閉店まぎわのダイエーホークス」とネバリを見せる球団に成長していった。
何しろソレマデは、「閉店まじかの大バーゲンセール」とヤユされていたのだから。
そして1999年、王監督のもとで初優勝した。
ところで、南海ホークス時代に使われた「大阪球場」は大阪市民に惜しまれながら閉鎖となり、1998年に解体されたが、しばらくの期間、「住宅展示場」として使用された。
スタンドに囲まれた新築住宅を見た人々のコメントが面白かった。
曰く、「完璧なゾンビ防御壁だ/最大の問題は水と食料をどうやって確保するかだ/FPSゲームのリアル戦場か/名探偵コナンのセットか/台風とか地震でも大丈夫ってやつだろ/住んでいる人を応援すればいいのか/バトルロワイヤルってやつか」などなど。
今、日本で「聖地巡り」といえば、若者達がアニメの舞台を訪問する「巡礼」の旅が流行っている。
負けずに、おじさん達の「聖地巡り」を企画するならば、「球場跡地めぐり~ツワモノドモの夢の跡」とかいうのは、どうでしょう。