ライフワークとして

「ライフワーク」とでもいうべきものに出会えた人間は、それが仕事であろうが、プラベートであろうが、幸せな人であろう。
すくなくとも、年をとってすることがなくなったという寂しさを味あわなくてすむ。
そしてそのライフワークが世の為、人を喜ばせることに繋がることなら、尚更であろう。
作家の本田健は、ライフワークとは、自分のなかにある「幸せの源泉」から湧き出る情熱を使って自分らしさを表現し、まわりと分かち合う生き方と定義している。
「幸せの源泉」とは、そこにつながるだけで、本人が幸せになるようなこと。その人らしい本質で、静かなワクワクを感じ、つきることのない情熱がある場所であるという。
また、作家の外山滋比古は、ライフワークとは、それまでバラバラになっていた断片につながりを与えて、ある有機的統一にもたらしてゆく「ひとつの奇跡」、「個人の奇跡」を行うことにほかならない。
その人にしかできない、一生をかけてする仕事や事業、それがライフワークであると述べている。
つまり、ライフワークと単なる「趣味」の違いは、そうした社会との分かち合いとか、自分の才能とか経験を「全人格的」に統合するようなものであるということだ。
ただ、何か一つのことを生涯を続けられるだけのライフワークとするには、心を深く動かすだけの「何か」があったにちがいなのだが、そのことに涙を流したり、幸せを感じたりするだけの「感受性」があることが大前提であろう。
それがあってこそ、そのライフワークにフレタ人々の「幸せ温度」を急上昇させることができる。

震災を機に日本に帰化し日本に骨を埋めることを決意されたドナルドキーン氏は、東北の震災による瓦礫の跡に終戦直後に東京に見た「焼け跡」とを重ねたに違いない。
そして、己の「ワーク」と「魂」のよって立つところが、「源氏物語」によって教えられた「日本人の心」であったことをあらためて感じたに違いない。
ところで、キーン氏は太平洋戦争の終結後「翻訳将校」として日本という「敵対国」に、「源氏物語」の国として「憧れ」を抱いてやってきた。
あまり適切な譬えではないが、母校と戦うライバル高校の監督になったような多少「引き裂かれた」感覚もあったに違いない。
当初、キーン氏はヨーロッパの古典文学を研究していたが、ニューヨークのタイムズ・スクウェアの古本屋の山積みされたジャンク本の中からたまたま見出したのが、「Tale Of Genji」であった。
キーン氏によると、ナチスや日本のファシズムの興隆という世界の「暗雲」と比べて、「源氏物語」の世界には戦争がなく戦士もいなかった、ということだった。
そしてキーン氏は、なによりも「光源氏」の人物像にひかれたという。
「主人公の光源氏は多くの情事を重ねるが、それは何もドン・ファンのように自分が征服した女たちのリストに新たに名前を書き加えることに興味があるからではない。
光源氏は、深い哀しみを知った人間であったということだ。
それは彼がこの世の権勢を握ることに失敗したからではない。
彼が人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだ」と言っている。
「源氏物語」で開眼したキーン氏は日本文化への関心を深め、コロンビア大学で角田柳作教授の「日本思想史」を受講した。
角田教授は、アメリカで「日本学」の草分け的存在であった。群馬県うまれで東京専門学校(早稲田大学)を卒業している。
角田先生は授業に没頭するあまり「著作」を残すことはなかったため、その業績の多くを知ることはできないが、コロンビア大学で「センセイ」といえばこの人のことだった。
キーン氏の述懐によれば、日本学の受講者がキ-ン氏「一人」であったにもかかわらず、たくさんの書物を抱え込んで授業に臨んだそうだ。
キーン氏が「辺境の学問」であった日本文学を世界文明の中で「普遍的」なものを感じられたのは、角田教授との「出会い」が大きかったといえるだろう。
らだキーン氏にとって日本語を勉強することが将来どんな意味があるかは全く不透明であったが、1941年キーン氏はハイキング先で「真珠湾攻撃」のニュースを知り、これが氏の人生を大きく変える事になる。
アメリカ海軍に「日本語学校」が設置され、そこで翻訳と通訳の候補生を養成している事を知り、そこへの入学を決意した。
海軍の日本語学校はカリフォルニアのバークレーにあり、そこで11カ月ほど戦時に役立つ日本語を実践的に学んだ。
そしてハワイの真珠湾に派遣され、ガダルカナル島で収集された日本語による報告書や明細書を翻訳することになった。
集めた文書多くは極めて単調で退屈なものであったが、中には家族にあてた兵士の「堪えられないほど」感動的な手紙も交じっていた。
「海軍語学将校」ドナルド・キーン氏が乗る船は太平洋戦争アッツ島付近で「神風特攻隊」の攻撃をうけ九死に一生を得るが、キーン氏にとってそんな底知れない恐ろしさをもって迫ってくる狂信的な日本兵と、「源氏物語」の「平和主義」とはナカナカ結びつきにくいものがあった。
日本軍は兵士達に「日記」を書かせることにしていたのであるが、ガダルカナルで集められた日本兵の心情を吐露した「日記」を読むうちに、他の米兵とは全く違う思いで「日本」を見つめたに違いない。
キーン氏はグアム島での任務の時に、原爆投下と日本の敗戦を知った。
キーン氏は中国の青島に派遣されるが、ハワイへの帰還の途中、上官に頼みこんで神奈川県の厚木に降りたち一週間ほど東京をジープで回ったという。
キーン氏の「憧れの日本」は壊滅状態にあり、失望を禁じ得なかっものの、船から見た「富士山」の美しさに涙が出そうになり、「再来日」を心に誓ったという。
そして、コロンビア大学の角田教授の下で再び日本語を学んだのだが、戦争から帰還して日本語を学んだ者の多くは「中国学」に転じた。
多くの学生は、日本を中国のモノマネ国としか思っておらず、それを深く勉強しようとは思わなかったからだ。
その後キーン氏はイギリスのケンブリッジ大学で日本語の研究を続けたることになった。
ケンブリッジでは数人の学生と共に日本の古典文学を学んだが、そのせいで日常の会話でも日本の「古文調」で行われた。
たとえば「ジョンは真面目な男」というのを「ジョンはひたすらなをのこ」といった会話がイギリス人の間でかわされていたというから、「世にも奇妙な出来事」がそこに繰り広げられていたのだ。
ケンブリッジで、哲学者ラッセルや小説家のフォークナーなどとも知り合ったが、最大の出会いは「源氏物語」の翻訳者であるアイサー・ウェイリーとの出会いであった。
その後キーン氏はアメリカに帰国し1953年、研究奨学金をもらって、ついに日本に留学生として再来日した。
その初日、朝の目覚めて列車が「関ヶ原」を通過した時に、日本史で学んだその地名に感激したという。
キーン氏は1962年より10年間、作家・司場遼太郎や友人の永井道雄の推薦で、朝日新聞に「客員編集委員」というポストに迎えられた。
そして初めて新聞に連載したのが、「百代の過客」で、それは9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた「日記」の研究だった。
キーン氏が戦時に語学将校として戦場で収集された手紙と手記と格闘して以来、手記(日記)こそが日本人が世界をどう見ているかを直接的に知ることができるヨスガであった。
ここにその年ノンフィクションの最高賞をとった「百代の過客」の原点があった。

故・司馬遼太郎氏によれは、日清日露戦争の勝利で日本は「坂の上の雲」に達したかと思えたが、それ以後は日本が次第にリアリズムを喪失していった過程だったという。
それ以後、大日本帝国が出口の見えない濃い雲の中に入り込んでいった感じがする。
そのことがムキダシとなった事件が、1932年の青年将校による犬養毅射殺事件で、「暗雲」立ち込めるというのがピッタリの事件であった。
犬養首相は、護憲派の重鎮で「軍縮」を支持しており、それが海軍の青年将校の気に入らない点だった。
また犬養首相は中国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友だった。
それゆえに犬養首相は満州侵略に反対で、日本は中国から手を引くべきだという持論をもっていた。
こうした首相の存在が、大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにツラナル大陸利権を狙う新興財閥にとって、ジャマな存在となったという背景がある。
さらに日本が先が見えない雲の中に入り込んだことを示したのが、1939年当時、国内で「勝利」と伝えられたノモンハン事件であった。
満州とロシアとの国境ノモンハンで、日本軍の装備と組織力は、ロシアの近代兵器を前に徹底的に「無力」であることを教えられるほどに、無惨に破れたのであった。
ところで、犬養毅の孫娘で作家の犬養道子さんが、自伝的小説「花々と星々と」で、この515事件について、巷間にはさまざまに伝えられているが、これ以外に真実はないと断言しつつ、その顛末を紹介している。
//海軍と陸軍の青年将校ら五人が首相官邸に突入してきて夕食前の食堂に向かっていた祖父と母と弟(康彦氏:四歳)に廊下で遭遇し、やにわに一人が祖父に向かって引金をひいたが弾丸は出なかった。
「まあ、せくな」ゆっくりと、祖父は議会の野次を押える時と同じしぐさで手を振った。
「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう・・・ついて来い」
そして、日本間に誘導して、床の間を背に中央の卓を前に座り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、 ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう・・」
その時、前の五人よりはるかに殺気立った後続四人が走りこんできて「問答無用、撃て!」の大声。次々と九つの銃声。そして走り去る。
母が日本間に駆け入ると、こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中で祖父は卓に両手を突っ張り、しゃんと座っていた。指は煙草を落していなかった。
母に続いて駆け入ったテルのおろおろすがりつく手を払うと、「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」
午後6時40分に医師団の最初の発表があり、こめかみと顎から入った弾丸三発。
背にも四発目がこすって通った傷があるが、「傷は急所をはずれている。生命は取りとめる」
父・健が大きく笑って言いに来た。
ち 「お祖父ちゃん、冗談いってさ、いつもとおんなじだよ。
9つのうち3つしか当たらんようじゃ兵隊の訓練はダメだなんて言ってるよ」と。
しかし、結局、午後11時分に祖父の顔に白布がかけられた。//
この場面で、「健さん」とは犬養毅の長男で犬養道子さんの父親にあたるのが、アノ犬養健法務大臣である。
犬養健法相といえば、「造船疑獄」の指揮権発動で佐藤栄作運輸大臣らの逮捕を免れさせて政治生命を失った人物だが、意外なことに学生時代は「白樺派」の小説家でもあった。
(ちなみに犬養健が芸妓に生ませた子が安藤和津で、俳優の奥田瑛二と結婚している)
そういう関係で犬養家は、児童文学作家の石井桃子さんと交流があり、当時石井さんは犬養家の司書のような仕事をして通っていたという。
そして515事件が起きた1933年に、石井さんは犬養家で一寸した[出会い]を体験している。
ある雑誌にその「出会い」を次のように書いている。
//その頃、文藝春秋に勤めていた私は、仕事の関係で親しくしていただいていた犬養健さんの御宅にお邪魔しました。
そこにイギリスから帰国された健さんのお友達から、お子さまたち(道子さんと康彦さん)へのプレゼントとして、”The House at Pooth Cornerr”という本が届いていたのです。
おふたりに「これ読んで」と言われて読みはじめ「雪やこんこん、ポコポン」というところにさしかかって、私はふいに不思議な世界に迷いこみました。
紗のカーテンのようなものをくぐりぬけて、まったく別の温かい世界をさ迷っていたのです。//
子供達の不満げな様子をよそに、石井さん読み進むうちに自然と黙読になってしまった。
その時の気持ちは、あたたかいもやをかきわけるような、またやわらかいとばりをおしひらくようなき持ちであった、という。
ちなみに、ここで「イギリスから帰国された健さんのお友達」というのは尾崎秀実などといっしょにゾルゲ事件で逮捕された西園寺公一のことである。
石井桃子さんは、515事件で祖父・犬養毅を青年将校の凶行により失った孫達に、英語訳がでたばかりの「こぐまプ-サン」を即興で訳して語り聞かせたのであるが、これは後に児童文学者となる石井桃子とライフワークとの出会いの場面でもあった。
その時の出会いから7年後、石井さん訳した「プーさん」が岩波書店より出版された。
そして多くの童話が石井さんによって翻訳され、日本に紹介されたのだが、そのうち石井さん自身が自らの手で、日本人の子供達むけに「文学」を書こうという気持ちになり、そして出来たのが、「ノンちゃん雲に乗る」であった。
八歳の女の子、田代信子(ノンちゃん)は、ある春の朝、お母さんと兄ちゃんが自分に黙って出かけたので、悲しくて泣いていた。
木の上からひょうたん池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまう。
気がつくとそこは水の中の空の上。
雲の上には白いひげを生やしたおじいさんがいて、熊手ですくって助けてくれた。
ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族の身の上を打ち明ける。
評論家の松岡正剛氏は、「ノンちゃん雲に乗る」が子供時代のバイブルだったという。
汲めども尽きぬ「言葉の遊園地」だったそうだ。
石井さんの「ノンちゃん雲に乗る」は1947年に初版本がでて、1951年に第1回芸術選奨の文部大臣賞を受けている。
「ノンちゃん雲に乗る」では、主人公が水たまりの中の大空に落ち込んで、別の世界に入り込んでしまう話だが、幼き日にドコカ別の界につながる「入口」があるという空想は誰もがすることではなかろうか。
個人的には、モグッタふとんの足元の方とか、洋服ダンスの鏡の向こうが、違う世界に繋がっている空想したことを思い出す。
石井さんは、その入り口を「水たまり」の中の大空というファンタジーの世界にしたのが、想像力にかける自分とは違うところである。
ところで、この「ノンちゃん雲に乗る」はすぐに映画化され、ノンちゃんに扮したのは芦田愛菜ちゃんにもまさる「天才少女」と騒がれていた鰐渕晴子であった。
先述の松岡氏は、「ぼくはこの銀幕のなかの美少女に魂を奪われるほどに恋をしたからひょっとするとこの映画の記憶のほうがぼくの読書体験を甘美なほうへひっぱっているのかもしれない」と語っている。
ところで、外国のファンタジーで「指輪物語」などを翻訳した堀切リエさんは、「ノンちゃん雲に乗る」を何十回も読んだそうだ。
その彼女が知人から聞いた話として次のような印象的な話を紹介している。
//その知人が小学校の代用教員をしていたころ、写生の時間に、一人、下ばかりみてうつむいている子がいた。
普段からあまりしゃべらない子で、少々障害があるようで、心配している。何度見まわっても、その子はずっと下を向いている。
放課後、集めた絵を見ていると、その子の絵がでてきた。
その絵には、丸い縁取りがあって、青黒くぬられていた。いったいこれはなんの絵なんだろう。
その子を呼んでたずねると、「水たまりに写った空を描いた」と答えた。
彼はその絵を教室の壁のいちばん目立つところにはり、みんなに「この絵は水たまりに写った空を描いたんだ。すばらしいだろう」と見せた。
代用教員の彼は、「子どもの表現とはこういうものなのか」と深く感動した。//
この話には後日談があって、その絵をコンクールに出そうとしたら、校長先生にとめられ、結局はその絵が原因になって、彼は代用教員をやめてしまったという。
この話は、人間の興味や関心、才能、指向性などは早々に「摘み取られる」ものも多く、ライフワークなどというものが、そうそう簡単に育つものではないということも示している。