白い服の人

先日、作家で詩人でもある青木新門氏の「いのちのバトンタッチ」という講演を聴くことができた。
副題は「~映画”おくりびと”によせて~」であったが、青木新門氏は映画「おくりびと」の元となった「納棺夫日記」の作者である。
この講演を聴けたことは大変幸運と思い、「記録」としてマトメ留めておきたい。
講演の日時は2012年9月15日(土)、講演会場は「サンレイクかすや」であった。

今から20年ほど前に青木氏宅に、俳優の本木雅弘君から突然電話があった。今度出すインドを旅した時の「写真集」に、青木氏の「納棺夫日記」の文章を入れたいが、カマワナイかという内容だった。
青木氏は、どこで「納棺夫日記」を読んだのか訝しく思いながら、全く問題ないのでドウゾご自由にという返事をした。
「納棺夫日記」は1993年3月に自費出版したもので、わずか500部シカ出していなものだった。
後で知ったところでは、本木君はインドで「納棺夫日記」を読んだ観光客と会ったのだそうだ。
しばらくして、本木君の「写真集」が送られてきた。
本木君が上半身裸になってガンジス河の中に足を入れて、手の上に菩提樹の葉っぱに蝋をつけ、火を付けて流そうとしている写真があった。
それは日本の精霊流しのようだが、ソノ写真の傍らに「そのウジもいのちなのだ。そう思うとウジたちが光ってみえた」という「納棺夫日記」の言葉が引用されていた。
当時26歳の本木君が、ウジが光って見えたという文章を選んだということに驚きを感じた。
実は、ソノ言葉こそが「納棺夫日記」の主題だった。
インドのべナレスはヒンズー教の聖地中の聖地で、多くの人がそこで火葬され遺灰を川へ流されることが最高の幸せと信じている。
そこで、ガンジスの川べりで死を待つ人々が多くいる。
薪をたくさん買える人は全部きれいに死体を焼くことができる。
そして銀の皿の上に遺骨をのせて遺族の人たちがそれを小舟に乗って河の中に流す。
が、薪を充分に買えなかったり、遺族がいない人は、頭だけを焼いて体はそのまま流す。
そういうものが流れるところへ、人々は川に浸かって沐浴している。
煙があるところに、物乞いがいて、犬が歩いて、猿がいて、牛が座っていて、牛の糞がいっぱいある。
汚いというより、生も死も混沌とした世界である。
本木君はソノ風景に「ウジが光って見えた」という文章を引用しだのだ。
それから2年ほど青木氏のもとには何の音沙汰はなかったが、本屋で「ダヴィンチ」という雑誌の表紙に本木君がでていた。
本木君が本をもってソファーに横たわって「この本を映画化したい」という見出しがでているのだ。
手元の本をヨク見るとソレは青木氏の「納棺夫日記」に外ならなかった。
早速、青木氏は本木君に手紙を書いた。
葬式や納棺などの場面を映像化すると暗くて重いものになる。
一般の方に見てもらうには、伊丹十三監督の「お葬式」のようなヤヤ茶化したものでないと見てもらえない。そんな映画にダケはしてもらいたくない。しかしインドで感じた本木君の「ウジが光って見えた」という「視点」なら映画化できるかもしれない。
イッソ本木君が一人でヤッテはどうかと書いた。
ちょうどチャップリンの「ライムライト」のように。
本木君は青木氏が映画化を「許可した」ものと解釈したのか、とても達筆な「返事」をくれた。
自分は一介の俳優でしかない。監督もできなし、脚本も書けないが、とにかく頑張ってみますと書かれてあった。
それから5~6年音沙汰もなかったが、後で知ったことによれば、その間本木君はいろんな映画関係者に「映画化」の話をしたけれども、断られ続けていた。
そんな中ただ一人、中沢敏明というプロデユーサーが興味を示した。
本木君の情熱に後押しされた中沢氏のハタラキかけで、いくつかの企業が資本をだした「制作委員会」というものが出来たのだ。
そして、しばらくして青木氏の処に「脚本」が送られてきた。
脚本を読んだ青木氏は正直ガッカリしたという。
青木氏の本は「立山に雪がきた」という書き出しだったが、シナリオの最初に出てきたのは鳥海山で山形が舞台になっている。
映画の舞台が浄土真宗で占められた富山ではなく、真言宗の多い山形である。
最後の場面では「人間愛」で終わっていて、「後生」(来世)の一大事の観点ははない。つまり「おくりっぱなし」なのである。
宗教的なものは全部外されていて、少なくとも青木氏が思うところとの「着地点」とは違うと思った。
制作委員会に手紙を出して「修正」をセマったが、全部決定しているので直すわけにはいかないというスゲナイ返事だった。
ただ原作者としての「青木」の名前は外してくれと言ったが、勝手に「著作権放棄」なんてしまっては、社会の商業秩序に反すると言われた。
しばらく経って、本木君から突然「一度お目にかかりたい」と電話があった。
今用事で会う時間がナイと嘘を言ったら、今富山のホテルにいるという。
断ることもできずに、小さな小料理屋で会うことにした。
その小料理屋の女将が本木君を見ると興奮して、注文もしていないのに豪華な鰤の刺身を持ってきた。
しかし本木君はその刺身の前で正座したママ箸をつけずに、1時間くらい背筋を伸ばして座っている。
今時コンナ礼節を知る若者もいるのか感心し、脚本のことはドウデモいう気がしてきた。
青木氏が、「映画は映画、本は本ということでいい。それで手を打ちましょう」と言うと、本木君はやっと刺身に手をつけてくれたという。
そしてソノ晩は二人で夜遅くまで話をした。
折りしも「おふくろさん」の歌で森進一と作詞家の川内範康氏がヤリアッテいたが、青木氏は、川内さんのようなことは絶対しないから安心してくれと約束したという。
数年後、本木君から「完成試写会」の案内と一緒に招待券が一枚入った封筒が送ってきた。
青木氏は、有楽町館の映画館で「試写」を見て、お棺とか死体を扱いながらも、アレダケ美しい映像に仕上がっていたことに感動したという。
何よりも満足したことは、映画の題は「おくりびと」となっていて、どこにも原作者である青木氏の名前が無かったことであった。
そしてしばらしたある日、青木氏のもとに本木君から電話があって「アカデミー賞外国部門賞にノミネートされました」という喜びの声であった。
ノミネートだけで名誉とされるのに、青木氏はツイ「絶対オスカーとりますよ」と言ってしまった。
本木君はナゼとれるのか、ソノ根拠は何かとシツコク聞いてきたので困ってしまったが、青木氏次のように答えたという。
最澄に「一遇を照らす、これ国の宝なり」という言葉がある。
例えばインドで何百万人という人が亡くなる。
マザー・テレサはソノ何百万人中のほんのワズカな行き倒れの人々を「死を待つ人の家」で看取るということを行っている。
それコソが「一遇を照らす」行為だが、それが人々の感動をよびノーベル平和賞を与えられた。
そういう意味で「ウジの光りはオスカーの光りに繋がっている」と言った。
本木君は笑っていたが、青木氏は電話を切って我ながら格好イイこと言ったものだと自分に感心したという。
実はこの時、イスラエルの戦争映画が「最有力」だったのだが、ブッシュの時代だったらソレが「オスカー」をとったかもしれない。
しかし今や大統領はブッシュからオバマに変わっている。
オバマは6万人集まる選挙の大会をキャンセルしてハワイにいる危篤の祖母に行った人物である。
青木氏は、もしアメリカ人の価値観が変化してオバマを選んだのであれば、その価値観の変化が「おくりびと」後押しするかもしれないと思ったという。
結局、アカデミー賞・受賞決定の報告に、青木氏は世の「商業主義」に屈せず、アキラメズこの作品を完成させた本木君に、心底「敬意」を表したいと思った。
しかし青木氏にとって、「おくりびと」が映画作品としてドンナに素晴らしいとしても、「納棺夫日記」とはドウシテモ一線を引かざるを得ないものだった。
それは「おくりびと」において、「後生」(来世)という一大事が完全に削除されてしてしまっているということである。
だからこそ原作者「青木新門」の名前を外してもらったのだ。
青木氏は早稲田の学生時代、60年安保の渦中で学校は「休講」が多く、マルクスやサルトルなど唯物思想や実存哲学の本ばかり読んでいた。
青木氏の母親は離婚して富山の駅前で飯屋をやっていた。
ところが60年安保が成立した頃、母危篤の電報があったので店を手伝手伝っているうちに、母親の病気は治った。
さて東京へ帰ろうと思う頃に恋人ができソノ恋人と付き合いながら母の店を手伝っているうちに、学校がマスマス遠のいて広末涼子さんみたいに大学を「中退」してしまった。
その頃から詩を書くようになり、富山の詩人たちに大変評価されて詩人気取りだったが、母親と店の経営をめぐって喧嘩となって、自分で飲食店を経営することになった。
親しい詩人や画家の協力で店が開けたが、そういう人ばかりがの溜まり場のようになってしまった。
彼らは貧乏で金をツケにするため、経営は苦しく店をやめようと思った頃、吉村昭という作家が店に入ってきた。その吉村氏が名刺を置いていった。
コノママ店をやっていても借金が増すばかりだし、詩を書いていてもダメだろう。
小説ならば金にナルカと思い、小説を書いてみようと思った。
農地改革で財産を失い全部売り尽くした祖父のことを書いて吉村昭氏のところへ送ると、ゴミに捨てられたと諦めていたら、4ヶ月くらい経ったときに一冊の本が送られてきた。
当時日本の投稿雑誌としては最高の同人雑誌に青木氏の作品が載ったのである。
合評会に行くと丹羽文雄や吉村昭・津村節子夫妻、三谷晴美(瀬戸内寂聴)さんらがいて、津村節子さんに褒められて舞い上がってしまった。
イッパシの作家気取りで原稿用紙を大量に用意して書き始めた途端に、今度は店が「不渡り」を出して倒産に追い込まれたのである。
この時、「倒産」のコワサを思い知った。
前日までニコニコしていた酒屋の親父が、倒産するとマルデ暴力団みたいになる。
東京に逃げようと思った時、妻が子供を生んだために逃げるに逃げられない状態になった。
夜中にボロボロのアパートへ引っ越し、六畳一間のアパートで原稿用紙に向かうことになった。
ところが、生まれたばかりの赤ん坊が狭い一間でギャァギャア泣く。
その頃から妻とドライミルクが買えないと喧嘩が絶えなくなるようになった。
そんな時、女房が投げつけた新聞が顔に当たって新聞がポロッと下に落ちた時、求人広告欄に小さく「新生活互助会社員募集」と書いてあるのが眼にとまった。
仕事の内容はわからないが、住所がアパートのすぐ近くであった。
見にいったら普通の民家で、ウサン臭い会社だなと思いながらも、毎日ドライミルクで喧嘩をするのもカナワンと思い、「履歴書」を書いて出かけた。
会社の戸を開けた瞬間、事務の机が二つ置いてあり、その二つの机に橋を渡すように「お棺」が一つ置いてあった。
これはヤバイと思い帰ろうとした瞬間、お棺の向こうに座る一人の男と目と目が合ってしまった。
入って行かざるをえなくなり履歴書を出しら、男は「君も倒産したのか、俺も倒産したのだ。一緒にやらないか」と言われて即採用となった。
青木氏にすれば、あくまでも「ドライミルク問題」を解決するために行ったトコロが「葬儀社」だったわけである。

当時は今と違いホトンドの老人はが自宅死亡だった。
自宅で亡くなった方、長く患った方の今まで着ていた着物を脱いで綺麗に拭いて、そして白衣や経帷子をお着せして手を組んで数珠を持たせ、お棺の中に入れるという湯灌・納棺の作業は、北陸では百パーセント「親族」でやっていた。
人間が死ぬと、皮袋に水を入れたようなものである。横にしたり動かすと耳とか鼻とか口とか下の穴から何でも出てくる。
今は9割が病院死亡だから、看護師さんが綺麗に清拭して耳とか鼻とか口の奥へ綿を詰めるセットがある。
そういう処置をして綺麗になった状態で、おまけにドライアイスがあり下が凍って何も出てこないようになっている。
しかし当時まだドライアイスも普及していなかった。
亡くなった人の扱いがヒドイ家で青木氏が「そういうことなさらずに、こういう風にされたらどうですか」と言うと、酔っぱらいが「そんなに詳しいならお前も手伝え」と言われて手伝わされた。
手伝っているうちに誰も居なくなってダァーと汗をかきながら何とか仕事をしたことがあった。
そうしたらソレを見ていた親族の一人が会社に来て「ご遺体を納棺してくださる人がおられるか」と聞いてきたため、社長から「そこまでやってくれたのか」とエラク褒められて金一封を貰ったこともあった。
そのうち青木氏は他の仕事を全部外され「納棺専従社員」ということになってしまった。
しかしソノ噂は親族に広まっり、こんな狭い所でそんなことやられたら、親族は街も歩けやしないという言い方をされた。
当時の青木氏は、中退、失恋、倒産とヤルことナスこと全部挫折している状態だった。
その結果、青木氏の言葉によると納棺夫にまで「身を落として」しまったのである。
恨みガマシクなって、人の意見を素直に聞けなくなっていた。百枚ほどやりとりしていた年賀状もホトンドこなくなっていた。
ショックだったけれども仕事ダケはどんどん増えていき、「ドライミルク問題」はスッカリ解消していた。
そんなある晩、妻の布団に近づこうとした時「汚らわしい」という言葉を浴びた。
妻も青木氏の仕事の中身を噂で知るようになっていたのである。
妻には、子供がお父さんの職業は何かと聞かれたら困るので、子供が学校に行くまでには辞めてくれと言われた。
それもそうだと思い、作家になる意欲もなくなり、葬儀社を辞めようと思いっていたころ、思わぬ出来事が起こった。
青木氏がアル仕事でアル家の玄関の前まできて、ハットしたことがあった。
そこは東京から富山に戻って最初に付き合っていた恋人の家であったのである。
父がうるさいからといって午後十時には、恋人をこの家まで度々送ってきたこともある。
父に会ってくれと何回か誘われたが、結局会うことなく終わってしまった。
ソノ人の父親は中堅どころの会社の社長で、青木氏はコンプレックスでとても会いに行けなかったのである。
彼女は横浜に嫁いだと風のウワサに聞いていた。
青木氏は、その家に意を決して入っていった。
本人が見当たらなかったのでホットして湯灌をはじめた。
もう相当の数をこなし、誰が見てもプロと思うほど手際よくなっていたが、汗だけは変らず、死体に向かって作業をはじめると同時に出てくる。
青木氏が、額の汗が落ちそうになったので、袖で額を拭こうとした時、いつの間にか横に座って額を拭いてくれる女性がいた。
澄んだ大きな目一杯に涙を溜めたカツテの恋人がソコにいたのである。
作業が終わるまで横に座って、青木氏の顔の汗を拭いていたという。
退去するとき、彼女の弟らしい喪主が両手をついて丁寧に礼を言った。
その後ろに立ったままの彼女の目が何かいっぱいに語りかけているように思えてならなかった。
青木氏は、彼女のその驚きや涙の奥に「何か」があったのを察した。
しかしそれは、軽蔑や哀れみや同情など微塵もなく、青木氏の「全存在」をアリノママ受け入れられたように思える「何か」であった。
彼女は障子の陰とか、襖の陰から覗くことで済ますことも出来たカモしれないのに、青木氏の横に座って父親の額をなでたり頬をナデたりしながら、時々青木氏の顔を見て汗を拭いてくれたのである。
その目は涙目だったが、青木氏がやっていることも含めて「丸ごと」認めてくれているような感じを受けた。
その時青木氏は、この仕事をこのまま続けていけそうな気がしたという。
会社のすぐそばに「医療機器店」があったが、青木氏は何を思ったか、医者が外科の手術をする時の白い服を一式買いこんだ。
他にも往診用の鞄まで買って持ち歩き、納棺の時に白い服に着替えた。
どうせやるなら、服装も大事だ、礼儀礼節も大事だ、言葉使いも大事だということでキチッとやるようになったのである。
青木氏はソレマデは黒い服を着て、黒いネクタイをして、ホコリまみれの服を着て嫌々やっていた。
あるところへ行ったら、90歳くらいのおばあちゃんが這って近づいてきて「先生様、私が死んだら、来てもらえんかね」と「生前予約」を頂いた。
そのうち会社にも、万一のことがあったら、あの「白い服を着た人」に来てもらうにはどうしたらいいかと問いあわせが来るようになった。
嫌々やっていた頃は、仕事が終わったら「イツまで居るのか、早く帰れ」みたいな扱いだったのが、それをキチッとしてやるだけで「先生様」になるのである。
青木氏は、この時同じ行為をやるにも、嫌々やっているのと、キチッとやるのとでは雲泥の差ほどの「社会的評価」が違ってくることを学んだという。

以上が青木氏の講演の「前半」である。
青木氏がナゼ原作者である自分の名を映画「おくりびと」からハズスことにこだわったのか。
その思いはコノ講演の「後半」で語られたが、それは次ページに紹介したい。