丸投げ・看板貸し

最近目に付く出来事~「丸ナゲ」「看板貸し」、それに関連して「なりすまし」である。
これらの出来事は、グローバリゼーションの一つの側面であり、世界同時不況にも関連している。
究極的に、モノの生産拠点が海外に移転すれば、国内に残るのは「ブランド」だけになる。
例えば、イギリスのバーバリーのレインコートは、日本で作っているが、バーバリー社は日本の会社を指導し、製品を点検するだけで生産には直接タッチしていない。
しかし「デザイン料」と「ブランド料」はタップリ吸い上げる仕組みができている。
日立や富士通のコンピューター製品も、そのパーツ・パーツはほとん、台湾や中国やベトナムで作っているものである。
外国で作られたパーツを集めて、国内で組み立てて箱にいれれば、後は「商標」を押すノミである。
「ブランド」としての品質が保障サエできれば、それが合理的なヤリ方なのだろう。
さて、政治の世界に目を転じると、「官僚丸投げ」という言葉がある。
民主党が政権をとった時のマニュフェストの中に「官僚丸投げ」から「政治主導」というものがあった。
「官僚丸投げ」とは、官僚に法律や政策づくりを任せきりにして、一定の注文をつける以外ホボ官僚が作ったトウリのものを、国会で認めていたことである。
これは、自民党長期政権で培われた因習だが、これでは国民から選ばれたメンバーで成り立つ「立法府」としての「責任を果たす」ということは出来ていないという反省の下、民主党が打ち出したものだった。
確かに、民主党は一部「政治主導」の道スジをつけようとした気配もある。
例えば、政府の各省のトップである事務次官を集めた会議をやめさせ、大事な発表は官僚ではなく大臣が自ら行うナドした。
しかし、最近の「エネルギー政策」の揺れ具合を見ると、「政治主導」のスローガンはスッカリ後戻りてしまった感がある。
先日、枝野経済産業相は、停止中の原発の再稼働について、政府から独立した「原子力規制委員会」が安全性を確認すれば、「再稼働」への条件は整うとの判断を示した。
マタ地元などへの説明は電力会社が行うといい、再稼働の「最終判断」は立地自治体が負うことにした。
一方、原子力規制委員会の方は、規制委は「安全基準」を満たしているかどうかを確認する立場にスギズ、政府や電力会社が再稼働の「最終判断」をスベキとしている。
さらに稼働や地元の合意形成は、政府や電力会社が担当すべきだとして、政府による責任の「丸投げ」をケンセイする形となっている。
マルデ「再稼動」という最終責任のボールを投げあっている感じがする。

どんなに「政治主導」の掛け声をあげても、戦後半世紀以上も続いてきた官僚依存の体質がソウソウ断ち切れるものではない。
しかし、変化を望まない「官僚依存体質」では、世界から完全に取り残される危惧がある。
そのことは、政府外交を含む日本の対外的「交渉力」の弱体化として一番よくアラワレているのではなかろうか。
経済学者の佐和隆光氏が、日本の役人の能力について、興味深いことを書いている。
ソノ要旨は以下のとうりである。
「法科万能」という言葉が示すとうり、明治以来、霞ヶ関は法学部出身者が牛耳ってきた。
なぜかといえば、官僚の任務は「与えられた結論を正当化する」ことにあるからである。
実際、霞ヶ関には「カラスが白いといえないと、一人前の官僚とはいえない」というジョークがあるのだそうだ。
与えられた結論の公正さトカ、合理性や効率性などは二の次で、官僚は「結論の正当化」のためのリクツ作りに精魂を傾ける。
昔、海外からのスキー板の輸入を規制するのに、役人が「日本と外国では雪の質が違うから」と言ったのを思い出す。
理屈を考え出すというより、ヘリクツを作る能力といえるかもしれない。
こういう仕事が法科ムキなのは、結論を正当化する「官僚の作業」ばかりではなく、暴走気味の検察の「国策捜査」ナドを考えれば、ナントナク想像ができる。
一方、科学的な勉強をしたものは、合理的・効率的・公正などをナイガシロにできず、こうしたヘリクツ作りは概ね苦手である。
そして、彼らの多くが、日本国の官僚としては「不適格」なのだ。
しかし幸か不幸かこうしたヘリクツが通用するのは日本国内ダケで、国際会議や外交交渉の場では、ヘリクツはヘリクツでしかない。
こうした「役所的土壌」でモノゴトが決められていったら、日本が世界からの孤立するのはゴク自然の成り行きという他はない。
だからコソ「政治主導」が求められているのに、「原発再稼動問題」にみるように、民主党はコウシタ重要度が高い問題に「丸ナゲ」ということをしているのである。

変えられない、決められない政治の流れを断ち切るべく、橋下徹氏が「日本維新の会」を旗揚げした。
「維新八策」の中身は個人的に不勉強だが、要するに「新古典派的」世界観の復活か?という印象以外に特別に目新しいものはカンジない。
タブン、国民が期待しているのは、「政策の中身」ではなく、とにかくヤルと言ったことはヤルという「実行力」なのではなかろうか。
橋下氏の突破力で「決められない政治」と決別して欲しいということだ。
しかし、「ヤル」中身を問わず「ヤル」こと自体を評価するのは、 危険な兆候ではある。
国会議員立候補者がブログに、国会のことは国会議員ダケでやるので、橋下氏の独裁は認めないという趣旨の書き込みをした。
それに対して橋下氏は「妙なパフォーマンスは必要がない」と不快感をアラワにした。
この程度の出来事だったが、国会議員と橋下氏のスレ違いに「維新の風」はアンマリ長く吹きそうもナイことを感じた人の多いのではなかろうか。
ソモソモ大阪市長と県知事が、政党の代表と幹事長であり、自ら立候補もできずに選挙戦を戦うなど、無理な面がありすぎる。
日本維新の会からの立候補者に出された条件に、選挙で必要になる費用をすべて「自己負担」で用意するということがある。
それでも、「維新政治塾」の塾員から立候補可能な大勢の人間を既に確保しているのだそうだ。
それらの人々が国会議員のとしてフサワシイかどうかはオクとしても、橋下氏は次期衆院選での「過半数獲得」宣言を行っている。
しかし彼らが当選して国会議員となったとしても、「金の繋がり」があるわけでもないのに、橋下代表や松井幹事長が「求心力」をもって党をマトメキルなどトウテイできそうもなく、民主党以上にゴタゴタと内紛が起きそうである。
立候補する人々は所詮、日本維新の会の風に乗っかる、つまり「看板借り」でしかないのではなかろうかと推測するからである。

今年の夏、「丸投げ」という言葉がキーワードになった事故が起きた。
群馬県内の関越自動車道で大型バスが道路脇の防音壁に衝突し、乗客7人が亡くなった。
事故の原因は、ひとりで長距離を夜通し運転してきた運転手の「居眠り」であったということでは、スマなかった。
運行していたバス会社「陸援隊」へ取り調べで、我々利用者が知らなかったこの業界の杜撰な安全管理の実態が明らかになってきた。
「陸援隊」は事故を起こした運転手を日雇いの形態で雇用し、仕事がある時にソノ都度依頼していたことがわかった。
運転手の「日雇い」は、無理のない勤務管理や健康状態のチェックができないということで法律で禁止されている。
「陸援隊」はサラニ、この運転手が個人で所有する4台のバスを「陸援隊」の「名義」で運行していたのだ。
バス事業者としての資格がない運転手に「名前」を貸して、売り上げの一部を戻させる、違法な「名義貸し」というものである。
さらに旅行会社も、「陸援隊」に仕事を依頼する際には、間に仲介業者と別のバス会社が入って「仲介料」を受け取るという「丸投げ」も行われていた。
「日雇い」「名義借り」は零細な業者が生き残っていくためのスベかもしれない。
しかし、人命に関わる部分でこうした「無法状態」が起きていて、それが利用者にはマッタク見えないのだから、カナリ恐ろしい話である。
こうした事故の背景には、規制緩和による過当競争で「安全」に関わるコストさえ削らざるをえなくなっているという背景がある。
原発事故以来、外国人観光客が減ったため、バス業界では「正規」の運転手を減らして日雇いの運転手を雇用するケースが増えているという。
もうひとつ気になったのは「規制」の基準である。
ひとりの運転手が1日に運転できるのは9時間まで、670キロが目安とするという基準だが、それは運転手の健康面や生理面を検討して算出したものではナカッタということだそうだ。
大阪からディズニーランドに1日で行ける距離と時間を基準に定めたというのだから、当局の「安全」への意識の低さを物語っている。
航空会社の参入の自由化が著しい航空業界も「格安」を謳い文句にするが、安すぎるのは「安全」のコストが削られているのではナイカという気になって、あんまり利用する気になれない。

ところで「看板貸し」とか「丸投げ」という言葉から一番に連想するのが、大手ゼネコンである。
すなわち「総合建設業者」のことで一流会社で名前がとおっている会社が多いが、意外なことに自らの手でモノを作らないのだそうだ。
ゼネコンの名前の由来からすると、屋根の壁もトイレも作るというイメージがあるのにである。
ゼネコンは、ビルや道路は自分達でつくってはいないのである。
時には別の会社に「丸ナゲ」をすることもあるので、ある種の「銀行」のようなものかもしれない。
ゼネコンは、総合設計、監督、企画、受注をするだけで、実際の工事では、屋根は屋根屋にやらせ、壁は壁屋にやらせている。
屋根の建設を請け負った屋根屋は、さらに下請けに工事を任せている。
ただ「ゼネコン」にはネームバリューによる信用があるので、「注文」をとりやすい。
その「信用」の裏側には、政治との繋がりがあることはいうまでもない。
つまり、法律では丸ナゲは禁止しているのに、実際は丸ナゲが行われて、工事監督料をとっている。
そういえば、茨城県で原発事故があった時に、原子力発電所に「二次下請け」というのがあって、驚いたことがあった。
これでは、高度な安全管理が必要な分野で、「責任の所在」が曖昧ということである。
ある「風刺シーン」がある。業界では、施主のことを「お施主様」といって、「お施主様」が完成したビルを検査に来る。
そのときには、後ろに五人ほど引き連れて歩く。
スグ後ろはゼネコンの責任者である。そして後ろに下請け、孫請けと続いていく。
お施主様が、風呂の栓をヒネッテみて、なかなか温かいお湯が出てこない。
おかしいではないかと後ろのゼネコンを振る向くと、ゼネコンは後ろの下請けを振り向き、下請けは孫受けを振り向く。
結局、五人の人間が次々に後ろを振り返っていくという図である。
黒澤明の「生きる」の中で「公園設置」の認可をタライマシするシーンを思い浮かべる。
一つの工事に五つの会社がカランデいては、それぞれに監督料やリベートをとっているので、日本の建設費はベラボーに高い。
整備新幹線のような広域の工事では、絶対に「一社」にまかせるようなことはしない。
一社でやれば「半値」で出来るのに、そうしない。のは、代議士の地盤ごとにコマギレには発注されからである。
それがさらに県議会の地盤ごとに分割され、それぞれの県会議員の息のかかった下請け業者に工事に仕事が任されるという仕組みになっている。
結局、今のゼネコンは名前だけで、自らの建設能力はないものの、アルのは政治力と談合力で、アエテ「コスト高」にして高いものを国民に買わせているという図式である。
ちなみに、公共事業の業者選定では、一級建築士の数がモノイウらしい。
「一級建築士」という資格を持つものは、驚いたことに30万人弱というくらい多い。
これは人口比からいうと、訴訟社会・アメリカの70万人の弁護士数と匹敵しそうな数である。
しかし、現実の一級建築士の全員が設計の仕事をしているわけではなく、普段の仕事で一級建築士の資格が直接に役に立つ人は、設計事務所に所属している人々ぐらいと言われている。
現実の一級建築士は、建設会社の社員として働いているものが、圧倒的に多い。
最近の一級建築士の試験はだんだん難しくなる傾向にあるが、合格するためには、夜間や休日に専門学校に通って資格を習得する人達も多くいる。
それは公共工事の入札基準となる「経営事項審査制度」が大きな影響を与えている。
「経営事項審査制度」とは、入札に参加を希望する会社の経営規模・状況・技術力等を「点数」として評価する制度である。
入札に参加できる公共工事の規模が、この経審の点数により決まってくる。
その「点数化」において各建設会社が抱える建築物の構造計算が出来る「一級建築士の数」にその評価点(5点)を掛けたものが「技術評価点」となり、結局は一級建築士の数が大きくモノをいうような仕組みになっている。
そのため、公共工事の入札可能な工事の規模を出来るだけ大きいものにしたい建設会社は、技術系社員に一級建築士の資格習得を義務としているわけだ。
というわけで「スーパーゼネコン」は、一級級建築士の数で準大手ゼネコンクラスを大きく引き離している。
したがって30万人弱にもなる一級建築士の多くは、建設会社が公共工事入札をトルダケために資格を習得した人達の数なのである。
実際に、一級建築士を持っているとからといって、建物の設計管理や工事現場の管理が出来るとはいえない。
本当の意味での技術力はそれぞれの会社の有資格者の経歴(現場経験)をも合わせて判断しなければ分からないのだ。
かつて元寇軍と鎌倉武士が戦ったが、元寇軍の「実体」はモンゴルに当時服属していた士気の低い高麗軍や南宋軍だった。
つまり「頭数」はそろえたモノノ、中身は「空っぽ」に近いものがあった。
また「陸の王者」が、海上で船を縦横に操れるハズはないし、海上の天候の変化に疎い面もあったと推測できる。
強いと思われたモンゴル軍の意外なまでのモロサは、その辺に原因があったのかもしれない。
ところで最近、ネット上にウイルスを送りこみ他人に「なりすまし」て脅迫文を書くという新手の犯罪も起きている。
「丸ナゲ」「看板貸し」に次いで「ナリスマシ」も、現代社会のモロサを露呈している。