人世の正反

人世は、正が反、反が正になるのが普通なので、「正論」バカリ押し通しても、何の進展にもナラナイということは、よくあることナノニ。
このたびの「消費税論議」などでも、思わせるられるところである。
正と反がわかちがたく結びついた事象はたくさんある。
「隠者」といえば「俗世間」を離れて隠遁生活をする「世捨人」と思い勝ちだが、少なくとも中国5世紀に登場する隠者は、ソウイウものではなく、社会の「彩り」のような役割を果たす詩人なのである。
こうした優れた「隠者」を抱えるのは、皇帝にとってある種の「ステータス」というべきものだった。
「隠者」といえば、まず中国の詩人・陶淵明という人を思い浮かべる。
陶淵明は、門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門」と呼ばれる下級士族の出身であった。
陶淵明はようやく仕官に成功するが、与えられた官(江州祭酒)は意に反したものであった。
399年江州刺史・桓玄に仕えるも、翌々年には桓玄がクーデターを起こし成功したのも束の間滅亡してした痛手は大きかった。
その後、断続的にではあるが13年間、とにかく官途にアクセクするが、いずれも「下級役人」としての職務に耐えられず、短期間で辞任している。
中央での出世をあきらめて、彭沢県の県令となるが、郷里の若造が「査察官」としてやってくる屈辱感に堪えきれず、わずか80日間で辞任して帰郷する。
有名な「帰去来辞」はこの時書いたもので、世間からの「引退宣言」ともいうべきものであった。
以後、陶淵明は「隠遁」の生活に入るが、詩のうまい風変わりの隠者がいるというウワサは、次第に高くなった。
そして幸運にも、都から顔延之という後に詩壇のボスとなる少壮官僚が赴任してきたからである。
そしてこの顔延之と陶淵明はタチマチのうちに意気投合していく。
そして朝廷から隠者として聞こえる者に授けられる役職「著作佐郎」をイタダクことになる。
「王朝公認」のお墨付きをもらい、地方クラスの隠者から、中央クラスの隠者へと昇格したことになる。
もちろん「隠者」であるからには、官途の外にあり世俗を低く見る存在であるからして、「清貧」がタテマエである。
しかし、陶淵明クラスの隠者がさまざまな宴席、送別の席などに招かれて「詩」を歌うことによって、ある種のパトロンの存在をえたり、贈り物をうけたことは自然のナリユキであり、けして霞をくって生きてきたわけではないことは明らかである。
427年に63歳で死去している。
しかし、官途にアクセクしていた人間が、それを止めようと思った時から、「官」へとつながる道が出来上がる。
人世のおいて、正が反となり、反が正になることがあるという好例である。

世界の歴史の中で「殉死」というものがあるが、森鴎外の「安部一族」という小説は、我々にはナジミ薄き「殉死」というものの、思いもよらぬ「断面」を教えてくれた。
武家社会での正式な「殉死」とは、「主君の許し」を得たものだけが切腹の殉死を許されるということらしい。
こうした「公的な殉死」に対しては、家族に対する「手厚い」保障がついており、結局、忠孝一貫なのだ。
阿部一族の弥一右衛門は、主君の死を前にして何度もそれを願い出たが、その許しが下りることなく主君・忠利が亡くなってしまう。
主君の許しの無い「殉死」は、公的に認められず、もし仮に後を追って殉死しても、それは「犬死」に等しい。
しかし、弥一右衛門の耳にヨカラヌうわさが聞こえてくる。「お許し」のないのを幸いに生きているというウワサである。
人世は、こうしたウワサで他人を弄ぶということがよくあることだ。
そのウワサをマにうけて、つまりウワサの挑発に乗り弥一右衛門は思い詰めて腹を切る。
こうしたところから「阿部一族」の悲劇が始まる。
こうした風評に対する弥一右衛門の思わぬ行動は短絡的と思われがちであるが、当時の武士は、主君への「忠」 を果たすという精神がある以上、ヤムニヤマレヌ決断であったであろう。
つまり、主君に対して「忠」を尽くいすということだが、その主君はすでに亡くなっているのに、それでも「真心」を尽くさないでは、弥一右衛門の「気持ち」が収まらなかったからであろう。
ところが、晴天の霹靂のごとき出来事がおこる。
残された安部一族の男が、先代の当主の一周忌に、小柄を抜き取って髻を押し切って、位牌の前に添えたことで、新当主である光尚は、それを不快に思い男をシバリ首にする。
ところが今度は、「武士らしく」切腹にさせられなかったことに対して、一族は決意して屋敷に立てこもりをはかる。
つまり、「謀反」をおこしたわけである。
こうなると、「忠」 として主君へ絶対忠誠であるよりも、「孝」つまり、家の名誉や存続の方が大切ということになってしまう。
結局、家族の絆の方を優先したことになる。
だから、阿部一族が意を固めて前主君に対して示した「孝」 は、武士としての最後の姿勢だった。
松本清張の小説を下敷きにしたあるテレビドラマで、上司が下級役人に、家族の面倒を見るから、自らを処せよと暗に自殺をセマルというストーリーのものを見た記憶がある。
そのドラマの最も印象的なシーンは、父親がいなくなって、カエッテ嬉々として過ごす家族の姿であった。
大疑獄事件で、罪を一身に背負いビルから飛び降りた常務の遺書に「会社は永遠である」という言葉があった。
かつて長島茂男の引退の言葉「我が巨人軍は永遠に不滅です」などは、今どんな偉大な選手が語ったとしても、モハヤ人々の心に届かないだろう。
カツテ、あれほど「忠誠」の対象となった日本企業の多くが、今やヤスヤスと首をきれる雇用形態にシフトしている。
それを考えると、今や「忠」よりも「孝」の方がヨホド価値あるものになっている。
ところで、森鴎外は、乃木将軍夫妻の明治天皇への「殉死」事件を下敷きにしているらしい。
、阿部一族は、「恥」 にさらされることの方が死ぬことよりももっとも辛い事だったが、乃木将軍は、明治天皇が崩御されたとき、乃木将軍の二人の息子と大勢の日本軍兵士を旅順攻撃で死なせておきながら、オメオメと生き延びている自分がとても、辛かったのかもしれない。
こうみると乃木夫妻の「殉死」は、「忠」から出た行為というよりも、「恥」を重んじた「自愛」から出た行為のという側面の方が強いようにも見える。

ヨーロッパで、13世紀から20世紀初頭の第一次世界大戦まで圧倒的な勢力を誇ったはハプスブルグ家は、どうしてそういう力をえることができたのだろうか。
実際、ハプスブルク家は戦争に弱く、シバシバ敗戦の憂き目にあっている。
ハプスブルク家はスイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥地とする。
この地にはハビヒツブルク(「鷹の城」)という古城が現存するが、この「ハビヒツブルク」が訛って「ハプスブルク」になったと考えられている。
1273年にハプスブルク伯のルドルフ(アルブレヒト四世の子)がドイツ王に「選出」されて世に出た。
帝国全体の中でトリタテテいうほどの実力者とは思われていなかった。
伯ではあったものの、当時の伯は「武士の棟梁」あるいは地方の一領主といったくらいの軽い地位にすぎなかった。
彼を王に選んだ「選帝侯」達はハプスブルク家を弱小貴族と見なし、その当主のことを「御しやすい人物」と判断したからこそ、ルードルフはドイツ王に抜擢された。
つまり、この男なら選帝侯の「既得権威」を侵さないだろうと思ったからにすぎない。
敵をつくらない弱者がヒョンなことから大きな力を得るということがよくあるものだ。
黒人の公民権運動のリーダーであるマルチン・ルーサー・キングにせよ、官憲に知られていない無名な若者で、捕まっても「累」が及ばない若い牧師であったという理由で「リーダー」に押し立てられた。
ところで、2012年4月の今日、長く軟禁状態にあったアウンサン・スーチー女史の目の前に、急に「民主化」の光が差し込んできている。
この軍事政権下での「民主化への動き」がどのように転じいくのか、つまりこの動きの「正」と「反」をシバラク見守る他はない。
スーチー女史は、1988年母親の病気のため本国ミャンマーに帰国して以来、ミャンマー「民主化」のシンボルとなっていった。
それがゆえに軍政の監視下つまり軟禁状態となり、自宅の電話が切断、自宅の門とその前の道路が閉鎖、二十四時間兵士の監視下に置かれ、特別な許可がない限り出入りできない状態に置かれ、家族とも会えない状況が続いてきた。
スーチー女史は、1972年26歳の時結婚している。相手はオックスフォード大学で知り合ったヒマラヤ文化の研究家であるイギリス人のマイケル・アリス氏である。
アリス氏はガンのため1993年に亡くなっている。
ス-チ-女史は1991年ノーベル平和賞受賞時にも自宅軟禁は解かれることはなく、授賞式には彼女に代わって当時18歳の長男と14歳の次男が出席している。
ところで、日本とミャンマー(旧ビルマ)の関係は、「戦場にかける橋」「ビルマの竪琴」などの戦争映画の舞台としてよく知られているが、日本との「深い」関わりはアマリ知られていない。
特に「ビルマの軍制」の発端は日本にアッタ。
1930年代の日中戦争の際、アメリカやイギリスがビルマの港から陸揚げされ中国の蒋介石政権へと輸送する物資を「遮断」する必要があり、ビルマに「親日政権」をつくる必要があった。
当初、日本の経済界や軍人の中に、イギリスからの独立を支援し、酔う米からの「アジア解放」を果たそうという「理想」があったという面もある。
そして日本軍の特務機関であった「南機関」は、ビルマの建壮な若者30人を選んでビルマと気候のよく似た中国・海南島で地獄の猛特訓を施し「ビルマ軍政」の基礎を作ったのである。
この日本が育てた「三十人志士」の中には、スーチー女史の父・アウンサンや、その娘スーチーが将来戦うことになるビルマ軍政独裁政権のネ・ウインもいた。
もっともアウンサンは、当初日本軍と協力してイギリスと戦おうとしたが、ビルマ独立を認めずイギリスにかわり植民地化しようとした日本軍に対して、当面の敵は日本だと考えを転換し、兵をひるがえして日本軍と戦うことになる。
また、アウンサンと行動を共にした南機関には「帰国命令」が出され解散させられている。
1945年日本が敗戦し、アウンサンらはイギリスから1947年に独立を勝ち取るが、あと5日後にセマッタ「新憲法発布」の時、英雄アウンサンは政敵によって「暗殺」されてしまう。
この時アウンサンは32歳で、スーチー女史はわずか4歳であった。
その後、スーチー女史はインド外交大使となった母に連れられインドで過ごし、1964年、19歳でオックスフォード大学に入学をする。
そして、1985年10月から86年6月まで日本に滞在し、父アウンサンの行跡を調べている。
そして父親を知っている人々つまり「南機関」の関係者等にインタビューして、子供達は日本の小学校に通わせている。
また都大学客員研究員として在籍したが、実際の滞在目的は「父の面影」を求めて、というのが実相であろう。
この時、スーチー女史は日本で市川昆監督の「ビルマの竪琴」(1985年)を見ている。
ところでスーチー女史は日本滞在の折、日本の土佐の地で長く軟禁状態にあった「婉という女」ついて知るヨシもなかったと思う。
「婉という女」は、幼くして指導者的立場である父を失ったこと、藩の監視所でその行動は常に監視されるという長い「軟禁生活」を送った点で、似通ったところがある。
1971年大原富江が書いた小説「婉という女」は、日本の鄙びた土佐の儒学者・野中家という一族の娘の実話であり、1971年に岩下志摩主演で映画化された。
スーチー女史と「婉という女」は、人世の正と反の揺れに翻弄される運命をタドッタという点で共通している。
土佐藩の家老・野中兼山は積極的に「藩政改革」にとりくんだが、あまりにも強硬な政策を実施したため周囲の怨嗟をかい「蟄居」を言い渡された。
例えば、用水路の建設、田野の開墾、港湾の改修などの公共事業では抜群の成果をあげたが、米価の統制、年貢の金納化、米の売り惜しみの禁止、専売制の強行などの商業統制、さらに、新桝の決定、火葬の禁止、領民の踊りと相撲の禁止などの社会統制などは苛烈を極め、厳しい改革が長引けば不満がでてくる。
そして家中には兼山の方針を疑い、兼山の人格を嫌う者が次第にふえていく。
こうして兼山は反対派の策謀によって失脚し、最後には自殺とも病没ともわからぬ状況で亡くなっている。
ソコニ追い打ちをかけるように、野中家「取り潰し」が決定された。
権力争いで負けた家老の家族全員を、「跡継ぎの男子」が絶えるまで一家全員を「閉門・蟄居」させるという処分のため、残された家族と子供たちこそ悲惨であった。
「門外一歩」が許されず、誰と会うことも許されない。つまり藩の監視の下での軟禁生活を強いられることになる。この時、婉はわずか4歳であった。
スーチー女史も4歳の時に、父親を暗殺されている。
野中家の長女は嫁いでいたのに宿毛(すくも)に送られて死に、長男は病死、次男は狂死して、ほどなく男系が途絶える。
そして、娘3人の寛・婉・将と母と召使いは幽居させられたまま外出もかなわず、母娘は実に40年間を世間と交わらずに暮らした。
今井正監督の映画「婉という女」では、閉じ込められているうちに近親相姦に走る兄や、観念的に憧憬の対象の男を思い続けながらも、決して接触を許されない娘の「壮絶な内面」をも描いている。
母娘は、長すぎる辛苦の時を何度も自害し果てようかと思いつつも、弟の狂い死にを見てカエッテ気を取り直して生き抜くことを選んだ。
その婉も40代半ばの子供を作れない年齢になって、ようやく「解放」される。
その後婉は、驚いたことに、高知市郊外の朝倉の地で医者として活動を始めるのだ。
手足がもがれたような異常な生活が40年も続いた中で得てきたものがあった。それは、家族の命を自らの力で守るための知識であったかもしれない。
幽閉されてきた婉がどうして「医学の術」を身につけたのか不思議だが、父親から受け継いだ儒学だけでななく、出入りした医者から知識を得たと思われる
。医者の話をきき、文通を通じて意見を交換した。
さらに近くの野山を歩く中で薬草についての豊かな知識を身につけたという。
それが結果的に「地域医療」に尽くす女医としての仕事につながったのである。
ここでも「正」と「反」とが転じている。
「軟禁生活」に焦点をあてると、スーチー女史は、ミャンマー・民主化要求のシンボルとして軟禁状態にあっても民衆の圧倒的な支持に支えられてきたが、婉の場合はマッタク「孤絶」した状況であったといえる。
婉の父・野中兼山は「藩政改革」の過程で政敵をつくり命を落としたが、土佐藩の改革で野中兼山が果たした役割は大きく、兼山なしには坂本竜馬も中岡慎太郎も存在しなかったともいわれている。
人の世の「正」と「反」は転じやすい。