「名伯楽」二題

「一」 新米高校教師
先日、アメリカ大リーグのカージナルスの田口壮選手の引退のニュースがあった。
大リーグでワールドシリーズに出場するなどツキに恵まれた選手だった。
かつてオリックス時代に、田口選手がレフトにイチロー選手がライトに守備につくたびに行ったロングキャッチボールは、グリーン・スタジアム神戸の名物であったらしい。
イチローは、ヤンキースの打者としてなお現役続行中だが、二人にとって共通の恩人ともいうべき「名伯楽」の存在があった。
ちなみに「名伯楽」とは、中国周代の、馬を見分ける名人のことをいう。
高畠導宏氏で、南海ホークスの選手 (1968 ー1972)して活躍し、29歳で南海ホークスのコーチとなった。
それ以後の「コーチ歴」は延べ7球団で30年にもおよび、「打撃コーチ」として数多くの「好打者」を育て上げた。
「プロ野球入り」は、中央大学4年生だった時に、読売ジャイアンツから5位指名を受けた。
しかしこれを断り、日鉱日立(ノンプロ野球チーム)へ入り、全日本の「四番打者」の強打者としてナラした。
ソノ実績を評価されて1967年、南海ホークスからドラフト5位指名を受けてプロ入りを果たした。
南海ではノンプロ時代の実績から先輩の野村克也とクリーンアップを打つ左の強打者として「新人王」をも期待されたが、練習中での怪我が響き大きな実績を残すことなく選手生活を終えた。
引退後1973年に野村兼任監督にその「研究熱心」さを買われ、29歳の若さで「打撃コーチ」に抜擢される。
現在のソフトバンクつき解説者の藤原満(当時南海ホークス)のバットの「太さ」がイマダに記憶に残っているのだが、これは高畠のアドバイスによるものだった。
藤原選手は高畠コーチの助言で、グリップが太く1キロ以上の重量があるタイ・カッブ式バットを「特注」で製作し、バットを振るのではなくボールにバットをぶつけてゴロやライナーを数多く撃てる「アベレージヒッター」に育て上げられた。
しかしアイデアマン高畠コーチの「真骨頂」は、ナントイッテモその練習内容である。
ソノ1つはバットを投げる練習である。これは正しいバットの軌道を掴み、バットをなるべく身体の近くを通す、つまり「インサイド・アウト」でバットを出せるようにするための練習だった。
もちろん「打つ」タメのバットではなく、「投げる」タメのバットを用意した。
しかしプロ野球の選手が、無人のグランドでバットを投げ続ける風景を見たら、何と映ったであろうか。
1977年、野村監督解任に伴いロッテオリオンズに移籍した。
高畠氏は、ロッテ・コーチ時代の12年間で落合博満や水上善雄らを育成した。
落合博満(ロッテ在籍時)に対しては、「オレ流」の本人の性格を考えて「グリップの高さを10cmほど高くしたらどうだ」というアドバイスだけを送ったという。
落合は、ロッテ在籍8年間で3度の「三冠王」に輝いている。
また当時のロッテからは落合以外にも高沢秀昭、西村徳文が「首位打者」となり、高畠は「名コーチ」の評価をうけるに至った。
1990年には野村のヤクルト監督就任に伴いヘッド兼打撃コーチとしてヤクルト入団したが、野村との確執が生じ、この年限りで退団した。
ヒガミっぽい野村からすれば、対戦相手チームの選手やコーチが試合前に高畠氏の処に挨拶にいったり、感謝の礼を言うのが気にイラなかったこともあったに違いない。
裏をかえせば、それだけ高畠氏の「人望」が高かったということである。
1991年からは、選手生活を送った「古巣」ダイエーに戻って4年間打撃コーチをツトメた。
以後も、中日ドラゴンズ、 オリックス・ブルーウェーブ 、千葉ロッテマリーンズ の打撃コーチとなった。
オリックス時代の田口壮には、自身の精巣を揺らすような感じでいれば、リラックスして打席に立てるという一風変わったアドバイスをしたという。
高畠氏は結局7球団を渡り歩いて落合、イチロー、小久保、田口などの30人以上のタイトルホルダーを育てたのだから、「名伯楽」という言葉に相応しい人物であった。
ところがある時から、高校野球の指導者となることへの思いが強くなり、1998年中日で調査役をしている間に日本大学の「通信課程」に入学し、5年かかって教員免許を取得した。
もともと高畠氏に教師になるという希望はなかったであろうが、プロの選手に対して技術の面だけではなく、精神的な指導の勉強をしたいということから「心理学」の勉強を始めた。
選手に対して何か違うアプローチをしたいという研究熱心さが、高校野球の指導者になるという気持ちを生んだのかもしれない。
そして2003年、59歳の時に以前「教育実習」を受けた私立・筑紫台高校(福岡県太宰府市)で教職につく道が開かれた。
これは中央大学の野球部の先輩が、筑紫台高校の校長と小・中・高を通じて「親友」であったことから紹介されたものだった。
この時、当時の筑紫台高校の校長は高畠氏につき次のような印象を語っている。
「指導者としての魅力と可能性を感じたからです。教師というのは、一度飛び込めばそのままです。でも、高畠先生は、一年一年契約の世界で生きてきた人。真剣勝負の中で本物の指導をする人だけが生き残ってきた世界の人なので、特別、魅力と迫力を感じたんだと思います」。
そして受け持った「現代社会」の授業では、スイッチヒッターの選手が手が血で染まってもバットを振り続けた話や、イチローが人知れず夜遅くまでバットを振っていた話など、折りにふれて話した。
しかし、奥さんによればそういう高畠氏自身が夜遅くまで「現代社会」の教材研究をして授業に臨んでいたのだという。
あの眼光鋭い目で経験に基づく実戦に即した話を判り易くするから、生徒を引き込まずにはおかない。
高畠氏は生徒たちと共に甲子園を目指すべく「第二の人生」が始まったかに思えたが、職員会議で自らが癌である事を告白し、赴任ワズカ1年半後に亡くなった。
高校球児を率い、監督として甲子園球場のグラウンドに立つという「最後の夢」は叶わなかった。
享年60歳であった。
ちなみにこの年、筑紫台高校野球部は夏の県大会で3回戦で敗れている
2008年には、高畠導宏氏をモデルにしたNHKドラマ「フルスイング」の撮影が行われ、2008年1月19日~2月23日に放映された。
生徒らもエキストラとして出演し、高畠氏のために一生懸命演じていた。
高畠氏には色々なエピソードがあるが、大変な「メモ魔」で、ユニフォームのズボンの後ろポケットはイツモ膨らんでいたそうである。
その手帳には、選手をアルイハ自分を励ますような「素敵な」言葉がたくさん書いてあったという。
そして、高畠さんのエピソードで目立つのが「握手」である。
生徒の顔を見ては、「元気か」と必ず自分から声をかけ、別れ際に握手する。
多分、それは30年におよぶプロ野球打撃コーチ人生の中で、自然と身についた高畠流のコミュニケーション術であった。
高畠氏には、高畠氏のために頑張りたいと思わせてしまう「人間力」が備わっていたといえる。
いい意味での「人たらし」であった高畠コーチの本髄は、「選手をホメテ育てる」ことにあった。
高畠氏によれば、プロの世界に入ってくる人間は、必ずドコカにいいところがある。人より優れたところがなければプロには入ってこられない。
選手の欠点は直そうとしても直るものではない、少なくとも欠点ダケを直そうとしても無理で、選手に自分の「欠点」を意識させることなく、長所を伸ばすことによって、知らず知らずのうちに欠点を克服させるというものだった。
こういう流儀も高畠氏の長年の「人間洞察」に基づくものであったのだろう。

「ニ」マイボーイ
ボクシングの世界でも、多くの世界チャンピオンを育てたエディ・タウンゼントという名トレーナーがいる。
日本ボクシング界では、野球とは違いドラフト制度はなく、多くの人材を発掘・育成したという意味では、本来の意味で「名伯楽」といってよいだろう。
エディ・タウンゼントは、1914年に 弁護士であるアイルランド系アメリカ人の父と山口県出身の日本人の母の子としてハワイで生まれた。
母はエディが3歳の時に病死した、11歳からボクシングを始め「無敗」のハードパンチャーとして活躍した。
ハワイのアマチュア・フェザー級チャンピオンになったが、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の前日に初めて敗北を喫したという。
エディは日本人の血を引いていることもあり、それまでモテハヤシていた仲間達は次々と去り孤独の身となった。
そしてエディは、ボクサーに見切りをつけトレーナーとして次の世代を担う「人材育成」を志すようになった。
さて、日本のプロレスラーの力道山は「ボクシング進出」を企図しており、自らの名を冠した「リキボクシングジム」を設立していた。
そして、自ら所有する都心一等地にビルにおき、ジムの会長には力道山の「子飼い」の者とした。
そこで1962年に当時ハワイでボクシングトレーナーとして実績のあったエディ・タウンゼントを強引に連れてきてトレーナーとしたのである。
以後、藤猛(スーパーライト級)、海老原博幸(フライ級)、柴田国明(フェザー級、スーパーフェザー級の2階級制覇)、ガッツ石松(ライト級)、友利正(ライトフライ級)、そして井岡弘樹の6人の世界王者をはじめ、「和製クレイ」と称されたカシアス内藤や「浪速のロッキー」と称された赤井英和(現在は俳優)等の名選手を育て上げている。
ところでエディは47才までを父の国アメリカで、48才から73才で没するまでを母の国・日本で生きた。
2つの国でボクシング一途の人生を送り、自らのことを「ジプシー・トレーナー」と呼んでいた。
つまり、最後まで臨時の「雇われトレーナー」だったのだ。
ソレは、あくまでもボクサー個人との結びつきを重視して指導をし続けたことのアラワレだったといえる。
過去に育て上げた弟子たちに「エディに最も愛されたボクサーは誰か」という質問をしたところ、皆迷うことなく「自分が最も愛されたボクサーだ」と答えたというエピソードがある。
当、時日本のボクシングジムでは当たり前だった指導用の竹刀をジム内で見つけた時、「アレ捨ててよ。アレあったら僕教えないよ! 牛や馬みたいに叩かなくてもいいの! 言いたいこと言えば分かるんだよ!」といっていた。
また、勝てる可能性がないと判断すると、タオルを投入するのは誰よりも早かったと言われている。
それはボクシング辞めたアトの人生の方をも心配していたからである。
リングを離れたボクサーを「無事に家に帰シテあげるのも自分の仕事だ」と心ガケていた。
勝った時には友達イッパイ出来るから自分はいなくてもいい。
しかし負けたボクサー励ますのが、自分の役割だと思っていた。
というわけで、勝ったボクサーの「祝賀会」には一切参加せず、負けた選手にはずっと付いて励ましたという。
多くの世界チャンピオンを育てたにもかかわらず、エディの生活は一向に豊かにナラズ、彼の日本人の妻はスナックを営むことでタウンゼント家の生活を支えたという。
エディは生涯に6人の世界王者を育てたが、その最初の「作品」が藤猛であった。
「日本のジム所属の日本人ではない世界王者」は歴代で何人かいるが、藤がその第1号である。
藤猛は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル出身の「日系三世」である。
幼稚園時代にハワイのエディ・タウンゼントのジムで毎日のように遊んだ。
大人になり、米軍人となった藤猛は、アメリカ合衆国海兵隊員として米軍横須賀基地や大和市の米軍基地などに配属されていた。
海兵隊時代もアマチュアでボクシングをしており、米国ネバダ州大会優勝 カリフォルニア州のゴールデン・グローブ大会優勝などの実績を残している。
藤が海兵隊を現地除隊後、旧知のエディの引きでボクシング入りさせ、同ジムに所属させたのである。
藤猛は1965年日本王者、翌年東洋王者、翌々年には世界王者へと昇りつめた。
個人的に、藤猛の荒々しいファイトスタイルが鮮烈な記憶として残っている。
実際「ハンマー・パンチ」の異名を持つ強打で7割を超える生涯KO率を誇っている。
試合後のインタビューで「勝っても兜の緒を締めよ」を「勝ってもかぶってもオシメよ」と間違えて言ってしまい、これがカエッテ「好感度」をあげて、日本で流行語となった。
さてエディが育てた最後のチャンピオンが井岡弘樹である。
井岡は14歳の時プロボクサー時代の赤井英和に強く憧れてボクシングジムに入門した。
すぐにその才能を見出され、トレーナーとして雇われていたエディの指導を受けることとなる。
家庭の経済的な問題から中学を卒業すると働きながらボクシングを続けることとなった井岡少年と、老いたエディは「ひとつの部屋」で暮らすようになった。
エディは井岡少年を「ボーイ」と呼び、深い愛情を込めてその育成にあたった。
それまでに5人の世界王者を育て上げたエディも、少年の指導をするのはその時がハジメテだった。
それは、ヘミングウェイの「老人と海」を思い起こさせるもので、一つの「伝説」といえるのかもしれない。
井岡少年はエディの長いトレーナー人生の中で初めて出会ったといえるほどの、飲み込みの速さを持つ天才的なボクサーだったという。
その才能にエディはトレーナーとしての最後のチャンスを賭けたわけだが、井岡が純粋なまでのヒタムキサをもった少年だったからこそ、強く心を惹きつけられたのかもしれない。
すでに老人となっていた自らと少年との年齢差から生まれる様々な違いに戸惑いつつも、自らの指導とその人柄に全幅の信頼を寄せる「マイボーイ」に最後の情熱を賭けたといえる。
そうして名実ともに「二人三脚」で世界チャンピオンへの道を歩み続け、ついにストロー級の「初代世界王者」となるのである。
しかし、その頃からエディは体力の衰えを覚えるようになり、直腸ガンに冒されていることが判明した。
しかし車椅子に乗りながらも井岡少年の指導を続行した。
そして、1988年1月31日、大阪城ホールで行わた「初防衛戦」で井岡弘樹が世界同級1位の李敬淵(大韓民国)と戦った。
エディはどうしても井岡の試合を見守りたいと切望し、入院中の病院からベッドに横わった状態で試合会場入りしたが、試合開始直前に「意識不明」の危篤状態に陥り病院へと引き戻された。
井岡が挑戦者の李を12回TKOで退けた知らせを病院で聞くと、右手でVサインをかかげた後に静かに息を引き取ったという。享年74歳。
エディ・タウンゼントは日本のボクシング界で高く評価されており、その功績を讃えて1990年に国内で最も活躍したプロボクシングのトレーナーに贈られる「エディ・タウンゼント賞」が創設された。
その劇的な人生は「EDDIE」の名で演劇化され、各地で上演されている。
また、その指導方法を尊敬する証しとして「エディタウンゼントジム」が大阪市浪速区に創設された。
さらに、合宿などでも度々訪れ、お気に入りの地だったと言われる和歌山県白良浜には、2004年に井岡弘樹により「恩師の碑」としてエディ・タウンゼントの記念碑が建立されている。