涙、サプライズ

最近しばしば「涙のシーン」を見る。
男の涙は、スポ-ツの世界以外ではメッタにみられない、サプライズである。
前経産大臣だった海江田万里氏が国会の予算委員会で涙を何度か流したが、「閣僚」たるもの自らの感情を押し殺して「鉄仮面」を装うのが普通なのに、やっぱりアマチュアだった。
せめて、「マバタキ4回」はナ・キ・タ・イのサイン、ぐらいにして欲しかった。
しかし一昨年、豊田日章社長がトヨタ車の「急加速」の欠陥をめぐるアメリカの「公聴会」で流した涙は、心情を察するにあまりある。
何しろ半年後の報告書で、事故の大半が運転手の「不注意」が原因とされた問題で、一人会によばれタタカレタのだから。
また1997年に破綻した山一證券社長の「倒産会見」での涙は、世間の共感をよび社員の「再就職」を円滑にしたという御利益つきであった。
ともあれ、こういう男達の涙には、「断腸の思い」がウィンナーのようにツマッているのであろう。
今、復興のための臨時増税や、「社会保障と税の一体改革」の必要性が叫ばれる中、マズは政治が率先して「身を切る」べきだと、「議員定数」の削減を求める声が強くあがっている。
しかし日本社会は、誰かが涙を流せばソレデヨシと思えるほどドライではなく、こういう問題の解決がトテモ苦手な精神風土があるように思う。
よくいえば「和の社会」ということだが、その裏面は「足の引っ張り合い」の社会でもある。
そしてマイナス局面では、この「陰潤」部分が前面にでてくる。
まずテハジメに、「一票の格差是正」の措置ぐらいを行っても、最大でも「5議席」ぐらいの削減にしかならないらしい。
今回、民主党や自民党も「議員定数削減」を主張しているが、イズレモ「比例代表」の削減で、それをヤラレルと議席がなくなってしまう小政党からすれば、逆に「存亡」に関わる問題となる。
小政党は「小選挙区」では勝ち目がないので、わざわざ「比例代表制制」を導入したのに、その意味がナクナッテしまう。
いずれにせよ、誰も彼も自身にふりかかる「火の粉」を避けようとしている感じで、自ら「身を切る」といっても、業界・後援会と繋がる「議員諸先生方」の場合、期待できそうもない。
ところで、中央省庁で、新しい事務次官が誕生したりすると、その次官の同期生はすべて退官することになるというのが「慣例」となっている。
この「慣例」こそが、「天下り」の一因になっているのに、この「慣例」自体がソレホド問題視されていないのは不思議な気がする。
もちろん、先輩達がいつまでも君臨していたら、新しくフレッシュな考えを取り入れることが難しくなっていくという面もあろう。
また同僚が出世してトップについた場合、その下で働きたくないという役所内のウェット感を少しでも和らげようという意図があるのか、よくわからない。
確かに、有能な人に50歳で「引退しろ」ではケンタイキのフライドチッキンになってしまう。
それで、次官や官房長になった人は彼らの就職口(天下り先)を世話しなければならなくなる。
そこに役所との関連企業や「特殊法人」という受け皿があれば、容易にそれがカタズク。
「天下り」ヤメましょう・ナクシましょうだけを叫んでも効果は薄く、役所内の人事・給与体系全般の「見直し」が必要である。
しかし、ここでも役人の「和」のマイナス効果が発揮されるのは避けられそうもない。
「和の社会」では、誰かが「身をきる・きらせる」というのは、かえって難しいことなのだ。
結果、国破れて既得権益アリ。

ところで最近「リストラクション」 は、ロシア語の Перестройка」 (ペレストロイカ、再構築の意)を英語に訳した単語だと知った。
ところが、日本語の文脈の中で使われる外来語としての「リストラ」は、一企業としての「解雇」というマイナスの意味でしかなく、英語における用法ではムシロ、「労働市場を再構築して完全雇用を実現しよう」といった「前向き」な使い方がされている。
確かに「解雇」というものは、広い見地からすれば「再構築」であるが、それは「右肩上がり」の時代だったらアテハマルのかもしれない。
「リストラ」の正しい機能としては、江戸時代の八代目の将軍の徳川吉宗が「大奥」で断行したことを思いうかべる。
女性ばかりの大奥は、年間経費が20万両(約16億円)もかかっていた。
将軍につく者は200人余り、更に別に正室に200人、加えて身分の高い女性にはその世話係がつき、多いときには450~500人の女性が終身で雇用されていた。
吉宗はこの女性達の「人員削減」を試みたのだ。
しかし、「享保の改革」を断行した名君・将軍徳川吉宗が、「経費節減」のために行ったリストラは、現代のリストラとは一味違っていた。
何せ、大勢の女性の中から誰を選ぶか、吉宗は苦慮の末、部下に大奥の中でも「美女」といわれる50人の名前を書いて届けるように命じた。
命じられた部下は、吉宗が紀州時代に正室を亡くしていたから、「側室」選びであろうと思い、容姿端麗のトビキリの美人を書き届けた。
そして吉宗は、その50人の美女を前に宣言した。
//そちらのような美しさがであるならば、嫁の貰い手には困ることはないであろう。
ヨもソチラとわかれるのはつろ~ござるが、この財政難のおり、苦渋の決断をいたす。
色々と世話になったノ~。この恩は生涯忘れぬぞ//。
以上は我が想像上の「宣言」ですが、将軍からここまでいわれれば、「酷」な話でも多少「いい気になって」退所できる。また、不満もおきにくい。
これでいくと、中央官庁の役人のような有能な人々なら「天下り斡旋」なんてしなくても、自分で「再就職口」ぐらいイクラデモみつけられるハズだ。
障害はむしろ、本人のプライドかもしれない。
また、1997年に山一証券が廃業したとき、当時の野沢正平社長が「社員は悪くないんです。私らが悪いんです」と号泣した場面を思い出す。
アマリの突然の倒産会見であり、多少演技がかってもいたが、ソコマデ経営者みずからオッシャルのならばと、社員から失職に対する「怒り」の声は発せられなかった。
社員はボーセンというのが「真相」かもしれないが、この社長の涙で、世間には、山一の社員を何とかしてあげようという気持ちが起こったという。
結局この社長の涙は、山一証券を失業した元社員が他の会社に就職する、つまり労働市場の「再構築」に大いに役立ったということである。
ところで国会議員の「落選」というのは、リストラや解雇とはカナリ様相が違う。
「落選」の憂き目についてオバマ大統領は「著書」の中で次のようなことを語っている。
「負けるということは一般に、本人が自分の傷をなめておけばすむことである。
しかし選挙で敗れることは、普通とは違った意味がある。
政治家の敗北は公のもとにさらされるということだ。
負けたのはタイミングが悪かったからだとか、運が悪かったからだとか、資金がなかったからだという確信がどれほどあっても、心のどこかで自分が共同体全体から拒絶を受けたかのように感じる。
自分には共同体に必要なものが足りないのだとか、行く先々で会う人々の頭に、”負け犬”という言葉が浮かんでいるのではないかと思わざるをえない」と。
以上、オバマ大統領自身が上院議員選挙で二度も敗れた経験からニジミ出た言葉といってよい。

最近とみに、議員定数の削減や公務員給与の削減など「聖域」にもメスがはいらざるをえなくなってきた。
参考までに、日本の議員定数をアメリカと比較すると、次のようになる。
日本は衆議院480人、参議院242人いるが、アメリカは人口は「2倍」で下院の定数は435人で、上院は100人で中間選挙のたびに三分の一議席ずつ改選されていく。
またアメリカの最近の傾向は、「現職議員」が圧倒的に有利であるらしい。
今の時代には多忙で注意散漫な有権者(または無党派層)の心に入り込むことがポイントで、現職議員はトニカク自分の名前を連呼して「潜在意識」にハイルことを心がけているのだという。
現職議員はテープカットつきの式典や、日曜朝のトークが番組出演、また業界とのツナガリによる資金調達などで有利なことは当然である。
しかしそれよりも重大なことは、コンピューターを使った「ゲリマンダー」である。
ゲリマンダーは、マサチューセッツ選出の議員ゲーリーが自分の有利なように自分の選挙区の区割りをきめ、その形が「さんしょううお」(サリマンダー)に似ていたために、自分に有利な選挙区を定めることを「ゲリマンンダー」とよぶことになった。
昨今では、ほとんど下院選挙区が与党のコンピュータを駆使して正確に「区割り」され、その境界内に民主党なり共和党なり支持者がはっきり「過半数」住むように操縦をうけるのだという。
ナンダカ金融工学の「選挙区版」という感じさえ抱かせる。
つまり、実際の有権者はモハヤ自分の代表を選んでいるのではなく、逆に「代表者」が自分の「投票者」を選んでいるということなのだ。
そしてアメリカでは、下院議員の「再選率」は96パーセントにのぼるという、驚くべき「現職有利」の結果がでているという。
これでは選挙のもつ「リストラクチュアリング」の機能が生きてこない。
ところで、「議員定数の削減」については、イギリスの選挙区のことが参考になる。
選挙区の人口の減少により、選挙区がなくなってしまうということは、将来首相の座に就く議員の選挙区が「統合」されてしまうということだ。
それで誰か引退したりして議席の空く選挙区を捜し歩いて、そこから立候補することになる。
そのことは、閣僚クラスでも余儀なくされ、そして夫人同伴で地元の「候補者選考委員会」の面接試験を受けて、それに合格してはじめて自分の「選挙区」が取得できるというシステムになっている。
だから、女性問題でも変な噂が立ったりしたら、この「候補者選考委員会」のもとで切り捨てられることになる。
だから、英国の選挙区の「区画確定委員会」は、誰の干渉も受けることがない。
英国ではそういうことが非常にドライに行われている。
こういう「成熟度」において、イギリス社会は日本社会とは全く違うということである。
非常に自動的に、国政選挙における人口移動の結果によって選挙区が統廃合されていく。
つまり英国では、ある日突然、自分の選挙区がなくなるということがアリウルのだ。
少し話がそれるが、このドライさについては、アメリカの住宅明け渡しの話が思い浮かんだ。
借金による住宅の「差し押さえ」なんかの場合、日本だったら家族ごと無言か、一人くらい泣き崩れるシーンが見られるが、アメリカの住宅の「差押さえ」では、今日はどこに泊まるんだい、しばらくキャンンピングカーに寝泊りするよ、などというアッケラカン問答があったりして、涙なんか全然みられないという。
ただ涙の代わりに、差し押さえの札がついた家具をプールに投げ込んだりして、住宅を後にするそうだ。
では住居ではなく、「選挙区」のアケワタシの方はどうだろうか。
日本の国会議員は、小泉内閣あたりから、○○チルドレンとか、○○ガールズといったアマユアな議員が多数を占めており、多くが当選一回かぎりのアマチュア議員さん達を「国民の税金」で維持することに、なんか虚しさを感じる。
その虚しさが「チルドレン」とか「ガールズ」という言葉によく表されているのではないでしょうか。
少なくとも、そうした議員がいくら増えても、とても「国家大事」の任務に耐えられそうもない。
その若さとビボーは、もっと「他に」使う場面がいくらでもあるような気がする。
というわけで、「議員定数の削減」は単なる「身を切る」話としてではなく、前向きな「リストラクチュアリング」として位置づけてもらいたい。
100人議員が減ったところで、大半の選挙民は何ら「痛痒」を感じることもなかろうから。

2010年2月、トヨタ自動車の豊田章男社長は、アメリカ下院の委員会の公聴会に出席して、大量リコール問題について「謝罪」を行った。
アメリカ三大ネットワークが、この「公聴会」の様子を大きく報じたのは、アメリカにおけるこの問題への関心の高さがうかがわれた。
まずは、豊田社長が「代理」を立てずに自ら出席したことや、終始真摯な態度で応じた誠実さは、「好印象」を与えたことが伝えられた。
一方、下院議員たちがソレホド具体的な「攻撃材料」もなしに、攻撃的な言葉によって「選挙区」にアピールしようとしているかに見えたのは、豊田社長には気の毒という外はない。
印象的だったのは、公聴会のあとディーラーや従業員との会合で、豊田社長が「公聴会で私は1人ではなかった。あなた方と一緒だった」とあいさつし、声をツマラセタらせたことだった。
「従業員と一緒だ」と涙ぐむ社長は、よくも悪くもアメリカにはいない。
日本は欧米と違いオーナー経営者は少ない。
社長自身がサラリーマン出身であるということから、リストラがやりにくいという面もある。
トヨタ自動車の現社長の場合、「創業者の孫」というイメージとは全然違って、豊田家の持株は2パーセントにすぎないという。
つまり平社員で入社した豊田社長は、株主ではなくむしろ「労働者の代表」として語っているのである。
最高経営責任者(CEO)の報酬が平社員の200倍を超えるアメリカとは違い、日本のそれは10倍にも満たない。
資本家と労働者の階級闘争がなく、労働者から昇進したサラリーマン社長が経営する日本企業は、国際的比較からすると「労働者管理的企業」だといってもよい。
それは、労働組合の幹部から社長になるケースが非常に多いことに最もよく表れている。
「みんなが一緒だ」ということがモチベーションの源泉なので、「仲間の一部」を切ることができない。
しかしこういう「労働者管理的企業」は、会社が成長を続ける時は、働く人々の「配置転換」などで柔軟に対応できるのだが、解雇や事業縮小などの「後ろ向き」の決定はコンセンサスを得られにくい。
そして、問題はギリギリまで「先送り」され、企業そのものを崩壊させてしまうことになる。
だから外国人社長を高額の給与で招いて会社の「再建」をお願いしたりするのだが、逆にそれがアダになってオリンパスのように「破壊的な」再建をセマラされるケースもおきる。
こういう日本の「精神的風土」がかえって、解雇がシヤスイ「派遣」や「非正規雇用」の必要性を高めたのもしれない、とも思う。
また、この公聴会で豊田社長は、自身がトヨタ創業者の孫であることにフレ、「すべての車に私の名前がついている。車に対する損傷は私が傷つけられたも同じ」と語った。
しかし、アメリカ人にとって「自社の製品」が傷つくことを、「自分の人格」が傷つくことを結びつけるというのは、あまり理解されない発想らしい。
アメリカの経営者は、株主の代表として語るのに対して、日本の経営者は「部分的に」労働者の代表として語っているという面も、この発想の違いの背景にあるのかもしれない。
また、ワシントンポスト紙は、「豊田氏が公聴会後の集会で涙を流すシーンに、日本人はクギヅケになるかもしれないが、米国においては、最高経営責任者の涙は”弱さ”とされて従属を意味する。
涙や謝罪によって同情されるのは日本の話で、米国では悲惨な結果を招く」とマデ伝えている。
アメリカ人にとっては、この場面でのこの涙、サプライズという他はなかったようだ。
涙のTPOも、このグローバル社会を乗りきるための*「ティケット・トゥ・ライド」のひとつでしょう。
(*ビートルズ:涙の乗車券)