超時代的絵画

一般人と等しく芸術家も、地位と名声をえてセレブな生活を送りたいと思っているに違いない。
しかし、いやしくも「芸術家」と称する者ならば、人々が喜ぶものばかりではなく、人間や社会の真実を暴き、それをツキツケタイという衝動もアルはずだ。
タトエそれが皆に「総スカン」を喰らう結果になろうとも、である。
近年タマタマ目に触れた「絵画」から、ソノ人生を知りたくなった画家が三人いる。
調べてみると、宮廷画家、農民画家、装飾画家として、いずれも若くして才能を認めれらた画家であった。
つまり彼らは死後に評価された画家ではなく、その意味では生活に困ることもなく豊かだったといえる。
ただ体制内で甘んじることをヨシとせず、「大批判」を受ける可能性を秘めた「挑戦」にでるが、湧き起こった「大批判」さえも養分にしてしまうタクマシサを持ち合わせていたといえる。
同時に、その絵画は時代に迎合するものではなく、ソコに含まれたメッセージにはソノ時代だけでは見通せないような「含蓄」があった。
その三人の「超時代的」においのする画家とは、ベラスケス(17世紀スペイン)、ミレー(19世紀フランス)、クリムト(19世紀オーストリア)である。

スペインのプラド美術館にあるベラスケスの代表作「ラス・メニーナス」はとても不思議な絵である。
まず第一に、絵の中にソノ絵を描いている「ベラスケス自身」が描かれているという不思議がある。
そして幼い王妃とその周辺には、それまで宮廷絵画では「絶対に」描かれることのなかった人々、つまり王妃の遊び相手である身分の低い「矮人」(小人)マデが描きこまれている。
さらには、黒い大きな犬の姿までも描かれていて、コレモ「宮廷絵画」としては常識ハズレである。
スペイン国王のフェリペ4世は、ベラスケスにしか自分の肖像画を描かせないと公言していた。
しかしサスガに、この画面の中に国王フェリペ4世を描き入れることはなかろうと思ったが、鏡の中に映った形でウッスラと「フェリペ4世夫妻」までもが描きこまれている。
つまり王女や「矮人」や犬や画家を見ているのが「フェリペ4世夫妻」というナントモ巧妙な構図で、ベラスケスはこの絵画の中に、王に関わった身近な人々および動物をコトゴトク描き込んだことになる。
コノ絵は要するに国王フェリペ四世夫妻から見た「一族の集合絵」なのだ。
しかもその「集合絵」の中には鏡に写ったかたちで、フェリペ4世自身までもが入っているというものである。
なぜコンナ絵画を、誰の「発意」で描いたのだろうか。
スペインはソノ無敵艦隊が1588年にイギリスに敗れ「没落の兆し」が見えていたが、フェリペ4世の時代はスペインの衰退が「決定的」となった時代であった。
後進国であったイングランドやオランダさらにはフランスに遅れを取り始め、結果としてポルトガルやオランダはスペインから「独立」してしまう。
フェリペ四世は危殆に瀕しつつある国家のマツリゴトを家臣にユダネきり、自らは芸術に没入していた。
おかげでベラスケスという一介の「装飾絵師」が、貴族に列せられる栄誉に浴したのである。
ベラスケスは、「同じ運命」を辿らんとする人々を、同じ絵画の中に描きこまんとしたのかもしれない。
国王の一族と側近ソシテ自分自身の「滅びの予兆」を感じながらも書いた絵が「ラス・メニーナス」だった。
「ラス・メニーナス」は、その王朝最後の栄華の一瞬を「集合写真」のように写し撮った。
実際、フェリペ4世の子供達はことごとく夭折し、次代のカルロス2世の時にスペイン・ハプスブルグ家は「断絶」してしまうのである。
それは、同じ運命の波間に今マサニ投げ込まれんとする人々の最期を予感した絵だったのだ。

ジャン・フランソワ・ミレーの「落穂拾い」は誰しもが学校の教科書で見知っている絵である。
はるか地平線までウッスラと広がる麦畑を背景に、画面中央では貧しい野良着姿の三人の農婦が腰をかがめ、大地に散らばった「落ち穂」を拾っている。
旧約聖書によれば、刈り入れの時にコボレタ麦の穂は、貧しい孤児や未亡人が拾うことを許された「神の恵み」であった。
農婦三人の背後では、大勢の人が作業に追われていて、刈り取った麦を荷馬車の上へ、その隣では刈穂をマトメルのに忙しそうに働く人々の姿がある。
背後で馬に乗って指図するのは、オソラクは「農場主」である。
その収穫の賑わいから遠く離れ、三人の農婦たちが黙々と落穂を拾っている。
ミレーはフランス北西部のノルマンディー地方にあるグリュシーという村に農家の長男として生まれた。
子供の頃から農作業を手伝う親孝行で働き者の少年であったが、やがて画家を夢見て憧れのパリへ向かった。
当初は神話や妖精、裸婦などを題材に描いていて、そうした作品を欲しがる富裕層の人々もいた。
しかし、民衆が王政を打倒した「二月革命」が勃発すると、その年のサロンに「名も無き労働者」の姿を描いた作品「箕をふるう人」を出品した。
革命により「労働者」という階級が注目を浴びた時代で、神話や古典に関係なく「名も無き労働者」を描いて、ミレーはこの作品で一躍「脚光」を浴びることになる。
その後、パリで「コレラ騒動」が起こると、ミレーは幼い子供への感染を恐れパリの南南東に広がる農村バルビゾンへと移住する。
そして、そこでコローやルソーといった「バルビゾン派」と呼ばれる画家集団と出会う。
彼らはイーゼルやキャンバスを背負って戸外へ出かけ、見たままの自然を描いていた。
彼らと親交を深めたミレーもまた屋外で描くことの魅力に目覚め、少年の頃に立ち返ったような喜びを感じたに違いない。
何より彼の心を捉えたのは光の下で働く農民たちの姿であり、それはノルマンディーの農家に生まれ育ったミレーだからこそ描ける世界であった。
そして、ここに住みつくことを決意し、大地に種を蒔くという単純な作業をする農民「種蒔く人」を描いた。
この作品は、ミレーにとって「人間の尊厳」を描いたツモリだったが、若い画家たちは「英雄的な」労働者の姿として賞賛した。
そして容赦ない批判が巻き起こった。
富裕層は「過激な」社会主義の台頭におびえ、労働者の悲惨な姿を描いて社会に抗議していると批判したのだ。
つまり、ミレーの絵は富裕層にとって「警戒の対象」となったのでる。
そいて、このバルビゾン村で描かれた風景画の一つが「落穂拾い」である。
この絵がサロンに発表されるやイナヤ、評論家たちは一斉に「非難の声」をあげた。いわく、「貧困の三女神」「秩序を脅かす凶暴な野獣」ナドナド。
しかし、この美しく穏やかな絵が、ナゼ悪し様に批判されることになったのだろうか。
問題は画家本人にとっても予想もできないところにあった。
それは「構図」にあり、手にした落穂の束から左へと視線を移していくと、背景の大きな刈穂の山にたどり着き、落穂を拾う手から二人の頭を結ぶと、その先は一直線に「農場主」につながる。
この「対角線」上の対比が「貧富の差」を強調して、当時の政治体制を批判しているとされた。
それは、貧しい農民を「気高く」描いたが為に、かえって警戒されたのである。
つまり、何もカモを「革命」に結び付けようとする時代だったのだ。
しかしミレーは、イワレナキ「中傷」に対しても弁解せず、「生活の中で学んだことを物語るだけだ」と語っている。
「農民として生き農民として死ぬ」それがミレーの終生変らぬ信念であり、人々はミレーを「畏敬」をこめて農民画家とよぶようになった。
しかし、良くも悪くも「騒ぎ」でミレーの名前が知られ、富裕層の中にもそうした絵を買うものも現われた。
実は「落穂拾い」の絵は、デッサンが何枚も書かれていて、多くの女性たちが描かれている。
山梨県立美術館にはミレーの代表作の一「種蒔く人」と共に、もうひとつの知られざる「落穂ひろい」という作品が展示されている。
この「落穂ひろい 夏」と題された絵は縦長で、落穂を拾う女性は3人であるが、数人で背景で働く人々の姿は「遠景」ではなく、モット「真近に」描かれている。
「落穂拾い」の初期のデッサンに比べると、農婦の人数が減っていてドウシテ3人に「縮小」してしまったのか、気になるところである。
さて、この「落穂拾い」の絵は旧約聖書「ルツ記」に題材をトッタものではないかとズット思っていたが、先日みたテレビ番組でソレを確認できたことでようやくスッキリした。
「ルツ記」とは夫を無くした老女と、その息子に嫁いだが若くして未亡人となった「異邦人」ルツの話である。
嫁と姑は肩を寄せ合いながら「落穂拾い」でナントカ生活をしている。
やがて「孝行娘」ルツは、ボアズという「地主」に見初められ再婚する。
ソノ系図からダビデ王さらにはイエスキリストが生まれるなど、その時点で「誰が」想像しえたであろうか。
実はミレーは、孝行モノの嫁ルツが、地主ボアズに連れられ農民達に紹介されるシーンを描いているのである。
では、この「ルツ記」を下地にしたのならば「落ち穂拾い」の絵は、ナゼ二人ではなく「三人の農婦」が描かれたのだろうか。
ミレーは1854年に故郷グリシーに帰郷したが、祖母も母もスデニ他界していた。
実は裕福な農家に育ったミレーは、貧しい農家の娘とカケオチ同様にして故郷を出ていたのだ。
ミ母と祖母が亡くなったことが、「帰郷」を決意させたのかもしれない。
そして故郷の地に立って、ようやく自分の人生にカケガエノナイものを感じ取った。
母と祖母、そして9人の子供を農作業をしながら育てた妻であり、そして「母なる大地」であった。
「落穂拾い」の中で、一人一人の農婦にトテモ細やかな愛情がコメられて描かれているのがわかる。
たそがれの麦畑を歩きながら、農民画家ミレーは友人に語った。
「あそこで働いている人々をみたまえ。彼女達ははいつくばったり歩いたりして、確かに生きている。それは平原の守り神だ。美しい、まるで神秘劇のように偉大だ」と。
三人の女性に対する懐古と感謝、そして「母なる大地」を描いたのが「落穂ひろい」という作品だったのかもしれない。

グスタフ・クリムトは、「金の装飾」を施したアマリにも官能的な作品が有名である。
聖書でヨハネの首を切り取った「サロメ像」なんていうのは、彼が一番得意とする対象ではなかったであろうか。
この金色に魅せられた画家が、20世紀初頭にウィーンで生み出した傑作が「接吻」である。
クリムトは正方形のキャンバスに縦横180センチの画面全体を金色が覆い尽くしマバユイ輝きを放っている。
その光の中で、絡み合うように熱い抱擁をする男と女の姿であり、男は愛おしく女を包み込み、女は恍惚と男に身を委ねている。
男の衣装は四角の、女の衣装は丸の紋様で埋め尽くされ、色の違う数種類の「金箔」と「銀箔」がフンダンに使われている。
足元には咲き乱れる花々やその生命力に満ちあふれた色彩に彩られるが、花園の先には崖がある。
切り立った「断崖」は、男女の「極限の愛」が描かれているようである。
そして周囲には、意外ヤ「平面的な装飾」が施されている。
この絵のモデルは、男はクリムト自身、女は生涯連れ添った恋人だと言われている。
大概の人は、コンナ作品を創り上げる人物はドンナ生涯を送ったのか興味がわいてくるに違いない。
1862年、クリムトはウィーン郊外の貧しい「彫金職人」の子として生まれた。
工芸美術学校で絵画と装飾美術の基本を身につけた後、弟たちと共に「建築装飾」の会社を設立する。
クリムトは圧倒的な描写力でタチマチ優れた「装飾芸術家」として名を馳せていった。
クリムトは20歳を過ぎる頃には工房を設立し、数多くの郊外の邸宅の装飾の業績が認められ、30歳の頃にはウィーン美術史美術館の階段室の装飾という名誉ある仕事を完成させていった。
クリムトの「死とエロティシズム」の世界は多くの人々を魅了し、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフから「勲章」を授与され、高い評価を得た。
さらにクリムトは、ウィーン大学の天井画の依頼をうけた。
それは「医学」「法学」「哲学」と題した「壁画」だった。
しかし生来「体制に順応出来ない性格」のクリムトは、この天井画によって「大批判」をマネクことになる。
人間の知性の勝利を歌いあげるという依頼者の意図とは裏腹に、まるで人間の本当の姿である「非合理性」に満ちた内面性を表現したかのようでもあった。
なんと「医学」では天高く人間を連れ去らんとする死神と、地に足をつき、毅然とした態度で正面を見据える人を描いたのだ。
巻き上がる人間の勢いは、医学たりとも全ての人間を救うことは出来ないという「真実」をマザマアザと暗示しているようでもある。
ギリシャ神話で医学の保護女神ヒュゲエイアは死の沼に蛇になって生まれる。
ヒュゲエイアが盃を持ち、腕には蛇がまとわりついている。背後には、病人や骸骨が漂っているのだ。
その絵は、およそ学問の殿堂にふさわしくないと批判された。
クリムトは学問が対象とすべきものは、マルデ「非合理の世界だ」といわんばかりだった。
このため、「教育の場にふさわしくない」「理性の優越性を否定する寓意に満ちたもの」と批判が起き、帝国議会でもトリアゲられるほどのスキャンダラスな論争を巻き起こした。
あまりの論争の大きさに、ついにクリムトは「契約の破棄」を求め、事前に受け取った報酬を返却している。
ところでクリムトは、絵画、建築、工芸、全てが「渾然一体」となった「新しい芸術」の潮流をウィーンにもたらそうとした。
クリムトはもはや国家をパトロンとすることはできず、「ウイーン分離派」として作品を出品していた。
それらの作品で、クリムトが多用したのが「金色」であった。
アカデミックな批評家たちからドノヨウニ「酷評」されても、クリムトは魅入られたように「金色」を使い続け、その結果誕生したのが「接吻」であった。
クリムトは彫金師の家に生まれただけあって、1万分の1ミリという厚さの金箔を扱う技術だけでなく、絵の具と金箔を結び付ける術を持っていた。
またクリムトは、古代から現代までの世界中の美術を研究し、自らの絵画に生かそうとしていた。
クリムトの造形は、特に日本美術に強い影響を受けていて、浮世絵や絵巻物は「陰影」を描かず平面的な色面で描かれ、文様が体のネジレによってどのように見えるかを無視して描かれている。
特に「琳派」の画家達が描いた渦巻き紋様、流水文様、藤・鱗・唐草の文様に大きな影響を受けている。
「琳派」とは俵屋宗達を始祖として、江戸期に尾形光琳、乾山らが完成させた装飾的で意匠性に富んだ様式をいう。
クリムトのテーマの一つであるエロティシズムはアマリニ「赤裸々」であるが、それが華麗だが平板な日本の「装飾画」と奇跡的に融合しているのである。