文字と聖霊

世界の宗教の「聖典」というものには様々な「掟」が書いてあって、それを生活の隅々にまで適用して生きるという生き方がある。
イスラム教という言葉は、こうして生きる態度すなわち「イスラーム」(帰依)という言葉から生まれた。
問題は世の中が大きく変化して、根本経典たる聖典が「想定」していなかった事態が生じた場合、何が「イスラーム」であり続けることなのか、判断がむずかしいことだ。
例えば、銀行の利用、国債の発行ナド莫大な資金のナガレの中で生じる「利子」をトルという行為が「聖典」で禁じられるのならば、イスラムに生きる人々はどのような対応をするのであろうか。
そこでイスラム社会では、新しい事態を「クルアーン」の言葉から「解釈」して、正しく「イスラームの精神」に反しないように「導く」人がいる。
こういう人々を、「イスラム法学者」(イマーム)という。
しかし、聖典の掟を忠実に守って生きるこということが、果たして「神」に仕えることとイクォールなのだろうか。
それは「生ける神」に仕えることではなく、「文字に仕える」ことではないのか。
この点は、キリスト教において、イエスが律法学者やパリサイ人を攻撃した際に示した「重要な視点」である。
ある日、イエスの弟子が安息日に病の人を癒すと、パリサイ人らは「掟には安息日には働くなとに書いてあり、彼らはしてはいけないことしている」(マタイ12章)と非難したところ、イエスは「安息日に羊が穴に落ちたからといって助けないものがあろうか」と反問している。
さらに神は、「生贄」ではなく「憐れみ」をこそ求めておられるのだと、「文字」に忠実に仕えることをモッテ「義人」と思い込んでいるユダヤ指導者達をキワメテ「厳しく」攻撃したのだ。
だからといってイエスは「律法」を軽んじているワケではなく、「天地が崩れるとも律法の一点一画とも崩れることはない」(マタイ5章)と言いきっている。また「愛は律法を成就する」(ローマ13章)ともある。
ところで、こうした信仰と掟の遵守との問題で、パウロは重要なことを書いている。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす 」(コリント人第二3章6節)。
結局、「根本経典」に書いてあることをソノママ適用しようとする熱心な人々を「原理主義者」(ファンダメンタリスト)というならば、パウロによればソレは「文字の役者」ということになる。
「聖典」の根本に戻ろうというのはヨシとしても、聖典の「字義」どうりに生きるのはカナリ無理がいる。
ここにおける「新しい契約」とは、十字架での死による「人類の贖罪」を意味するものであり、その後「約束」にしたがって「聖霊が下る」ことを意味している。
つまり「聖霊」に従うことこそが「生ける神」に仕えるということであり、「掟」に従って生きることは「古い契約」に留まり、「文字の奴隷」に陥ってしまう危険がアルということである。
それはイスラム教に限らず、熱心で敬虔な「原理主義者」の一番陥りやすいところである。
ところで、イスラム教では「霊」や「天使」の存在を認め、ムハンマドの言行録も「天使」のお告げによって書かれたもので、ソノ点で「内なる聖霊」によって導かれて書かれた新約聖書の「御言葉」とは次元を異にするものである。
両者が「兄弟」のような宗教でありながらも、根本的に隔たっているのはソノ辺に「原因」があるのではなかろうか。
要する本来のキリスト教とイスラム教の決定的な違いは、イエスの十字架の後に下った「聖霊」を、イエスをメシアとせず預言者の一人とみなすイスラム教ではウケイレナイのである。
一方、パウロやペテロのキリスト教の使徒達の働きは、この「聖霊」に導かれたものであり、ケシテ経典の「字ヅラ」に基づいて行動したものではなかったのである。
そうして、西洋版ではナイ「本来の」キリスト教とは「御霊(聖霊)による信仰」であり、カトリック・プロテスタントといった「西洋化」されたキリスト教やイスラム教は、結局は「言葉による信仰」なのである。
「聖霊は一つ」(エペソ4章)であるからシテ、聖霊に従う信仰ならば人々を争いや分裂に向かわせるハズはナイが、「文字」に仕える信仰は、際限のない争いや紛争の原因となっている。

外国では「神」を信じない人間はアンマリ信用されナイらしいが、日本人の多くはヘンな人に見られることを何より恐れるので、ナカナカ真の「唯一神」の信仰者にはお目にかかれない。
一方国際会議などを見ると、日本の首相タル人物がスミッコで影が薄く映るのは、会議の出席者の多くが何らかの「唯一信仰」の文化圏である「共感性」があり、そこからハズレていることと無関係ではないように思う。
実際に、キリスト教徒とイスラム教徒とユダヤ教徒は「同じ経典」(=旧約聖書)への信仰から出たという意味で、その精神基盤を共有しているので、「啓典の民」と呼ばれている。
しかし前述のように神が聖霊を通じて「直接」伝えたものなのか、天使が「間接」的に伝えたのものか、または神ご自身がアエテ仕組んだ「隔て」によるものなか、「同じ神」の方向に顔をムケテ拝していながら、相互の「垣根」を取り払うことは難しいようだ。
「同じ」(旧約)聖書を土台としているという意味では「同じ神」にむいていて、神の名を一方は「ヤーウェ」とよび他方は「アラー」とよんでいる。
同じ神を「別の名」で呼ぶナンテと混乱してしまうかもしれないがが、ヤーウエは「在る」という意味で、アラーは「The God」という意味で、あたかも「固有名詞」のように呼ばれているが、実は「普通名詞」なのである。
そして聖書は、神の「本当の名」について、「奥義」を告げている。
「わたしは、あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。 そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます」(ヨハネ17:26)と。
ところでキリスト教徒とイスラム教徒は今日の一般的なイメージと異なって、長い歴史の中にあって「対立」よりも「共存」の歴史の方が長かったということがいえる。
イスラム教徒は他の民族特に「啓典の民」に対して「寛容」な政策をとってきた。
そして人頭税(ジズヤ)や地税(ハラージュ)払いさえすれば、土地から追い出されることなく、共存してきたのである。
また、イスラム教徒からみてユダヤ人は「イエス殺し」の罪などという偏見がなかったため、ユダヤ教徒に対する迫害もなかった。
キリスト教とイスラム教徒との対立を引き起こしたのは、ヨーロッパ中世の「十字軍遠征」であるが、これはローマ法王庁の「聖地奪還」の呼びかけを名目とした「略奪」によって起きたモノであり、これを果たして純粋な意味での「宗教的対立」といえるかは疑問のアルところである。
イスラムの経典「クルアーン」はガブリエルという大天使がムハンマドに語ったことをまとめたものだが、この大天使ガブリエルはキリスト教ではマリアへの「受胎告知」を告げた天使なのである。
またエルサレムはユダヤ教では聖なる都、ユダヤ教を母体とするキリスト教ではイエスの十字架の死と復活の聖地、イスラム教ではムハンマドが幻となってユダヤの神殿の上に現れ昇天した「聖地」となっている。
長年離散しユダヤ人が留守にした土地に第二次世界大戦後イスラエル国家ができユダヤ人がアラブ人を押しのける形で住み着き、パレスチナ難民が生まれた。
結局パレスチナは国連の仲介でユダヤ人居住区とガザ地区などパレスチナ人(アラブ人)居住区と分けたが、地図を見るとマルデ「市松模様」のように入り組んでいて、ソノ居心地の悪さは十分に推測できる。
最近エジプトで政権をとったムスリム同胞団は、イスラム原理主義のハマスの母体でもあり、上記の市松模様の一区画を構成するガザ地区こそが、このハマスのアジトであり、イスラエル国内の両者はサラナル緊張が強いられることになろう。
このアラブとイスラエル(ユダヤ人)は、聖書によれば、アブラハムの二人の妻・サラとハガルという「女の戦い」に淵源している。
両者の祖先であるアブラハムに長年子が生まれず、妻サラ同意の下で奴隷ハガルに子を産ませたのがイシマエルである。
正妻のサラは、いい気になった奴隷ハガルに苦しめられるが、「自分の子」が欲しいというサラの切なる訴えは神に届き、生まれたのがイサクである。
ちなみに「イサク」とは、”笑っちゃう”ほど高齢で生まれたので「笑う」という意味、つまり「笑ちゃん」である。
さて今度はサラによって、奴隷ハガル・イシマエル母子はイジメラレル番で、結局追い出されるハメになるが、神はまた荒野をさまようハガル・イシマエル母子をも見捨てない。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」(創世記21章)
ハガル・イシマエル母子は、流れ流れてサウジアラビアのメッカに移り住むことになった。
そして彼らの国民はアラブ国家となり、イサク・ヤコブと続くユダヤ人国家つまり今日のイスラエル国家と、時に共存し、時に激しく対立してきたのである。
今もアラブとイスラエルとの確執が続いているが、イスラエルの背後にはアメリカがある。
何しろアメリカ上層部(ネオコン)とソノ資金源からすれば、アメリカは「ユダヤ人国家」なのだ。
前述のごとくユダヤ人もアラブ人もエルサレムを「聖地」としているために、両者の対立は激しくなった。
さらには911テロ以降は、「イスラム原理主義」による西欧キリスト教文明に対する「激しい」攻撃がなされるようになってきている。
キリスト教はユダヤ教を母体としているといわれるが、それはユダヤ人の間で預言されてきた「メシア(救世主)」が、ナザレに育った大工の息子イエス・キリストであると「信仰」するに至ったからである。
またイエス自身の言動の中で、例えば「これはイザヤの預言の実現である」といった具合に、自らの行為に対して聖書の言葉を「参照」しながら振舞っており、いかなる宗教にもこいう例は見あたらない。
ところで、イエスは自らの十字架の死さえも「イザヤの預言」の実現として語ったが、ある意味でユダヤ人はイエス・キリストを十字架の刑に処すという「預言の実現」を「忠実」に果たしたのである。
このユダヤ人の行動ナクシテ「救い」はユダヤ人を超えて全世界に広がることはナカッタといえる。
ところが西洋版キリスト教は、ユダヤ人をイエスを十字架に架けた民族として喧伝し、「差別の対象」としていくのである。
ちなみに、今のところ大半のユダヤ人はイエスを「メシア」としては信じてはいない。
ただし聖書にはユダヤ人が「イエスをメシア」と受け入れる日が来ることが預言されている(黙示録7章)。

イスラム教社会では、内外の様々な問題に対して、指導者層があるべき姿に国を進ませようとする場合には、必ず「イスラム法学者」たちの判断をうけなければならない。
さらに、このイスラム法学者そのものが「政治指導者」になったケースもあり、それがイランのホメイニ師である。
個別の問題は普通の人間にはなかなか解釈できないことが多く、イマームとよばれるクルアーンに精通している「イスラム法学者」がその解釈を与えるばかりではなく、社会の「方向ヅケ」に決定的な役割を果たすのである。
冒頭で触れた如く、「利子の禁止」はイスラム教の聖典「クルアーン」にはっきりして記されてある。
しかしオイルダラーの還流などもあり、利子ナシで西欧世界と資金の取引をすることは非常に難しい。
そこで「イスラム法学者」が非常に重要な役割をはたしたのである。
ソレによると、ます利子を「二種類」にわけ、消費の為の借金で支払う利子は、生活維持に困った人がやむを得ずにおこなうものであるから、これで利子をとることは人道に反するから許されない、とする。
一方、生産の為の「借金」は全然意味合いが異なってくる。
生産活動を効率よく行うためには、充分な資金が必要であり、自己資金ではまかないきれず、そのための「借金」が必要だからである。
なぜなら利子が禁止されているならイスラム教徒は銀行などの金融機関に貯金したがらないからである。
当然お金はイスラム教徒の枕の下に置かれ、経済発展のために運用されることなく眠ってしまう。
余った金は、その所有者が消費財を買う時期がくるまで、あるいは商売などで投資活動をする時期が来るまで使用することがない。
いわゆる「タンス預金」となるが、これでは事業拡大のために流用できる市中での運用資金の流れが細くなるばかりである。
その打開策が、イスラム教で合法とされる「ムダーラバ方式」で、預金者が資金提供者、金融機関が労働提供者となり、両者の合意の下に「共同投資行為」を行い、それによって得た利益を両者の合意で配分する「方式」である。
「ムダーラバ」という資本と労働が「分離」された商業経済活動は、スデニ預言者ムハンマドに時代にすでにおこなわれていたもので、農業分野では土地提供者と労働提供者が一つとなり、そこから利益を分かち合う「ムザーリア方式」、また果樹園などで土地および果樹園提供者が一つとなり、そこから得る利益を分かち合う「ムサカー」という方式がある。
「利益配分」が利子取得行為でないためには、事業が失敗した場合に、資本提供者への資本保証がナイことが条件になる。
つまり事業が失敗して資本が失われば資本の保証はないということである。
ソレがあればイスラム法で禁止された「利子付き借金」となるからである。
利益があれば配分があり、利益がなければ配分もなしである。
また、イスラム法で問題となる資本証券である。
イスラム法では、資本証券のうち株券は合法であり、債権は「非合法」となる。
その理由は、債権は売買時点で償還率が定められており、それが「利子取得行為」になるからでる。
一方、株券は企業利潤に応じて配当金を受け取れるが、額は不確定である。
利益配分とまみなされる配当率が約束されても受けとれるどうかは企業活動の結果であり、その額は決定できない。
株券購入者は資本提供者といえる額面をもっているので、利子取得とはいえないという解釈である。
こうしたイスラム法学者の解釈によって、資本主義社会におけるイスラム教徒の経済活動の「足枷」を取り除くことが可能となったのである。

さて最近の動きの中で、「シリアの内戦」の行方や「イランの核兵器の開発」の行方、「アラブの春」の行方など、イズレモ世界平和の「不安材料」となっている。
そして世界の行き先は結局、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の「三つ巴の戦い」の行く末にあることを思わせられる。
そして、聖書には次のような言葉がある。
「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、なぜ、わたしをこのように造ったのかと言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」(ローマ人9章)。
神のメ線から見て、当時のユダヤ人がイエスを十字架に処刑する役目を果たした如く、人々は「尊きに」用いられたり「卑しき」に用いられたりして、結局はイズレモ「神の計画」の実現に一役カッテいくということではなかろうか。